Sponsored Link

« 液体タイプ社会向け民主制研究の必要性 | メイン | 東大万能幻想 »

欧米理論の日本社会への機械的直輸入


日本の、特に進歩的と呼ばれる学者、役人たちは、より進んでいると考えられる欧米理論を、日本に導入するために、我先にと理論着想元の欧米学者のもとに心理的に群がっているのが現状である。

そうした彼らの致命的な欠点は、自分たちの足元が見えない、「灯台もと暗し」を地で行っている点にある。つまり、欧米社会の方ばかり見ていて、自分たちが本来どういう社会の中に住んでいるか、どういう世界の住人であるかについての自覚が足りないのである。

彼ら、進歩的学者、役人とされる人々も、実際には、伝統的な日本のムラ社会の住人のままであることがほとんどである。彼らは、いわゆる旧帝国大学の学閥とか官庁一家の派閥に属し、師弟関係、先輩・後輩関係といった家族的でウェットな、液体的上下関係の中に生きている。

問題なのは、彼ら自身は、そうした伝統的日本的人間関係、社会ネットワークの中にどっぷりと浸ったままの状態でいながら、そのことをほとんど自覚せずにというか別腹で、自分たちの現状とは相容れないはずのドライな欧米理論を、進歩的であるとしてやたらと盲目的に崇拝し、そのままでは合わない日本社会にそのまま持ち込みたがることである。

なぜ、彼らはそうしたがるのか。彼らの深層心理では、欧米が格上で優れており、日本が格下で劣っていると見なし、自分たちが格上とする欧米と心理的に同化することで優位に立ち、伝統的日本のムラ社会に生きる一般大衆を下位に見下そうとする心理が働いているのは事実であろう。

早い話が彼らは、欧米を上に見て伝統日本を下に見て、そして上位の欧米を崇拝し、欧米と心理的に同化することによって、自ら上位に立とうとする、欧米の権威に弱く、見栄っ張りで、人より上位に立ちたいプライドや支配欲の強い人々なのだ。そうした彼らにとって、欧米理論は、手っとり早く自らの権勢欲や支配欲を充足するための「使える」ツールなのである。

彼らは、表面的には、個人の人権の尊重とか、欧米民主主義のお題目を唱えることに熱心である。彼らは忠実に欧米理論の理解を行っていると見て良い。しかし、彼らは、欧米から教わったそのお題目から外れた独自の工夫とか発展を行う能力がほとんどない。いわば、欧米理論をそのままの形で直輸入状態で理解はするものの、そこから逸脱した形で、日本社会により適合した理論を作ろうとかいう考えや能力は持ち合わせていないのである。

というか、彼らは、欧米理論を自分たちより格上で「正しい」ものと思い込んでいるため、欧米理論を勝手にいじる、批判することなど、彼らには恐れ多くて出来ないのである。その点、彼らは、欧米に対する大きな劣等感の持ち主である。

彼らは、世界の各社会についての格上、格下の格付け、ランク付けと、その中で自分たち日本がどの高さにいるかについて心理的にうるさい、「格付け」症候群とでも呼べるような心理を持ち合わせている。彼らが大学入学に至る教育過程で慣れ親しんできた相対評価の「偏差値」重視、大学や会社、官庁の相対的な格付けに熱心な考え方が、世界の各社会や、各社会が生み出す理論に対しても適用されていると考えられる。

彼らのやっていることは、世界の各社会、国、文化を、偏差値でランク付けしているようなものである。要は、彼らの頭の中に、「国際偏差値」みたいな、国際社会の各国を偏差値でランク付け、格付けする意識が存在するのだ。彼らの心の中では、欧米が高くランク付けされ、というか偏差値が高く、アジアは低い。そして日本の偏差値が、欧米レベルに近づいて、他のアジア諸国を見下ろす優位な位置に付ければ、喜ぶのである。

というか、そうした日本の偏差値が欧米並みへと向上すること(と他のアジア諸国に対して偏差値の面で優位に立つこと)への喜びが、彼らの、欧米理論を日本へ熱心に直輸入しようとする動機付け、原動力となっていると考えられる。格付けの高い欧米理論を日本に直輸入し、直ちに適用することが、日本の国際社会における進歩性や格付けを高めることに大変役立つ、自分たちは正しいことをやっているのだという認識があるのではなかろうか。

彼らは「正しい」「格上の(偏差値高ランクの)」欧米理論の日本における嫡流であろうとして、欧米理論に対して高い権威付けを行い、それを欧米人の考えた「正解通りに」忠実に(現状格下の)日本社会に移植しようとする。これが、日本社会への欧米理論の機械的な直輸入が起きる原因である。

彼らにとって、欧米理論は、それと自らを一体化することで自らの格付けを直ちに飛躍的に高めて、日本社会における一般大衆より上に優位に立ち、手っとり早く自らの権勢欲や支配欲を充足するための「使える」ツールであると共に、自らの属する日本社会そのものの格付けを上げて、自分たちの社会を国際社会の中で高い偏差値を持たせて、自分たち日本は、(アジア諸国に対して)格上だというプライドを満足させるための「使える」ツールなのである。

彼らは、何事を考えるにも、欧米の基準で考えようとする。欧米人の作り出した基準を、一様にグローバルな国際標準だと見なして、それに忠実に追随しようとする。欧米社会を優れており、自分たちより格上であると見なし、欧米の基準が世界の基準だと考えるのである。


