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   <title>日本男性解放論</title>
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   <updated>2008-10-23T05:02:08Z</updated>
   <subtitle>－真の男女平等を目指して－
大塚いわお</subtitle>
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   <title>人間湿布（息子＝男性に貼り付く日本の母）</title>
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   <published>2008-09-19T07:35:56Z</published>
   <updated>2008-10-23T05:02:08Z</updated>
   
   <summary>図（PDF）による説明 日本の女性が、男性を支配するやり方は、男性の母親としての...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://iwao-otsuka.com/com/jpnmother-sippu1.pdf">図（PDF）による説明</a>

日本の女性が、男性を支配するやり方は、男性の母親としての立場を最大限に利用するものである。

（段階１）母が、人型の湿布（あるいは、おんぶお化け）のように、相手＝息子の背中にべったりと貼り付く。

（段階２）母の薬効成分＝母性、女性性がじわじわと相手＝息子の体にしみ出して、貼り付いた相手＝息子の中枢を乗っ取り、支配する。

（段階３）貼り付かれた息子は、貼り付いた母の操縦下、支配下に置かれ、操りロボットと化す。

日本の男性は、精神的、心理的に、常に母親を背中に背負っていて、半ば無意識のうちに、背中の母親の意向に沿うように行動していると言える。]]>
      
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   <title>性別分業と男性社会、女性社会</title>
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   <published>2008-07-26T17:25:01Z</published>
   <updated>2008-07-26T17:56:16Z</updated>
   
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      世界的に著名な組織国際比較の著書（G.Hofstedeとかの）では、社会の性別分業の度合いの高さが、その社会が男性社会か、女性社会かの指標となると考えられており、性別分業の度合いが高いと男性社会、低いと女性社会という見解になっているようである。そして、性別分業の度合いが高い日本社会は、男らしい社会の筆頭に上げられているようである。

しかし、これは正しいのだろうか？

性別分業の度合いが高いとは、男性が働いて稼ぎ、女性は外で働かずに家事や育児に専念する度合いが強いことであり、そうした社会は、女性側からは「あなた稼ぐ人、私使う人」の社会であると思われる。

恐らく、そうした性別分業が女性が強くなるとなくなるという見解は、欧米のように家庭において女性の権限が弱く、例えば家の財布を管理する権限が男性（夫）側が占めていて、女性（妻）が月々決まった小額を男性（夫）からもらって家事をこなす社会にのみ当てはまるのではないだろうか。そうした家計管理とかの家庭内権限が女性が弱い場合、家庭は女性にとって居心地がよい場所だとはとても言えず、少しでも自分の経済的自由を得るために、家庭の外に出て働こうとし、それが性別分業がなくなる方向につながっているのだと言える。

一方、日本のように家庭における女性の権限が強く、例えば家の財布を管理する権限が女性（妻）側が占めていて、女性（妻）が月々決まった小額を男性（夫）に渡す社会では、家庭は女性にとって居心地がよい場所であり、「あなた稼ぐ人、私使う人」を地で行く、女性が好きなように家のお金を使い放題、使い道を決め放題の経済的自由を謳歌できる場所である。そのため、自分の経済的自由を得るために、自分からわざわざ外に働きに行く必要がなく、いつまでも実質的な家庭の奥まった主である専業主婦の「奥さん」でいたいと思う訳である。

そこで、日本では、夫の稼ぎがよほど悪くて妻も働きに出る必要がない限り、妻は外に出て働こうとせず、それが性別分業が温存される方向につながっているのだと言える。

この日本の場合、性別分業が強いことは、男性の強さとはほとんど関係なく、むしろ、女性の強さと関係があるように思われ、性別分業が強いことは、むしろ女性社会の現われであるように思われる。

したがって、性別分業が強い社会は男性社会だとする説は、日本社会を見る限りは誤りだと言えるのではないだろうか。
      
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   <title>「日本＝男社会」説は「日本＝母社会」説に修正されるべき</title>
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   <published>2008-07-26T16:10:07Z</published>
   <updated>2008-07-26T17:24:49Z</updated>
   
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      日本の職場は、女性の管理職の割合が、他の国に比べて少なく、昇進とかも男性より遅れる等、男性中心で動く「男社会」だ、という社会学者の研究結果が、半ば社会の公式見解になっている。

しかし、そうした見解は、職場とかで表立って支配者みたいに威張って活躍する日本男性の背中に、男性の母親が、男性が子供の頃からぴったりと密着して貼り付いて、男性と心理的に一体化して、男性を自分の思いのままに操縦しているという事態を想定していない。

日本男性は、表立っては社会の支配者であるが、実はその男性の背中に更に真の支配者である男性の母が貼り付いて、男性を依存させ甘えさせると共に、男性にあれこれ指図、命令を下して支配している。そのため、日本社会で表立って活躍するのが男性でも、日本社会の性質は、相互の一体感、包含感、集団行動を重んじる母性的なものになる。こうした構図に、「日本＝男社会」論者は、気づくことができていない。

その点、「日本＝男社会」説は誤っており、「日本＝母社会」説に修正されるべきである。

      
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   <title>「立てられる」存在としての日本男性と「母的存在」 </title>
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   <published>2008-07-12T13:29:34Z</published>
   <updated>2008-07-27T06:37:48Z</updated>
   
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      日本男性は、わがままな暴君、専制君主である。腕白で威張るのが好きで、いい格好しがちな存在である。

日本男性は、精神的には、永遠に母の懐に抱かれた「息子」としての存在であり、母の手のひらの上に乗って威張っているが、心の奥底では、母に甘え、深く依存した、未成熟な子供のままである。

日本男性は、結婚しても、実質としては妻のもう一人の子供として、妻に心理的に依存し、父になれない、父未満の存在であり続ける。

未成熟な子供のまま、力任せにわがままに強引に振る舞うので、見かけは、強大な支配者のように見え、それが「家父長」であるかのように見えるのである。

彼ら日本男性は、「皆の面前で」格好よく目立ちたい、威張りたい、皆を代表したいとか、上に立って指示、指図、命令したいとか、周囲に有能、できると思われ、周囲よりも早く出世、昇進したいといった、周囲の視線を前提とした「見栄っ張り」の性質を持っている。

日本男性は、こうした見栄を張るために、少しでも格好良く皆の前でぴしっと決めたいという欲求を持ちつつ、それを自分一人の力で実現していくだけの心の強さを持ち合わせず、無意識のうちに周囲の自分を包み支えてくれる母的存在に心理的に頼ろうとするのである。それが自分の一人の足では立てない、ひ弱な張りぼてのような「立てられる人」状態を生み出しているのである。

日本男性は、基本的に背後から「立てられた」存在である。会社とか社会の表面に立って威張っているが、その状態を維持するには、支えが必要であり、何らかの「母的存在」が彼を立たせ、支えている。この場合、「母的存在」とは、実母であったり、妻であったり、居酒屋のママであったり、所属する会社であったりと、多種多様である。

立てられているとは、自分を立ててくれている存在に依存していることを意味する。そこら辺の、自分一人では何もできず、周囲に「立ててもらっている」という自覚がなく、まるで自分一人で自立していると思いこみ、社会の表だった支配者みたいに威張っている点が、日本男性の痛いところである。そのくせ、立ててもらわないと、優秀な社員が逃げ出した会社のように、すぐ不格好に倒れたり、潰れたりしてしまう。

日本社会の実際の支配者は、見かけ上威張っている男性たちを立たせてくれる、支えてくれる、依存させてくれる、大きく温かく包んでくれる、甘えさせてくれる側の存在であり、先に述べた「母的存在」がそれに当たる。「母的存在」こそが、日本社会の奥まったところに座る真の支配者であるということができる。

こうした「母的存在」が、「立てられる人」である日本男性を行動させる、つき動かす原動力、モーター、エンジンとなっている。それは、「母性エンジン（お母さんエンジン）」「母性モーター（お母さんモーター）」とでも呼べるものである。そうした母性（母的）エンジン、モーターに基づいて行動するために、日本男性の行動様式は自然と、所属組織との一体化や集団行動を好む、母性的なものとなるのである。

      
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   <title>「母権社会」という呼び名に変えよう</title>
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   <published>2008-07-07T13:57:40Z</published>
   <updated>2008-07-07T14:06:54Z</updated>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://iotsuka2.s203.xrea.com/fem/">
      従来、臨床心理の分野とかでは、母親の心理的影響力が強い日本のような社会のことを母性社会と呼んでおり、世の中ではこの呼び方がなされることが多い。

しかし、この母性社会という呼び方は、どちらかといえば社会の静的な性質を表した呼び方で、日本社会において母親が動的に行使している社会的影響力、支配力の大きさを実感するには物足りない。

