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2007年07月 アーカイブ

2007年07月01日

学習好きの日本人

日本人は、既存の知見を学ぶのが好きである。 知識をたくさんそらんじるのを目指す。 学習すること、知識をため込むことそれ自体が自己目的化している。 受験とか、とにかくたくさん知っていることが偉いとされる。うんちく、講釈を垂れることで得意、上位者になった気分になる。 生涯学習と言えば聞こえはいいが、とどのつまりは、一生ひたすら消化吸収するのみである。 これは、受け身、受信一方の態度であり、創造性に欠ける面がある。 既存の枠内に止まる行き方である。 自分からは新しい考え方が出て来ない。他人の請け売りに終始する。

母依存の日本社会

日本人は、何でも母にやってもらう。
母がいないと何も出来ない人が多い。

母がいないと、娘が子育てができない。
ワーキングマザーの場合、育児、家事、裁縫とかを、マザーの母が代行している場合が多い。

日本の職場、会社システムは、後方で母のサポートがあることを前提に組まれている。
男性社員だけでなく、女性社員も、自分の母に寄りかかって生活している。

母のサポートがなくなると、日本社会が崩壊する。

今まで日本社会で若い大人=大きな子供をサポートしてきた母の世代が消滅し始めている。
今まで自分の母にサポートされてきたが、自分からはサポートされるばかりで、我が子をサポートする習慣、実力のない世代が、従来の母の世代になり始めている。

生活面で依存的で、自分は(母に)何かをされる(してもらう)経験だけしかない大人しかいなくなったら、日本社会はどうなるか、大いに問題である。

清浄(清め)、純白、色・汚れ落としと日本の神社

神社でおはらいを受けたり、みそぎを受けることで、(汚れた)色が落ち、純白になって、心身が清められ、浄化される感じを、日本人は多く受ける。

その効能を、日本社会に当てはめると、以下のような例があげられる。

既に他の会社で働いて、その会社の色に染まった人が、別の会社に中途採用されようとしたとき、前の会社のカラーに染まったままだと、協調性に欠けるとされて、やっかい者扱いされる恐れがある。そこで、神社に行って、みそぎを受けて、色のつかない白紙状態に戻ることができる。

死んだ牛馬の処理など、けがれるとされる職業についているため、「エタヒニン」扱いされて差別されている人々は、作業が終わったら、神社に行って、みそぎ、おはらいを受けることで、心身ともに清められ、汚れを完全に落とした感覚を、周囲の人に与えることができる。そうすることで、社会的差別をなくすことに役立つ。

犯罪やヤクザなど、悪の道に進んだ人が、神社で清めを受けることで、悪を断ち切るきっかけになる。

なぜ、神社で、おはらいやみそぎを受けると、心身ともに白く汚れがない状態に清められたと感じるのか、そのメカニズムの解明が必要である。

また、寺院や教会とかでは、こうした、神社での清めと同様の機能が存在しないのではないかとも思われる。なぜ神社は、こうした清めの感覚を生み出すことに成功したのか、なぜ神社でないと駄目なのか、その辺を探る必要がある。

天下りと天皇制

官庁から民間への職員移動が、天下りと表現されている。
「天」から「下々」へと「下る」「降りる」という意味として捉えられる。
官庁が「天」と捉えられており、民間が「下々」と捉えられている。
官庁と民間の上に、身分の上下格差があることを示している。
「天」は、「天皇」を意味すると考えられる。
「天皇の家臣、直参、直属の部下、親衛隊=官僚が、より身分の低い民間へ、パラシュートで落下する」と読める。
このことは、日本が、現在も戦前とあまり変わらない、国民主権ではなく、天皇or天皇の家臣、直参が主権の国であることの証拠として考えることができる。

「○○さん」で平等表現

人間関係において、伝統日本のように上下の序列を重んじるのではなく、相互の対等さ、平等を強調することで、より人権を重視する考え方を身に付けることが必要である。
先輩後輩、目上目下の区別なく、扱いを平等にするには、全員に「○○さん」付けをする。
「○○君」だと、後輩、目下ということになってしまい、扱いが平等でなくなる。

日本のエロゲーは女性的

日本のエロゲーは、奥ゆかしい。女性的である。

いきなり、セックスの場面から始まる、持ち込むということがない。

最初に、出会いから始まり、徐々に相手と心理的な紐帯を作り、最後にセックスに持ち込むという、現実の恋愛と同じステップをわざわざ踏ませている。

男性なら、相手の女性といきなりセックス(というかレイプ)する場面から始めて、ほとんどそのセックスの場面が続くことを願うだろう。しかし、日本のエロゲーは、いきなりセックス場面に行くことを許さない。その点、女性的である。

2007年07月19日

親子は対等なリレーランナー

日本の親子間の上下関係は誤りである。

日本では、江戸時代の儒学の影響もあってか、親子関係を上下関係、支配服従関係と捉える見方が支配的だ。

例えば、親会社、子会社、あるいは、親分子分といった言い方がなされ、いずれの場合も、親が上で、子が下というように立場の格差がはっきり付けられている。

しかし、それは誤りだ。

親と子の関係は、世代間で、環境に適応していくための文化を受け渡しする、リレーのランナー、選手の関係だ。先行する親が、子供に、自分が自分の親から引き継いだバトンを渡して、うまく渡せたら安心して死ぬ、というものだ。リレーの各ランナー間の関係は、基本的に対等、平等なものであり、時間的な前後関係があるだけだ。

