Sponsored Link

« 2007年08月 | メイン | 2007年12月 »

2007年11月 アーカイブ

2007年11月14日

日本は液体タイプ、アメリカは気体タイプ

欧米人の行動様式は、気体分子運動として表せる。欧米人は気体タイプである。
すなわち、一人一人が、互いに離れてバラバラに独立、自立して、互いに高速に動き回り、能動的、攻撃的に振る舞う。

気体タイプ(気体分子運動シミュレーション)=欧米的行動様式


一方、日本人の行動様式は、液体分子運動として表せる。日本人は液体タイプである。
すなわち、一人一人が、互いに近づき、集まり、くっつき合って、互いに低速で、静的、受動的に振る舞う。

液体タイプ(液体分子運動シミュレーション)=日本的行動様式

気体的性質、液体的性質を表形式で一覧するページへのリンクです。

インターネット利用者(200名程度)に、Webページ上で気体、液体分子運動の動画を見せて、それぞれどれほどアメリカ的か、日本的かを回答してもらったところ、気体分子運動がよりアメリカ的と捉えられ、一方、液体分子運動がより日本的と捉えられることが分かった。

気体、液体分子運動の動画に対する「アメリカ的-日本的」回答結果のページへのリンクです。


液体タイプ、気体タイプ説明サイトトップページへのリンクです。

2007年11月22日

先進国と呼ばれたい

日本は、先進国の仲間入りをしたいと思っている。日本人は、日本が先進国として振る舞い、国際的にいい格好をしたい、ハイソな思いをしたいと思っている。

日本の人々は、国際的にどう見られているか、格付けとしてどの位置にあるかを非常に気にする。周囲の目を気にして、プライドが高い。先進国と呼ばれることは、そのプライドを満足させる。

しかも、そのプライドの高さを表に出すことを、はしたない、みっともない、恥ずかしいと考えて、人目を気にして表向きは、へりくだり、謙遜する。日本では、「自分は大した者ではありません」と一歩下がって言う人たちほど、内心では、大した人だと言われたい高いプライドを持っていると言える。「いや、そんなことありませんよ。本当に素晴らしいですよ」というと、恰好を崩して喜ぶので、内に秘めたプライドが露顕することになる。

日本は国際関係でも、自分の実力をへりくだり、謙遜する傾向があるのではないだろうか。そして、それは心理的には裏返しの「自分は先進国と呼ばれる実力を持っているのだ」「先進国と呼んでほしい」という強烈なプライドを内蔵していると考えられる。

日本は欧米化していない

日本の人は、欧米に追いつこう、欧米の仲間になろうと必死である。そうすることによって、アジアの同僚(中国、韓国・・・)を、自分たちより一歩遅れた存在として見下すことができ、それによって、相対的に自分は高い位置にあることを確認して、高いプライドを満足させることができる。


しかし、そのように、欧米の真似をすることによって、欧米と同じになれる、欧米化すると考えるのは間違いである。

日本は、いくら欧米の真似をしても、考え方までは欧米化しない、というか、欧米にはなれない。というのも、そうした他国の真似をすることに必死なこと自体、欧米的ではないのである。

欧米人が独創的な成果を上げてきた背景には、なるべく他人のやらないことをやる、他人の真似をなるべくしない、という態度が彼らの間で共有されてきたというのがあると考えられる。

欧米の人々は、合わせたり、真似をするのが嫌いであり、独自性が好きなのだと考えられる。

日本の学者が欧米理論の真似をして、それを日本に導入しようと必死になること、自分からは学問上の新機軸をなかなか打ち出せず、欧米頼みになっていること自体、気体的な欧米になりきれず、液体的な状態に止まっている証拠であると言える。

もしも欧米化したのなら、彼ら日本の学者は、今までにない、欧米にもない新機軸の学説を既に欧米並みに沢山生み出しているはずである。しかし、実際には、余りそうなっていない。これは、日本が、欧米化していない証拠となる。

気体タイプと液体タイプの国際分業

国際的な分業では、気体タイプの国々が上流工程を、液体タイプの国々が下流工程を担当するのが適切である。


液体タイプを示す動画↓(液体分子運動シミュレーション)