筆者としては、従来の母性社会という言い方に代えて、「母権社会」（ないし母権制社会）という言い方にすることで、日本の母親の強大さを少しでも実感できるようになるのが望ましいと思っている。

同時に、欧米のように父親が強い社会は、父性社会と呼ぶよりは、父権社会（ないし父権制社会）と呼ぶのが望ましいと思っている。
      
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   <title>日本＝「男社会」の本当の立役者は「母」だ</title>
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   <published>2008-05-08T08:24:59Z</published>
   <updated>2008-07-26T16:09:45Z</updated>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://iotsuka2.s203.xrea.com/fem/">
      <![CDATA[お母さん（実母ないし妻）に、食事や服装の用意、洗濯まで、身の回りの世話一切をやってもらっている日本の男性は、マザコンだ。

いくら、自分の稼いだ給与を実家に入れているからと言って、お母さんに、炊事洗濯から家計管理も含めて生活全般を依存しているのは、お母さんに生活全体を握られ、包含され、支配されている訳で、実質マザコン状態なのである。

重要なのは、職場が男中心で動くという、いわゆる「男社会」の立役者が、実は、そうした男性の母親（、妻）＝女性だということだ。

男性の母親が、男性の身の回りの世話をかいがいしく全部してあげて、男性が生活面で母親無しで暮らしていけないように依存させることで、男性が母親に精神的に支配される事態が生じている。

男性がやたらと会社でやたらと仕事熱心なのも、自分の母親に「頑張って昇進しなさい」とハッパをかけられていることと関係がある。

男性は、その母親の自己実現の道具、操りロボット、奴隷なのだ。
「母の奴隷」、それが、日本の男性の実像だ。

<HR>
男性が勉強や仕事に専念して、それ以外に関心を向けさせないようにわざとし向けているのが、日本の母親だ。

日本の母親にとって、自分の息子は、受験競争、会社での昇進競争にまい進させる「ダービー馬」と一緒だ。息子が、そうした競争に勝って出世して社会的勝者となることが、すなわち自分の自己実現が果たされることと一緒だと考えて必死に息子の尻をひっぱたく。
そのため、息子は勉強人間、仕事人間と化すのだ。

会社はそうした「ダービー馬」と化した息子たちで溢れている。「男社会」の出現だ。ひたすら会社の仕事に専念する男性＝ダービー馬たちの集まり＝「男社会」を生み出しているのは、その母親たちなのだ。


日本の母親は、炊事、洗濯といった家事や身の回りのことに対して息子が余計な気をかけることで、本来の受験競争、会社での昇進競争に遅れてしまうことを防止するため、必死になって、息子の身の回りの世話をかいがいしく焼こうとする。

そうした母親の姿勢が、息子が、勉強、仕事以外のことをやらなくなり、身の回りのことを、財布とかも含めて全て母や妻にやらせようとするあり方をもたらす原動力となっているのだ。

息子に競争に打ち勝てとハッパをかける日本の母親は、会社で、部下に成績を上げろとハッパをかける上司と同じだ。母親が上司、息子が部下だ。

そうやって必死に息子＝「母親が自分の生涯を賭けたダービー馬」の身の回りの世話をする母親の姿が、息子から見ると、自分に無償の愛を提供する理想的な恩人に見えるのだから皮肉なものだ。

妻と対比させる形で、やたらと実母を理想化して捉えるのは、思考がマザコン化している証拠だ。

<HR>

母は、息子にとっては、高齢の存在であり、やがて死んでしまう。そこで、仕事以外何もできない息子が頼るのが次に妻だ。そこで起きるのが、妻＝専業主婦の「お母さん」化だ。
専業主婦を実母代わりにして、彼女に精神的に依存する現象が起きる。
財布も子供も、家庭の実権も、全て専業主婦に握られてしまい、男性は、自分自身はただ会社人間としてひたすら労働して家庭に給料を入れるのみ、それしか出来ない、依存的で自立できない人間となってしまう。

男性が、妻は、実母同様自分の身の回りの世話をしてくれて当たり前、妻は自分の身の回りの世話を十分するように、それ以外の外仕事はするな、専業主婦でいろと、横柄な、妻を束縛する態度に出るので、妻には嫌われる。これが熟年離婚の原因だ。その原因の源は、自分の息子を自分のダービー馬に仕立てた、夫の母親にある。また、日本の女性が、家事負担のため、外での仕事を諦めて専業主婦にならざるを得ない状況を作り出しているのも、息子を仕事人間に仕立てた、男性の母親だ。

そうしてやむなく専業主婦になった妻が、夫や息子を新たに自分の「ダービー馬」と仕立てて、受験、会社での昇進競争に向けてハッパをかけるとともに彼らの身の回りのことを全部かいがいしく行ってあげて仕事、勉強に専念させることで、妻＝母が自分の自己実現の道を見いだすようになるという「専業化への世代間連鎖」（夫は、仕事専業に、妻は家事専業になる）が起きている。これが、日本において、いわゆる「男社会」がちっとも解消されない一番の原因だ。

日本のフェミニストや女性学者らが批判する「男社会」を作ったのは、ほかならぬ女性たちなのだ。もっとそのことに注意を払うべきだ。

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   <title>女性が暴走するとストップが効かない日本社会</title>
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   <published>2008-04-26T21:01:11Z</published>
   <updated>2008-05-26T11:13:56Z</updated>
   
   <summary>日本社会は、女性が「こうだ」と主張すると、その通りにいくらでも通ってしまい、歯止...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://iotsuka2.s203.xrea.com/fem/">
      日本社会は、女性が「こうだ」と主張すると、その通りにいくらでも通ってしまい、歯止めが効かなくなる社会である。

いい例が、日本のフェミニズムであり、本来女性、母性が強いはずの日本社会において、女性が「自分たちは弱いんだ、差別されているんだ」と叫ぶと、「日本は女性が弱い、差別された、女性解放の必要な社会だ」ということに社会全体が洗脳されたかのように、その意見を諾々として受け入れるようになってしまう。ファッションに限らず、社会のトレンドを決定しているのが女性なのである。

会社とかでも、大和撫子よろしく控えめな感じの女性社員だと害はあまりないのだけれど、押しの強い、キャアキャア自分の主張をどこまでもわめき散らすタイプ、女帝タイプの女性社員が出てきたり、古株で一番威張っていて誰もが彼女の言うことに従わざるを得ないお局タイプの女性社員が出てくると、彼女たちの暴走を止められる存在がいなくなってしまうのである。今はまだ男性社員を表に立てて自分は背後にまわるタイプの控えめな女性社員が多いので問題は顕在化しにくいのであるが。

日本では、社会や集団に、女帝、グレートマザー、お局タイプの女性支配者が出現すると、女性に対して甘えや依存心を強く持っている日本の男性は彼女たちに太刀打ちできない。今のところは、女性が自分から支配しようとせずに、男性を表面的な支配者として立てているために、男性は自分が一番強いと思わされているだけだ。「男社会」は、見かけ倒しであることに気づく必要がある。日本の男性は、本来自分たち女性が一番強い社会の最終意思決定者であるにも関わらず、そのことをおくびにも出さず、黙って男性を立てて、「日本は男社会です」と言ってくれる日本の女性たちに感謝すべきだろう、というか、その隠れた強大さに恐怖すべきだ。

      
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   <title>女性解放、女権拡張の最先端を行く日本社会</title>
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   <published>2008-04-26T17:08:42Z</published>
   <updated>2008-04-26T21:35:29Z</updated>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://iotsuka2.s203.xrea.com/fem/">
      日本社会で男性解放が必要であるということは、裏を返せば、それだけ社会における女性の力が強く、女性解放、女権拡張が進んでいるということである。当の日本人がそのことに気づいていないだけである。

その点、日本のフェミニストや女性学者は、日本社会を、女性解放、女権拡張の最先端を行く模範ケースとして、全世界に向けて宣伝すべきではないか？

・・・
日本男性解放という本サイトの意図から外れてしまうけれど。
      
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   <title>保守的な日本男性の「背後霊」</title>
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   <published>2008-03-01T09:00:36Z</published>
   <updated>2008-03-01T09:01:11Z</updated>
   
   <summary>日本の男性は、全般に保守的で冒険が嫌いである。 そのことは例えば、学校卒業後の就...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://iotsuka2.s203.xrea.com/fem/">
      日本の男性は、全般に保守的で冒険が嫌いである。

そのことは例えば、学校卒業後の就職先選択で、これから先どうなるか分からないベンチャーではなく、既に安定している、権威がある官庁や大企業をより優先して選択することとかに現れている。

本来、男性は、既存の秩序を破壊、変革し、オリジナルな新境地を打ち立てるのを得意とするはずなのであるが、日本の男性はそれとは逆のコースを進んで、そのことに疑問とか特に持っていないようである。

