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2007年05月 アーカイブ

2007年05月17日

日本の会社組織の液体分子運動によるシミュレーション

ウェットな日本の会社組織は、液体分子運動シミュレーションで再現できる。

正社員は、液体分子と同じ動きをする。


液体タイプを示す動画↓(液体分子運動シミュレーション)


その場合、集団に昔からいる構成員は色が濃く、後から加わった構成員は色を薄く、新人は白色で表現すればよい。そして、接触を繰り返すことで、だんだん色が濃くなっていくようにする。

2007年05月19日

比較好きな日本人-相対評価蔓延の根源にあるもの-

日本人は、自分と他人とを比較するのが好きであり、上下、優劣のランクを付けたがる。自分が周囲に比べて、上か下か、しきりに比べたがる。

それは、例えば教育現場での成績評価が、偏差値による、自分は周囲の他者に比べて、成績面でどの位置にいるか、上か下かを知ることを重んじることに現れている。大学入試とかは、この評価の全国版である。

あるいは、会社において成果主義が導入された際の、従業員の成績評価が、他のグループ員と比べた相対評価によってなされることに現れている。

要は、絶対的な評価基準が持ちにくく、常に周囲の他者と比べて、自分は上だ下だと評価することになる。

他人と自分とを、とかく比べたがり、それも、学校の学科のように、同じ共通の土俵上で、同じ領域に属する他者と能力の優劣を比べたがる傾向があるように思われる。

こうした、自分の近しい周囲の他者と何かにつけて、上下、優劣を付けたがる、比較したがる「他者相対比較指向」の社会は、何でも、上下、優劣関係で捉える、目上と目下をうるさく区別する傾向に陥りやすい。

日本が、上下方向の人間関係が発達した、いわゆる「タテ社会」になるのも、その根底に、周囲の他人との上下、優劣比較をうるさく行おうとする心理が働いているからだと言える。

相手と、同じ土俵上で能力比較を行おうとするのは、自分と他人が共通の同じ領域にいる、互いに同質であるのを好むことと関係している。

要は、一人だけ皆と別な領域でひとりぼっちになるのが不安で嫌いであり、皆と絶えず一緒にいたがる、他者との一体感、つながり、まとまりを好む性向がその根底にある。

互いに他者と同じ領域を仲良く共有して、互いにひとまとまりに一体化しつつ、その一体となったグループの中で、だれが相対的に優位に立つか、上位に立つかを、絶えず互いにうるさくチェックし合う。また、同じ領域内の他者と比較して、自分が少しでも上位に立てるように、絶えず、相互牽制し、競争し合おうとするのである。

これは、欧米のように、個人が互いに、別々の異質の独自の世界を構築し、互いにバラバラな方向に、共通の物差しなしに、自分の優位性を各自勝手にアピールする方向に向くドライな社会とは、大きく異なっていると言える。

要は、日本人は、他者との共通性、同質性の確保をまず行って、相互のウェットな一体感、まとまりを得ることを指向する。その上で、その同質集団の中で、だれが一番よくできるか、上に立つかを、共通分野における互いの成績競争で決めるのである。

その点、周囲の他者が自分をどう評価しているか、あるいは、他者は自分より成績が上か下か、絶えず気になることになる。自分が他者より上であれば誇らしいし、下であれば恥ずかしい、みっともないと感じる。いわゆる「恥の文化」は、自分と周囲の近しい他者との、共通の分野における絶えざる相互成績比較によって生じていると言える。

また、自分と共通の集団に属する狭い範囲内での相互の出し抜き競争に終始するため、興味の幅が自分の所属する集団内に限定されてしまい、とかく視野、見識の狭い、スケールの小さい人間を生み出しやすい欠点がある。

日本社会における成績評価が、相対評価になりがちなのは、互いに同質な集団に属することを好み、その同質集団内での自分の相対的な上下位置関係を把握することに神経が行きがちだからである。

その根底には、相互の同質性、一体性への強い指向があり、その点、ウェットで母性的な雰囲気に占められていると言える。この雰囲気が変わらない限り、日本社会における成績評価のあり方も変わらないであろう。

日本人の定型指向について

日本人は、考え方が型にはまっている、というか、一般常識という名の「型」通りに行動しようとすることが多い。

何事も外型から入ろうとする。例えば、何か習い事を始める際に、まず必要な道具を買い揃えることに夢中になる。まずは、外から見える範囲で、型を忠実に踏襲していることを、周囲に向けてアピールしようとするのである。

こうした人たちは、一般常識とされる型や作法から外れること、知らないこと(不作法)を、みっともない、恥をかくとして、何よりも恐れる。

作法とか、権威者の作った型通りに動こうとする。型を忠実に正しく模倣しようとする余り、覚えるべき、注意すべきことを、逐一、先生、師範役に手取り足取り教えてもらい、その通りに厳格に「正しく」動こうとする。そのため、身動きや心構えが知らず知らずのうちに固くなり、思考の柔軟性に欠ける面が出てくる。

あるいは、高校の数学等で、公式を丸暗記し、予め正答の決まった問題に対して機械的に当てはめるのを好む。この場合、公式が、守るべき「型」の役割を果たしている。

日本の人たちは、予め学校の先生とか、家元とかの権威者の定めた「正解」を、その通りに、忠実に模倣、暗記、学習しようとする。「正解」から外れないように細心の注意を払う。

「習い事」「学習」とは、予め権威筋の決めた、かくあるべきという「定型」「正解」「正しい道」を、決まった道具を使って、決まったやり方で、一挙手一挙動毎に、正確に真似することである。そこから少しでも外れると、「間違った」「いけません」として非難され、嘲笑され、「やり直し」させられる。

権威筋の定めた「正解」から外れた結果ばかり出していると、権威筋とその集団から追い出され、居場所がなくなる。どこかの集団に必ず所属しなければならないと考える日本人にとっては、最も避けるべき事態である。

そのため、予め決まった型、道筋や定められた範囲から「外れる」「逸脱する」ことを忌み嫌う。自分から定型を外れて新境地を開く試みをすることを恐れ、そうして失敗した人のことを嘲笑して助けようとしない。

定型通りに「正しく」動くことを守ろうとし、そこから外れることを、「エラー」「間違い」「失敗」と一律に見なして、非難、批判、嘲笑の対象とする。失敗すること、間違うことを極端に忌み嫌う。エラーが人間に付きものである(人間は間違うものである)、という考えを受け入れにくい。ヒューマン・エラーを、エラーを起こした当人の個人的な責任、能力不足、注意不足と見なし、背後の組織やシステムの抱える問題に考えが及びにくい。

なぜ、行動が定型的となるのか?

(1)他人の目を気にする。変に一般常識から外れたことをして、笑われたくない。パターンに合わないことをすると、目立って、外れて、周囲の好奇のまなざし、覗き、注目を浴びてしまい、恥ずかしい。そうすると、周囲の人々の自分に対する印象を悪化させ、自分は社会の中で爪弾きされて生きていけなくなると考える。

あるいは、皆の守っている一定の型から「外れた」ことをすると、周囲、社会の調和、和合、合意を乱し、騒がせ、迷惑を掛けることになる、それが自分にマイナスの価値を与え、社会から追い出されることにつながるので、避けたいと考える。変な波風を立てたくない、目立ちたくないという思いがある。これは、周囲との調和、和合を守ることへの指向や、一定の型への同調、同質化につながり、無個性化に通じる。

また、周囲に自分を、一般常識によく通じている、権威の裏付けのある定型をきちんと習得し、守る能力があるとして、よく見せたい、よく思われたいという、印象操作のための計算高さ、自己宣伝、プライドの高さが根底に存在する。


(2)根底に安全第一の、退嬰的考え方がある。既に先人によって確立された、その通りに動けば間違いのない、失敗や危険のない行動様式に従うことで身の安全を図ろうとする意図がある。未知のどんな危険があるか分からない分野には近づかない。前例のない行動はできるだけ取らない。リスクを取らない、冒険しない。

こうした考え方は、型を既に体得した先生・師範の人の言うことが絶対であるとする、権威主義につながる。型を破ることは、既にその型を保持している権威筋を批判し、顔を潰すことになり、その権威筋の機嫌を損ねて、権威筋の集団から追い出されることを意味するので、保身のためにも、できるだけ型を守ろうとする。

また、既存の型から外れた新境地を目指すことを自分からは行わず、誰かが外れたことをやって苦闘しているのを、高見の見物を決め込み、眉をひそめて陰口を叩き、嘲笑する。そうした点で、定型指向は、独創的、創造的な思考とは相いれない、それらを殺すものである。

しかし、そもそも「外道」であるとして単なる嘲笑の対象だった人が、いざ(欧米等の権威筋から認められるなどして)成功して、新境地を確立すると、それを新たな、理想的な「型」として見出し、一転して、彼のことを「先生」「師匠」と呼んで、彼のもとに競って入門し、彼が新たに確立した型通りに動こうとする。

その点では、「新型」の誕生に敏感であり、新しい型に対する学習、適応力に優れていると言える。要は、「外道の変人」を「先生」と新たに呼ぶことへの方針転換が素早くさっと鮮やかに行われ、その手際が見事なことが、この国の人々の一つの特徴である。

この場合、「新型」とは、礼儀作法とかだけでなく、新たにその操作、デザインを学ぶべき新製品のことも含んでいると考えられる。

日本人の「所属」への指向、欲求。「所属主義」。

この国の人たちは、何らかの集団、系列に、自分が属していないと、不安というか、人間扱いされないと思っている。
要は、社会の中で生きていく上で、どこかの集団、系列に「所属」していることが必須だと考えている節がある。

この場合、所属する集団、系列が「内(ウチ)」と呼ばれ、そうでないのは、「外(ソト)」「他所(ヨソ)」と呼ばれている。

所属集団には、学校(学閥)、部活、学会、会社・官庁、家元、地域(町内会、部落・・)、政党派閥等がある。必要に応じて、所属集団の掛け持ちがある。

本人が所属する集団は、いわゆる内集団である。この内集団の中で、人は互いに親密になって一体感を充足させ、気分よくくつろいで休息したり、一緒になって共通の目標達成に励んだりする。

集団の外は寒風吹きすさぶ劣悪な環境であり、身の安全が保証されない。それを避けるためにも、できるだけ集団の中に入っていよう、所属しようとする。所属する集団、系列は、母の胎内のように捉えられている。

自分の所属する集団、系列が有力、大きいのを望ましいと考える。所属する集団、系列が大規模で有力なほど自分の社会的地位も上がると考える。大会社に就職できると親子揃って喜ぶのが、それである。

この国では、自分が、有力、有名な大組織、系列に所属することを、ステータスシンボルと見なしたり、所属組織・系列名称をブランド視したりすることが一般的に生じている。

人々は、自分の所属する集団、系列がより大きくなり、繁栄するようになるために、懸命になって、所属集団、系列の業績向上のために努力する。そうすることで、自分のステータスも上昇するからである。

人のことを、その所属する集団、系列本位で見ようとする。「○○会社の人」、「○○大学出身者」、「○○派閥の人」という見方が優先され、その人個人の性格、特性は、その中に埋没してしまう。

所属集団、系列には、その派生に従って、親集団と子集団(あるいは親の植民地)があり、親集団に属する方が、ステータスがより上であるという見方が一般的である。国の方が県よりも、親会社の方が子会社、下請け会社よりもステータスが上だと考えられている。

どこにも所属しないフリーの人を浪人とか、旅の人とか呼んで差別したり、信用しない、認めようとしない雰囲気がある。あるいは、どこの会社にも就職しないフリーターは不利であると考える。個人が一人ずつバラバラに散る形で活動するのを好ましく思わず、グループを作って一体となって行動することを指向する。その点、考え方がウェットである。

農家、小売りの自営業とかの人は、農村、町内会といった地域集団に所属しており、その点、浪人、フリーではない。

どこか一つの集団、系列に、どっしりと根を下ろして定着することが望まれており、所属集団をあちこち頻繁に変えることを嫌う風潮がある。

先達・前例の絶対視について

-日本社会を吹き荒れる先達、先生、先輩「風」-


日本では、会社とか学校に入ってきた新人や新入生に対して、やたらと先輩風を吹かす上級生とかが多い。
あるいは、大学、カルチャースクールや家元とかで、入部生に対して、先生風、師匠風を吹かす教授、教官、講師が多い。

あるいは、直系家族の家庭では、姑が嫁に対して、自分が嫁だったときに苦労して体得した家風を吹かして、いじめる姑根性で接することが多い。

こういう風は、たいてい次のような語句と共に吹くものである。

「そんなこともできないのか。駄目だな。」
「ちょっと褒められただけでいい気になるな。」
「まだまだだな。」
「○○は、会得するのは並大抵のことではないぞ。」
「○○は、生半可なことではできないよ。」
「お前のような初心者には無理だな。とっとと帰れ。」
「まだ、当分奥義は教えられない。」
「教えてやるんだ。ありがたく思え。」

要は、やたらと、自分が習得した前例の困難さ、厳しさを強調する。また、自分の習得した前例を、「奥義」とか呼んで、誰にでも簡単に教える訳には行かないとして、前例そのものをありがたく思わせる手練手管に長けている。

自分に対して服従し、たくさん下働きをしたら、初めて、少しずつ、あるいはひょっとすると教えてやらないでもないという、尊大な態度に出る。

先生、先輩は乗り越えられない存在として、ひたすら尊敬の目で見られがちである。

こういう風を吹かす元になる考えは、「先達・前例の絶対視」と呼べる。要は、先達=前例ホルダーの持つ前例そのものをむやみに尊重し、前例を持っている、知っていることを盾に、まだ持っていない者、体得していない者に対して、やたらと威張る、上位者、支配者ぶる、厳しく接する。要は、前例を体得していること自体が重んじられ、簡単に後から来るものに教えられないとする。

また、後輩に前例を教えて体得されてしまうと、追いつかれ、下手すると追い越されて、自分より上手に出られてしまうので、警戒してなかなか教えようとしない、という面もある。


あたかも、奥の終点、中核に達する、様々な障害物や勾配に満ちた一本道があって、その道を先に行った者が先輩として、後ろを行く者(後輩)よりも尊敬される。また、様々な障害を乗り越えて、奥の終点、中核に達した者が、「奥義を会得した」として、上人とか呼ばれて最も尊敬される。