気体タイプを示す動画↓(気体分子運動シミュレーション)


最終的な完全に磨き上げられた完成品を作り出すのは、下流の液体タイプの人々(農耕民)である。日本人がこれに当たる。

その元となる新しいノウハウ、革新的な発明、発見を生み出すのは、上流の気体タイプの人々(遊牧・牧畜民)である。欧米人がこれに当たる。

液体タイプの人々は、気体タイプの人々の生み出した新しい知見を取り入れるために、気体タイプの人々の言語を習得する必要がある。その点、日本は、欧米の言語のいずれかを習得する必要があり、現状では、英米系の国際的な影響力が強いため、英米系の英語を学ぶのが効果的ということになる。

最終的に完璧な出来の製品を作り出すには、上流の気体タイプと、下流の液体タイプの社会的な合弁が効果的であると考えられる。

気体タイプの人々の基礎的な発見、発明、新たに得た知見を、液体タイプの人々が取り入れ、詳細に磨き上げて、完成度を高めるという、気体タイプ=基礎研究、液体タイプ=応用研究という国際分業が、人類にとって一番望ましいと言える。


日本企業は、液体タイプであり、機動性に欠けるため、目ぼしい成果、権利を、気体タイプの欧米に先取りされてしまう傾向にある。そこで、気体タイプの国々のまねをして、能力主義等取り入れようと必死であるが、余りうまく行っていない。

しかし、日本は、逆に、液体特有の動きがゆっくりと細やかである特徴を行かして、対象に対する細かい微調整、小改良の積み重ねによって、対象製品の完成度を高める能力に、非常に優れているのであり、そうした長所をもっと生かすべきであると考えられる。もっとも、そうなると同じ液体的な社会である中国、韓国等との同レベルでの競争になってしまうというジレンマも存在する。

液体タイプについての説明しているサイトはこちらです。

気体タイプ、液体タイプの分子運動動画と社会の理想像


気体タイプの行動様式=気体分子運動シミュレーション

液体タイプの行動様式=液体分子運動シミュレーション


は、それぞれのタイプの社会や人々にとって、最も望ましい状態、理想像を表していると言える。

気体タイプの人々、例えば欧米の人々にとっては、気体分子運動の動画は、各分子=各人が互いに自由があり、個人の自立が達成できている点望ましいものである。
液体タイプの人々、例えば日本的ムラ社会の住人にとっては、液体分子運動の動画は、各分子=各人が互いに和合し、団体の一体感を保てている点望ましいものである。

現実の国際社会は、この気体タイプの動画(例えば欧米人の行動)と、液体タイプの動画(例えば日本人の行動)が同じ領域内に同居して互いに影響を及ぼし合っている状態として表すことが出来る。

参考説明
気体タイプ、液体タイプ

液体タイプ社会向け民主制研究の必要性

現在の議会制民主主義は、気体タイプの牧畜民(イギリス人とか)が考え出した、互いにバラバラに独立した個人同士のその場でのリアルタイムの討議によって物事を決めていこうとするタイプの行き方であり、互いに一体感と和合を重んじ、事前協議を優先する液体タイプの農耕民(日本人とか)には、余り向いていないのではないかと考えられる。


液体タイプを示す動画↓(液体分子運動シミュレーション)


気体タイプを示す動画↓(気体分子運動シミュレーション)



現に、気体タイプの社会であるイギリスの議会制を取り入れた日本の国会とか、実質的な議論はあまりなされずに、空転したり、感情的な押し問答になったり、強行採決したり、国会以外の場で水面下で協議したりといった形で、国会自体あまりちゃんと機能していない。肝心の法律は、官庁の役人が作成したものをそのまま承認するだけなのが大半みたいになっている。

こうした現状を鑑みるに、必要なのは、従来の気体タイプの欧米の社会制度、民主制をそのまま性質の違う液体タイプの日本社会に直輸入するのでなく、液体タイプの日本社会向けにより適した、独自の液体タイプ、日本タイプの民主制のあり方を考えることである。

そのためには、従来の日本の村落とかのムラ社会における、人々の意思決定のあり方、その理想像を明らかにして、その理想像に沿った形で、社会の物事が決まるように制度化を行うことである。