日本の男性は、日本の大企業とかで、研究開発で、他社にない新製品を作っているではないか、という話もあるが、実際のところ、彼らは、ライバル他社がいるので、ライバル他社との競争に勝って顧客を獲得するために仕方なく新しいことにチャレンジしている、せざるを得ないのだという方が正しいだろう。ライバルがいない寡占状態になれば、彼らも、役人のように、新しいことにチャレンジせずに既存の前例に沿って生きる行き方を選択することになる。

日本男性は、なぜ、こうした保守的で、前例、しきたりを重視する生き方を選択するのであろうか？

実際のところ、彼ら日本男性の背後に、そうした生き方を取るように仕向けている背後霊のような存在がいるのである。それは、男性の母親であったり、専業主婦の妻といった、日本女性である。

女性は全般に、自らの保身、安全に敏感であり、経済的に安定していて、新しいことに手を出して失敗するより、既存の秩序を守ってその枠内で生きることを指向する。

彼女たちは、男性に、そうした自らの保身、安全、経済的安定が確保されることを最優先にして要求する。一方、日本の男性は、強い母子一体感の中で育ってきている結果、母親や妻に対して、心理的に依存し、甘えているので、そうした彼女たちの要求に対して、反対することが心理的にできない。というか、知らず知らずのうちに、そうした生き方が望ましいのだと自分でも思うようになっているのである。

日本男性は、本来女性的な価値観である、既に確立された力を持つ中央官庁や大企業に就職して、その中で出世して、経済的に安定し豊かになるのがよいのだ、という価値観に知らず知らずのうちに深く感染し、既存の秩序、権威を破壊して新秩序を打ち立てるというチャレンジングな男性的生き方を回避するようになっているのである。

こうした、日本男性の保守性は、結局、日本男性が、女性的価値に支配されているためにそうなっているのだと言える。つまり、日本女性の社会的影響力の強さの現れであるということができる。

日本男性が本来の男性性を取り戻すには、こうした女性由来の保守性を克服することが求められる。

母親や妻の望む通りに、既存の秩序、権威に適応し、その枠内で生きるのか、既存秩序を破壊して、新境地を打ち立てる男性本来の方向に進むのか、日本男性は問われているのである。
      
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   <title>日本の男性ジェンダー学者について</title>
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   <published>2007-11-22T02:31:30Z</published>
   <updated>2007-11-22T02:32:18Z</updated>
   
   <summary>現在の日本の社会学、女性学においては、女性のみならず、男性のジェンダー学者が少な...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://iotsuka2.s203.xrea.com/fem/">
      現在の日本の社会学、女性学においては、女性のみならず、男性のジェンダー学者が少なからず存在し、日本社会における女性差別の撤廃と、女性の勢力拡大を、女性の学者、運動家と一緒になって声高に叫んでいる。

はっきり言って、彼らは、母が支配する社会としての日本社会の現状を完全に取り違えており、日本社会を女性の立場が悪い社会と誤解しているのである。

これらの男性学者たちは、日本社会において、自分たち男性が置かれている立場の悪さに気付かず、自分たちを社会的強者、優位にある者として、より劣位にあるとする女性たちに慈悲的に接しようとしているのである。

彼らの心の奥底では、男性が女性よりも弱いことを認めることのできないプライドの高さがあり、その点、彼らが表立っては否定している男尊女卑に、彼らは強く染まっていると言える。女性差別撤廃を声高に叫ぶことで、彼らは、日本社会における女性の弱さを再確認したつもりになり、そのプライドを満足させているのである。

こうした、姑や母といった女性たちが強権を握っている日本社会の実情を正しく捉えることに失敗しつつ、そのことに気付かず、女性が弱い社会と見なし続ける彼ら男性学者たちの姿は、滑稽であり、冷笑の対象としてふさわしいものである。

興味深いのは、彼らのような、日本社会の現実の把握に失敗する学者がなぜ次々と輩出するのかということである。


彼ら男性学者は、基本的に、明治時代以来変わらない日本の学者(特に天皇家の御用学者)の伝統的な役割である、先進欧米理論の消化吸収と小改良、日本社会への導入、当てはめの役割にひたすら則っているのである。

彼らは、自らは、独自の正しい理論を生み出す力を持たない。彼らは、欧米を、「正しい」「正解の」理論の供給基地と見なし、「欧米＝先生」という図式に基づいて、フェミニズム、ジェンダー理論のような欧米理論を何も考えずにひたすら導入する。欧米理論から離れて、自ら独自の理論を打ち出して主張することは、先生役である欧米を乗り越えようとする一種の越権行為と見なされ、学者仲間から足を引っ張られることになる。

彼らは、欧米理論を「正解」ないし「権威ある正しい学説」と見なし、その理解と暗記、小改良と日本社会への導入、当てはめに夢中になる。

それは、伝統的な大学入試や学者登用の試験に向けて、手っとり早く既存の「正解」を求める教育を受けてきた彼らにとっては、ごく自然な、疑問の余地のない行き方なのである。

ジェンダー理論のように、その当てはめの対象となる社会領域のあり方が、欧米と日本とで女性の持つ社会的勢力が大きく異なるといったように社会の実情が大きく異なる場合、欧米理論を日本社会に直輸入しようとする行為は、そもそも元々一定条件下でのみ有効であり、その条件の元で使用されていた化学薬品等を、それらとは性質の異なる条件の現場に対して、その性質や条件の違いを認識しないまま、投入するのと同じであり、危険な自殺行為となる。その危険を、彼らは、ほとんど認識しないまま、欧米産の「正解」理論を日本に広める第一人者となって尊敬を受けようと必死になって、欧米理論を日本に導入するのである。


彼らは、自分が真っ先に目を付けてシンパになった先進欧米理論を日本社会に、その理論の第一人者となって広めることができ、それによって自分の名声が上がればそれでよいのであり、ジェンダー理論も、自分たちの名声を上げるための手っとり早い道具なのである。

彼らにとって、日本社会の現状ははっきり言ってどうでもよいのである。彼らは、自分たちが導入しようとする欧米の理論に合わせた形で、日本社会の現状を曲げて把握する。

これは、ジェンダー理論についても同様であって、彼らは、自分たちが導入しようとする欧米のジェンダー理論、フェミニスム理論に合わせた形で、姑や母が社会的に大きな勢力を持つ日本社会を「正しく」曲解するのである。

欧米のジェンダー理論は、女性の立場が弱いことを前提とした理論であり、彼らはそれを日本社会に導入するに当たって、日本社会において女性が弱いと考えればうまく直輸入でき、理論の日本への第一の最先端の紹介者となれておいしい思いができて好都合だと考える。そこで、日本の女性のことを、自分たちが導入する「正しい」「正解の」欧米理論に合わせて、社会的に弱い存在だということにしようと半ば無意識のうちに考えるのである。

そして、日本女性が弱いことを示す証拠のみを専ら集めようとする。その際、日本社会において、表面的に男性が女性よりも威張っている男尊女卑とかに着目する。男尊女卑は、自分たちが導入しようとする欧米理論に合致した現象なので、それを見て「やはり自分の導入しようとする欧米理論は正しいのだ。自分たちはその先進理論を導入し、日本社会に対して啓蒙者となり、社会改革の最先端を行って皆の注目を集めるのだ。」と自己陶酔に陥る。

そうして、日本社会において、女性が男性よりも強いことを示す証拠は、意図的というか半ば無意識のうちに無視するのである。

その証拠に、彼らの書く論文や書籍には、日本社会が母子間の紐帯、癒着が強く、子どもが母の意を自発的に汲んで動く動く形で母が社会を支配している母性社会であるとか、日本の国民性がとかく受け身で、相互の和合や一体感を重んじる女性的な雰囲気を強く持っており、女性優位であるとか、家庭の財布の紐を握るのが夫ではなく妻や姑(夫の母)であるとか、家庭において、男性と子どもとの間の結びつきが薄く、子どもを教育する権限は女性が独占しているといった、女性が日本社会を支配する側面は、ほとんど出てこない。


日本の女性(嫁や嫁になる予定の娘さんたち)は、本当は姑を批判したいのだけれど、それができないので、心理的な捌け口を求めて、男性を批判しているという点にも彼らは気付かない。


こうした欧米理論の日本社会への強引な、機械的な直輸入と、輸入に伴う矛盾点の無視を行うこと自体、欧米理論を権威ある正解と見なして、それと心理的に一体化して、信仰の対象とし、この理論に付いていけば大丈夫だと考え、その理論のシンパとなって、理論を頼りにし、心理的に依存しよう、甘えようとする女性的な態度に基づくものであり、母性に支配されていることの証と言える。なおかつ、当の理論を直輸入しようとする本人は、そのことに気付かないまま、自分自身に対しても矛盾している欧米理論をひたすら信仰している点、心理的に矛盾、ねじれを内包していると言える。