ひたすら、一本調子で、かつて先達の通ったその険しい道を進んで行きながら、前例を順次体得して行こう、奥義に達しようとする、求道者、巡礼のような日本人のありさまは、あたかも一億総巡礼のような感じである。

こうした、先達の歩んだ道をそのまま一本調子でひたすら踏襲する「道を極める」行き方は、「一本道指向」と呼べる。あるいは、一つの決まった山頂、終点をひたすら目指そうとする点、「山頂・終点指向」とでも呼べる。こうした一本調子の考え方は、本来、物事を習得するには、様々な複数ルートや人それぞれの別々の通過点があって、終点も特に決まっておらず、それを適宜自分の判断で組み合わせていく考え方(複数ルートの自己判断指向)と相反する。

日本において、こうした「一本道指向」「山頂・終点指向」が横行するのは、日本が山国で、身近に山があり、山の山頂が一つしかなく、山頂に向かう山道も限られ、しかも、山道の勾配がきつく、岩場とかの難所をたくさん抱えていることと関係していると言える。要は、先達の切り開いた険しい山道をなぞる形で登って、山頂を極めようとする「登山者的思考」が存在し、この険しい道を登る登山が、先達=前例ホルダーの到達した究極の奥義を極めようとする前例習得になぞらえられて捉えられていると言える。奥義会得が、山頂登頂になぞらえられているのである。

また、こうした「一本道指向」は、一度その道を歩き始めたら、終点までひたすら歩むしかない、変更、やり直しが効かないという、会社や官庁での終身雇用 (いったんある会社、官庁に入ったら、用済みになるまでずっと構成員として歩き続けないといけない)の元になる考えであると考えられる。全ての進むべき道の判断を、以前道を通った先達に頼りきる、自己判断の停止、先達への依頼心、甘えの強さがそこには見られる。

これは、旧日本軍みたいに、一度失敗しても、進路変更の融通が利かずに同じ道、失敗を何度も強迫的に繰り返しやすい体質につながっている。

そこには、先達と同じこの道を行けば安全だとか、この道を行けば、先達と同じ奥義に到達できるとか言った感じで、権威におもねる、先達の持つ権威に身を委ねる権威主義的雰囲気がつきまとう。


こうした先達・前例の絶対視では、独創性の発揮は、分厚い前例を全て学習、習得して初めて可能なものであり、途方もなく困難であるかのように宣伝する。要は、未知の境地は、前例を全て消化吸収した後で、初めて見えてくると考えるのである。

実際には、独創や未知の境地をみつけることはそんなに難しいものではない。単に周囲の他人のやろうとしない、近づかない方向を目指すことを繰り返していくうちに、ごく身近にありながら、他人の気づかなかった、今までなし得なかった解決につながる穴を見つけることができる、ただそれだけである。

要は、99人があっちを見ていたら、1人だけそっぽを向いてこっちを見るのを繰り返せば、前人未到の境地に自ずから立ち至ることができるのであるが、日本のように、周囲が大勢順応の雰囲気に染まっており、一人だけ違うことをするのを許さない精神風土の社会だと、これはなかなか難しいことである(欧米とかだと比較的容易と考えられる)。

このようにして抜け穴的に簡単に到達した、一応前人未到の新境地を、あたかも険しい一本道を進んだ終末にやっと見える奥義として、やたらと神聖化、神秘化して見せることで、自分にペコペコいつまでも付き従う弟子をたくさん量産することも可能である。というか、到達した本人にはその気がなくて何もしなくても、弟子の方が勝手にありがたがって付いてくるというのが実態であろう。欧米人の研究者に弟子として師事する日本人の弟子とかはこのパターンと考えられる。

あるいは、そもそもそうした新境地?を簡単な思いつきで自作した後、その境地を分厚い秘密のペールで覆って見せないことで、さもありがたいものであるかのように見せることも可能であり、新興宗教とかの指導者はこの手の輩が多いのではないかと思われる。


このように、先達の会得した前例をひたすら重んじる行き方は、同じ場所に止まったままストックを蓄積していく農耕民的な行き方であると言える。同じ場所にい続けるので、先祖とかの先達の残した物の見方、考え方が、ずっと有効であることが、前例やしきたりを絶対視する風潮につながっている。

また、我が身の安全をひたすら重んじ、安全を保障してくれる先達の成功例にあやかろうとする点、保身、退嬰的な女性性にもつながっている。

この習性が身体に染みつくと、どこかに前例がないと何もできない、お手上げとなる事態が生じる。そのため、誰かの成功した前例探しに躍起となる。それはたいてい欧米社会とかの遊牧・牧畜民的生き方の人々が未知の分野に一人挑んで失敗を積み重ねながらやっとの思いで得た物であり、それを特許料とかの高い代償を支払って、手に入れることになる。


なお、同じタイミングで会社や学校に入った者同士を、自分と同期として、勝手に一体感を抱いて、やたらと馴れ馴れしく振る舞うのは、その進むべき道において、同じ位置を占めるため、前例蓄積の度合いが自分と同じと考え、同一視しているためと言える。

こういう風に同期をなれなれしく扱い、付き合う人は、往々にして、先輩に向かってやたらとペコペコ服従する、後輩根性を持つと共に、後輩に対してやたら厳しく横柄に接する先輩風を吹かせるものである。この点、「同期」「先輩」「後輩」は、前例絶対主義の3点セットとして捉えることができる。

要は、「同期意識」と「後輩根性」、「先輩風」は、同じ道を進む時間的前後関係をそのまま上下関係に持ち込もう、その裏返しで、同じ道を進む時間的同期関係をそのまま平等、同格関係に持ち込もうとする意識の現れであり、日本社会を今でも覆う年功序列の考え方の元になっていると言える。

上記と関連して、日本には、ある特定分野についての知識が豊富であることをひけらかして自慢する「ウンチク垂れ」が少なからず存在する。アニメやコミック、ゲーム分野でのオタク呼ばわりされる人とか、ワイン、陶芸分野での知識自慢をする知識人とかがそうである。「オレはお前らの知らないこんなことを知っているんだぞ。どうだ、凄いだろう」という態度が見え見えである。

あるいは、分野を限定せず、様々な事柄について、広範な知識を持っていることをひけらかして自慢する「雑学屋」も多数存在する。「こんなに一杯、いろいろなことについて知っているんだぞ。お前は知らないだろう。」といった感じで威張る。

彼らに共通して言えることは、知識を持っていること自体が偉いことであり、自慢の対象となるという考えを持っていることである。その知識は、何ら彼ら本人が考え出したものではなく、誰か他の人が考えたことであって、「ウンチク垂れ」「雑学屋」の彼らにアイデアのオリジナリティがなくても、全然問題にはならない。専ら蓄積している知識の質量が問題とされるのである。

この場合の「ウンチク垂れ」「雑学屋」の持つ知識は、既存の知識すなわち前例であり、彼らが、知識を持たない他人に向かって知識をひけらかして威張るのは、経験のない新人に向かって先輩風を吹かすのと、何ら変わることがない。

東京大学的人間 -その「役人的」性格と限界-

東京大学の出身者は、以下のような特徴を持つ。

(1)正しい答えを暗記し、即答する能力を重んじ、それに優れている。通説、定説、欧米や先進国の学者の唱える権威ある説、論争について、答えを、なるべく多量、なるべく正確に学習し、そらんじるのが得意である。

これは、誰かが先行して作り出した「正答」のフォローばかりやることにつながり、権威主義や思考上の後進性を生み出している。

東京大学出身の研究者は、沢山の植民地大学を抱える形で学界を政治的に牛耳りながら、自らはなかなか斬新な独創的なアイデアを出せずに、欧米の研究者の出した学説の消化吸収、後追いばかりやって、しかもそれが学問の本道だと信じ込んでいる人が多い。

東京大学は、基本的に役人(中央官庁の高級官僚)養成の機関である。そこでは、できるだけ、間違わず、大過なく物事を進める能力、先人の作った膨大な量の前例(法律、技術)をできるだけ正確かつ多量に頭に入れて、いつでもそれを即座に取り出して運用できる能力、先行する(欧米の)成功例を効率よくキャッチアップ、模倣して、素早く追いつく能力が求められ、東京大学の出身者は、現にそれが得意である。この点、「東大的」とは「役人的」と同義と考えていいと思う。

(2)複雑、難解なものを理解し、説明する能力に優れる。複雑な構文、高度な数式等の入った文章を楽々と読みこなし、また自分で書くことが得意である。

中央官庁が所管する法律には難解なものが多く、それを楽々と読みこなすとともに、自分でも作文できることが求められる。条文を入り組んだ分かりにくいものとすることで、難解な物事を理解できない一般国民を支配できると考えている節がある。こうした、難解さを重んじる役人的な発想が、そのまま高級官僚養成機関としての東大に浸透していると言える。

これは、簡単さ、単純明快さを馬鹿にする態度につながる。しかし、実際のところ、実際の生活や科学でインパクトが大きいのは、より基本的で土台となる部分の発見であり、それは万有引力、地動説の発見のように簡潔で単純であるほど後世に残る大発見となる。ところが、東大的な考え方では、こうした、誰の頭でも分かる簡単さは、軽蔑の対象となってしまい、切り捨てられてしまう。

この場合、価値観が、既に存在することの理解、評価、学習能力の重視に偏っており、受け身で消極的、退嬰的なことも特徴である。その点、女性的であり、東京大学出身者の脳、東大脳は女脳の典型であると言える。

まとめると、正しい答え、定説をできるだけ多量、正確に頭に入れて、すぐそらんじることができること、難解な物事をよどみなく理解できることが東京大学的、役人的人間の特徴と言えよう。

要は、東大出身者は、上記の高級役人的技量に関しては優れており、その点この国の価値基準では「頭がいい」人なのであるが、頭の良さは、こういうものだけとは限らない。機転の利いた斬新な、あるいは、根本的な大変革をもたらす考えを生み出すといった点も、別の意味で「頭がいい」のであり、東大出身者の多くは、こちらの面では、全く無能であり、「頭が悪い」のではないか。


なお、受験勉強の一番の勝者が東大に合格するという考え方が日本人の間には根強くある。上記の高級役人的技量を磨くのが、日本における大学受験勉強であるとするならば、高校生たちが大学受験の勉強に力を入れることは、彼ら若人が一斉に「役人的」になろうとしていることに他ならない。というか、日本人は、大学受験の勉強をする過程で、皆知らず知らずのうちに、多分に「東大的=役人的」思考に慣らされ、どっぷり浸かっていると言える。

そういう意味では、性格としては、「東京大学的」=「日本的」とも言える。

日本人と権威主義

1.日本人の欧米権威筋への追従について

現代の日本人、特に大学とかにいる学者や、一般知識人、文化人と言われる人たちは、権威主義を否定し批判する。また、自分のことを権威主義者だと言われると顔を真っ赤にして怒り出し、自分は権威主義者ではないと必死になって主張する。

では、権威主義を否定する彼ら日本人が、権威主義者ではないのかと言うと、実は権威主義者だと捉える方が理に適っている。

と言うのは、彼ら日本人が権威主義を否定するのは、そもそも彼らが依拠する欧米権威筋の学者が、権威主義を否定、批判しているからである。

ここで、欧米権威筋というのは、欧米の学界において、著名な学説を提唱した、提唱している学者のことを指す。

欧米の社会学界においては、アドルノやフロムといったユダヤ人学者が、戦前ドイツでユダヤ人らを迫害したナチス・ドイツとその信奉者たちを、「権威主義」だとレッテルを貼って批判し、それが、ナチス・ドイツの性格的特徴をうまく説明した学説であるとして一躍有名となった。この点、アドルノやフロムは著名な学説を提唱した権威ある学者ということになり、その評価は現時点でも変わっていない。この点、欧米の権威筋の学者が権威主義を批判、否定していることになる。

この欧米権威筋による権威主義否定が、欧米のステータスや権威に弱く、その後を追いかけ、崇拝することに熱心な日本の知識人たちの頭の中に導入されると、面白い現象が起きる。

日本人のインテリは、欧米の権威筋が権威主義を否定しているので、欧米権威筋に依拠する自分たちも、権威主義を批判、否定しないといけないと思い込んで、欧米権威筋の「権威主義否定」の学説をそのまま真似て直輸入して、自分たちも権威主義批判を行う。

要は、日本人のインテリは、自分が権威主義者だからこそ、(欧米)権威筋の出した権威主義否定の学説をそのまま信仰するする形で、権威主義を否定するのである。と言うか、「権威主義的に」権威主義を否定する。権威主義に忠実に則る形で、権威主義を否定するのである。この点、「権威主義者が、権威主義的思考で、権威主義を否定する」という、妙に矛盾した事態が日本では起きているのである。これは、「(権威主義者による、)権威主義の権威主義的批判」現象と呼べる。

日本人インテリが権威主義を否定するのは、欧米権威筋の学者による権威主義批判が世界標準の定説になっているからであり、彼ら日本人のインテリは、本当は欧米権威筋の意見をひたすら後追いする権威主義者なのではないかと考えられる。

日本人のインテリは、欧米権威筋の学者が言うこと、ないし欧米学界におけるメインストリームの学説を、正しい説だとして信じ込む。そして、欧米権威筋の学説を、そのまま忠実に学習し、模倣しよう、いち早く日本に紹介して、その学説の日本における第一人者として日本国内で認められ、尊敬されようと懸命になる。欧米権威筋の学説は、教科書とかに大きく載っていることが多いので、それが定説だと考える。そして、欧米権威筋の学説(欧米で常識になっている学説、潮流)に反する学説を日本人が提案すると、あるいは、欧米権威筋の学説を日本人が批判すると、「欧米の権威ある先生に楯突くとは何様のつもりだ。身の程知らずもいい加減にしろ。」と、馬鹿にして足を引っ張る、無視するのが通例である。これが、日本人のインテリが取っている「権威主義」的態度であり、ごく普通に見られる。