これを行うには、日本の村落とか、会社とか、官庁とか、いわゆる伝統的ムラ社会が存在するところでの、望ましい理想的な意思決定のあり方を、現場観察や構成員に対するインタビュー等でもう一度分析、抽出して、その形を、一般の人たちの意思ができるだけ反映されるように、また効率と完成度の高い成果を上げられるように、独自の改良を加えて、日本型民主主義として、他の液体タイプの社会の模範となるような形で、作り上げればよいであろう。

あるいは、液体タイプは、女性に相当するので、女性、女社会の意思決定のあり方の特徴を抽出して、日本の民主制をその特徴に従って作り替えた方がいいのではないか。

そうすることで、気体タイプの欧米社会に対して、自分たちは、あなた方とは違う別の優れた文化、やり方で対処できますという自信を示すことができるし、また、中国や韓国といった液体タイプの同僚社会に対しても、いち早く模範を示すことで、より先導的な優位な地位を確保することができるだろう。

液体タイプの国会、議会運営についての説明しているページはこちらです。

液体タイプについての説明しているサイトはこちらです。

欧米理論の日本社会への機械的直輸入


日本の、特に進歩的と呼ばれる学者、役人たちは、より進んでいると考えられる欧米理論を、日本に導入するために、我先にと理論着想元の欧米学者のもとに心理的に群がっているのが現状である。

そうした彼らの致命的な欠点は、自分たちの足元が見えない、「灯台もと暗し」を地で行っている点にある。つまり、欧米社会の方ばかり見ていて、自分たちが本来どういう社会の中に住んでいるか、どういう世界の住人であるかについての自覚が足りないのである。

彼ら、進歩的学者、役人とされる人々も、実際には、伝統的な日本のムラ社会の住人のままであることがほとんどである。彼らは、いわゆる旧帝国大学の学閥とか官庁一家の派閥に属し、師弟関係、先輩・後輩関係といった家族的でウェットな、液体的上下関係の中に生きている。

問題なのは、彼ら自身は、そうした伝統的日本的人間関係、社会ネットワークの中にどっぷりと浸ったままの状態でいながら、そのことをほとんど自覚せずにというか別腹で、自分たちの現状とは相容れないはずのドライな欧米理論を、進歩的であるとしてやたらと盲目的に崇拝し、そのままでは合わない日本社会にそのまま持ち込みたがることである。

なぜ、彼らはそうしたがるのか。彼らの深層心理では、欧米が格上で優れており、日本が格下で劣っていると見なし、自分たちが格上とする欧米と心理的に同化することで優位に立ち、伝統的日本のムラ社会に生きる一般大衆を下位に見下そうとする心理が働いているのは事実であろう。

早い話が彼らは、欧米を上に見て伝統日本を下に見て、そして上位の欧米を崇拝し、欧米と心理的に同化することによって、自ら上位に立とうとする、欧米の権威に弱く、見栄っ張りで、人より上位に立ちたいプライドや支配欲の強い人々なのだ。そうした彼らにとって、欧米理論は、手っとり早く自らの権勢欲や支配欲を充足するための「使える」ツールなのである。

彼らは、表面的には、個人の人権の尊重とか、欧米民主主義のお題目を唱えることに熱心である。彼らは忠実に欧米理論の理解を行っていると見て良い。しかし、彼らは、欧米から教わったそのお題目から外れた独自の工夫とか発展を行う能力がほとんどない。いわば、欧米理論をそのままの形で直輸入状態で理解はするものの、そこから逸脱した形で、日本社会により適合した理論を作ろうとかいう考えや能力は持ち合わせていないのである。

というか、彼らは、欧米理論を自分たちより格上で「正しい」ものと思い込んでいるため、欧米理論を勝手にいじる、批判することなど、彼らには恐れ多くて出来ないのである。その点、彼らは、欧米に対する大きな劣等感の持ち主である。

彼らは、世界の各社会についての格上、格下の格付け、ランク付けと、その中で自分たち日本がどの高さにいるかについて心理的にうるさい、「格付け」症候群とでも呼べるような心理を持ち合わせている。彼らが大学入学に至る教育過程で慣れ親しんできた相対評価の「偏差値」重視、大学や会社、官庁の相対的な格付けに熱心な考え方が、世界の各社会や、各社会が生み出す理論に対しても適用されていると考えられる。

