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2007年06月 アーカイブ

2007年06月07日

先生役社会と生徒役社会

日本社会は、明治維新以降、先生役の欧米から新技術、新思想の導入に忙しい状態が、今日までずっと続いている。一方、日本社会が先生役を務めるのは、欧米産の技術や思想の消化・吸収が自分たちより遅れている社会に対してのみである。

その点、日本社会は、先生役の欧米社会から、新しいことを教わる側に専ら徹する生徒役に、役割が固定している感がある。一方、欧米社会は、一貫して教える側に立っている。

このことから、教える教師、先生役をずっと務める欧米社会は「先生役社会」、ひたすら教えてもらい、その結果を消化・吸収する側に回っている日本社会は「生徒役社会」と言える。

なぜ、このような差や役割分担が生じるかと言えば、先生役の欧米社会は、生徒役の日本社会に比べて、革新的な新事実の新発見、発明を先んじてすることが、より多いからだと言える。

先生役社会の人々は、海の物とも山の物とも分からない、未知の、どんな危険や失敗が待ちかまえているか分からない「闇の領域」に、生徒役社会の人々よりも先んじて入り、いろいろ失敗を重ねながら、より先んじて新たな知見にふれることが出来る。

一方、生徒役社会の人々は、未知の領域が持つ潜在的危険を怖がり、安全、安心を得るために、既に闇でなくなり光が当たっている「光の領域」から出ようとしない。

先生役社会の人々が、未知の領域内で散々失敗し、苦労を重ねて今までにない新たな知見を得たまさにその瞬間が、「闇の領域」が「光の領域」に変わる瞬間である。

闇を光に変えて新たな知見を先に得た者が、まだ知見を知らない者に対して、先生、教師役を果たすこととなる。

その点では、闇を光に変えようとして、失敗を恐れない強い意思を持つ人々の社会が、先に闇の中で新事実、新知見に触れることができるため、先生役社会になり、闇を怖がり光の領域から出ようとしない保身に余念のない人々の社会は、新たな知見に触れるのが必然的に遅れるため、生徒役社会になるということになる。

その点、万年生徒役の日本人は、先生役の欧米人に比べて、臆病、退嬰的、女性的でベンチャー嫌いと言える。未知の領域に危険を顧みず果敢に挑戦する心意気が、先生役の社会の人々に比べ明らかに弱く、前例、しきたりを重んじる度合いが大きいのが、万年生徒役に甘んじる原因となっていると言える。

2007年06月18日

借り物社会

日本は、外国からの技術や文化を導入する、輸入する、借りることの多い社会である。
その点、外国の文物の借り物の横行する社会であり、「借り物社会」と名付けることができる。

自分たちで、何もない状態から一から何かを作り出すことが不得意であり、既に誰かよその国の人たちが発見、発明した文物を、そのまま借り入れ、輸入して、それに小改良を加えることを得意とする。

借り入れの源は、以前は中国から、近世以降は欧米からが主流である。

2007年06月19日

日本社会で個人が定位置を保つことの難しさ

この国で生活していると、その時々の流行、ブームにつられて、集団であっちフラフラ、こっちフラフラして、自分なりの定まった定位置を持ちにくい。

一人定位置をそのまま保っていると、やれ協調性がないだの、和合の精神に欠けるだの、団体の統率を乱すだの、流行に鈍感だだの、たくさん罵声が飛んでくる。それに負けないようにするのは大変である。

周囲のみんなと一緒になって、一体感を保ちつつ、その時々の流行に従って、ゾロゾロと動き回らないといけない。

中には、一見定位置を持っているように見える人たちもいる。しかし、実は、古来からの前例、しきたりとして存在する伝統をひたすら重んじて、それに盲目的に一体化してしがみついているだけだったりする(神社の神官とか)。どっしり重たく構え、一つの土地に土着する農耕民にありがちな態度である。

周囲の対象から一人離れて、客観的な立場で、冷静に、自らをコントロールし、対象を観察する、ドライな態度が、この国ではあまり認められていないような感じである。何でも、みんな一緒でないといけない。単独行動は許されない(一人になるのは、集団から不要人物として疎外されていることを示す、よくないことであるとされる。)

どちらかというと、周囲に合わせて、溶け込むこと、周囲が盛り上がっていれば、「祭りだ、ワッショイ!」と一緒になって踊り騒ぎ、周囲が沈んでいればそれに合わせて一斉に「ショボーン」となること、いついかなる時でも、周囲との一体化を維持することそれ自体が目的化している感じである。

2007年06月20日

日本人の役所中立幻想

日本人は、役所の意思決定を、政党やマスコミの意見のような先入観や特定の色の入らない、無色透明、公正中立、清廉潔白なものと捉えがちである。

役所に勤める公務員、官僚は、天皇家の直参、直属の親衛隊である。

天皇家は、神社を究極的に統合する者として、神社神主に代表されるお祓い、みそぎのような、色、偏りを初期化して、洗い流して、白紙透明に直す機能、能力を神社の元締めとして備えている。その能力を、天皇家直属の役人、官僚も受け継いでいるという訳である。