ところが、自分たちがそうして馬鹿にしたところの、既存の欧米学説を批判した日本人の学説が、いったん欧米学界で受け入れられると、日本人のインテリは面白い行動をする。すなわち、慌てて旧来の態度を変えて、その馬鹿にしたはずの日本人の学説を持ち上げ、称賛するようになる。馬鹿にし、無視する対象とした日本人同胞のことを一転「大先生」と持ち上げ、自分もその後を追おうと必死になるのだ。ひいては、「自分と同じ日本人が世界に認められた」として、いったん馬鹿にしたはずの日本人同胞のことを誇りに思うまでになる。無論、彼らにとって、「世界」とは、「先進国である権威ある欧米」のことである。特に、日本人がノーベル賞を取ると、インテリだけでなく、一般大衆も一緒になって、称賛の嵐、ブームが起きる。取る前は、「○○の奴」とかいって馬鹿にしていたのに (この辺の事情は、江崎玲於奈や西澤潤一の著書を見ると載っている)。

これから、欧米学界の定説に反する学説を出そうとする日本人は、欧米学界に自説を出す前に、日本人関係者に自分の学説を説明し、反応を録音しておくと良いと思う(多分、多くの関係者から、そんな学説ダメに決まっていると突き返されると思うが。)欧米学界に学説を出した後で、自分の説が欧米学界に受け入れられた時に、受け入れられる前と後で、日本人関係者の反応が違うことが分かることもさることながら、その日本人関係者が、欧米で受け入れられた説を、かつて否定していたことに関する決定的な証拠を持つことになり、その日本人関係者の弱みを握ったことになる。これは、その日本人関係者が、著名な大学の教授だったりすると、取引材料として大きな効力を持つと言える。

日本人は、中央官庁みたいな「お上」に弱く、従順であろうとするが、欧米(特にアメリカ)は、更にその上を行く「スーパーお上」なので、欧米でメジャーな学説や運動については、中央官庁の役人も含めて、ペコペコ崇拝、信仰するのである。あるいは、欧米通の日本人は、欧米でメジャーな考えを引き合いに出して、「お上」である日本政府の動向を批判することが多い(「欧米では既にこうなっているのに、日本はまだまだこのような状態のままだ。日本政府は駄目だね。」という感じである)が、これも実は、欧米崇拝の権威主義であることが多いのではないか。「スーパーお上(欧米)」の威光を以て「お上(日本政府)」を制するという感じである。

こうした権威主義は、「自らもみんながそこに集まる、権威筋の主流派に属して、メジャーで光の当たる安全なところにいて、いい思いをしたい」という、ウェットで女性的な考えと言える。


厄介なのは、こうした欧米崇拝のウェットな権威主義者と、根っからの欧米的なドライな考えの持ち主とを区別することが難しいことである。彼らは、両方とも、権威主義を批判し、ウェットな態度を批判するので、見た目には見分けが付かないのである。ウェットな権威主義者の側も、権威主義否定の学説を信仰しており、自分が権威主義であることを認めると、自分が「欧米(=権威主義に反対であり、ドライ)=一流」と同等の格付けであったのが格下げになってしまうので決して認めない。彼らは、心理テストとかでも、どちらも同じように、欧米的なドライな方を自分に合っているとして選択する。この2者を何らかの方法で区別することが必要であり、今後の課題である。


2.日本国内の権威筋の存在について

日本の学者は、欧米学説のデッドコピーとその解釈、いじり、小改良に終始する場合が多い。この場合、欧米学説をいじるというのは、複数の欧米の学者が互いに違うことを言っているので、その整合性を取ろうとする行動である。

もともと、欧米の学者の学説は、あくまで、一個人の学説であり、それは、間違っているかも知れず、乗り越えるべき面のある学説なのであるが、日本の学者には、そうしたことについての視点や気づきが足りない。要は、欧米で主流の学説を、「お上=権威筋の説」「大先生の説」として、無批判に、崇拝、信仰し、受け入れ、取り入れようとする面がある。

日本の学者たちには、自分で、既存の欧米での学説を打ち壊して、それを乗り越える学説を出そうとする試みを出すことを、自分たちの内部で否定し、自分たちが権威筋と見なす、主流の欧米の学説の批判を許さない面がある。

なぜ、こうした現象が起きるかと言えば、そうした欧米で主流の学説について、日本国内の権威筋の学者がそれに依拠しているためである。依拠するというか、せざるを得ないのは、日本国内の権威筋の頭だけでは、欧米学説のような、ドライで革新性に富んだ、意表を突く、スケールの大きい学説を自らは生み出すことができないからである。

なぜ生み出すことができないかと言えば、彼ら日本の権威筋には、心の根本的なところで何よりもプライドが高く、人の風評に傷つきやすく、冒険して失敗して笑い物になることを恐れるために、とにかく安全で、当たり障りのない、既に確立された発見発明や技術等をひたすら頭に入れ、習得して博識、博学になることで、前例、しきたりの生き字引と化して、「自分は何でも知っている、できる先生、先達である」として、皆の尊敬を集めよう、周囲を未熟な後輩と見なして先輩風を吹かせて実効支配しようという、女性的、退嬰的な事なかれ主義的で、なおかつ人の前に出よう、偉ぶろうとする出しゃばりの魂胆があるからだ。

日本の学者は、原則として、何らかの、出身大学や師弟関係、先輩後輩関係に基づく、縁故集団の中に入って生きている。学閥や、似た考えに染まった同士がつるんで形成する派閥が相変わらず幅を利かせており、その中の有力者(教授、先輩)が、日本国内における権威筋として、他の成員に向けて睨みを利かせているているのである。

要は、日本の学者は、親代わりの権威筋との上下関係に基づく、ウェットな縁故集団、疑似家族集団の中にどっぷり浸って生きている。こうした集団は、親子、上下関係からなる一種の「系列」として捉えることができる。日本の学者は、何らかの有力な権威筋系列の中に入っていないと、アカデミックポストの配分を受けられず、生活できなくなり、生きていけないのである。逆らうと、アカデミックポストを奪われたり、系列の外に飛ばされたりして、生きていけないのである。

日本の学者は、自分の身の安全、保身についての意識が敏感である。そうした身の安全は、現在の権威筋を批判することで、脅かされる。批判することで、権威筋からその行動を批判され、日本国内で仲間外れとされる恐れがある。要は、自分が今入っている権威筋のグループから外される恐れがあり、そうなると、どこからも仲間に入れてもらえず、孤立して、生きていけなくなるので、批判しないのである。

日本の学者は、自分の所属する権威筋系列に対して、異議を唱えたり、逆らうことが難しい。そして、日本の権威筋が、欧米学説をデッドコピーしている状況が、権威筋とその弟子、後輩の関係、師弟関係を通じて、権威筋系列内の世代間を通じて脈々と受け継がれているのが、日本の学界の現状であると考えられる。


日本の学界においては、権威筋に逆らうと、人事上の報復が待っているので、権威筋の学説に逆らえない。要は、逆らうと、アカデミックポストの配分が受けられなくなり、学者として生きていけなくなるのである。

日本の学者は、欧米学説=権威ある学説をデッドコピーしたものを、小改良し、少しだけ変えたり、他の権威ある学説と比較するのに終始している。欧米の学説を微細にうがって、解読、解釈するのに懸命になるのであるが、それは、あたかも、「聖書」「お経」の解読と同じである。要は、欧米の学説が、権威ある教典、経典と見なされているのである。

それは、要は、日本国内でアカデミックポストの人事権を握る、植民地支配大学の教授=権威筋がそうした欧米学説のデッドコピーに終始しており、日本の学者たちは、彼らに忠誠を誓っていることを示すため、それに倣った行動を取っているのである。

要は、日本の学者にとっては、自分の論文等における学説、主張内容が、自分が属する権威筋への忠誠があるかどうかの踏み絵となっているのである。そこでは、権威筋と主張内容が、基本的に同じであるか、継承しているかどうかが重要であり、論文の主張内容そのものは、二の次になっている。

日本の学者にとっては、欧米権威筋や、それに依拠し、デッドコピーを行おうとする自分の先生、先輩が唱えたものは絶対的な重みを持つ。

ある日本人学者の論文内容が、欧米権威筋のデッドコピーとその小改良となるのは、彼が、日本学界の権威筋を中心とする系列の一員である証拠である。論文のスタイルから、彼が、権威筋に忠誠を誓い、身を守られていることが分かる。ただし、微細な内容の相違により、派閥が違ったりする。

3.女性的な権威主義

日本人の権威主義は、ある点、女性的な特徴を持っている。

それは、権威に寄り添うことによって、自分の身の安全が保たれる、大過なく生きて行けるという、保身や、事なかれ主義に結びついている。

また、主流派のいるところに自分もいないと、孤独で寂しいという、主流派との一体感を求める考えとも関係ある。

あるいは、誰か大きな存在の元に寄り掛かり、甘えたい、依存したいという、依頼心の強さとも関係がある。

権威あるものと一体化することで、精神的なバックボーンを支えられる気分となって、気が大きくなり、初めて、人前で発言する勇気が出るといった面もある。

男性の場合は、既存の学説を叩き壊したり、潰したりして、代わりに自分の学説を、種付けしようとする。権威に逆らい、潰し、自由になることを目指し、場合によっては、自分が新たな権威者になって、他人に言うことを聞かせることを目指す。

これに対して、女性は、既存の権威者に従順に従って、権威者をそのまま忠実に継承して、後継の権威者となることを目指す。要は、自分の属する系列の権威筋に逆らおうとせず、既存の権威筋の学説をそのまま継承しようとするのである。

この点、日本の学者の取っている態度は、明らかに、守られる側の性のものであり、女性的である。

4.ウェット、母性的な権威主義とドライ、父性的な権威主義との区別について

従来、欧米で権威主義の定義とされてきた、ドイツ人の権威主義と、上記で述べてきた日本人の権威主義とは、同じ権威主義という言葉を使っていても、その中身は大きく違うと考えられる。

ドイツ人の権威主義は、命令と服従の上下関係の連鎖として捉えられる。要は、上下の命令系統が厳格、正確、機械的に守られること、上位者の命令が下位者にとって絶対的であり、それを可能な限り忠実に守ることが彼らの中では自己目的化しているのである。彼らにとっては、指示や規則が、上から下へと、徹底されること、直行することが、命令する側にとっても、それを守る側にとっても快感なのである。

こうした態度は、上位者が、下位者のことを、自らの目標達成のための道具、ツールとして、突き放して眺めるものである。また、上位者が定めた教条、因習、形式が、カッチリと、機械的(メカニカル)に、隅々まで絶対的な教えとして下々へ原理主義的に浸透することを目指している。社会全体が、巨大装置のメカのような大きな指示伝達、上意下達のための機械、歯車装置として捉えられる。

これは、キリスト教のような、父なる神の原理主義と軌を一にする男性的、父性的な、ドライなものであり、ドイツ人の権威主義は、ドライな権威主義、父性的、父権的権威主義と呼べる。

これに対して、日本人の権威主義は、自分も主流派の一員に属することで、保身、身の安全、一体感が欲しいという欲求に根ざしている。要は、権威筋が中心となって主宰するウェットな輪、グループの中に自分も加えてもらい、その中の一員でいたい、止まりたい。権威筋系列の一員でいることで、権威筋が優先的に分捕ってくる便宜にあやかって、おいしい思い、温もりに満ちた思いをしたい。権威筋に身の安全を保証してもらい、庇護してもらい、依頼心や甘えを満足したい、という思いが強いのである。

権威筋の主宰する輪から外れると、身の安全が保証されない。寒風が吹きすさぶ悪条件が待っているので、抜けようにも抜けられず、権威筋の言うことにペコペコ従って、身の安全を図りたい、という気持ちが強くある。

権威筋のグループ、系列の一員に入れてもらう、ウチに入ることで、排他的な一体感が保証され、温かな疑似家族集団の中に入った感じとなる。

この場合、権威筋は、母性的なウェットな存在として立ち現れ、日本人の持つ、母なるもの、大きな温かいものに包含されたい、互いに一体感を持ちたいという欲求を満足させる点、日本人の権威主義は、ウェットな権威主義、母性的、母権的権威主義と呼べる。

従来は、この2つの権威主義は、日本においては、区別されず、混同されて使用されてきた。というか、権威主義という用語は、日本国内では、現在も専ら、ドイツ人のようなドライな父性的権威主義の方を指しており、ウェットな母性的権威主義についての思慮が足りていない。今後は、別物として分けて捉える必要がある。

5.権威主義とプライドの高さについて

権威主義者は、一般にプライドが高い。自分を権威付けたがるのは、自分を高く位置づけたがることと関係しているからである。あるいは、結婚見合いとかにおいて、学歴や資格などで自分のことを箔付けしたがるのも、権威主義の現れである。

日本人は、自分のことを欧米みたいに、世界で一流と呼ばれたい、一流国の仲間入りをして、アジアの他の国を見下したい、差を付けたいと願って、今まで努力してきた節があり、その点、日本は、「高プライド社会」と呼べる。日本人のこうした、一流願望も、一流評価の持つ高い権威への憧れとして、権威主義と呼べる。

日本社会の後進性について

[要約]

日本社会は、欧米に比べて、科学技術の進歩が必ず一歩遅れる、「後進型社会」である。トランジスタにしろ、インターネットにしろ、世界の科学技術に大きな革新をもたらした発見、発明は、ほとんど全て欧米からもたらされたものであり、日本社会からは余り出ていないのが現状である。日本社会が後進型社会になってしまうのは、社会で女性の力が強いため、安全第一で未踏分野に足を踏み入れるのを恐れるのと、定住農耕を主とするウェットな社会であるため、今いるところから踏み出そうとしないためと言える。



日本社会は、欧米に比べて、科学技術の進歩が必ず一歩遅れる、「後進型社会」である。
トランジスタにしろ、インターネットにしろ、世界の科学技術に大きな革新をもたらした発見、発明は、ほとんど全て欧米からもたらされたものであり、日本社会からは(皆無ではないが)余り出ていないのが現状である。

また、ノーベル化学賞の田中耕一氏の例のように、例え、発見、発明が日本社会から出たとしても、日本国内では当初全く評価されず、欧米社会に知られて高く評価されたのを知って、初めて日本国内でもあわてて評価し出すという現象が繰り返し起こっている。

日本社会には、科学者に新規の発明、発見を行うように動機づけたり、新規の発明、発見を評価するしくみが備わっていないのではないかと考えられる。

こうなるのは、日本社会が、前例やしきたり、慣例といったものを重んじ、新規の発明、発見を、既存の社会のあり方を変えてしまう可能性を持つものとして恐れる考え方が根底に横たわっているためと考えられる。そのため、日本社会は恒常的に「後進的」なのである。

では、なぜ、日本社会は、万年後進国となっているのであろうか?