彼らのやっていることは、世界の各社会、国、文化を、偏差値でランク付けしているようなものである。要は、彼らの頭の中に、「国際偏差値」みたいな、国際社会の各国を偏差値でランク付け、格付けする意識が存在するのだ。彼らの心の中では、欧米が高くランク付けされ、というか偏差値が高く、アジアは低い。そして日本の偏差値が、欧米レベルに近づいて、他のアジア諸国を見下ろす優位な位置に付ければ、喜ぶのである。

というか、そうした日本の偏差値が欧米並みへと向上すること(と他のアジア諸国に対して偏差値の面で優位に立つこと)への喜びが、彼らの、欧米理論を日本へ熱心に直輸入しようとする動機付け、原動力となっていると考えられる。格付けの高い欧米理論を日本に直輸入し、直ちに適用することが、日本の国際社会における進歩性や格付けを高めることに大変役立つ、自分たちは正しいことをやっているのだという認識があるのではなかろうか。

彼らは「正しい」「格上の(偏差値高ランクの)」欧米理論の日本における嫡流であろうとして、欧米理論に対して高い権威付けを行い、それを欧米人の考えた「正解通りに」忠実に(現状格下の)日本社会に移植しようとする。これが、日本社会への欧米理論の機械的な直輸入が起きる原因である。

彼らにとって、欧米理論は、それと自らを一体化することで自らの格付けを直ちに飛躍的に高めて、日本社会における一般大衆より上に優位に立ち、手っとり早く自らの権勢欲や支配欲を充足するための「使える」ツールであると共に、自らの属する日本社会そのものの格付けを上げて、自分たちの社会を国際社会の中で高い偏差値を持たせて、自分たち日本は、(アジア諸国に対して)格上だというプライドを満足させるための「使える」ツールなのである。

彼らは、何事を考えるにも、欧米の基準で考えようとする。欧米人の作り出した基準を、一様にグローバルな国際標準だと見なして、それに忠実に追随しようとする。欧米社会を優れており、自分たちより格上であると見なし、欧米の基準が世界の基準だと考えるのである。


こうした、欧米理論の日本社会への機械的直輸入が、従来の伝統的な日本的価値の否定につながることから、伝統的な日本社会を愛好し、その中にどっぷり浸りつつ、そのことを肯定的に考えるもう一つのタイプの学者による批判を生み出している。

このタイプの学者は先ほどの洋式を重んじる「洋学者」に対して和式を重んじる「国学者」と呼べるタイプであり、伝統的な旧軍部(陸軍)や右翼と心理的基盤を同一にする人々である。

彼らは、昔から日本社会に精神的、軍事的支配者として君臨してきた天皇家や将軍家(徳川氏とか)を中心に捉え、日本を欧米を含む諸外国よりも格上と見なし、排外的な尊王攘夷論を振りかざす人たちである。天皇を中心とする伝統的な日本文化をこよなく愛好し、それらと一体化、同一化し、高い権威をそれらに与え、神社や仏閣回りを好むタイプの人たちだ。

たとえて言うなら、欧米流のフェミニズムを性急に日本社会に導入しようとする「洋学派」に対して、お母さんやお袋といった母性の日本社会における復権、強化を主張するのがこの「和学派」だ。彼らは、伝統的日本の価値観を最上の格上のものとみなし、そのことを諸外国に対して、ひたすらワンパターンに主張し、隙あらば、周囲の諸国に対して再び精神的、軍事的に侵攻し、伝統日本の国際社会における支配範囲を広げようとするのである。

その他、若干少数者ではあるが「漢学者」もいる。欧米がアジアに進出してくる前は、長い間中国(漢民族)が日本にとって支配的な格上社会であったため、中国の制度や文化を崇拝し、日本社会に降ろそうとするタイプである。より格上の外国から日本に制度や文化を直輸入しようとする点、「洋学者」とタイプが同じである。昨今の中国の隆盛に伴い、再び息を吹き返しそうである。