現在の官庁は、建前上は国民主権となっており、国民へのサービス機関として捉えられているが、これは、アメリカが天皇家より更に上に、日差しとなって差し込む、輝いているため、アメリカ色に染まってそう見えるのであり、アメリカの放つ光を遮る、どけると、旧来からの天皇家直属の機関である本性が顔を現す。

官庁の官僚が民間に「天下る」という表現がなされるが、これは官僚が「天に属する者」=「天皇家直属の働き手」であることを指しており、「天にいる者=お上の一員」であることを示している。

官僚が国内の様々な有力者勢力の影響から自由で、頭一つ抜きん出た存在でいられるのは、彼らが、伝統的に国内のあらゆる勢力の上に精神的に立っている天皇家に所属するからである。

そして、天皇家の持つ祓い、みそぎによる、特定政治色の排除、洗い流しの機能が、官庁にも天皇家直属の機関ゆえ備わっており、それが官僚、役人を、公平無私の存在に見せているのである。彼ら官僚、役人は、実質天皇家の私的お抱え集団なのであるが、天皇家がずっと日本社会全体をまとめ上げる精神的支配者、支柱、よりどころとなっているため、「公」の人=公務員と呼ばれるのである。

2007年06月23日

日本人は、英語に早期から習熟すべき

日本人は、英語に早期から習熟すべきである。

なぜ、日本人は、英語を学ぶ必要があるか?
英語は、遊牧、牧畜民系統の言語で、現在、最も勢力があり、広く使われているからである。
先進的な遊牧、牧畜民の言語として、より先進的な文化を、日本や中国のような農耕民よりも、いち早く発見、発明してその内容がいち早く言語に反映されるからである。

欧米のような遊牧、牧畜民は、男性、父性の力が強く、未知の何がどうなっているか分からない「闇の領域」に進んで動いて入り、危険に立ち向かい、試行錯誤しながら、闇を光に変える、すなわち最新の発見、発明を行う。

その最新だが粗削りな成果を、普段いる、光が当たって何がどうなっているか前例として一通り分かっている「光の領域」から自分からは出ようとしない日本人のような農耕民(女性、母性の力が強い)が導入、コピーして、さらに細々と改良し、完成品として、欧米人側へ渡すことになる。

その欧米人から最新の探索成果を、いち早く効率的に導入するのに、欧米人の使う言語=欧米人のあげた最新成果の乗り物、伝達媒体を知っていることは何よりも重要である。
欧米の中でも、最も現在勢力があるのがアメリカなので、英語が一番有利ということになる。
生育の早期から英語に慣れるほど、より新成果、新文化を取り入れる能力がアップする。

日本語と言われている物は、実は、中国語からの借り物がほとんど。純粋な日本語は実はあまりない。
どうせ、中国からの借り物だったものが、英米からの借り物に変わるだけで、文化を海外からの借り入れとその自己消化、改良で過ごしてきた日本人の本質に何ら変わりが起きるわけではない。
英語をより主力として学んでも、日本人は今まで通り変わらない。

日本人は、現状余り先進的とは言い難い中国の借り物である現在の日本語にそれほど執心する必要はないのではないか?がらっと考えを変えて、先進的な文化の伝達媒体である英語の学習にシフトすべきである。

また、英語を選択するのは、今のところ、牧畜系民族の間で一番影響力があるから、当面とりあえず選択するのであり、英語民の勢力が衰えたら、また別の牧畜民系言語に乗り換えるだけである。

融合社会と非融合社会

日本と中国とかの一番の違いは、社会のあり方が融合的かどうかということである。

中国社会では、父系の家族、血縁集団が、対内的に強い一体感をもってまとまっているが、それぞれが別々に独立に存在し、互いに混じり合い、一つに融合することが決してなく、家族集団毎にバラバラに分かれたまま、一つにまとまることなく別々に存在し続ける。国内の政治は、そうした互いにまとまることのないバラバラな家族集団=非融合集団間の勢力争いとして捉えられる。皆、自分の所属する家族集団のことばかり考えて、社会全体を一体化、溶け合わせる力、契機に乏しい。これは、「非融合社会」として捉えられる。

一方、日本社会は、天皇家(とその直属機関の官庁)を頂点に、人々が、会社や学校とかで、同じ釜の飯を食べた者同士が、血縁の枠を超えて、相互に強い一体感をもって一つにまとまる、内集団(融合集団)を形成することが可能な「融合社会」である。この融合能力は、互いに何の血縁関係もない者同士が、国や会社のために精神的にまとまって一丸となって無私の心で動くことを可能にする。

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