彼らはまた、自分の性向が受け身であり、自分からは変われない、新たな機軸を生み出せないのを、欧米理論を身にまとって、自ら改革者になった、変わったつもりでいるのである。そして、自分を改革者としてアピールしようとするのである。

      
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   <title>日本女性とマザコン</title>
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   <published>2007-05-22T15:05:05Z</published>
   <updated>2007-11-17T14:28:37Z</updated>
   
   <summary>マザコンは、母親による子供の一体支配を、子供が母親の意を汲んで自発的に受け入れて...</summary>
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         <category term="母性" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://iotsuka2.s203.xrea.com/fem/">
      マザコンは、母親による子供の一体支配を、子供が母親の意を汲んで自発的に受け入れている状態のことである。母性の力が強い日本では、結構メジャーな現象であると思われる。

日本においては、マザコンは、女性の立場の違いから、同一の女性にとって否定的にも肯定的にも捉えられる。

これから結婚する、あるいは結婚した嫁の立場の女性にとって、マザコンは、望ましくない、否定すべきものである。
自分の彼氏や夫が、姑と親密にくっついて、姑の同盟軍となって、自分のことをあれこれ批判したり、支配しようとするのに反発したり、彼氏や夫がそうなるのを避けようとして、「マザコン男はダメ」と、マザコンを必死になって批判する。

ところが、そのようにマザコンを批判していた同じ女性が、自分の子供、特に息子を持つと、子供が可愛くて、子供との一体感を楽しみにするようになり、子供を自分の思い通りに動かしたいという支配欲も働いて、子供がいつまでも自分の元にベタベタ愛着を持ってくっつく状態＝マザコンを肯定的に捉えるようになる。「マザコン歓迎」となるのである。

自分の姑や夫に対しては、「マザコン反対」で、自分の子供に対しては「マザコン賛成」という、相反する立場を、両方場合に応じて便利に使い分けて、矛盾に気づかないか、気づいても開き直っているのが、日本の女性の現状であると言える。
      
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   <title>日本における母性と女性との対立</title>
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   <published>2007-05-22T13:58:59Z</published>
   <updated>2007-11-17T14:28:37Z</updated>
   
   <summary>-姑の権力について- 日本では、母性の父性に対する優位を主張する日本＝母性社会論...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://iotsuka2.s203.xrea.com/fem/">
      <![CDATA[-姑の権力について-

<hr WIDTH="100%">
<p>日本では、母性の父性に対する優位を主張する日本＝母性社会論が、松本滋や河合隼雄らによって、以前から唱えられて来た。
<br>母性は、女性性の一部であり、母性が父性よりも強いとする母性社会論は、女性優位を示すと考えられる。
<br>これに対して、フェミニズムは、なぜ、女性が強いという結論を導き出さないのか?
<br>その隠された理由に、以下では迫ってみたい。
<br>&nbsp;
<p>1.姑と「女性解放」
<p>女性による家族制度批判が行われる場合、女性は、自分を嫁の立場に置いて、制度を批判する。
<br>姑の立場に自分を置いて、家族制度を批判する女性を見たことがない。
<br>姑の立場では、家族制度は、それなりに心地よい、批判の対象とはならないものなのではないか?
<br>同じ女性なのに、姑と嫁という立場が違うと、協同歩調が取れない。
<br>従来のフェミニズムは、嫁の視点ばかりで、姑の視点は取ったものは見当たらない。
<br>同じ女性なのに、姑は、解放の対象からは外れている?解放できない＝十分強くて、する必要がない、というのが本音であろう。
<br>根底に、嫁姑の対立という、同性間の対立がある。一方、同性間の連帯意識というのが建前として存在するので、対立を公にできない。

<p>嫁の立場の女性から見ると、姑と、その息子＝夫が、一体化して、嫁に対して攻撃をしかけてくる。
<br>姑は、その家では、しきたり・慣習に関する前例保持者、先輩としての年長女性である。
<br>姑は、嫁や息子に対して、先輩、先生である。家風として伝えられて来た前例を教えるとき、威張る。威圧的になる。
<br>本来は、男性＝息子も支配している、姑を、自分を抑圧する者として、批判の対象とすべきなのではないか?
<p>女性は、自分と同性の姑の批判ができない、しにくいから、代わりに、男性(姑の息子)を批判するのではないか?
<br>同性間では、見かけだけでも仲良いことにしておきたい、複雑な事情があるのだろう。
<br>日本フェミニストによる「日本家族＝家父長制」攻撃の本当の目標は、夫＝男性ではなく、姑＝同性である女性の権力低下にあるのではないか?本当は、「日本家族＝(姑＝)母権制」攻撃の方が当たっている。でもそれでは、女性の地位を高めようとする、フェミニズム本来の目的と矛盾する。
<p>「日本＝母性社会」攻撃も、まだ子供を産んでいない嫁の立場からは理解できるが、姑の立場からは理解不能である。
<br>同じ女性なのに、嫁の立場と姑の立場とで、まるで連携が取れていない。フェミニズムは、同性間の対立をどう取り扱うのか?
<br>フェミニズムは、弱い立場にある女性しか対象にできない限界がある。姑のように、強い立場にある女性をどう取り扱うのか?
<br>&nbsp;
<p>
<hr WIDTH="100%">
<br>2.日本家族における2つの結合
<p>姑は、血縁(親子関係)による結合に基づいた家風の先達者として、嫁を支配し、嫁は姑に服従する関係にある。
<br>「日本家族＝家父長制」論者は、
<br>(1)この姑との間の支配服従関係を、夫による支配と勘違いした。

<br>(2)女同士の対立を表に見せようとしない。女同士(嫁・姑)が結束しているように見せかける。
<p>夫婦は、異性間の結合により互いに引きつけ合う。
<br>血縁による結合(親子関係)と、異性間の結合(夫婦関係)とが互いにライバル・拮抗し、互いに強さを強めようとする。強い方が主導権を握る。
<br>夫は、どちらにも深くコミットする、付くことができず振り回される。漁夫の利を得ることもある。
<br>&nbsp;
<p>
<hr WIDTH="100%">
<br>3.「女性的＝日本的」の相関に対する反応
<p>筆者は、「女性的＝ウェット＝日本的」、という行動様式や性格面での相関を、インターネット上でのアンケート調査によって明らかにした。
<p>これについての反応は、以下の2通りが考えられる。
<p>(1)何ら驚くべきことではない、当たり前である
<br>既に、豊富な前例がある。石田英一郎の「農耕-遊牧」社会論や、河合隼雄の「母性」社会論など。
<p>(2)とても驚くべきことである、信じられない、間違っているのでは?
<br>フェミニストによる日本「男社会」論が大手を振ってまかり通っている現状からは。女性が、日本社会を支配しているという結論を導き出すものだから。
<p>従来は、上記の2つの見方が、互いに何ら交流を持たず、別々にバラバラに唱えられて来た。そうなった根底には、日本社会における、「女性と母性」との対立が、要因として存在する。
<p>「女としては弱いが、母としては強い」
<p>これは、女性の弱さを強調したがるフェミニストの逃げ口上として、使われる。