日本の学者に、この「洋学者」「国学者」(これに加えて「漢学者」)の2~3タイプしかいないみたいなところが、実は問題なのである。なぜ問題か。それは、今の日本には、欧米と日本とが互いに別次元にある全く別物の文化であり、それゆえ、格上も格下もない、比較の対象とならない、ある意味対等なものとして相互に尊重し合うというか、欧米と日本のそれぞれを、そのどちらにも巻き込まれずに自分から突き放して、距離を置いて、離れた場所から客観的に冷静に捉える、分析するという考えのタイプの学者が余りいないということだ。

要するに、今の日本の学者は、欧米、中国、日本といった社会対象のいずれかに精神的にすっかり入れ揚げて情緒的に崇拝、信仰する形となり、それぞれに対して突き放した冷静、客観的な視点が持てていない。彼ら日本の学者が、行動タイプとして、ターゲットに心理的に近づき、互いに一体・融合化して和合状態に入ることを指向する液体タイプであるが故の限界である。突き放して冷静に観察して合理的に判断を下すには、特定の文化に肩入れしない、所属しない客観的な判定者としての態度を取ることが必要である。欧米もこの点では、自国文化を優越したものと考え、それを信仰して、他国へと自国文化を押しつける身びいきの考え方、行き方から抜けきれていないように思われる。

特に、「洋学者」のように信仰する対象が欧米の場合、そのままでは日本の社会に当てはまらない欧米の気体的な社会制度を、無理やり正反対の液体的な日本に押し込もうとすることにつながるので危険である。また、彼ら自身、欧米の気体的な文化を、それとは対照的な液体的な日本的やり方で消化吸収し学習しているという矛盾した行動を取っていることに気付いていない、気付けていないのは問題である。

こうした問題をなくすには、彼ら自身が、自分たちが本来見下しているはずの日本的ムラ社会の住人であることを自覚して、自分たちがふだんどういう価値観で行動しているか、現場観察なりフィールドワークとかを行って自らを振り返ることが必要だと考えられる。その点、日本的ムラ社会、稲作農耕社会の研究、フィールドワークとその結果の体系化、理論化が必要である。日本的ムラ社会は、液体として捉えられると考えられる。

気体、液体タイプについての説明しているサイトはこちらです。


また、何かにつけて、彼らの頭の中に、格上格下の格付け意識、相対評価の序列意識が頭をもたげてくるところも問題である。こうした格付けは、世界の社会・文化を、自分たちが中心に据える、一次元の格付け評価次元(欧米中心、中国中心、日本中心・・・)の中に何がなんでも落とし込もうとする行為であり、本来多様な世界の社会、文化を、何かしらの社会を格上とする単一の視点でしか見られなくなってしまう欠点を有する。

この点は、欧米も、自分たちの文化を対外的にアピールするために、自分たちのことを必要以上に理想化してきれいごとを言っている面もあり(例えば、個人の人権の尊重を謳いながら、人種差別があったり、階級があったり、自由競争偏重で、負け組の人たちが厳しい非人間的な生活を強いられる等)、実態との乖離がかなりあると考えられ、彼らの宣伝と実態が合っているかどうかを確認する必要があるのではないか。これは、彼らを伝統的な牧畜民と見なし、そのフィールドワークをすることとして捉えられる。

東大万能幻想

日本社会では、東京大学を出た人間は、優秀で、何でもできる万能人間であるかのような捉え方をする風潮がある。

しかし実際には、彼らは、ある偏った特定の内容のタスクしか、うまくこなすことができない。

彼らが優位に立てるのは、既に正解のある分野における、分かりにくい難解な事項を理解、吸収、小改良を行うことに限られる。

彼らは、学習、暗記すべき正解が確立されている分野でのみ有能であり、未開拓のベンチャー的な分野においては、あまり能力がないと考えられる。

格差社会と伝統社会

現代の日本社会は、格差社会であるとされる。

その格差は、規制撤廃や自由競争の結果起きたと言われ、議論が、格差をなくすためには再び規制を強化すべきという方向に向かっているように思われる。

しかし実際のところ、こうした格差は、日本社会が伝統的なままのため起きた、生じたと考えるのが正しい。

格差が生じた理由は2つあり、一つは、企業や官庁が、就職氷河期とかでやむを得ずいったんフリーターになった人を、なかなか正社員として雇わず、派遣労働者といった形で低賃金で差別雇用するところにある。