一つ目は、日本社会で、女性の勢力が大きいことがあげられる。こういうことを言うと、日本では、女性は弱者として差別されているではないかという意見が出てくるが、実際のところ、日本社会の中で、母親、姑の立場に立つ女性に比肩しうる勢力を持つ存在は見られないのが実情である。

女性は、その行動が、自分の保身や安全を第一に考え、未知のものに対して恐怖心が強く、どんな危険が待っているか分からない、何が起こるか分からない未踏分野に手を出そうとしない。

女性が強い社会では、女性的な考え方が社会全体に行き渡り、皆が未踏分野への進出を避けようとする。その間に、男性の勢力が強い、未知の分野が持つ危険をものともせずに、どんどん進出していくタイプの社会=「先進型社会」に、目ぼしい成果を皆持って行かれてしまう。

二つ目は、日本社会が、一カ所に定着して動かない農耕を主とするウェットな社会であることがあげられる。農耕社会では、物の考え方が、今いるところに定着し続けようとして、新規の場所へと出て行こうとしないものとなりがちである。農耕を主とするため、その他の工業などの分野においても、とかく物の考え方に流動性が欠けがちである。そのため、流動性の高い遊牧・牧畜を主とするドライな社会に比べて、新規分野への参入が遅れてしまう。

以上から、日本社会が後進型社会になってしまうのは、社会で女性の力が強いのと、農耕を主とするウェットな社会であるためと言える。

日本社会から目ぼしい発見、発明がなかなか出ないのは、教育が前例暗記型の受験勉強に偏っているからという意見もあるが、それ自体が原因なのではなく、物の考え方が、前例偏重、微細な重箱の隅をつつくような暗記偏重になるのが、社会が女性的、ウェットであるという根本的な原因に目を向ける必要があるのではないか?

山河型社会について

-日本社会の原型-

日本社会は、国土の大半を山岳地帯と、そこから流れ出る河川によって占められている。

その場合、人々が住む場所は、山岳地帯から流れ下るツリー状のディレクトリをなす河川沿いに作られる。
各ツリーの幹が河口付近の大きな流れであり、ツリーの枝が、より上流~中流の小さく細分化された谷間の流れに当たる。

各ツリー状の河川沿い地帯同士は、高い山で遮られ、お互いの行き来がない。

人々は、河川沿いに、隣の河川沿いの住民たちとは隔絶した閉鎖性、排他性、セクショナリズムの高い共同体を作って暮らし、そうした共同体のあり方が、日本社会の原点となっている。

日本の社会は、河川の上流同様、末端に、小さな村落共同体を複数持ち、河川が次第に他の河川と合流するのと同期して、そこに物資集散の町が形成され、さらに、河川同士がさらに合流するか、流れを太くして、河口に流れ下る位置に、大都市が生じるのが、日本社会の特徴である。

河川の存在、合流パターンに、地域社会の人や物資の流れが合致している。

各河川同士が上流部で、ツリー状に、山並みに隔てられて互いに連絡が取れない谷間を個別に形成するのと同様、日本社会でも、各河川沿いにツリー状に作られる集落は、山を隔てた別の河川の集落とは全く行き来がなく、隔絶している。

各河川と集落のツリーは、一つの閉鎖的なセクションをなしており、それが、日本社会全体に色濃く漂う、官庁、会社組織などでのセクショナリズム(例えば官庁であれば、「省あって国なし」)の源となっていると考えられる。

上流の各セクション(実際の河川沿いの地域社会でも、官庁や企業の組織図でも)は、より下流で、他の河川と合流するところに形成されるより大きな行政、組織単位=「集散地」を通してしか、互いに人や物資のやりとりを行うことがない。

下流に向かうにつれて、ツリー状の人、物資の流通がより集積し、大きな都市が作られていく。

こうした、山々の間をツリー状に流れる河川に合わせて、ツリー状の人や物資の流通やコミュニケーションが行われ、各ツリー毎に、山で隔てられて、谷間の孤立性、封鎖性が高く、セクショナリズムが生じる社会は、「山河型社会」と呼べる。日本は、この「山河型社会」の典型である。

日本人の大勢順応とトレンド、空気感知アンテナについて

日本人は、周囲の皆がどっち、どこに向かっていくか、その場の雰囲気や空気を読み取るのに敏感である。皆の動きに置いて行かれないように、はぐれないように、絶えずくっついて行動しようとし、周囲の動向を感知するためのアンテナを張り続けている。周囲の空気を重視する。

要は、皆と一緒にいると安心で、絶えず団体で動き、自分の属する団体から置き去りにされて途方に暮れることのないように、万全の注意を払っているのである。

各人は、トレンドや時の話題、流行に従って行動し、それらに遅れないように、情報収集と同調に忙しい。

これは、ウェットな液体分子群の動きのパターン(筆者はパターンWと呼んでいる)と同じである。
パターンWにおいては、各粒子が、互いに周囲の他の粒子と歩調を合わせて、同じトレンドで、一体となって、団体をなして、ゆっくりと進んでいく。
パターンW(とパターンD)についての説明のページです。

要は、皆と一緒、同じなのがよくて、周囲との一体感を求め、内輪から外れないように、仲間外れにならないように、細心の注意を払う。

ミクロのな周囲の動きに合わせようとするが、マクロについては、どこに行くか、誰にも分からない。

要は、一人一人が、それぞれ周囲の皆の行く方向へと行こうとしているのであり、どこの方向へ行くかは一人では決められず、一人一人のその時々の周囲の動向感知とそれに基づく進行方向の決定の合計が全体としての進行方向になる。その結果、団体が大きくどの方向へ向かっているか、誰にも分からない、誰にもはっきり決められない、その場、その時々の雰囲気、空気次第で決まる、変わるということになる。

周囲の、微妙な、繊細な空気の流れを、絶えずアンテナ全開で読み取らないと、一人置いてきぼりを食らってしまう。要は、仲間外れにされたのと同じことになる。

底辺に流れるのは、周囲と協調、同調したい、周囲の動きに何とか付いていきたい、置いて行かれないようにしたい、周囲と一体感を保ちたいという、ウェットな欲求である。これは、周囲から独立してバラバラに一人自由に行動することを欲するドライな欲求とは対照的なものである。

こうした考えは、人々に大勢順応を引き起し、全体が一まとまりになって動くことを指向する全体、総体主義につながる。


この場合、先を歩いている、進んでいる方が、後から付いていく、遅れて脱落しそうになるよりも、望ましいという考えがある。考えがその時々で、全体の中の前寄りにいて進歩的なのが優れた人として尊重される。

もちろん、先を行こうとする人には、先走り過ぎて、気がついたら周囲と違った方向に一人向かって歩いていた、という事態になる恐れがある。これは、先走り、一人歩きを好ましくないとして嫌う考えと結びついている。

要は、全体のトレンドから外れて、一人歩き、はみ出し、スピンアウトをする人、遅れる人、脱落者を嫌う社会である。なので、皆、トレンドに何とか付いていくように、あわよくばトレンドを主導する地位に収まるように、一生懸命、必死である。

日本の社会で支配的な地位を握れる人は、(1)全体の輪の中にうまく収まっていて、(2)全体の中の前寄り、先の方の位置をキープして進歩的でいて、 (3)なおかつ、それが一人歩きにならずに全体の動きの先鞭を付けるような、皆を引っ張っていく形になるような「トレンドメーカー」である。

もう一つは、動きの遅さとの関連がある。日本は、一人一人独立してスイスイ素早く動き回るのではなく、皆で共同歩調を取りながら、ゆるゆると進んでいくタイプの社会だということである。これは、欧米のような個人主義のドライな社会(パターンDの社会)に比べて社会進歩が遅れることにつながっている。

「集中」好きの日本人

日本の人は、集中が好きだと考えられる。

東京への行政、経済機能の極端な一極集中がその好例である。都市機能や居住スペースを一カ所に集中させて、ギュウギュウに詰め込むのが好きである。

要は、周囲の皆の住んでいるところ、集まっているところに、自分もいたい、行きたいという気持ちが非常に強いのではないかと考えられる。周囲から離れて、隔てられて、一人でいるのは悪だ、よくない、皆で一緒がよい、という考え方が広く行き渡っているように思われる。

この国の人たちは、他人の噂話を流すこと、陰口を叩くこと、他人をじろじろ好奇の目で見ることが好きであり、絶えず、注目、噂話の対象、ターゲットを探し求めて、ワッと一斉に集中砲火を浴びせる癖がある。要は、皆の関心のあるところに、自分も行こう、集まろうとする人々が多いということであり、それが、注目、噂話の対象の一極集中を生み出す。

人々の関心のエネルギーが、どこに行けばよいか分からずに、無方向に、行き場を求めてさまよい、見つかるや否や、ターゲットとなる一カ所に殺到する傾向がある。ターゲットは、一挙に注目を浴び、ブーム、流行の対象となる。注目、噂の「集中」が起きるのである。

この場合、注目を浴びせたり噂話を流す当人たちは、自分自身は、注目の対象から外れるように、目立たない格好をして、安全地帯に逃げて、保身を計るのが一般的である。当事者になるのを巧みに避けて、高見の見物を決め込むのである。

噂話、注目の対象は、一種のスケープゴートであり、血祭り、いじめの対象であるとも言える。噂話、注目の対象となった人や組織は、周囲に集まった人々によって、よってたかってもみくちゃにされ、プライバシーをズタズタにされる等、酷い目に会うことが通例である。特に、それが、スキャンダルや後ろめたい事が発端である場合、容赦のない集中攻撃を浴びる、寄ってたかっていじめられる、叩かれることが多い。

日本人がウェットなのは、単に、周囲との一体感、つながりを持つのが好きなだけでなく、立場の悪い人を皆で寄ってたかっていじめたり、ひそひそ陰口を叩くのが好きな、「陰湿さ」もその大きな要因であると考えられる。

人々の欲求不満、ストレスのエネルギーがはけ口を求めてさまよい、たまたま失敗をするなどして目立った人を嗅ぎつけて、そこに集中的に流れ込むと考えられる。

いったん注目や噂話の集中砲火の対象となったら、嵐が過ぎるのをじっと首をすくめてひたすら待つしかない。

ただ、人々がその対象に集中砲火を浴びせるのに飽きて、他の対象を探しに行くようになるまでに、それほど時間がかからないのも事実である。集中砲火を浴びせるのに夢中だった人々は、別の新たな対象が見つかると、今まで攻撃していた対象のことをケロリと忘れて、次の対象に向かうのが通例である。嵐が過ぎるのを耐え忍べば、台風一過の晴天同様、元の平穏な生活に戻れるという面もある。

日本の会社は、スキャンダルや事故等を起こしたことで攻撃を受けている間はひたすら頭を下げ続け、嵐が過ぎて、人々の関心が別のところに向かったところで、こっそり自粛していたCM等の原状回復を行うことが多いのではないかと考えられる。

皆で寄ってたかって集中砲火を浴びせていた人々が、別の目立った対象を見つけるや否や、今まで砲火を浴びせていた対象のことをコロッと忘れて、飽きて、代わりに別の対象へと集中的に猛烈に突進することが、一般的に見られる。

こうした、日本人の集中砲火好きと、それに両立する忘れっぽさ、飽きやすさは、一極にエネルギーを集中させ、次々と風雨、嵐による集中砲火の対象を場当たり的に変えて移動していく、過ぎ去った後は(集中砲火の被害の爪痕の残存は別として)対象には何事もなかったかのような平穏さが戻ってくる「台風」「熱帯低気圧」とよく似ている。これは、「日本人=台風」図式、モデルとでも呼ぶことができる。要は、日本人は台風みたいな性格の人々が多いということである。

この辺、和辻哲郎「風土」での日本人の熱しやすく冷めやすいとする台風的性格の説明と関連があるが、筆者は、和辻の説明とは異なり、日本人の、一人一人のエネルギーを、集団、団体を形成して、一極に集中させて、その場その場のターゲットに殺到、集中砲火を浴びせながら、場当たり的、無方向的に、その場の雰囲気に流されて進んでいく性質を、「台風的」と呼んでいる。

こうした、集中砲火、集中攻撃といった「集中」が頻繁に起きるのが、この国の人々の特徴であると考えられる。要は、「野次馬根性」が強く、人が集まっている所に自分も行きたい、好奇の目で「何で人が集まっているんだろう」「何やっているんだろう」「面白そう」と、対象のプライバシーの尊重などは二の次で、一目見ようと、群がったり、たかったりするのである。

人の集まるところに自分も行こうとする傾向の強さが、日本人の「集中」指向、集中好きを支えている。

皆のいるところに集まりたい、群れをなしたいという日本人の指向は、その中で目立ちたい、注目を浴びたい、有名人になりたいという指向とも強く結びついている。要は、自ら積極的に「集中」の対象となりたいという人が少なからずいるということである。

欧米社会とかのように、他人とは違う独立した個人でいるために、個性的であろうとする、他人と距離を置く「遠隔、分離指向の個性」、「ドライな個性」の重視が見られる社会と異なり、日本社会では、皆のいる中で、埋没しないために、注目を集めて目立つために、個性的であろうとする人が多いのではないか。

要は、目立って、人々を自分の周りに引き付けよう、集めようとするために個性的であろうとするのであり、自分への関心の集中、視線の集中を狙った個性重視なのである。こうした視線、注目集めのための個性重視は、同じ個性でも、欧米流のドライな個性重視と区別して、「集中指向の個性」、「ウェットな個性」と呼ぶことができる。

同期社会について

-女性社会、日本社会の特徴-


[要約]

日本の人々ないし女性たちは、理論、学説、思想自体に興味があるのではなく、思想自体はどうでもいいと心の奥底では思っている。むしろ、同じ思想、理論を周囲の仲間と同時に一斉に共有することで、仲間意識や一体感を得ること、楽しむことが本当の目的であり、思想信仰はそのための単なる手段に過ぎない。この、周囲とのウェットで母性的な一体感を保持するために、同時に一斉に周囲と思想や話題を同期して共有することを指向する日本のような社会を、ここでは「同期社会」と名付けている。