<br>しかし、これはおかしい。母性は、女性性の一部であるはずであり、分けたり、対立させて捉えるのは変である。
<br>母は、女性ではないのか?常識から考えて、そんなはずはない。
<br>1人の女性の家庭内での立場に、結婚して子供ができるまでと、子供ができてからとで、大きな格差が存在することを示している。女性の立場は、前者は弱く、後者は強いということだろうか。
<p>大学研究者は、特に若い大学院生などは、前者の立場をもっぱら取るであろう。自分たちの境遇にとって、前者(女性は弱い)のウケがいいから、女性が強い日本社会には適用不可能なはずのフェミニズムが、学説でまかり通る。ないし、フェミニズムが女性学研究者の間でメジャーなのは、担い手である研究者が、嫁の立場にいることが圧倒的に多いからではないか?
<p>日本女性の地位を考える上で、強い方(姑の立場)に焦点を当てないのは、不公平であり、間違っていないか?
<br>女性≠母性、ないし女性と母性を対立するものとみなす。姑と嫁との家庭内での対立が、この捉え方の源となっている。
<br>世代間での対立(20～30代の嫁世代と、50～60代の姑世代との)とも言える。
<br>(1)の日本的＝女性的の結びつきを当たり前とする見方は、母性の立場に立ったものであり、一方、(2)の、両者の結びつきに意図的に気づこうとしない見方は、(若い)女性の立場に立ったものと見ることができる。
<br>&nbsp;
<p>姑は、家族の後継者としての子供を産むと共に、家風を一通りマスターし、家風を伝える正統者として、家庭内で揺るぎない地位を築き、強い立場に立つ。
<br>嫁は、子供が生まれないし(生まれるかどうかも分からない)、家風にも習熟していないので、家庭内での地位は不安定である。赤の他人である、姑の言うことに、一方的に従わねばならず、ストレス・反発心がたまる。
<p>この立場の差が、女性同士での世代間支配・抑圧をもたらす。ひいては、相互間の反発・対立を招く。これが、日本のフェミニストに、女性性(嫁の立場)と母性(姑の立場)とを、統合して捉えることを止めさせる原因となっている。
<br>包含関係としては、母性は、女性性の中に含まれる。女性性は、本来姑も持っている性質である(女なのだから当たり前)。しかるに、日本フェミニストは、女性性を持つ者を、嫁の立場の者に限定して捉えようとしていないだろうか?これは、日本における女性の地位を正しく測定する上で、見逃せない、偏向である。嫁の立場は弱いので、フェミニズム理論に当てはまる。しかし、姑は、強いので当てはまらない。だからといって、姑をあたかも「女性でない」ようにみなして、検討の対象から外すのは、普遍的な女性解放をうたう、本来のフェミニズムの精神からして問題あるのではないか?この辺りに、女性を弱者としてしか捉えられず、理論の対象にできない、現在の日本フェミニズムの限界があるように思われる。
<p>無論、中には、家族制度が廃止されて、嫁の発言権がより強まった、姑がより弱くなった、から、現代の日本フェミニズムは、姑も理論の対象に加えているのだと反論する向きもあろう。
<br>しかし、フェミニズムは、本来、男性支配からの女性解放を提唱するのであって、同じ女性同士の支配からの解放＝姑からの嫁の解放を、フェミニズムで取り扱うのは、おかしいのである。
<p>フェミニズムが成り立つのは、女性が、男性に支配されている場合だけである。日本では、男性は、夫婦関係のみを取り出してみれば、家風の習得度において、妻＝嫁を上回っており、優位な立場に立っている、と言えるかも知れない。しかし、日本の男性は、姑とは、「母→息子」の関係で、心理面では、姑によって、自分の子供として、一方的に支配・制御される立場にある。解放されるべきなのは、強い姑＝母ではなく、支配下にある息子の男性の方なのではないか?こうなると、日本では、女性のみの解放を進めようとするフェミニズムは、成り立ちがたくなる。また、嫁が、家風をすっかりマスターし、姑から家計を切り盛りする権限を譲ってもらった時点で、家庭内の勢力としては、夫＝男性を抜きさって、より上位に立つということも十分考えられることである。こうしてみると、夫婦関係を取り出した場合でも、フェミニズムが適用可能なのは、夫婦関係のごく初期だけで、時間の経過と共に、適用しにくくなる、というのが、現実ではないか?
<p>姑と嫁は、さらに、男性(夫であると同時に、息子である)を自分の味方につけて、対立において、自分が有利に事を進めようとして、男性の取り合いを引き起こす。

<br>姑は、嫁に自分の言うことを聞かせたいと考えて、息子に対して、嫁にこう言えと指図する(親子関係の利用)。嫁は、姑の支配からの防波堤として、夫を利用しようとする(夫婦関係の利用)。
<br>親子関係(母→息子) と、夫婦関係(夫＝妻)の力比べは、最初は、血縁に裏打ちされた親子関係(母→息子)が強いと考えられるが、姑側の老齢化により、段々拮抗してくると考えられる。
<br>親子関係は、垂直な支配-従属関係なのに対して、夫婦関係は、本来対等であるはずである。しかし、日本では、家風学習のレベルの違いと、姑の介入により、夫が有利となる。従って、夫は妻を支配する、家父長だという説が生じる。しかし、ここで注意すべきことは、夫は、自力で有利さを勝ち取ったのではないことである。家風学習レベルの(妻との)差も、姑の存在も、予め外から与えられた条件である。また、妻には、家風先達者として、偉そうなことを言えても、母たる姑には、口答えできないのであれば、女性(母親)に支配された男性(息子)ということになり、家父長制とは言えない。
<p>日本のフェミニズムは、この水平面の夫婦関係のみに焦点を当て、親子関係による垂直支配(女性による男性支配)に目が向いていない。
<p>舅は何をしているのか?影が薄い。舅は家父長と言えるか?
<br>姑と嫁との間の対立を抑えられない以上、家父長失格なのではあるまいか。
<br>&nbsp;
<p>日本の女性学、フェミニズム、ジェンダー社会論は、「嫁」の立場にたった学問である。
<br>「姑」の立場に立った学問は、作れないものか?
<br>それは、権力者としての日本の主婦を、特に姑の視点から解明するものである。
<p>日本の女性は、妻・母の両方の立場を兼ねると、矛盾が生じる。
<p>母の立場としては、息子が自分の言うことを聞いて欲しい。
<br>妻の立場としては、夫が自分の言うことを聞いて欲しい。
<p>妻として、夫に自分に同調して欲しいと思う(嫁の立場)。
<br>子供が産まれると、
<br>母として、息子に、自分に同調して欲しいと思う(姑の立場 次の世代にとって)。
<br>嫁の立場と姑の立場を、同一人物が兼ねている(同一人物の中で共存)。

<p>嫁姑の対立では、夫＝息子を自分の味方に付けようとする。
<br>立場の矛盾を男性に押しつける。
<br>男性は、どっちつかずの立場に立たされて困る。
<br>&nbsp;
<p>母性支配からの解放を！という主張への賛同者は、
<p>1)男性
<br>2)女性 結婚していない、子供がいない
<p>となる、と考えられる。
<p>この点、日本では、女性と母性(結婚した、子供を産んだ)とが切り離されて捉えられている。
<p>日本女性にとって、家父長制からの脱却は、名目のみである。
<br>姑支配からの脱却が、本当の目的である。
<p>核家族化(親と同居しない、独居老人の増加)も、姑支配からの脱却と関連がある。
<br>それぞれの核家族が、ウェットなまま、自閉、孤立するのも、嫁姑関係の暗さを払拭しようとする努力の現れと見てよい。
<br>&nbsp;
<p>日本の子供は、母親のしつけにより、コントロールされ、父親の影が薄い。
<br>父親－息子のラインはあまり強くない。
<p>日本男性は、「若くしては母に従え。老いては妻に従え。」というように、一生を、女性の支配下で暮らしている。

<p>女性は、「老いては子に従え」のはずが、実態は、逆に子供(特に息子)を支配している。
<p>家庭内の実権は、祖母にあって、祖父にはないのでないか?
<br>&nbsp;
<p>父ないし夫が優位に立てるのは、姓替わりをしなくて済む、家系の跡継ぎ＝本流でいることを保証されている、財産所有権限を持つ点にある。
<p>母ないし妻が優位に立てるのは、財産管理権の把握、子供に自分の言うことを聞かせる育児権限の把握にある。
<p>家庭における支配には、世代間支配と、世代内支配とがある。世代間支配とは、母親が息子に、自分の言うことを強制的に聞かせることであり、世代内支配とは、夫が妻に自分の行動様式を強制することである。
<p>日本では、夫が妻に、自分が正統の家風継承者・先達者として、妻に教える立場から、妻を支配して来た。これが、日本における男性による女性支配の典型とされてきた。これは、世代内支配に当たる。ところが、家の中で、夫は母親の息子という立場にあり、母親＝姑によって、夫＝息子は、絶えずコントロールされ、言うことを聞かねばならない。これが、世代間支配である。これは、女性＝母親による、男性＝息子の支配であると言える。一方、母親＝姑は、夫の妻＝嫁にも同時に、自分の行動様式を押しつけ、支配している。姑＝母親こそが、息子と嫁の両方を支配する、世代間支配の主役であり、影の薄い舅に代わって、家族の中の支配の頂点に立っているのである。図式化すると、母(姑)→息子(夫)・嫁(妻)の支配が、世代を超えて繰り返し量産されている。父(舅)は、子育てに介入しないので、父→息子ラインは、母→息子ラインに比べて、あまり強くない、目立たないのが現実である。
<p>しかるに、従来のフェミニズムでは、母－息子の世代間支配の存在を無視し、姑による支配を、夫による支配と混同している。あるいは、姑(家庭内強者)の立場に立った理論構築を放棄し、いつも嫁＝家庭内弱者の立場に立とうとする。
<br>姑→嫁、姑→息子(夫)という、2つの支配のラインについてその存在を無視している。
<p>
<hr WIDTH="100%">
<br>4.姓替わりと夫婦別姓
<p>現代の日本女性がいやがることは、
<br>(1)姑との同居 対応策として、次男との結婚を好む
<br>(2)姓替わり 対応策として、夫婦別姓を好む
<br>である。原因は、夫の家風を強制されるのが嫌なことである。強制するのは、同性である姑である。
<p>日本の家庭では、男性が保護されている。