企業や官庁は、新卒や既に他の会社で正社員の経歴の長い人しか採用しない。そうした、未だに特定会社の色の付いていない新卒者のみを自社の生え抜きの社員として採用し育成しようとか、かつて正社員としてちゃんと働いていた所属身元の確かな人のみを採用しようとかいったように、学生の身分から正社員の身分へと失敗なくうまく渡ることができる、あるいはかつてできた人しか採用の対象としない、伝統的な所属重視の考えが、格差を生んでいるのである。

もう一つの格差は、大都市と地方の格差である。大都市が比較的好況で資金的に潤っているのに対して、地方は不況であり、浮上できていない。

では、地方に対して何にも対策が打たれていなかったのかというと、決してそうではなくて、大量の公共事業費が投入され、それでもなおかつ浮上できていないのである。かつ、公共事業費を投入した官庁や自治体は、投資を回収できないまま財政難に陥っている。こうした点、地方は、ひたすら公共事業費を吸い込むだけで、自ら経済発展につながるようなアウトプットをほとんど出せない「ブラックホール」と化している。

では、なぜ地方は「ブラックホール」と化して、浮上できないのか?それは、地方社会の持つ伝統的な体質に原因があると筆者は考える。

地方は、地縁、血縁といったコネが張りめぐらされた、相互監視のネットワーク社会である。皆、周囲の相手に対して強力な興味を抱いており、何かと他人に対するうわさ話が好きだったり、お節介、過干渉である。人々は、うわさになるのを気にして、自分からは積極的に動きにくい。

さらに、何事も大過なしを良しとする、減点主義の体質があり、何かやらかして失敗すると、長期に渡って陰湿なうわさ話、陰口の対象となってしまうので、率先して新しいことをすることが難しい。今までどおりのことを、周囲に合わせて行う、前例、しきたりで動く社会となる。

また、妬みの精神が横行しており、誰かが何かプラスのことをして成功すると、何かと妬まれ、やっかみを持たれて、足を引っ張られてしまう。

また、自分からは何もしない、考えない、受け身の体質があり、お上(官庁)が何とかしてくれるという「お上頼み」の考え方が根強くある。官庁に依存し、たかり、甘えて、かつ自分からは、吸い取るばかりで、何かを積極的に提供しようとする考えが薄い。

地方が浮上するためには、社会が、東京、大阪のような匿名性を持つことが必要なのではないだろうか。ふだんは放っておいてくれ、干渉しない気楽さと、噂を気にせず、自由に積極的に動くことができる社会環境を、地方に生み出すことが、地方が「ブラックホール」状態から抜け出すのに必要なのではなかろうか。

入試と液体

日本社会は、学校にしろ、会社・官庁にしろ、入学試験や入社試験といったように、集団、団体に加入する際に試される度合いが大きいというか、大きなパワーを必要とする。

これは、集団、団体が、液体特有の表面積を最小化する表面張力みたいなものが働いているため、外部に向かって閉じており、そうした閉じた空間に割って入るためには、高い負荷の課題をクリアするよう「試され」、そのために大きなパワーを必要とすることを表している。

その点、入学試験、入社試験が厳しいことは、それだけその集団、団体が液体的であることを示していると言える。

日本社会で、学校の入学試験、会社・官庁の入社試験が大変なのは、日本社会の体質が液体的であることの証拠であると言える。


液体タイプを示す動画↓(液体分子運動シミュレーション)



液体タイプについての説明しているサイトはこちらです。

日本の学者による現実社会把握の失敗について

現在の日本の社会学、女性学においては、女性のみならず、男性のジェンダー学者が少なからず存在し、日本社会における女性差別の撤廃と、女性の勢力拡大を、女性の学者、運動家と一緒になって声高に叫んでいる。

はっきり言って、彼らは、母が支配する社会としての日本社会の現状を完全に取り違えており、日本社会を女性の立場が悪い社会と誤解しているのである。

これらの男性学者たちは、日本社会において、自分たち男性が置かれている立場の悪さに気付かず、自分たちを社会的強者、優位にある者として、より劣位にあるとする女性たちに慈悲的に接しようとしているのである。