子供はまっさらな状態で生まれてくるので、親が、子供によりよく生き延びてもらうために、いろいろ知恵を付けるのであるが、どうも日本では、その知恵を保持していること、知識を持っていること自体が偉い、上位であるとされる傾向があるため、知恵をより豊富に備えた親が偉い、上位ということにどうしてもなりがちである。

しかし、新しい事態、環境への適応力、新分野を開拓する力や体力は、若さを備えた子供の方が優れているとも言えるので、そうした点を重視するように見方を変えてみれば、親子は対等であると言える。

また、親と子の関係は、遺伝的に見て、子の体の半分は親自身である。親が、生物学的に同等である、自分自身の分身、半身より偉い、優れているということは、ありえない。

内輪指向、内向き社会

日本人は、自分の所属する集団内に専ら関心が行き、集団外への関心、配慮が乏しい。そして、いつも内輪に限定された、内輪受けする話題を互いに振ろうとする。
集団外の人からは、何のことをしゃべっているか分からない。集団に入っていないと、あるいは、親しくないと、話題について行けない疎外感を味わうことになる。

集団内だけで理解可能な話題で盛り上がることで、集団内での相互の一体感、一致結束を楽しむのであり、集団に所属していること、一員として受け入れられていることをその都度確認していると言える。

互いに緊密なコミュニケーションを取り、互いに体験を同じ場所にいて共有していないと、他の人たちの話題について行けず、取り残されてしまう。ひいては、集団から除け者にされてしまう。

それを避けるために、必死になって周囲の仲間の話題について行こうとし、そのために、必死になって周囲の仲間とコミュニケーションを取り、仲間が行くところには必ず自分も参加しようとする。

これが、この国の人たちの、傍目をわきまえない、自分たちの仲間のことしか眼中にない、必死の集団、団体行動につながる。また、携帯電話でむやみやたらと仲間と連絡を取り合おうとする、仲間からの連絡が来ないと不安になる、携帯電話依存症を引き起こしている。

その背景としては、仲間集団が成員相互の一体感、相互理解を偏重し、一体感の持てない、内輪の話題について行けない成員をすぐ仲間はずれにしようとする点がある。

外部の人に対して、自分たちのことを理解してもらおうと、積極的に、誰でも分かる、グローバルな用語とか用いた説明をしようとしない。というか、むしろ自分たちのことが外部に理解され、対外的に筒抜けになると、よそ者に首をつっこまれることになるとして、外部に対して門戸を閉ざし、対内的に内向きの結束を図ろうとする。

これが、排他的であるとか、対外的な隠蔽体質につながっている。
内輪だけで分かる話題で盛り上がって集団内の一体感を得ることと、集団が排他的、閉鎖的、内向きであることとは、大きく関連していると言える。

2007年07月29日

日本における「学び」「学習」の重視

この国の人は、「学び」「学習」を重視するが、それは、既存の、既に知見として存在する情報を知識としてひたすら頭に入れる、暗記することを重視することに他ならない。

日本の教育現場における「学び」「学習」の重視、知識人になることを指向することは、既存の枠内の知識を暗記することは得意だが、今までにない新たなアイデアを発案することが自分では余りできず、よそから引っ張ってきて、導入しないといけないタイプの人間を量産することにつながる。

日本の科学が、ともすれば欧米原産の理論や技術の導入にばかり一生懸命で、日本独自の内容をなかなか構築できないことが多いのは、上記の「学習」重視の姿勢と関係あるといえる。

専ら既に判明した、光の当たっているところ(光の領域)の知識を、細かいところまで正確に頭に入れることを指向する「学習」重視は、既に状況が分かっていて安全であると確認されたところから出ようとしない、安全第一で自己保身重視の女性的な考え方とも言える。

光の領域、闇の領域

人間の周囲にある環境には、どうなっているか分からない、どんな危険が待っているか分からないリスクに満ちた「闇の領域」と、どうなっているか、どう対処すればよいか、安全か、正しいかが分かる光に照らされた領域(「光の領域」)とがあると考えられる。

光に照らされた安全な領域はどちらかというと限られており、狭いのに対して、未開の闇の領域は光の領域の周囲に大きく広がっている。

既に光のある領域の枠内に止まり、闇の領域に進むのを避ける安全・保身を取るのが女性や日本人で、闇の領域に積極的に打って出て、失敗を重ねながら、徐々に闇を光の領域に変えていく開拓のリスクを取るのが男性、欧米人だということになるのではなかろうか。

男性や欧米人も光に照らされた、何をどうすれば成功・失敗するか分かっている領域では、女性や日本人同様正しさを追求すると考えられるが、その際もわざと本来から逸脱する違反することをやって、そこから思いがけない新たな未開の闇の領域を、本来光に照らされているはずの領域に再発見し、チャレンジの対象として向かっていく。

一方、女性や日本人は、光に照らされた領域内で、正しい、成功することのみを繰り返し行い、従うべき前例として蓄積していき、小さな改良を加えていく。どんな危険、失敗が待っているか分からない、安全、保身が確保できない闇の領域には近づかない。

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