<br>(1)男尊女卑 男性が優先して、いろいろな身の回りの世話をしてもらえる。
<br>(2)姓替わりしなくて済む&nbsp; 家風習得の苦労をしなくてよい。新しく入った家族先で、ストレスがたまったり、既に構成員となっている人たちからいばられたりする体験をしなくて済む。
<br>こうした点は、日本の女性が弱く見える理由ともなる。
<p>姓替わりする方(嫁、入り婿)は、「イエ」の、ないし家風の新参者として、弱い立場に立つ。
<br>強い立場に立つのは、元からその姓を名乗っている、姑＋息子(夫)ないし娘である。
<br>女性の弱さと見なされがちだが、嫁にとって敵役の姑は、女性である。
<p>夫婦別姓は姓替わりによる、古参者と新参者との間に勢力面での差別が生じるのを是正しようとするものである。
<br>(1)男女(夫婦)間の問題 男＝夫が、家風の先達者として、妻に対して、威張ったりなど振る舞えなくする。
<br>(2)女同士の問題 姑-嫁間の主導権争いを回避する。
<p>]]>
      
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   <title>「母性的経営」－日本の会社・官庁組織の母性による把握－</title>
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   <published>2007-05-22T13:57:18Z</published>
   <updated>2008-05-26T10:30:19Z</updated>
   
   <summary>詳細は、以下のリンクをご覧下さい。 母性的経営...</summary>
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         <category term="母性" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[詳細は、以下のリンクをご覧下さい。

<A HREF="http://iwao-otsuka.com/com/fem/jpnmotherorg1.htm">母性的経営</A>]]>
      
   </content>
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   <title>日本社会における母性支配のしくみ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://iotsuka2.s203.xrea.com/fem/2007/05/post_37.html" />
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   <published>2007-05-22T13:55:02Z</published>
   <updated>2007-11-17T14:28:37Z</updated>
   
   <summary>－「母子連合体」の「斜め重層構造」についての検討－ １．日本を支配する母性 一般...</summary>
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   </author>
         <category term="母性" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://iotsuka2.s203.xrea.com/fem/">
      <![CDATA[－「母子連合体」の「斜め重層構造」についての検討－

<HR>
<P>１．日本を支配する母性<BR>
</P>
<P>一般に、「日本の支配者」というと、表立っては、政治家とか官僚、大企業幹部といった人々が思い浮かぶのが普通であろう。しかし、実際には、彼ら支配者を支配・監督する「支配者の支配者」と呼び得る立場にいる人々が、表立っては見えない、隠れた形で確実に存在する。<BR>

<BR>
そうした、日本社会の根底を支配する人々、すなわち日本社会の最終支配者は、実際には、一般に「お母さん(母ちゃん)」「お袋さん」と呼ばれる人々である。彼女たちには、日本人の誰もが心理的に依存し、逆らえない。日本男児は、肉体的には強くても、「お袋」には勝てないのである。日本は「母」に支配される社会である。従来、日本の臨床心理の研究者たちは、日本社会を「母性社会」と呼んできたが、この呼称は日本社会における「母」の存在の大きさを示していると言える。<BR>
<BR>
当たり前のことであるが、「母」「お袋」と呼ばれる人々は、言うまでもなく女性である。しかし、従来、日本社会において女性の立場はどうかと言えば、男尊女卑、職場での昇進差別やセクシャルハラスメントの対象であるといったように弱い、差別されている被害者の立場にあるという考えが主流であった。<BR>
<BR>
この場合、「女性」と聞いて連想するのは、若い「娘さん」とか、「お嫁さん」といった立場の人が主であると考えられる。「女」という言葉には弱い、頼りないイメージがどうしても先行しがちである。従来の日本の女性学やフェミニズムを担う人たちが「女性解放」の対象としたのは、「娘」「嫁」といった立場にある女性たちであった。<BR>
</P>
<P>しかし、同じ女性でも、「母」という呼称になると、一転して、全ての者を深い愛情・一体感で包み込み呑み込む、非常にパワフルで強いイメージとなる。「肝っ玉母さん」といった言い方がこの好例である。あるいは、「姑」という呼称になると、自分の息子とその嫁に対して箸の上げ下ろしまで細かくチェックし命令を下すとともに、夫を生活面で自分なしでは生きていけないような形へと依存させる強大な権力者としての顔が絶えず見え隠れする存在となる。<BR>
<BR>
「母」「姑」の立場にある女性は、強力な母子一体感に基づいた子供の支配を行うとともに、夫についても、自分を母親代わりにして依存させる形の「母親への擬制」に基づいた支配を行っている。家庭において、子供の教育、家計管理、家族成員の生活管理といった、家庭の持つ主要な機能を独占支配しているのが「母」「姑」と呼ばれる女性たちの実態である。<BR>
<BR>
言うなれば、「母」「姑」は社会にどっしりと根を降ろし、父とは重みが段違いに違う存在である。そういう点で「母」「姑」には、日本社会の根幹を支配するイメージがある、と言える。しかるに、日本女性のこうした側面は従来の日本の女性学やフェミニズムでは、自分たちの理論形成に都合が悪いとして「日本女性には、母性からの解放が必要だ」などという言説で無視するのが一般的であった。要するに日本の女性学やフェミニズムの担い手たちは、自分たちをか弱い「娘」「嫁」の立場に置くのが好みのようなのである。<BR>

<BR>
確かに、日本の夫婦・夫妻関係では、日本のフェミニストたちが「家父長制」という言葉を使うように、夫が妻を抑圧する、夫優位の関係に少なくとも結婚当初は立つことが多いように思われる。夫による妻に対するドメスティック・バイオレンス問題も、この一環として捉えられる。これは、「男性による女性支配」というように一見見えるのであるが、実際は、直系家族の世代連鎖の中で、夫の母親である「姑」が、我が息子を「母子連合体」として自分の中に予め取り込み、自らの「操り人形」とした上で、その「操り人形」と一体となって「嫁」とその子供を支配する現象の一環に過ぎないと取るべきであると、筆者は考えている。<BR>
<BR>
つまり、一見、妻を支配するように見える夫も、実は、その母親＝「姑」の「大きな息子」として「母性」の支配を受ける存在であり、「姑」の意を汲んで動いているに過ぎない面が強い。その点、彼は、母親による支配＝「母性支配」の被害者としての一面を持つ。<BR>
<BR>
「妻に対する夫優位」の実態は、「嫁に対する姑の優位」のミニチュア・子供版(姑の息子版)＝つまり、「嫁に対する『姑の息子』の優位」に過ぎないと言える。夫が妻に対して高飛車な態度に出られるのも、「姑」による精神的バックアップ、後ろ楯のおかげである側面が強く、「姑」の後ろ楯がなくなったら、夫は妻を「第二の母性(母親代わり)」として、濡れ落ち葉的に寄りすがるのは確実である。<BR>
<BR>
要するに、「母性による（母性未満の）女性の支配」というのが、日本のフェミニストたちによって批判されてきた「家父長制」の隠れた実態であり、そういう点で実際には、日本における「家父長制」と呼ばれる現象は、女性同士の問題として捉えるべきなのである。この場合、「母性未満」の女性とは、まだ子供を産んでいないため、母親の立場についていない女性（未婚の娘、既婚の嫁）を指している。</P>
<P><BR>
２．「母子連合体」の「斜め重層構造」の概念について<BR>
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</P>