こうした、欧米理論の日本社会への機械的直輸入が、従来の伝統的な日本的価値の否定につながることから、伝統的な日本社会を愛好し、その中にどっぷり浸りつつ、そのことを肯定的に考えるもう一つのタイプの学者による批判を生み出している。

このタイプの学者は先ほどの洋式を重んじる「洋学者」に対して和式を重んじる「国学者」と呼べるタイプであり、伝統的な旧軍部(陸軍)や右翼と心理的基盤を同一にする人々である。

彼らは、昔から日本社会に精神的、軍事的支配者として君臨してきた天皇家や将軍家(徳川氏とか)を中心に捉え、日本を欧米を含む諸外国よりも格上と見なし、排外的な尊王攘夷論を振りかざす人たちである。天皇を中心とする伝統的な日本文化をこよなく愛好し、それらと一体化、同一化し、高い権威をそれらに与え、神社や仏閣回りを好むタイプの人たちだ。

たとえて言うなら、欧米流のフェミニズムを性急に日本社会に導入しようとする「洋学派」に対して、お母さんやお袋といった母性の日本社会における復権、強化を主張するのがこの「和学派」だ。彼らは、伝統的日本の価値観を最上の格上のものとみなし、そのことを諸外国に対して、ひたすらワンパターンに主張し、隙あらば、周囲の諸国に対して再び精神的、軍事的に侵攻し、伝統日本の国際社会における支配範囲を広げようとするのである。

その他、若干少数者ではあるが「漢学者」もいる。欧米がアジアに進出してくる前は、長い間中国(漢民族)が日本にとって支配的な格上社会であったため、中国の制度や文化を崇拝し、日本社会に降ろそうとするタイプである。より格上の外国から日本に制度や文化を直輸入しようとする点、「洋学者」とタイプが同じである。昨今の中国の隆盛に伴い、再び息を吹き返しそうである。


日本の学者に、この「洋学者」「国学者」(これに加えて「漢学者」)の2~3タイプしかいないみたいなところが、実は問題なのである。なぜ問題か。それは、今の日本には、欧米と日本とが互いに別次元にある全く別物の文化であり、それゆえ、格上も格下もない、比較の対象とならない、ある意味対等なものとして相互に尊重し合うというか、欧米と日本のそれぞれを、そのどちらにも巻き込まれずに自分から突き放して、距離を置いて、離れた場所から客観的に冷静に捉える、分析するという考えのタイプの学者が余りいないということだ。

要するに、今の日本の学者は、欧米、中国、日本といった社会対象のいずれかに精神的にすっかり入れ揚げて情緒的に崇拝、信仰する形となり、それぞれに対して突き放した冷静、客観的な視点が持てていない。彼ら日本の学者が、行動タイプとして、ターゲットに心理的に近づき、互いに一体・融合化して和合状態に入ることを指向する液体タイプであるが故の限界である。突き放して冷静に観察して合理的に判断を下すには、特定の文化に肩入れしない、所属しない客観的な判定者としての態度を取ることが必要である。欧米もこの点では、自国文化を優越したものと考え、それを信仰して、他国へと自国文化を押しつける身びいきの考え方、行き方から抜けきれていないように思われる。

特に、「洋学者」のように信仰する対象が欧米の場合、そのままでは日本の社会に当てはまらない欧米の気体的な社会制度を、無理やり正反対の液体的な日本に押し込もうとすることにつながるので危険である。また、彼ら自身、欧米の気体的な文化を、それとは対照的な液体的な日本的やり方で消化吸収し学習しているという矛盾した行動を取っていることに気付いていない、気付けていないのは問題である。

こうした問題をなくすには、彼ら自身が、自分たちが本来見下しているはずの日本的ムラ社会の住人であることを自覚して、自分たちがふだんどういう価値観で行動しているか、現場観察なりフィールドワークとかを行って自らを振り返ることが必要だと考えられる。その点、日本的ムラ社会、稲作農耕社会の研究、フィールドワークとその結果の体系化、理論化が必要である。日本的ムラ社会は、液体として捉えられると考えられる。

気体、液体タイプについての説明しているサイトはこちらです。


また、何かにつけて、彼らの頭の中に、格上格下の格付け意識、相対評価の序列意識が頭をもたげてくるところも問題である。こうした格付けは、世界の社会・文化を、自分たちが中心に据える、一次元の格付け評価次元(欧米中心、中国中心、日本中心・・・)の中に何がなんでも落とし込もうとする行為であり、本来多様な世界の社会、文化を、何かしらの社会を格上とする単一の視点でしか見られなくなってしまう欠点を有する。

この点は、欧米も、自分たちの文化を対外的にアピールするために、自分たちのことを必要以上に理想化してきれいごとを言っている面もあり(例えば、個人の人権の尊重を謳いながら、人種差別があったり、階級があったり、自由競争偏重で、負け組の人たちが厳しい非人間的な生活を強いられる等)、実態との乖離がかなりあると考えられ、彼らの宣伝と実態が合っているかどうかを確認する必要があるのではないか。これは、彼らを伝統的な牧畜民と見なし、そのフィールドワークをすることとして捉えられる。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://iotsuka2.s203.xrea.com/mt/x/mt-tb.cgi/393

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2007年11月22日 11:37に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「液体タイプ社会向け民主制研究の必要性」です。

次の投稿は「東大万能幻想」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。