(1)同期社会について

何のために情報を得るかについて、男性と女性とでは、その目的がかなり異なっていると考えられる。男性の場合、何らかの目標達成のための手段として、あるいは正確な情報を得ることに重点が置かれるのに対して、女性の場合、むしろ、他者と情報を共有して、同じ会話の輪の中に加わることが目的となることが多いと考えられる。

女性たちは、テレビを見るのでも、友人たちと同じ番組を見て、友人たちとの会話の輪に一緒に加わることができるようにするため、見るのである。要は、情報を得ること自体が目的ではなく、共通の同じ情報で、仲間たちと盛り上がるため、仲間たちとのウェットな一体感を楽しむために、同じテレビの番組を見るのである。その場合、内容自体は二の次であって、情報は、仲間意識高揚のダシに過ぎない。

これは、情報取得だけでなく、一般的な物品の購買、消費行動にも当てはまることである。彼女らは、周囲に仲間に入れてもらうために、あるいは、友達との会話に参加するために、同じ店に行くとか、同じ物を買うとか、いった、共通の同じ消費経験をする。生活、消費のあり方を周囲に合わせないといけない。そのために、周囲と同じレベルのお金がかかる。

これは、一人で周囲とは違う目新しい体験をしようとする、ドライで男性的な行き方とは対照的である。

これは、思想の信奉においてもそうである。

例えば、父権の強い欧米社会が日本にもたらしたジェンダーフリーの思想は、男らしさでも女らしさでもない「自分らしさ」の確立をモットーにしている。他者との差異、違いを強調し、他者との互いのウェットな一体感、同調感の喪失につながるものであり、各人に、ドライでバラバラな個人主義を押しつけるものとなっている。これは、スタンダードが男性であり、女性を男性化する戦略の一つであり、女性の力を弱くするものである。

日本のインテリ女性はそれに気づかず、性差別を無くして自分たちに有利な社会にしよう、ジェンダーフリーの思想を信奉すればそうなるんだと短絡的に信じて頑張っているのが実情である。

この場合、日本の女性たちは、ジェンダーフリーの思想の中身が、自分たちにとって有害だと気づいていないのであるが、もう一方では、いくら思想を摂取しても、そもそも有害にならないのだという見方も可能である。それはなぜかと言えば、彼女らにとって、母性的な一体感高揚と対極的な、ドライな男性中心の内容の欧米思想は、仲間同士のウェットな一体感を強める、共有するための単なるダシに過ぎないからである。

日本のインテリ女性たちは、、皆共同で、一緒にドライな父権的思想を共有しているのであるが、実は、思想を、互いに同じ考えを共有して、互いの結束を強め、母性的なウェットな一体感に浸ること自体が楽しいというか喜びになっている。思想の中身は実は何でも良いのであって、ではなぜ欧米由来の思想にするかと言えば、それが先進的で何かカッコいいから真似しようと思っているだけであり、それ以上の深い考えは持ち合わせていない。

欧米由来の考えを自分たちに本気で当てはめると自分たちには有害だというのはどうでもいいのである。その思想を、仲間で一緒にマスターして互いの結束を強め、盛り上がろうとするのであり、仲間同士の一体感、同一感が欲しいというのが、そうした思想習得の真の隠れた目的なのである。

日本の女性たちにおいては、仲間とウェットな一体感を共有するために、ドライな思想を一緒に一生懸命共同学習するという、逆説的な現象が起きている。

なぜ欧米由来の思想を習得するかについても、それは、先進的で良好なイメージのある欧米思想を持っていることで、仲間内で優位に立ちたいという皮算用があるからである。要は、彼女たちにとって、欧米思想は、仲間内で権威者として優位に立つためのダシに過ぎない。

ドライな父権思想が、日本女性には、有害ではない(堪えない)のは、彼女たちにとって、思想、学説は、単なる仲間意識高揚とのための道具、手段に過ぎないからであり、思想の中身は実はどうてもよくて、その時々に合ったお題目をでっちあげているだけなのである。

まとめると、彼女たちは、他者と一緒に動くこと、他者との同期を取ることに夢中であり、その時々で、他者と一体感を共有できる先進思想に次々と乗り換えるのである。その際、思想自体はどうでもよい、思想は何でもよいのであって、その時々で、周囲と一緒の思想を持っていること自体が大事なのである。周囲と思想の同期を取ることが本当の目的なのである。この点、日本のインテリ女性は、周囲との同期を取ることを重んじる「同期社会」(synchronous society)の一員として行動しているのである。こうした成員間の同期を重んじる考え方は、「同期主義」(synchronism)と呼べる。

そして、この「同期社会」は、ウェットな母性的な日本社会の特徴でもある。

日本のようなウェットな人々は、理論、学説、思想自体に興味があるのではなく、思想自体はどうでもいいと心の奥底では思っている。むしろ、同じ思想、理論を周囲の仲間と共有することで、仲間意識や一体感を得ること、楽しむことが本当の目的であり、思想信仰はそのための単なる手段に過ぎない。同じ思想を共有することで、一体感や縁故感といった、ウェットで母性的な感覚を享受するのが、本来客観的なドライな学説検証を旨としているはずの、日本の科学者、研究者や彼らの作る学界の真の隠れた目的となっている。

要は、同じ学説を信じる仲間同士になることが最終目的なのであり、学説は、「共同信仰」の対象なのである。そして、同じ学説を信じる者同士(これは、師弟関係にある者同士が多い)が、徒党を組んで、派閥を形成し、相互の一体感や縁故感を楽しむのが、真の隠れた目的と化している。要は、日本人の科学者、研究者にとって、学説や科学的理論は、相互の一体感を得る、同じ学説信仰集団に所属することを楽しむという最終目的実現のためのダシに過ぎないのである。

また、この場合、自分が同じ学説や科学的理論を信奉するかどうかで、学説信仰集団に受け入れてもらえるかどうか決まる。そういう点では、客観的な分析対象となるべき学説や科学的理論が、信仰の踏み絵として、本来から想定外の使われ方をしている。自分の入りたい有力派閥に継続的に受け入れてもらうために、その派閥御用達の学説や科学的理論を自分も信奉するという、本末転倒の事態が起きている。

これが、日本の学界が、ドライな欧米に比べて、理論的に劣る真の理由である。

あるいは、日本のキリスト教信者においても、ドライなキリスト教思想それ自体を信じているというよりは、思想を「仲間と、周囲の皆と一緒に信じる」ことが重要なのである。「皆と一緒」の方に強調のアクセントが来る。

「同期社会」とは、皆が一斉に同じ行動をとる社会、皆が一斉に同じ思想を信奉して、互いの一体感を高揚させること自体を目的とする社会であるといえる。要は、自分たち仲良し集団維持のために、その時々で同一の思想を皆で共有することで、思想を仲良し集団維持の手段として用いる社会である。

その際、互いに、周囲と一体感を持とうとして、同じ話題、思想信条に一斉に皆が集まって、ワッとブームになる。その話題、思想信条の中身は、あまり問われることがない。同じ思想信条を皆が一斉に同時に持ち合って、相互のウェットな一体感を高めて盛り上がろうというのが最終目的だからである。この点は、日本のような同期社会が基本的に無思想で、その場その場で行き当たりばったりの施策を取りがちな理由にもなっている。

皆が集まってブームになった話題にそのうち飽きてくると、次の話題に皆一斉に、集中豪雨的に乗り換えて、それがまたブームになる、ということの繰り返しである。そういう点では、皆が一斉に信奉する思想の内容は、一つに固定されることがなく、絶えず捉えどころなく変化し続けると言える。

皆一斉の同期行動が、ウェットな相互一体感を好む人々にとっては、互いの一体感を保持し続けるために必須である。

一つの話題ないし思想への皆の一斉の一極集中と、それに飽きたら、別の話題、思想へと次々と一斉に乗り換えていくことが、同期社会の成員の特徴である。

その際、ウェットな同期社会の面々は、皆、今どこに人が集まっているか、集まりかけているかに敏感であり、自分も話題に乗り遅れないために、皆と一緒になるために、そこに行こうとする。そして、ひとたび人が集まり出すと、雪だるま式に、同じ話題の共有者、同調者が増えていくのである。

「その時々における話題の共有」とそれに基づく「相互一体感の獲得、維持」が、ウェットな同期社会の最終目的である。話題については、共有それ自体が目的であり、話題の細かい中身はどうでもよい。話題のイメージというか、見た目のかっこよさ、先進性が重要なのである。要は、その話題を自分が身につけた、まとった時の他者に与える印象の善し悪しを計算高く算出しているのであり、他者に与える印象をよくして、より優位に立つことが重要なのである。

「同期社会」では、皆が同期する話題で皆に先んじる、話題を先人を切って出すのが、同期社会の上位者、リーダー役であり、その地位が高い。

彼ら、リーダー役は、他の皆よりも、一歩だけ新しい話題を知っている。その際、あまり話題の内容が先走ったものだと、他の皆が付いてこれない。皆が付いてこれて、なおかつ皆がまだ知らない内容を出せるのが、同期社会の理想的なリーダーである。

この場合、「先進的な」新しい話題は、日本のようなウェットな社会では出にくく、欧米のようなドライな社会での新発見、新潮流を、先進的な話題として取り入れることになり、そうした先進的な話題に詳しいことが、日本のような同期社会のリーダーに求められる。


何をするにも皆一緒の「同期社会」での話題消費は次のような順序で行われていると考えられる。

(1)リーダーが次の新しい話題を振る。
(2)皆が一斉に新しい話題に食いつく。つい先ほどの以前の話題を捨て去る。
(3)しばらく、その話題で、皆で集中豪雨的に盛り上がる。ブーム、流行に乗った形で、話題の消費が行われる。
(4)皆、その話題に飽きてくる。→(1)へ。


同期社会の立役者は、相互の親密な一体感を重んじる女性や、その影響力が大きい日本のような農耕社会の成員である。相互の一体感を重んじる点、同期社会は、ウェットな社会であるとも言える。

(2)同期意識について

日本のような同期社会においては、同じタイミングで組織に加入した者同士は、例え無関係な他人同士であっても、同じタイミングで組織の中に生まれた、家族同様の仲間であり、互いに仲良く連帯して、行動を合わせるべきであり、同一の格差ない待遇をずっと受けるべきであるという考え方が根強い。これは、「同期意識」(conciousness of synchronicity)という言葉で呼べる。

そこには、毎年4月の時期的に同時に同じタイミングで、皆一斉に学校、官庁、企業といった組織に「新入り」することが想定されている。「時期・時間的同期性」が重要である。

同じタイミングで組織に新たに加入した「同期者」同士には、画一的、同一で横並びのウェットな処遇をすることが心の奥底で求められている。なので、同期者同士の間で、給料や昇進で差が付くと、遅れた者はショックを受け、差を縮める、埋めるべく、努力し競争をする。これは、自由競争ではなく、画一化に向かう、「同調競争」である。

同期者同士は、もともと、赤の他人である、非血縁者であるにも関わらず、互いに、親密で一体感があり、慣れ慣れしく、互いに一致団結し、同調する。こうしたウェットな一体感は、同時期に同一の内集団(ウチ)に入った者同士の間のみに芽生えるものである。


内集団は、通常は、学校、官庁、企業などが想定されるが、場合によっては、家族・親戚ネットワークや、集落のような地域コミュニティも想定される。あるいは、日本社会全体を、巨大な内集団と捉えた場合、同じ生年、同じ学年の(だった)者同士は、ある程度強い同期意識を持っていると言える。

この同期意識は、一緒に所属する内集団以外のヨソ者との間には生じない。同じ集団に一緒に同時に加入したという点が、同期意識の発生にとって重要である。

また、加入する集団に対して、互いに白紙状態であること、他集団の色に染まっていないことが、同期意識を生み出す上での条件である。要は、互いに同じタイミングで、加入組織の色に段々と同じように染まっていくこと、色の同期を取ることが、同じ内集団に同時に加入したことを表す印として重要である。

なお、この同期意識は、先輩・後輩関係ないし年功序列関係と深い結びつきがある。

要は、後のタイミングで組織に入った者(後輩)は、前のタイミングで入った者(先輩)よりも、下の待遇をずっと受けるべきとする考え方である。あるいは、後輩が、処遇(組織内の地位とか)で、先輩を追い抜くことがないというものである。これは、日本の官庁で典型的に見られる。

同期処遇が、同じ時期に内集団に加入した者同士の間で、処遇が横並びになると共に、その横並びのスライスが、平行状態を保ったまま、加入年度順に、下から順々に地層のように平行に積み上がっていき、上の層の先輩は、下の層の後輩よりも互いに同期して横並びでより上の待遇を得るというのが、同期社会における成員処遇のあり方の特徴である。

こうした同期意識は、稲作農耕との関連で、稲穂とか毎年一斉に発芽、成長し、同じ時期に刈り取られる、収穫されるのと同じである。要は、農作物は、一年単位で管理、成長していくものであり、それが人間関係になぞられられているのが、同期意識であると考えられる。

同期意識のもう一つの源は、社会における前例、しきたり重視の指向である。前例をより豊富に持つ先輩が、そうでない後輩よりもいつも上位であるという考えに基づいている。また、毎年同じタイミングで、学校に入り、同じ授業を一斉に受けることで、前例、しきたりの頭の中への蓄積が、各学年ごとに揃っている、同期しているという考え方に基づいているとも言える。

高精度・正確さと日本人

-「手本」のあくなき追求と国際競争力-


日本人は、半導体製造装置や小型デジタルカメラに見られるような、高精度を誇るプロダクトを作るのが得意である。また、微小なところまで正確さを重んじる。それは例えば、鉄道会社が列車時刻を秒単位できっちり守るところに現れている。

こうした高精度、正確さ、正解、間違いのなさを重んじる気風は、例えば、人前で英語をいつまでもしゃべれないことにつながっている。周囲との強力なつながり、一体感を重んじ、周囲の目を気にする日本人は、皆の前で間違ったり失敗することで、笑われたり、恥をかいたり、体面を失うことを、周囲からつまはじきにされるとして、何より恐れる。それが、間違いなく、失敗なく、「正しく」行動したいという強烈な要求を生み出している。その姿勢は、女性的な安全第一で、権威主義的であって、著名な学者や中央官庁等、権威筋が認めた、既にある(既存の)正答へ近づくこと、模倣することを極限まで追い求める傾向がある。