<P>日本社会においては、母親と子供との間は非常に強力な一体感で結ばれている。これは従来、「母子癒着・密着」という言葉で言い表されて来た。この、父親を含めた他の何者も割って入ることを許さない母親と子供との癒着関係をひとまとめにして表す言葉として、ここでは「母子連合体」という言葉を使うことにする。この場合、子供は、性別の違いによって息子・娘の2通りが考えられるが、「母子連合体」は、そのどちらに対しても区別なく成り立つと考えられる。言うまでもなく、母子連合体の中で、母は、息子・娘を親として支配する関係にある。<BR>
<BR>
日本の直系家族の系図の中では、「母子連合体」は、複数が重層的に積み重なった形で捉えられる。世代の異なる「母子連合体」の累積した「斜め重層構造」、より分かりやすく言えば「(カタカナの)ミの字構造」が、そこには見られる。新たな下(次世代)の層の「母子連合体」の生成は、家族への新たな女性の嫁入りと出産により起きる。この場合、より上の層に当たる、前の世代の母子連合体が、より下の層に当たる、次の世代の母子連合体を、生活全般にわたって支配すると捉えられる。上の世代の母子連合体に属する成員の方が、下の世代の母子連合体に属する成員に比べて、その家庭の行動規範である「しきたり・前例」をより豊富に身につけているため、当該家庭の「新参者」「新入り」である下の世代の母子連合体の成員は、彼らに逆らえない。この「母子連合体の斜め重層構造」を簡単に図式化したのが、以下のリンクである。<BR>
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<A href="http://iwao-otsuka.com/com/fem/mc-stratum1.pdf">「母子連合体の斜め重層構造」の図(PDF)へのリンクです。<BR>
</A><BR>
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ここで着目すべきことは、家族の系図において、夫婦関係のみを取り出して見た場合、夫＝姑の息子は、上の世代の母子連合体に属し、妻＝嫁(あるいは姑の息子にとって自分の妻になりそうな自分と同世代の女性)は、次(下)の世代の母子連合体に属する(か、属する予定である)という点である。夫婦間で夫が妻を抑圧・支配しているように見える現象も、実際は上の世代の母子連合体の成員(姑の息子)が、次の世代の母子連合体の成員(嫁)を抑圧・支配しているというのが正体であると考えられる。<BR>
<BR>
要するに、姑が、息子を自分の陣営に取り込む形で嫁を抑圧しているというのが、夫による妻抑圧のより正確な実態と考えられる。この場合、夫は、(従来の日本女性学が「家父長」と称してきたような)自立・独立した一人の男性と捉えることは難しく、むしろ「姑の息子」「姑の出先機関・出張所」として、姑(母親)に従属する存在として捉えられる。嫁にとっては強権の持ち主に見える夫も、その母親である姑から見れば自分の「分身・手下・子分」「付属物・延長物」であり、単なる支配・制御の対象であるに過ぎない。<BR>
<BR>
母子連合体の支配者は母親であるから、家族という母子連合体の重層構造の中では、実際には母である女性が一番強いことになる。これは、日本社会が、見かけは「家父長制」であっても、その実態は「母権制」であることの証明となる。<BR>
<BR>

日本男性は、母子連合体において、母によって支配される子供の役しか取れない(母になれない)ため、家庭～社会において永続的に立場が弱いのである(上記の母子連合体説明図において、「父」の字がどこにも存在しないことに注目されたい。これは、日本の家庭において、父の影が薄く、居場所がないことと符合する。日本の家庭では、男性は、(その母親の)「子」としてしか存在し得ないのである)。<BR>
<BR>
この辺の事情を説明するのが、「小姑」と呼ばれる女性の存在である。つまり、嫁として夫(の家族)に忍従してきた女性が、一方では、自分の兄弟の嫁に対しては、「小姑」として高圧的で命令的な支配者としての態度を取るという、矛盾した態度を引き起こしている、という実態である。要するに、女性は、2つの異なる世代の母子連合体に同時に属することができるのである。「小姑」として威張るのは、上の世代の母子連合体に属する立場を、「嫁」としてひたすら夫(の家族)の言うことを聞くのは、次の下の世代の母子連合体に属する立場を、それぞれ代表していると考えられるのである。<BR>
<BR>
要は、上の世代の母子連合体の成員である、姑、夫(姑の息子)、小姑が一体となって、自分たちの家族にとって異質な新参者である夫の妻＝嫁(下世代の母子連合体成員)を、サディスティックに支配しいじめているのであり、それは、企業や学校における既存成員(先輩)による「新人(後輩)いびり」「新入生(下級生)いじめ」と根が同じである。これらのいじめを引き起こす側の心理的特徴は、共通に「姑根性」という言葉で一つにくくることができる。<BR>
<BR>
ここで言う「姑根性」とは、要は、相手を自分より無条件で格下(であるべきだ)と見なし、相手の不十分な点を細かくあら探ししたり、相手の優れた点を否定する形で、相手を叱責・攻撃し、相手の足を引っ張り、相手を心理的に窮地に追い込んで、自分に無条件で服従、隷従させようとする心理である。<BR>
<BR>
日本の若い男性が、同世代の女性に対して、高圧的で威張った態度に平気で出るのは、単に「男尊女卑」の考え方があるというだけではない。自分たちが、未来の家族関係において、結婚相手の候補となる同年代の女性たちよりも、一つ前の世代の母子連合体に属することが決まっているため、母子連合体の「斜め重層構造」から見て、「嫁」となって一つ下の世代の母子連合体を構築するはずの同年代の女性を、自分の母親と一緒になって、一つ上の母子連合体の成員として支配することができる有利な立場にあるからである。<BR>
<BR>
夫による妻への暴力であるドメスティック・バイオレンス(DV)は、夫による妻の暴力を利用した支配、いじめということで、一見、男性による女性支配に見えやすい。しかし、実際には、日本の家族の場合においては、妻＝嫁を支配したり、いじめたりしているのは、夫だけに限ったことではなく、夫の母親である姑や、夫の姉妹である小姑も、夫の妻＝嫁をサディスティックに支配し、いじめている。<BR>

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この点、夫によるドメスティック・バイオレンス(DV)は、実は、上世代の母子連合体成員(姑、夫、小姑)による、下世代の母子連合体成員(嫁とその子供)の支配、いじめの一環に過ぎないと言える。要は、日本における夫による妻へのドメスティック・バイオレンスは、嫁いびりをする姑のいわゆる「姑根性」と根が同じというか、その一種なのである。家風、その家の流儀を既に身につけた成員(姑、夫、小姑)＝先輩による、家風をまだ身につけていない新人、後輩(＝嫁)いじめの一種とも言える。<BR>
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この場合、男性が高圧的になれるのは、男性自身に権力があるからでは全然なくて、心理的に(一つ上の世代の)母子連合体を一緒に形成する自分の母親という後ろ楯があるからであり、そこに、日本男性の母親依存(マザーコンプレックス)傾向が透けて見えるのである。<BR>
<BR>
夫が妻に対して、高飛車で命令的で、乱暴な態度に出られるのも、夫がその妻よりも、一つ上の世代の母子連合体に属することで、妻とその子供が形成する次の下位世代の母子連合体を支配することができるからである。<BR>
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この場合、見かけ上は、夫は妻(嫁)よりも常に優位な立場にいることができる訳であるが、だからと言って、それが日本社会において男性が女性よりも優位である証拠かと言われると、それは間違いであるということになる。つまり、夫は男性だから優位なのではなく、「姑の息子」だから＝妻よりも1世代前のより上位の母子連合体に属するから、妻よりも優位なのである。<BR>
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要は、夫(姑の息子)による妻(嫁)の支配は、小姑による嫁の支配とその性質が同じである。夫も小姑も、嫁よりも一つ上世代の母子連合体の成員＝嫁にとっての先輩だから、嫁を共通に(嫁を後輩として)支配できるのである。この場合、言うまでもなく、夫は(小姑も)、その母と形成する母子連合体の中で、母である女性の支配を受ける存在である。<BR>
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要するに、夫は、母親である姑と癒着状態で、その支配下に置かれており、その点、日本社会において本当に優位なのは、「母＝姑」である女性であり、その息子として支配下に置かれる男性(夫)ではない。この点、日本は女性＝母性の支配する社会であり、男性社会ではない。<BR>

<BR>
日本の家庭においては、先祖代々、夫が威張って、妻が服従的な態度を取ることが繰り返され、それが、日本の家庭は、男性優位という印象を与えてきたわけであるが、実際には、その高飛車な夫が、その母親である姑の全人的な密着した支配下に置かれた「姑の付属品、出張所」に過ぎない存在であることを考えれば、日本の家庭は、実際には先祖代々恒常的に、母性＝女性優位である、と言える。<BR>
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おとなしく夫に従属しているかに見える妻も、実際のところ、その子供と強力に癒着して、何者も割って入ることのできない強烈な一体感のうちに、自分の子供を支配している。妻の子供(息子)は、大きくなっても、その母(夫にとっての妻)と強い一体感を保ち、母に支配された状態のまま、結婚をする。そして妻は、その息子を通して、新たな結婚相手の女性とその子供を支配することになる。<BR>
<BR>
要するに、母子連合体においては、母はその子供(息子、娘)の全人格を一体的に、息苦しい癒着感をもって支配する存在である。日本の直系家族は、その母子連合体が、上世代の連合体が下世代の連合体を支配する形で積み重なって形成されてきた。日本の直系家族は、「母による子供の支配」の連鎖、重層化によって成り立ってきたと言える。<BR>
<BR>
こうした母子連合体重層化の考え方は、「日本の家族において、夫婦関係が希薄で、母子関係が強い」、という家族社会学の従来の見解とも合致する。日本の家族では、各世代の母子連合体に相当する母子関係が非常に強力で家族関係の根幹をなしており、夫婦関係は、異なる世代の母子連合体同士を単にくっつけるだけの糊の役割を果たしているに過ぎないため、影が薄く見えるのである。<BR>
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<A href="http://iwao-otsuka.com/com/fem/motherchild1.pdf">以上述べた母子連合体重層化のありさまを、家系図の形で表した図(PDF)へのリンクです。<BR>
</A><BR>
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以上述べたように、日本では女性が「母子連合体」を形成して、社会の最もベーシックな基盤である家族を支配している。従来の日本の家族関係に関する「夫による妻の支配＝家父長制」という現象も、実際は、上世代の母子連合体による、次（下）世代の母子連合体支配として捉えられ、それは、母子連合体の中における母による息子・娘の支配という関係を視野に入れることで、「時系列的に上位(前)の世代の女性(母性＝姑)とその配下の子供(息子＝夫、娘＝小姑)による、下位(後)の世代の女性(嫁またはその候補)の支配＝母権制」の現れとして説明することができる。<BR>
</P>
<P>以上は、日本の家族について説明したものであるが、この「母子連合体」の概念は、育児における母子癒着の度合いが強い他の東アジアの社会（中国、韓国．．．）における家族関係にも応用可能と考えられる。<BR>
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   <title>「母」「姑」視点の必要性</title>
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   <published>2007-05-22T13:53:08Z</published>
   <updated>2007-11-17T14:28:37Z</updated>
   