彼らの心の奥底では、男性が女性よりも弱いことを認めることのできないプライドの高さがあり、その点、彼らが表立っては否定している男尊女卑に、彼らは強く染まっていると言える。女性差別撤廃を声高に叫ぶことで、彼らは、日本社会における女性の弱さを再確認したつもりになり、そのプライドを満足させているのである。

こうした、姑や母といった女性たちが強権を握っている日本社会の実情を正しく捉えることに失敗しつつ、そのことに気付かず、女性が弱い社会と見なし続ける彼ら男性学者たちの姿は、滑稽であり、冷笑の対象としてふさわしいものである。

興味深いのは、彼らのような、日本社会の現実の把握に失敗する学者がなぜ次々と輩出するのかということである。


彼ら男性学者は、基本的に、明治時代以来変わらない日本の学者(特に天皇家の御用学者)の伝統的な役割である、先進欧米理論の消化吸収と小改良、日本社会への導入、当てはめの役割にひたすら則っているのである。

彼らは、自らは、独自の正しい理論を生み出す力を持たない。彼らは、欧米を、「正しい」「正解の」理論の供給基地と見なし、「欧米=先生」という図式に基づいて、フェミニズム、ジェンダー理論のような欧米理論を何も考えずにひたすら導入する。欧米理論から離れて、自ら独自の理論を打ち出して主張することは、先生役である欧米を乗り越えようとする一種の越権行為と見なされ、学者仲間から足を引っ張られることになる。

彼らは、欧米理論を「正解」ないし「権威ある正しい学説」と見なし、その理解と暗記、小改良と日本社会への導入、当てはめに夢中になる。

それは、伝統的な大学入試や学者登用の試験に向けて、手っとり早く既存の「正解」を求める教育を受けてきた彼らにとっては、ごく自然な、疑問の余地のない行き方なのである。

ジェンダー理論のように、その当てはめの対象となる社会領域のあり方が、欧米と日本とで女性の持つ社会的勢力が大きく異なるといったように社会の実情が大きく異なる場合、欧米理論を日本社会に直輸入しようとする行為は、そもそも元々一定条件下でのみ有効であり、その条件の元で使用されていた化学薬品等を、それらとは性質の異なる条件の現場に対して、その性質や条件の違いを認識しないまま、投入するのと同じであり、危険な自殺行為となる。その危険を、彼らは、ほとんど認識しないまま、欧米産の「正解」理論を日本に広める第一人者となって尊敬を受けようと必死になって、欧米理論を日本に導入するのである。


彼らは、自分が真っ先に目を付けてシンパになった先進欧米理論を日本社会に、その理論の第一人者となって広めることができ、それによって自分の名声が上がればそれでよいのであり、ジェンダー理論も、自分たちの名声を上げるための手っとり早い道具なのである。

彼らにとって、日本社会の現状ははっきり言ってどうでもよいのである。彼らは、自分たちが導入しようとする欧米の理論に合わせた形で、日本社会の現状を曲げて把握する。

これは、ジェンダー理論についても同様であって、彼らは、自分たちが導入しようとする欧米のジェンダー理論、フェミニスム理論に合わせた形で、姑や母が社会的に大きな勢力を持つ日本社会を「正しく」曲解するのである。

欧米のジェンダー理論は、女性の立場が弱いことを前提とした理論であり、彼らはそれを日本社会に導入するに当たって、日本社会において女性が弱いと考えればうまく直輸入でき、理論の日本への第一の最先端の紹介者となれておいしい思いができて好都合だと考える。そこで、日本の女性のことを、自分たちが導入する「正しい」「正解の」欧米理論に合わせて、社会的に弱い存在だということにしようと半ば無意識のうちに考えるのである。

そして、日本女性が弱いことを示す証拠のみを専ら集めようとする。その際、日本社会において、表面的に男性が女性よりも威張っている男尊女卑とかに着目する。男尊女卑は、自分たちが導入しようとする欧米理論に合致した現象なので、それを見て「やはり自分の導入しようとする欧米理論は正しいのだ。自分たちはその先進理論を導入し、日本社会に対して啓蒙者となり、社会改革の最先端を行って皆の注目を集めるのだ。」と自己陶酔に陥る。