要は、何もない状態から何か新しい考えを生み出す独創的な思考が苦手であり、無から有を作り出すことができない。誰か権威筋の書いた教本、教科書、手本といった、「正しさ」を保証する前例がないと、何もできない。そうした「正しい」手本をできるだけ正確にまねることが望ましいとされ、現に得意である。

日本の学校での学習は、大学入試対策とかに見られるように、「お上」、権威筋の定めた絶対的な正答に当たる教科書の内容を、重箱の隅をつつくように、微細なところまで正確に暗記する必要がある。このことが、日本人に、精細さ、正確さの感覚が身につくことと大きく関連していると言える。

こうした精密さ、正確さへの指向が強いことは、はっきりした正解や追いつくべき目標が既にある分野を制覇する際には、大きな追い風となる。正しい手本を、誤差なく微細な点に至るまできっちり正確に模倣し、磨きをかけることができる能力は、例えば、電化製品や自動車の製造技術を、欧米からキャッチアップして追いつき、無比の精密さで国際的な競争力のある製品を作り上げて、日本を豊かな経済大国に押し上げるのに貢献してきた。

現在、迷走気味の日本社会が再び活力を取り戻して繁栄するには、この、長年培ってきた高精度・正確さを重んじる気質を大切に維持・発展させて、様々な分野の製品の生産に生かしていくことが何より重要であると考える。高度な精密さや正しさを要求される分野を重点的に攻めていくのがよいと思われる。一方、欧米並みの独創性を発揮することは、多分あきらめた方がいいかも知れない。

ただし、学校での学習にしても、どうせ高いコストをかけて、手本の内容を細かいところまで正確無比に覚えさせるなら、覚えても役に立たない年号とかでなく、企業の生産~研究開発現場に直結するような、人間の環境適応に直接役立つ、実践的で機能的な内容を覚えさせるべきである。

また、権威筋の説というのは、そのルーツが往々にして欧米の学者の説であることが多いのであるが、その中には、個人主義や独創性の重視のように、ドライな欧米社会には向いていても、ウェットな日本社会にとってはなじみにくい、手本としてそのまま真似しても有効性が薄い内容も含まれていることが多い。日本人が、欧米の学説を真似するに当たっては、そのドライな部分を、予めウェットなものへと変換してから真似るようにするという、「ドライ→ウェット変換」が必須であると考えられる。しかし、実際には、こうした変換は行われず、欧米学者の説を「鵜呑み」にして「お上の説」として信仰しているのが実態である。

こうした「正しさ」への指向は、正解通りに「正しく」動くことを守ろうとし、そこから外れることを、「エラー」「間違い」「失敗」と一律に見なして、非難、批判、嘲笑の対象とする。失敗すること、間違うことを極端に忌み嫌う。エラーが人間に付きものである(人間は間違うものである)、という考えを受け入れにくい。ヒューマン・エラーを、エラーを起こした当人の個人的な責任、能力不足、注意不足と見なし、背後の組織やシステムの抱える問題に考えが及びにくい。

結局、日本人は、人間は正解、手本通り「正しく」動くべきものだ、という信念がことの他強く、それが日本人に社会システムを、微細なところまで正確に運用、構築する能力を与え、社会、経済の発展に大きく寄与する一方、「正解」への強迫的な遵守を人々にもたらし、社会の余裕の無さやヒューマン・エラーへの不寛容、独創性の欠如につながっている、と言えよう。

日本人と中国人

-国民性の違い、共通性の根底にあるもの-


日本人と中国人(漢民族)との類似、共通点は、以下のように短くまとめられる。

日本人と中国人は、共に、稲作や畑作を主にする農耕民族である。その点、一カ所に定着して動かないのを好むとか、集団・団体行動を好むとか、相互の一体感、心理的結合、人情を重んじ、縁故を重視し、ジメジメ、ベタベタしたウェットで女性的、母性的性格を持つ点では共通している。

しかし、この両者には、大きな相違点があるのも事実である。

中国人(漢民族)と日本人の最大の違いは、自分の属する内集団、すなわち親密感、一体感を持てる「ウチ」と見なす範囲がどこまでか、についてが、大きく異なる。

中国人の場合、「ウチ」の範囲は、千年以上にわたって続いてきた父系血縁集団(同族)の系譜内に限定される。同じ姓を持ち、同じ血縁集団の中に含まれている相手との間は、温かく、親密な身内の関係になる一方で、父系の同一血縁に属さない他者は、全て「ヨソ者」であり、信用ならない冷たい関係に置かれる。

会社とかも、経営者と同じ父系血縁集団に属する従業員は、会社に対して「ウチ」意識を持ち、一体感を持って経営に参加する。というか、同じ父系血縁集団=「ウチ」に属する他者は、「会社は一族皆の持ち物」という意識で、どんどん馴れ馴れしく会社の経営に参画、介入してくる。同じ同族の者同士は、強い一体感、縁故で結ばれ、甘えの関係が横行し、いかようにも融通が利く。

それに比べて、経営者と同じ父系血縁集団に属さない従業員は、会社に対して、冷たい「ヨソ者」意識を持ち、決して、一体感を持たず、一時的な腰掛け意識のみを持つ。この場合、会社で技術とかを教えても、その会社に対して一体感を持たないため、その会社に定着しようという意識がなく、さっさと教えられた技術を「持ち逃げ」して、別のより有利な会社へ行ってしまう。その移った次の会社も、同じ父系血縁で結ばれていない限りは、ヨソ者、一時的な腰掛けという意識で臨むことには変わりない。

この部分だけを取り出すと、中国人は、個人主義者に見えるが、実際は、父系血縁集団と強く一体化し、強い帰属意識を持つ、ウェットな集団主義者と考えられる。

父系血縁集団に属さない他者との関係で親密なものは、個人的な友人、朋友関係になる。

こうした特徴を持つ中国人が、日本人と違うのは、以下の点である。


(1)まず、血縁を重要視する度合いが、中国と日本では大きく異なる。違いは、日本では、天皇家とかのごく一部しか、こうした父系血縁集団の系譜を書いて保存していないのに比べて、中国では、ごく一般的な庶民も、父系血縁集団の系譜を千年単位で保持し、系図を見て、自分が系譜の中のどこにいるかを確認できる。これに比べて、日本人の血縁意識は、中国ほどは強くなく、系譜も千年単位で保持することは、庶民レベルでは稀である。


(2)次に、日本では、必ずしも、同一父系血縁集団に属さなくても、温かく親密な身内の関係に入りうる。例えば、同じ学校や会社に属する者同士を、「ウチの学校」「ウチの会社」と呼んで、強い一体感を持ち、お互いを家族のように意識する。血縁が通じてなくても、「同じ釜の飯を食べた者同士」であれば、あたかも同じ家族に属するかのように扱ってもらえる。その点、「ウチ」と見なしうる集団が父系血縁集団に限らず、いろいろ多数存在することになる。例えば、大学とかでの師弟関係があたかも擬似家族のように連なって、学閥と呼ばれる内集団ができたりする。

あるいは、日本においては、夫婦の結婚に際して、(多くは)妻の方が、夫の実家に嫁入りする形で、自分の姓を夫の姓に変えることが一般的に行われている。これも、本来血のつながらない妻が、姓を変えることで、夫の家族集団=「ウチ」の一員に「新入り」の形で迎えられるのであり、日本において、血縁に属さない者が家族としての扱いを受ける代表的な事例と言える。

この場合、「ウチ」の仲間に入れてもらうために、大学の入試とか、厳しい試験を突破しなければならないことが多い。また、「ウチ」集団の新入り(会社の新人とか、新たに夫の家に嫁入りした嫁とか)は、集団の一員として明確に認められるために、いろいろ試練やいじめとかを受けたりする。

要は、日本では、集団に液体の表面張力みたいな、ヨソ者を内に入れようとしない力が働いており、それを突破するのが難しく、なかなかウチに入れてもらえないが、いったん突破してウチに入れてもらえると、血縁で結ばれた家族同様、あるいはそれ以上の強い一体感、縁故で「ウチ」の一員、同じ運命共同体の一員として扱ってもらえるようになる。これは、あたかも集団に内外を隔てる膜があり、例えば卵子の膜をかいくぐって中に入って受精する精子との関係と感じが似ている。

こうした、同じ父系血縁に属さなくても、相互に「ウチ」の関係に入れる、家族同様のウェットで強い絆、一体感を持てることが、中国と比べた日本の特徴ということになる。一方、中国人は、同じ父系血縁集団に共に属していない限り、その対人関係は、原則として、冷たいドライな、一時的なものに止まる。

中国人にとっての「ウチ」は、同じ父系血縁で結ばれた者同士に限られ、日本のような非血縁の相手にまで「ウチ」の範囲を広げる融通性に欠けている。そういう点では、「ウチ」の集団の定義が明確である。日本のように複数の非血縁者同士で作った会社のような組織が、組織成員にとって家族同様の「ウチ」になるといった不明瞭な「ウチ」の発生、範囲の拡大は、中国では起こり得ない。

中国人を欧米と同じ、強固な個人主義が貫徹した、日本とは異質な社会関係の持ち主と捉えることは、ある面では正しいが、ある面では大きく間違っている。

中国人は、自分と父系血縁を同じくしない者同士は、互いによそよそしいドライな関係にあり、そういう側面だけ取って見れば、欧米同様、ドライな個人主義的社会関係が主流に見えるというのは事実である。

しかし、それでは、中国人の本質はドライかと言えば、そうではなく、同じ父系血縁に属する者同士の関係は、非常に親密、一体感に満ちた、ウェットなものである。同族に属する者同士は、強い絆で結ばれ、互いの間は、いかようにも融通が利く、強い甘え、和合の支配する関係にある。しかも、そのウェットな父系血縁集団は、千年単位で持続、形成されてきた、日本人の想像を超えた大きなスケールのものであり、しかも、そうした血縁の系譜を、ごく普通の庶民が当たり前のように保持しているのである。

日本の会社が中国に進出する際に、中国人の従業員に対して、日本人の従業員同様、従業員が、会社に対して強い一体感、「ウチ」意識を持って、会社を我が事のように思って、会社のために骨身を削って尽くそうとしてくれるように、従業員を教育すればなってくれると思い込みがちである。

しかしこれは、中国人の「ウチ」の範囲が父系血縁集団にほとんど限定されることを知っていれば、これはほとんど期待できないことが分かる。中国人従業員にいくら懇切丁寧に技術指導とかしても、他の会社にすぐ移る形で持ち逃げされるのは、そもそも、中国人従業員は、日本人の会社を、(日本人従業員が多く取るような)自ら一体化、共同化すべき家族同様の関係にあるとは全く見なしておらず、ヨソ者同士の冷たい関係、一時的な腰掛けの相手としてしか見ていないからである。

この点、日本の会社としては、個別の中国人従業員は、あくまでヨソ者として、一時的な相手としてドライに扱う方がうまく行くと考えられる。従業員は、あくまで赤の他人と見なし(これが、日本人の感覚からすると難しいのであろうが)、技術指導とかする際も、全部ノウハウを開示して教えてしまうのではなく、そのうち自分たちからすぐ離れて行ってしまう一時的な関係にあるとして、表面的なところを教えるに止めるべきであると考えられる。

あるいは、個別の中国人従業員の背後に存在する、各中国人が寄る辺とする巨大なサイズの父系血縁集団それ自体を、初めから意識して動くべきとも考えられる。例えば、日本企業の合弁の相手を、中国人の父系血縁集団とすることで、中国人の父系血縁集団への一体感、忠誠意識を、日本企業が活用、利用できるように考えるのである。

中国社会のあり方についても、複数のアメーバのような別々の互いに融合することのない巨大父系血縁集団同士が、絶えず、互いに対立したり、合衝連携を繰り返すものとして捉えるべきである。日本のように、社会全体を、個別内集団を超えて、互いに一体感、一つのまとまりを持つ「国家」として捉える見方を取ることはしない方がよいと言える。中国人にとっては、「国家」も、その指導者の属する父系血縁集団の私有物のように思われているのである。

このように、日本と中国との差を見た場合、日本が中国に対して優位に立てる条件がどこかが見えてくると言える。人口や国土の大きさ、資源などで日本を圧倒する中国が、現代の日本にとって大きな脅威であることは事実である。それゆえ、どのポイントを突けば、中国に比べて、決定的に優位に立てるかを見極めることが重要となる。

この点について、筆者は、日本人は、互いに血のつながらない赤の他人同士が、同じ学校、会社に入る等のきっかけで、互いに共通の内集団=「ウチ」の中に一体・融合化し、実際に血のつながった親戚同士をはるかに超える強い絆で結ばれた運命共同体を作って一致団結して、目標達成に突き進むことができることが、血縁の枠にしばられた動きしかできない中国人に比べて、圧倒的な優位に立てる可能性を生み出していると考える。

要は、ある目標を達成するのに必要な人員は、同じ血縁の中から適材を常に見出すことは難しく、赤の他人の助けを借りる必要がどうしても出てくる。その際、血縁の枠を超えて、一致団結できる心理を備えた日本人は、血縁の枠の外に出られない中国人よりも、目標達成のために、心理的に一致結束できる度合いが強く、その結果、血縁の枠内でしか物を考えられない中国人に比べて、より効果的に目標達成をなし、勝つことができると考えられる。

日本人が、中国に比べて優位に立とうと思うならば、この、非血縁の赤の他人同士が同じ内集団の中へと溶け合って、一体融合化し、共通の目標に向かって、家族同様の強い絆で一致結束できる能力(非血縁内集団形成能力とでも呼べばよいか)を今まで通り維持し、より一層強化すべきである。

「日本らしさ」についての検討

従来の日本文化論において、日本社会・文化の特徴であると言われてきた、「集団主義」「閉鎖性(鎖国)」「年功序列」「甘え」などは、実際のところ、日本だけに固有なものではなく、広く東アジア(中国、韓国、フィリピンなど)などの農耕社会全般に当てはまる特徴である。「侘び寂び」についても、細部は違うにしろ、大まかには中国の水墨画の世界や隠遁者の文化と共通なのではないかと考えられる。

それゆえ、日本の社会・文化のどこが他の国にない独自のものであるかを説明するのは、それほど簡単ではない。実際には、他の国にも存在するいくつかの特徴を掛け合わせて持つことで、日本の独自性が出てくると考えられる。その場合、他の国は、日本と異なり、それらの特徴を掛け合わせた形では持ち合わせていないということになる。