   <summary>－日本女性学の今後取るべき途についての検討－ 既存の日本のフェミニズム、女性学は...</summary>
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      <![CDATA[－日本女性学の今後取るべき途についての検討－

<HR>
既存の日本のフェミニズム、女性学は、社会的弱者である「娘」「嫁」の立場の女性ための学問であり、社会の支配者、権力者である「母」「姑」の立場からの視点が、決定的に欠落している。

今までの日本の女性学の文献を調査すると、「嫁」「妻」「女(これは未婚の女性である「娘」に相当することが多い)という言葉は頻繁に出てくるが、「母」となると急速に数を減らし(それもほとんどは、女性と「母性」の結びつきを批判する内容のものであり、「母親」の立場に立った内容の記述はほとんど見られない)、「姑」に至っては、全くといってよいほど出てこない。要するに、「母」「姑」の立場から書かれた女性学の文献は、今までは、ほとんどないというのが現状だと考えられる。要するに、日本の女性学は、「娘」「嫁」の立場でばかり、主張を繰り返しているようなのである。

既存の日本の女性学は、「日本社会の男性による支配＝家父長制」を問題視し、批判の対象としてきた。しかし、彼女たちが真に恐れるのは、本当に男性なのだろうか?

例えば、日本の若い女性は、結婚相手の男性を選ぶ際に、長男を避けて次男以下と結婚しようとしたり、夫の家族との同居を避け、別居しようとする傾向がある。こうした行動を彼女たちに取らせる核心は、「ババ(姑)抜き」(「お義母さんと一緒になりたくない」という一言に尽きる。

要するに、彼女たちにとって一番怖いのは、夫となる男性ではなく、夫の母親である「姑」(女性！)なのである。なぜ、彼女たちが「お義母さん＝姑」を恐れるかと言えば、姑こそが、夫を含む家族の真の管理者(administrator)であり、彼女には家族の誰もが逆らえないからである。結婚して同居すれば、夫も夫の妻も、等しく彼らの「母」ないし「義母」である「姑」に、箸の上げ下ろし一つにまでうるさく介入され、指示を受ける。従わないと、ことあるごとに説教されたり、陰湿な嫌がらせを受けたり、といった、精神的に逃げ場のないところまでとことん追い込まれてしまうのである。また、経済的にも、「母」「姑」に一家の財布をがっちりと握られるため、どうしても彼女たちの言うことを聞く必要が出てくる。

こうした点、「母」「姑」こそが、その息子である男性にとっても、「嫁」「娘」の立場にある女性にとっても、等しく共通に、乗り越えるべき「日本社会の最終支配者」なのである。特に、母子癒着こそが、「母」「姑」が自分の子供(特に男性＝息子)を、強烈な母子一体感をもって、自分の思い通りに操る力の源泉となり、「母性による社会支配」の要となっている考えられる。


日本の女性学が、そうした「母」「姑」のことを、今まで取り上げてこなかったのはなぜか?

[1]日本の女性学は、社会的に不利な立場にある女性の解放というのを、主要な目的として掲げてきたが、日本社会の支配者としての「母」「姑」という存在は、「弱小者としての女性を解放する」という目的に反する、厄介なものだったからであろう。いったん強大な権力者である「母」「姑」の視点を取ってしまうと、「女性＝弱者」という見方は実質的に不可能となるからである。

[2]日本の女性学は、女性同士の連帯・団結を重要視して発展してきたと考えられる。従来は、「娘」「嫁」「妻」の立場を取ることによって、広く女性全体がまとまりを作りやすかった。しかるに、そこに「母」「姑」の立場を持ち込むと、(a)子供を持つ「母」の立場の女性と、未だ持たざる女性、および(b) 「姑」の立場の女性と、その支配を嫌々受けなくてはいけない「嫁」の立場の女性との間に亀裂が生じ、女性同士の連帯感、一体感が大きく損なわれると考えられる。そのため、女性全体の一体性を保つために、あえて「母」「姑」を無視してきたと考えられる。

これら[1][2]は、いずれも「臭いものにはふた」「自説を展開する上で都合の悪い事象は無視」という考え方であり、日本の女性学が、説得力のある内容を持った「科学」として発展していく上で、大きな阻害要因となると言える。日本の女性学が科学として今後も伸びていくには、「母」「姑」の視点を取り入れることで、

(1)「女性＝世界のどこでも弱者」という見方を根本からひっくり返して、「日本社会においては、女性＝強者である」として、女性に関する社会現象を正しく取り扱えるようにする

(2)女性同士の表面的な連帯感・一体感の深層にある、「母」と「未だ母ならざる女性(娘、妻)」、「姑」と「嫁」との対立を、連帯感・一体感が損なわれることを恐れずにとことんまで明らかにして、もう一度見つめなおすことで、今までの表面的なものではない、女性同士の真の、心の底からの新たな連帯の可能性を見出す

といったことが必要なのではあるまいか?


一方、日本の女性学が、「母」「姑」を軽視してきたのには、以下のような理由もあると考えられる。

[3]日本の女性学は、視点が、(男性が活躍してきた)社会組織(すなわち企業、官庁)における女性の役割や地位向上に向いており、その分、家庭の持つ、一般社会に対する影響力を過小評価してきたからである。要するに、家庭において「母」「姑」が権力を握っていることを仮に認めたとしても、その影響力はあくまで家庭内止まりであって、社会には影響が及ばないと考えているため、「母」「姑」を無視してきたと考えられる。

これに対しては、家庭こそが、社会における基本的な基地、母艦であり、そこから毎日通勤、通学に出かける成員たちが、いずれはそこに帰宅しなくてはいけない、最終的な生活の場、帰着地である、とする見方が考えられる。この見方からは、社会の最も基礎的なユニットが家庭であり、企業や官庁といった社会組織の活動も、家庭という基盤の上に乗って初めて成立するということになる。要するに、「家庭を制する者は、社会を制する」ということになる。

こうした見方が正しいとすれば、「母」「姑」は、企業や官庁で活躍する人々(その多くは男性)の意識を、根底から支え、管理、制御、操縦する、「社会の根本的な支配者、管理者」としての顔を持つことになる。要するに、家庭は、一般社会に対して大きな影響力を持つ存在であり、その支配者としての「母」「姑」を無視することは、日本社会のしくみの正しい把握を困難にする、と言える。そうした点でも、「母」「姑」を女性学の対象に含めることが必要である。


なお、日本女性学で「母」「姑」が無視されてきたのには、次のような推測も可能である。

[4]日本の女性学での主張内容は、そのまま女性たちの不満のはけ口となっていると考えられる。彼女たちにとって不満なのは、弱者としての「娘」「嫁」としての立場なのであって、「母」「姑」となると、社会的にも地位が高止まりで安定し、それなりに満足すると考えられる。女性たちは、自分たちにとって不愉快な「娘」「嫁」としての立場に異議申し立てをする一方、「母」「姑」については、その申し立ての必要がなくなり、そのため、日本女性学の主張内容から外れたと考えられる。

日本の女性学が、社会現象を正しく捉える科学として成立するには、上記のように女性自身にとって不満な点のみを強調するだけでは、明らかに片手落ちであり、何が不満で何が満足かという、両面を把握する必要があるのではないか?

<HR>

以上、述べたように、今後の日本の女性学は、自らを「被支配者」「下位者」「弱者」として扱う、「娘」「嫁」の視点から、自らを「支配者」「上位者」「強者」として扱う、「母」「姑」の視点への転換を行うべきである。そうすることで、日本女性たちは、今まで正しく自覚できてこなかった、社会の根本的な管理者、支配者(administrator)としての自らの役割に気づくことができるはずであり、そこから、新たな社会変革の視点が見えてくると考えられる。

そういう点では、今後の日本女性学では、「姑」の研究、ないし「母」の研究が、もっと活発になされるべきであろう。]]>
      
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