そうして、日本社会において、女性が男性よりも強いことを示す証拠は、意図的というか半ば無意識のうちに無視するのである。

その証拠に、彼らの書く論文や書籍には、日本社会が母子間の紐帯、癒着が強く、子どもが母の意を自発的に汲んで動く動く形で母が社会を支配している母性社会であるとか、日本の国民性がとかく受け身で、相互の和合や一体感を重んじる女性的な雰囲気を強く持っており、女性優位であるとか、家庭の財布の紐を握るのが夫ではなく妻や姑(夫の母)であるとか、家庭において、男性と子どもとの間の結びつきが薄く、子どもを教育する権限は女性が独占しているといった、女性が日本社会を支配する側面は、ほとんど出てこない。


日本の女性(嫁や嫁になる予定の娘さんたち)は、本当は姑を批判したいのだけれど、それができないので、心理的な捌け口を求めて、男性を批判しているという点にも彼らは気付かない。


こうした欧米理論の日本社会への強引な、機械的な直輸入と、輸入に伴う矛盾点の無視を行うこと自体、欧米理論を権威ある正解と見なして、それと心理的に一体化して、信仰の対象とし、この理論に付いていけば大丈夫だと考え、その理論のシンパとなって、理論を頼りにし、心理的に依存しよう、甘えようとする女性的な態度に基づくものであり、母性に支配されていることの証と言える。なおかつ、当の理論を直輸入しようとする本人は、そのことに気付かないまま、自分自身に対しても矛盾している欧米理論をひたすら信仰している点、心理的に矛盾、ねじれを内包していると言える。


彼らはまた、自分の性向が受け身であり、自分からは変われない、新たな機軸を生み出せないのを、欧米理論を身にまとって、自ら改革者になった、変わったつもりでいるのである。そして、自分を改革者としてアピールしようとするのである。

戦後の日米関係と農耕民、遊牧・牧畜民関係

戦後の日米関係は、太古からある遊牧・牧畜民と農耕民との対立、相互依存の関係の一例に過ぎない。

隣の中国では、北方系の遊牧民族が、南方の農耕民である漢民族を襲って、支配王朝を樹立することが頻繁に起こったが、それと同じことが、戦後日本に起きたと言える。

要は、ドライに高速に自由に動き回る、機動性に富んだ遊牧・牧畜民のアメリカが、ウェットで鈍重な農耕民の日本を、外部からの急襲して、支配下、影響下に置き、日本人が生み出す富を適宜収奪すると共に、自らが得た新しい知見、技術を日本に友好的に供与するという関係を築き、それが現在まで続いているのが、戦後の日米関係であると言える。

2007年11月27日

きれいごとが好きな日本人

この国の人は、耳当たりのよい、心地よい、きれいな美しい響きや感じのする標語とかスローガンに弱い。

核兵器のない恒久平和とか、信頼と友好とか、平等で差別ない社会の実現とか、実際には、実現するのは不可能なのに、そうしたキャッチフレーズというか美辞麗句に酔ってしまっている。そして、民主主義とか、高尚な理想論をひたすら並べ立てて、あたかも実現可能なような錯覚に自分たちで勝手に陥っている。そして、実際には、何も実現できないままで終わってしまう。

この国の人は、もっと厳しい冷たい現実を見るべきだ。というか、人間の持つ汚い、なりふり構わない、きれいごとでは済まされない本性をもっときちんと把握し、研究すべきだと思う。また自分たち自身も、そうした人間の本性に従っていることをもっと自覚すべきだ。

そうした冷酷な突き放した現実把握が苦手で、そうするよりも、きれいな心地よい理想論を打ち上げて、それに一緒に共鳴して互いの快い一体感を味わうのが好きというのが、この国の人の本性だろう。なので、今後も、きれいごとを言うのが続くのではあるまいか。

また、こうした見かけや感触のきれいさ、美しさ、心地よさを大事にするのは、女性的な特質であり、野卑な直接的言動を好む男性的性質とは反対である。その点、日本の人たちは女性的と言える。

About 2007年11月

2007年11月にブログ「ブログ 日本らしさの分析」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2007年08月です。

次のアーカイブは2007年12月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。