筆者は、日本社会は、以下の3つの特徴を掛け合わせて持つことで、他の社会にない独自性を持つと考える。この場合、これらの特徴は、それぞれ単独では、他の社会にも存在するかも知れないが、それぞれのANDを取って絞り込むと、日本だけになると考えられる。

(1)「農耕的」 一カ所に定住・定着して、植物の栽培(稲作など)を行って生活する。この生活態度から導かれる特徴が、以下に述べる「ウェット」「女性的」というものである。

(1a)「ウェット」 互いに精神的にベタベタ近づき、くっつき合ってあまり動かず、排他的な集団を生成する。グループ単位で行動するのを好む集団主義者である。周囲との同調、協調を重んじ、自我が弱い。プライバシーに欠ける、などが特徴となる。

(1b)「女性的、母性的」互いに永続的に同じ集落で顔を合わせ続ける必要があるため、仲間を割ることが許されず、良好な人間関係の維持、相互の一体感、温もりを大事にする。これは女性が得意な、女性向きの生活態度であり、そこから社会における女性、母性の力が強くなって、以下のような態度を主流にさせる。例えば、態度が受け身である。自らの保身、安全を第一に考え、冒険を嫌う。権威におもねって自らの保身を図る権威主義者である。前例、しきたりを持つ年長者を重んじ(年功序列)、個人の独創的な試みを評価しない。

上記の特徴は、日本だけではなく、広く農耕を行って生活をしている社会(中国、韓国、東南アジア、ロシアなど)に広く共通に見られる特徴であると考えられる。一方、遊牧・牧畜系統の社会(西欧、北米、アラブ、ユダヤなど)は、上記とは反対のドライで男性的な文化を持つ。

(2)「求心的」 父系の家族集団(例えば天皇家)を基盤とした(あるいはそれにならった)、一点に集中した、ツリー構造の求心力のある組織を作って行動する。

これは、父系の族譜を熱心に作成、維持して、共通の祖先からツリー状に広がる家族集団を持つ中国や韓国と共通である。一方、タイのような東南アジアでは、家族集団は、父系・母系両方にまたがって網の目状に散逸、分散する形になり、求心性に欠ける。

(3)「非血縁内集団=ウチの形成」血縁関係にない赤の他人も、新卒採用などで「同じ釜の飯を食べる」体験をすれば、家族同様の温かい全人的一体感を持って集団に溶け込む=「ウチの仲間に入る」ことができる。自分の会社を「ウチの会社」という呼び方をするのが、その典型である。

これは、内集団(「ウチ」に当たる集団)が、同姓の家族集団に限定される中国や韓国と大きく異なる点である。中国、韓国では、「ウチ」の仲間になれるのは、血縁関係のある相手同士に限定される。血縁集団以外の相手は、心を許すことのできないヨソ者のままなのであって、企業に雇われても、(その企業が親族の企業である場合を除き、)その企業に一体感を持つことがない。日本のように、入った企業に強い一体感を感じ、血縁関係にないヨソ者同士があたかも家族のように同じ「ウチ」に所属する者として一緒に過ごすことは、中国、韓国ではありえないと考えられる。

(1)~(3)の側面を同時に兼ね備えているのが、他の社会にない日本社会独自の特徴に当たると考えられる。

日本人はウェット

以下は、日本人がウェットであることを説明する文章へのリンクです。

日本人はドライか、ウェットか?(既存日本人論との照合および心理テスト回答結果分析)

ドライ化する日本-「消極的・自閉的ドライ」性格の拡大と社会の「セミ・ドライ」化-

ドライな法律・宗教としての日本国憲法-日本人の法律「信仰」-

ウェットな社会におけるドライな対人関係について



(参考)ドライ・ウェットな感覚・性格・社会について(心理テスト付き)

(参考)乾いた・湿った自然環境のどちらが、よりドライ・ウェットな性格・態度を発達させるか?(自然環境(農業)との照合)

(参考)社会のドライ・ウェットさと近代化との関連について

(参考)集団成果主義-ウェットな組織に適した成果評価手法の提案-

日本人は女性的・母性的

日本人が、女性的、母性的であることを説明する文章へのリンクです。


日本社会の女性的性格

日本教育システムの女性性

日本社会は母権制である

日本社会における母性支配のしくみ-「母子連合体」の「斜め重層構造」についての検討-

「母性的経営」-日本の会社・官庁組織の母性による把握-

日本男性=「母男」(母性的男性)論



(参考)女らしさ・男らしさについて(心理テスト付き)
(参考)母性と父性-態度の比較-

(参考)日本男性解放論(日本女性学・フェミニズム批判)

日本人の科学嫌い

日本人は、欧米人の科学のような、相手と距離を置き、間を空けて観察する、ドライな客観性を嫌う。対象を冷たく突き放して捉えることが苦手である。科学はドライなものであるが、そのドライさが日本人に避けられる原因となる。

欧米人の科学に対応するものが、日本人では、「技」「工たくみ」「芸」「術」といったものになる。これらは、いずれも、心や情を込めた主観的思い入れの世界であり、対象とのウェットな一体化、没入が見られる。

大学とかで日本人が行う「科学」にしても、同じ大学の同門に属する先輩後輩、親分子分関係にある教授や院生との家族的でウェットな人間関係維持が主目的となり、そのための手段として、科学の振り、まねごとをしている面が強い。そういう点では疑似科学である。つまり、同じ学閥、同じ流派、同じネットワークに属する者同士のウェットな一体感を重視し、その一体感を保持する手段として、科学のまねごとを行うのである。

要は、学説を縁故、学閥、先輩後輩、先生弟子といった対人コネクションの維持とか、派閥を作る手段として使うのである。世話になった恩師の学説を否定できないとかの問題点が生じる。

信奉する学説にしても、自分から離れた客観的な批判の対象とはならず、常に一体化、思い入れ、愛着の対象となる。学説を批判されると、自分自身を否定されたように感じ、機嫌を損ねたり、怒り出す。学説が自分と一体化しており、批判すると本人を侮辱したことになり、恨まれることになる。

その点、日本人の研究者は、「科学」者ではなく、「学者」である。専攻分野に関するいろいろな専門知識を持っているが、その専門知識は、自分の愛情、主情を込めた思い入れに満ちたうんちくであり、客観的な批判、評価を否定するものである。学説や知識への感情的、情緒的思い入れ、一体感で動き、批判に対して感情的に反論する。

これに対して、欧米のようなドライな社会では、学説、理論は、自分とは切り離された冷静な批判対象となる客体であり、批判してもいっこうに構わない。他人から批判されるだけでなく、自分にとっても冷静な批判対象となる。

日本社会と減点主義

日本社会においては、視点がポジティブでなくネガティブであり、他人の落ち度、悪いところ、ミス、エラー(失敗)、欠陥、欠点がないかどうか、一生懸命になって探そうとし、見つかった相手の足を引っ張る行動をする人が多いように思われる。

相手の良いところをほめないで、悪いところを叱る行き方である。

こうした、相手の否定的なところに専ら注意が行き、その観点からのみ相手を評価する行き方は、「減点主義」である。

減点主義の人々は、守り、防御の姿勢に入っており、消極的で、ネガティブ、マイナスの思考を持つことが多い。何かを今まで通り守ること、決まり、規則、正しいことを守ることをよいことだと考える。その点、減点主義と保守性、伝統指向は深い関連がある。

減点主義においては、何事においても「事なかれ」を選ぶ。何かに積極的にチャレンジして、何かもめ事とか起こしたり、失敗、危険をしでかすよりも、毎日が何事もなく平穏、平和に、安心して過ぎていくのがよいと考える。「大過ない」「何も起きない」ことを理想とする。その点、「何もしない」、現状維持的である。問題が起きそうになると、とりあえず判断を先送りする、「判断回避」とも関連がある。もめ事、対立の発生を好まない「和合」好きとも関連ある。

また減点主義の人は、就職とかで、ベンチャーみたいな、未知の可能性に満ちているが、悪く言えばこれからどうなるか分からない所よりも、役所や大企業といった、既によい現状を持つ「既得権益」のあるところに入ろうとする。

減点主義においては、積極的にチャレンジ、変革して失敗すると、落ち度、悪いことをしたと見なす。その点、恐がりであり、「退嬰的」、「女性的」である。

減点主義では、何事も正しく、問題がないと気が済まない側面がある。安全な、波風の立たない、反対意見の就かない、正しいと認められたことのみしようとする。大学入試等、間違いのない正答、正解に合った行動をひたすらしようとする。「正解指向」と関係がある。また、権威筋の決めた正答をひたすら守ろうとする点、「権威主義」とも関係がある。

減点主義では、失敗を何が何でも回避しようとする。何か変なことをやらかして、周囲の注目を浴びることを何よりも恐れる。その点、他人の目が気になる、「ウェット」な性格である。

あるいは、世間の注目を浴びる事故やヒューマンエラーの発生回避に懸命となる。エラーを直そうとし、正しい、欠陥や傷のない「完全さ」「正しさ」を保った状態に持って行こうとする。その点、「完全主義」とも関係がある。安全・安心の確保にやたらとうるさい。

減点主義の風土では、一度失敗すると、ダメージを消すことができず、ずっと残ってしまう。再起を図るのが難しい。これは、「再チャレンジ不能性」と呼べる。

また、何か競争相手とかを攻めるにしても、攻め方が消極的となる。つまり、ライバル、競争相手がいるので、仕方なく、嫌々ながら自分も競争する。本当はライバルのいない、ライバル同士がつるんだ状態がよいと考え、カルテル、談合に走る。その点、競争嫌い、競争回避である。

物事をきちんと正しく失敗なく管理、統制する、されるのが好きであり、決まりを守る、上位者に決められた言いつけを守り、問題を起こさないことを何よりもよいことだと考えるふしがある。その点、「管理・統制指向」である。きつくしばられるのを好む。その際、上位者の「正しい」言いつけを絶対遵守するとともに、下位者にも自分の考えを一方的に押しつける「サディズム・マゾヒズム」的である。

日本人と成功

日本人の成功者に対する反応は時系列順に以下の3段階になる。

(1)成功者を持ち上げて、ほめそやす。
(2)そのうち、妬みの心が生じる。「やりすぎ、はしゃぎすぎ、いい気になるな」と思い始める。
(3)成功者の足を引っ張る。出る杭として打つ。

専門家と研究者

研究者は、試行錯誤して闇を光に変える、未解明分野を解明する役割の人である。

日本の学者は、大学とかで、専攻した分野に対して詳しく、常に正しい答え(正解)、アドバイスを導き出せる、言える、教えることができる「正解」「正しさ」指向の「専門家」を目指すことがほとんどである。

専門家と研究者は、「既知の知識の蓄積と他人への誤りなきアドバイス」をメインとする専門家と、「未知の領域の解明」をメインとする研究者では、性質が明らかに異なっている。

日本の大学とかでの学者は、専門家ではあっても、実質研究者とは言えない場合が多いのではないか?

2007年05月20日

日本人はきつい、ゆとり嫌い、詰め込み主義

きつい社会、ゆるい社会
-ゆとり嫌い、詰め込み主義の日本人-

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日本人は植物的、農耕民的

植物的思考、動物的思考
-農耕民と遊牧・牧畜民との行動様式比較-

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2007年05月22日

先輩後輩制と日本社会


年功序列と先輩後輩制

「年数を経るほど、高い地位に就ける」とする年功序列は、日本社会の右肩上がりの高度成長期にのみ成立可能な限定的現象であり、現在は成果主義が取り入れられて過去のものとなっている、という見方が幅を利かせている。それは本当に正しいか?

従来の官庁や企業とかいった組織における人々の上下の序列のみを想定した「年功序列」という表現でなく、「先輩後輩制」=「先に入った人は、後から入った人より上位である、優遇される、偉い」というより一般的な表現に広げて考えてみると、これが、現在でも日本社会において強大な力をもった、社会の根幹をなす考え方であることが生活の実感として感じられるはずである。



先輩後輩制と植物的思考


年功序列、先輩後輩制は、「先に入った者が、新たに入った者に比べて、無条件に管理職とかの上位者になれる」とする考え方である。
技術、経験、ノウハウ、知識の質量が歳を取るとともに蓄積され、その蓄積によって、蓄積がより少ない新参者よりも優位に立てると無条件に考える行き方である。

これを言い換えると、「前からいた人が、後から来た人に、抜かれる、追い越されるのが嫌だ」というものである。
先輩が、後から来た後輩に能力面、管理・命令系統の面で追い抜かれる、先に上に行かれると、精神的に傷つく、ショックを受けるというのが、根底にある。

より以前から存在する者、年次の高い者は、後から新たに入ってきた者、年次の低い者より、ノウハウ・知識をたくさん持っている、よりよく知っている、よりよく出来るはずであり、そうあるべきだという信念が、年功序列、先輩後輩制の根本にある。

これは、植物的思考であり、農耕民的考え方である。植物は、芽吹いてから、直線的にどんどん伸び続けて、大きく、上になる。古株は、新株より必ず上にある。これは、古参の先輩が、新人の後輩より上であると考える、年功序列、先輩後輩制と共通である。

一方、動物は、若いときに活力のピークを迎えた後、徐々に活力を減らし、老いるとヨボヨボの無力になってしまう。動物的思考をする遊牧・牧畜民は、年功序列、先輩後輩の考えを取らないと考えられる。


人材の逆年輪構造

先輩後輩制の社会においては、会社等の組織で、人材の逆年輪構造が生じている。

年輪が、組織に入ってからの年次によって刻まれているが、植物の年輪と逆に、年輪が形成される。

内側、中枢ほど、古参、先輩で上役であり、外側ほど新人、後輩で下っ端である。内側の上位者が消える、退役すると、その中枢を次の外側の人材が入る。

いきなり外周から中枢へは行けない。1年毎に少しずつ入っていく。



年功序列、先輩後輩制と性差

先輩後輩制、年功序列は、性差から見ると、女性的であるといえる。

年功序列では、学習、経験を重視し、正解知識、技術の蓄積により、年齢が上がるほど、エラー、間違いを起こしにくくなるなど、レベルが上がり、有用になるとする。

年功序列では、既にノウハウが判明している光の領域の中で、既に有用と判明した知識、技術をひたすら貯めていこうとする。その点、ストック指向の考え方である。そうした、既にノウハウ、安全性が判明した光の領域から外の闇の領域に出ることを恐れ、光の領域の中でのみ生きていこうとするのは、安全、保身第一の女性の行き方につながる。

