日本人は、欧米人の科学のような、相手と距離を置き、間を空けて観察する、ドライな客観性を嫌う。対象を冷たく突き放して捉えることが苦手である。科学はドライなものであるが、そのドライさが日本人に避けられる原因となる。
欧米人の科学に対応するものが、日本人では、「技」「工たくみ」「芸」「術」といったものになる。これらは、いずれも、心や情を込めた主観的思い入れの世界であり、対象とのウェットな一体化、没入が見られる。
大学とかで日本人が行う「科学」にしても、同じ大学の同門に属する先輩後輩、親分子分関係にある教授や院生との家族的でウェットな人間関係維持が主目的となり、そのための手段として、科学の振り、まねごとをしている面が強い。そういう点では疑似科学である。つまり、同じ学閥、同じ流派、同じネットワークに属する者同士のウェットな一体感を重視し、その一体感を保持する手段として、科学のまねごとを行うのである。
要は、学説を縁故、学閥、先輩後輩、先生弟子といった対人コネクションの維持とか、派閥を作る手段として使うのである。世話になった恩師の学説を否定できないとかの問題点が生じる。
信奉する学説にしても、自分から離れた客観的な批判の対象とはならず、常に一体化、思い入れ、愛着の対象となる。学説を批判されると、自分自身を否定されたように感じ、機嫌を損ねたり、怒り出す。学説が自分と一体化しており、批判すると本人を侮辱したことになり、恨まれることになる。
その点、日本人の研究者は、「科学」者ではなく、「学者」である。専攻分野に関するいろいろな専門知識を持っているが、その専門知識は、自分の愛情、主情を込めた思い入れに満ちたうんちくであり、客観的な批判、評価を否定するものである。学説や知識への感情的、情緒的思い入れ、一体感で動き、批判に対して感情的に反論する。
これに対して、欧米のようなドライな社会では、学説、理論は、自分とは切り離された冷静な批判対象となる客体であり、批判してもいっこうに構わない。他人から批判されるだけでなく、自分にとっても冷静な批判対象となる。