女性の場合、職場等で古株の人が、最初から、昔からいるというただそれだけの理由で、「お局」として強大な権力を振るい、先輩には後輩は絶対服従みたいに考える度合いが、男性より強いように見受けられる。先輩が後輩に対して無条件に威張ったり、根拠なく高飛車な命令口調の態度に出ることが日常化している。

また後輩は先輩にかわいがられる、なつく者だとか、先輩が親分で、後輩が子分だとかいった感じで捉えられる。この点、先輩後輩関係が、相互に一体感を持った上下、包含関係からなる疑似母子関係として把握することが可能であり、日本社会が母性によって支配される社会であることと、日本社会で年功序列、先輩後輩制が根底では今なおメジャーであることと深い関係があるといえる。

日本では、男性の間でも、ふつうに先輩後輩関係が見られるが、それは、日本男性が、母性の支配下にあること、女性的であることの証拠であるといえる。

もしも、男性が強いならば、文化は、より闇の未開拓の領域の開拓を目指したものとなるはずである。
闇の領域は、何が待ち受けているか分からない危険に満ちた領域であり、そうした領域には、死んでも構わない男性が進んで進出する一方、保身、安全第一の女性は進出を避ける、控えるものである。

そうした「闇領域開拓指向」の強い文化では、ある程度若い方が、知識は少なくても、既存の枠から外れた新発想の独創的なアイデアで未開領域を開拓する、開拓力の面で優れており、より上位に立てるとする考え方となると考えられる。

この点年功序列、先輩後輩制は、女性起源であると言える。



先輩後輩関係と包含関係

先輩後輩制、年功序列においては、

先輩は、後輩を、絶えず包含、カバーしていないといけない。先輩は、後輩よりカバー領域が絶えず大きく、広くないといけない。例えば、先輩は、管理職で部署でのカバー領域が広く、後輩は、狭い担当分のみカバーする。

後輩は、先輩のカバーする領域を超える、抜くことを許されない。後輩は、先輩に比べると、いつまでもスキルが半人前、半熟で一歩劣るとする。先輩が、熟練した先生であり、後輩は未熟な弟子のままである。

後輩による、先輩の下克上は不可能である。後輩は先輩に追いつけない、超えられない。前に有効だったことが後にも半永久的に有効であり、伝統保持、正解熟達の度合い、質量で先輩が恒常的に上である。先輩が先生であり、後輩が弟子である。
先輩後輩関係は、子を抱きしめる母との関係に似ている。先輩は、子供を包含する母に相当し、後輩は包含される子に相当する。




高齢者採用問題

日本の会社は、40歳を過ぎると中途採用が少なくなる傾向があるが、これと先輩後輩制、年功制は密接な関係がある。それは
・正社員は、40歳以上は管理職である。「一定の年功になった者のみが管理職に登用される。」
・管理職は、生え抜き正社員で優先的に充当される。
・管理職登用の正社員の数は十分足りているので、外部から補充する必要がない。
・管理職より年長者が、外部から平社員として充当されることは、「同じ条件の年長者が年少者より下位にはならない」という先輩後輩制の規則によりあり得ない。

2007年05月23日

エスカレータ社会論

-日本社会との関連-


エスカレータ社会とは、いったん下から乗ると、何もしなくても自動的に上まで連れて行ってくれるのを理想とする社会である。

学校教育だけでなく、日本の社会全体、各集団が、エスカレータを心の底で望んでいる。
上まで、というのは、学校なら、上級学校まで、会社や官庁なら会社内の上位役職まで、運んでくれるのを望む、ということである。

エスカレータ社会の原型は、小学校、中学校といった義務教育とかで、学年単位で同年齢の人間を揃えて区切り、年次、年齢の高い人ほど上に自動的に一段ずつ飛び級、追い越しなしで上がっていく、ところに見いだすことができる。会社とかにおける年功序列の原点とも言える。

入る前は競争だが、入った後は年功序列での昇進が基本である。昇進ルートから降りると、二度と上がれない。

その点、エスカレータ社会は、皆が一斉に同期して上がっていく、追い越しを嫌う、追い越し、追い抜き禁止社会とも言える。


もう一つの特徴は、エスカレータにいったん乗ると、下りられない、他に変更できないということである。いったん乗った人は、何もできずに上へ連れて行ってもらうしかない。乗るエスカレータを間違えると、再チャレンジが効かない。エスカレータの両側の手すりが防護壁となって移れない。ないし、エスカレータが単線のトンネル内を通っていて、ひたすら上まで乗るしかない。その点、再チャレンジ不能社会とも言える。

自分に不向きなエスカレータに乗ってしまうと、不向きと分かっていても下りられず、悲惨なことになる。

いったん下りる、落ちると、別のエスカレータには、どこも乗せてもらえない。

外に対してトンネル、母の子宮みたいに閉じたエスカレータとなっている。外部の者を中途からは受け入れない。入り口で新たに乗った者、受験等で選別された新卒者のみを受け入れる。各エスカレータは、新卒者の就職活動に合わせて、エスカレータの乗り口を同時に開き、同時に閉じる。就職内定とかで、口が閉じる前にどこかのエスカレータに乗らないと、一生乗れない。


自分の段の上にも下にも、既に人がいて、段を足で上ることも下りることもできない。

一緒のタイミングで乗った人は、ずっと上まで、同じ高さで同期して上っていく。

上にいる人は、下から乗ってきた人に乗せられる、背負われる形で上に上る。その点、下にいる若者、後輩の負担が大きい。


エスカレータは、乗っている人を、徐々に選別してふるい落とす。上に行くに従って幅が狭窄し、そのまま乗っていられず、はみ出す人が続出する。官庁の役職とかのように、上に行くほど限りがあり、リストラしなくてはならない。



同じところに一緒に乗った人が同期である。先に乗っている人が先輩、後から続いて乗ってくる人が後輩である。

エスカレータ社会は、年齢面での同期を重視する、横並び同期社会である。小学校、中学校とかでの飛び級の否定が後々まで影響する。

年齢は、実年齢の場合もあれば、組織に入って何年目かという入社年齢のこともある。

先に乗った人、年齢の上の人は、能力にかかわらず先輩、上位者扱いを受ける。

後輩が先輩より同位~上位になること、後輩が先輩を指揮することを、越権行為とみなし嫌う。
自分と同位~後ろだった人に追い越されるのを嫌う。上司は先輩でなくてはならない。同期、後輩がなると、追い越されると、心理的に抵抗感があり、自分が無能に見えて、プライドを傷つけられる。

その点、エスカレータ社会は、追い越し禁止社会とも言える。

年齢が下の後輩が、年齢が上の先輩を指導しにくい、管理しにくい。

中高年で、他のエスカレータからリストラとかで落とされた人が、他のエスカレータに再び乗れないのは、彼らが、後から乗る後輩相当でありながら、先輩相当の年齢になっているためである。

生え抜きの人は、最初の入り口からエスカレータに乗って上ってきた人のことである。

同期同士は、年齢が一定以内、以下にくっついていないといけない。

一から業務を覚える場合、先輩の年齢で後輩と同じ場で同じ仕事をすることは許されない。先輩の年齢の人は、先輩の年齢なりの仕事をこなせないといけない。



エスカレータを上がるにつれ、他のエスカレータとは区別される。そのエスカレータの構成員独自の色が付く。
他のエスカレータに乗って時間の経った人は、既に別の色が付いていて、別のエスカレータに乗ろうとすると、不協和になり、和合を乱すとして嫌われる。

組織内での色の調和による一体感の醸成が目指される。
同期は同じ色、ウチは同じ色となる。

最初から色つきの人=創業者と、最初は白紙の人=何色にも染まる人がいる。
色つきの人(創業者である場合もあれば、最初は白紙で後から濃く染まった従業員上がりの人である場合もある)は、自分の求める色に染まってくれる、従順な白紙の人を、人材として求める。



エスカレータ社会では、中途採用の人の扱いが難しい。

中途採用の人は、新しく組織に入ってきたという点では、入社年齢では下であり、新人、新入り扱いである。しかし、実年齢では上であり、年配である。また、経験を積んできた度合いでも上である。

日本の組織は、組織内年齢と実年齢とのギャップを嫌う。そのため、年配の新人がありえないと見なす。日本で中途採用、高齢者の再雇用が進まない本当の原因はここにある。

組織では、その年齢にふさわしい階級の人しか当てはめない。年配なら管理職しかない。年齢が経つにつれ、順に偉くなるものと考える。管理職は、なり手が社内にいくらでもいる。管理職への登用は、社内からの登用を優先し、社外から引っ張ってくる必要がない。これが、高年齢の人の仕事先が見つからない理由となっている。

自分より高年齢の人には命令しにくい。また高年齢者は若年者に命令されるのを嫌う。高年齢の新人は敬遠される。これは、会社に限らずどこでもそうである。年功序列は会社に限ったことではなく、社会全体がそうなっている。

この問題を解消するには、高年齢の者だけでなる会社、シルバー会社とかを作るしかないのではないか?



エスカレータと母性・女性とは深い関係がある。

母性、女性は、相互のウェットな一体感、包含感覚を重視する。
相互の同期、同調、一体化、一斉の横並び、相互の調和、和合を好むことにつながる。これが、エスカレータ社会の心理的な源となっている。

父性のような、各個人がバラバラに分離したドライな自由競争を好まない。

前からそこにいる者、先に(前に)そこに入った者たちが、後から入ってくる者の新規加入によって、同期して自動的により上座に昇るのを好む。それは、自動同期上昇性といった言葉で表すことが出来る。

上昇した先住民が先輩、新たに入ってきた新住民が後輩ということになる。

同時(加入)者の同一処遇ということになる。

それは、昔からいる人、お局の支配につながる。

エスカレータ社会になるのは、社会が女性、母性優位であることの現れである。




日本の農業村落で、前から住んでいる先住民が、後からの移住者である新住民より立場が上である。その点、日本のムラ社会は、エスカレータ社会の典型である。



先輩後輩制度とエスカレータ社会とは、深い関連がある。

先輩後輩制の本意は、「後から入ってきた人に、能力面で追いつかれる、追い越されるのが嫌だ」というものである。

より以前から存在する者、年次の高い者は、後から新たに入った、生まれた者、低い年次の者よりも、ノウハウ・知識をたくさん持っているべき、よく知っているべき、能力が高くあるべきと考える。

これは、植物的思考であり、農耕民的考え方とも言える。要は、古株が新株よりも上位にあるべきという考え方である。
植物は、年齢が経過するに従って、どんどん伸び続け、勢力、大きさが上になる。正比例のグラフとして表現できる。

一方、欧米のような動物的、牧畜民的思考においては、動物は、幼い頃から年齢が経過するに従って、植物同様伸びるが、壮年期に頂点を極めた後は、年を経るに従って、老いてよぼよぼになり、無力になる。これは、逆U字グラフとして表現できる。

植物的思考の、時間、年数が経過するほど自動的に上位に行くというのは、エスカレータと同じであり、その点、年齢が上ほど上位者になるという先輩後輩制の社会は、エスカレータとして表現できる。

日本人と天下り

上位会社や官庁でリストラされ、余った成員のより下位の全く別の組織への雇用斡旋が「天下り」である。
「天下り」は、官庁の役人向けに専ら用いられる用語である。それは、官庁が「天皇直属、直参=お上の人員のいるところ」であり、そこから下々の民間の人々のいる上へと、リストラされた「お上=官」の余った成員が落下傘的に降下する様を表したものである。

しかし、実際には、「天下り」は、官庁だけでなく、企業でも普通に行われていることである。すなわち、上位、上部組織(本社、親会社)を「天」「上」「親」と見なし、そこで不要になった社員が、下位、下部組織(子会社、下請け会社)へと送り込まれる、押しつけられるさまが、「天下り」として捉えられる。

その際、上部組織から天下った者が、下部組織の上部ポストに就いてしまうため、下部組織の生え抜きの社員が、昇進できなくなってしまう。彼らは、一生、上部組織から天下った社員の言うことをひたすら聞くはめになる。その点、「天下り」は、上部組織による下部組織の乗っ取り、下部組織の私物化、植民地化、下部組織生え抜き成員の奴隷化のような面がある。

似たような、影響下組織(植民地)への、自分の組織人員の送り込みとしては、大学(例えば旧帝国大学)の「学閥本部」による、植民地大学(新設大学)や、一般病院(医学部の場合)への人材送り込みと、影響力の維持・拡大というのがある。

あるいは、企業や官庁においても、「一時的出向」という形で、本社・本省の人間が、子会社、出先機関に送り込まれることがある。

こうした大学学閥による一般病院等への人材送り込みや、企業・官庁における「一時的出向」と、前述の「天下り」は、上位組織から下部組織への人員送り込みという点で共通している。一方、違う点としては、「一時的出向」の場合は、出向した人が、本社、本部、本省にいずれ戻り、管理職になったりする道が十分残っているのに対して、「天下り」は、片道切符で、元の上部組織に戻ることはあり得ないという点である。

年功成果主義


日本の会社では、成果主義の導入により、年功制ではなくなったとする意見があるが、実際には、年功序列と成果・能力主義が組み合わさった形で運用されていると考えられる。

・現在でも、管理職に登用される、昇進するのは、ほぼ年齢順である。→年功序列
・ただし、管理職への登用あるいは昇進時に、正社員のふるい分けが行われ、成績がよい者、成果を上げた者、能力がある者のみが管理職に就ける、残れるようになっている。残りの成果を上げなかった、管理職に就けない管理職と同年齢の平社員は徐々にリストラされる。→成果主義

2007年05月25日

日本人と失敗

この国の人は、他人の失敗に対してうるさく、手厳しく、絶えず監視している。
姑根性丸出しである。
また、自分が失敗して恥をかいたり、危ない目に会うのを恐れ、権威筋の先生とかが大丈夫ですよ、必ず成功しますよと認めたことしかやらない。

失敗や危険を避けるために、未知のことを行うな、既知のことのみやりなさい、という考えがこの国で根強い。ベンチャー精神に欠けている。銀行が、ベンチャー企業へ融資を断る傾向が強いとかである。

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