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2008年06月 アーカイブ

2008年06月21日

パクリ、コピー文化とオリジナル、ユニーク文化

日本とか、中国、韓国とかは、他人の作った製品をどんどん真似して、コピーして、そこに少し改良を加え、自分なりの変化を付けて、製品の完成度をどんどん上げるのが得意である。

日本のような母性、女性の力が強い液体タイプの社会では、互いの間の一体感の確保、維持が何よりも重要となる。周囲との一体化、協調が重視されるのである。

そのように互いに相手と同一化し、みんな一緒で一体化し、くっつくには、相手と同じになること、相手の真似をして、コピーする、パクることが必須である。相互の一体感、包含感を重視する母性、女性が好きな考え方である。母性、女性文化、液体タイプの文化の本質は、パクリ文化、コピー文化と見つけたり、というところである。

もっとも、相手と全く同じだと没個性で、埋没して目立たないのは嫌なので、大本はコピーで、そこに自分なりの味付けを少しだけ表面に付けることで、自分は他人と違うというオリジナリティを持った気になっている。周囲と同じミニスカートをはいて、色だけをちょっと変えるとかである。その点、「プチ・オリジナリティ」「プチ独自性」の主張や、「プチ独創」が好きであると言える。

日本のような母性社会では、著作物や発明はみんなのもの、皆の共有物であり、パクリは決して悪いことではない。というか、パクリ、他人の物まねは相互の一体感維持のためにどうしても必要なのである。重視されるのは自他同一、自他世界の共有であり、日本文化は「同一・共有指向」と言える。

これに対して、父性の力の強い気体タイプの欧米社会では、互いに他人の真似をするのを好まない考え方が根強い。最初にアイデアを考えついた人を優先すると共に、自分は他人の世界を真似せずに独自の世界を自分で切り開くんだという考えがある。これは、「オリジナル、ユニーク指向」と呼べる。

これは、他人と自分は違うんだ、別々だということが前提の考え方である。他人と自分を切り離し、自由とプライバシーを得る反面、何でも自己責任になり、失敗しても他人のせいに転嫁できない、厳しい世界である。自他の絆を切断する父性文化の申し子である。

欧米のような父性社会、気体タイプの社会では、著作物や発明は著作者、発明者個人のもの、個人のユニークなものであると捉えられる。重視されるのは、自他の区別、差別化、自分独自のオリジナルな世界の構築であり、「相違、個人帰属指向」と言える。

オリジナルを指向するとは、他人と違うことをやるということであり、周囲との一体感がなくなるので、周囲との相互一体感を重視する日本のような母性社会においては由々しき問題である。それ故、日本社会では、欧米社会との協調を図るため、口先では、独創性の重視を唱えつつも、独自性にこだわって周囲と協調しない輩を「出る杭を打って」排斥するのが常である。

日本で個人の自由、プライバシーを守るには

日本のような液体タイプのムラ社会で個人の自由、プライバシーを守るにはどうしたらよいか?

それは、できるだけ人付き合いをしないことである。自分の周囲に一定の他人の入ってこれない空き領域を確保することである。

いったん、うっかり周囲と付き合うと、周囲のベタベタした、母の羊水のような液体の中に呑み込まれてしまい、脱出できなくなってしまう。物見高い、噂、陰口と監視、告げ口の対象となり、プライバシーは二度と帰ってこない。絶えず他人に見られているという感覚が生まれ、人目を気にして、恥ずかしいという、恥の感覚にさいなまれ続けることになる。これは避けるべきである。

でも、何らかの人付き合いをしないと、生きていく上で必要な情報が入ってこない。それをどうするか?

それは、匿名の生活ネットに参加することで解決する。互いの煩わしい相互監視を避けながら、緩やかに連帯して、互いに情報提供をして助け合うことが必要である。この点、「まちBBS」のような匿名地域生活BBSが威力を発揮することになる。

日本人を見たら女だと思え

外国の人には、日本人を見たら女だと思え、とアドバイスするのがよい。
日本人は、一見、男でも、中身の行動様式は、母親に支配されて、すっかり女性化しているのである。

男尊女卑で男性が威張っているのと、フェミニストによる「日本は男社会」という宣伝によって、日本はすっかり男中心の人々というイメージになっているが、これは間違いである。

液体的で、集団、団体行動を好み、相互一体感の維持、協調性にうるさくて、相互監視の行き届いた、陰口をたたき合う、足の引っ張り合いが大好きな、といった日本的ムラ社会の特徴は、全て女性の特徴と重なっているからである。日本的ムラ社会は女社会である。

逆に、気体的な個人主義、自由主義の欧米人は、たとえ女性であっても、男として扱うべきだ。彼らは、父親の支配下にあり、男性化しているからである。

日本社会の基盤としての「母」

日本の女性たちは、「母」となって、自分たちが社会の基盤、下部構造を支配しつつ、表面的には男性たちを上部に立てて、「男性上位」と外部に対して見せかけている。

社会において男性が上部に浮き上がって表面的に活躍する一方、女性が下部を押さえて、どっしりと社会の根幹、基盤を支配しているのが、日本社会の現状である。

日本の男性たちは、母の手のひらの上で踊っているだけである。

「見かけ、表層は男社会、実質女社会」が、日本社会の実態と言える。

「相互チェック社会」日本における匿名掲示板の効用

2ちゃんねるとかの匿名掲示板においては、匿名同士の緩やかで自由なつながり、連帯が得られる。同じ興味、関心を持つ者同士、同じスレッドの「住民」となって、知らない同士が助け合うことができる。

これは、日本的ムラ社会、あるいはソーシャルネットワーキングサービスのmixiと言った、相互の一体感、相互に相手の注意を引き、相手に気に入られることを求める余り、互いに相手が自分の日記とかにコメントしてくれたかどうかを、うるさく気にしてチェックする「相互チェック社会」に陥って、精神的自由が失われることへのアンチテーゼとして作用しているのである。

むろん、匿名掲示板では、荒らし、煽りが絶えず発生し、アンチ同士で叩き合いを果てしなく続けることで精神的に凹むことも起こりやすいのであるが、それでも、とかく日本人を牛耳りやすい周囲の意向や物見高い監視の目を気にせずに、自分の言いたいこと、本音を言える、ぶつける言論の自由が確保されていることは、根本的なところで精神的な自由を、日本人にもたらしており、精神的な健康につながっていると言える。

皆の前で・・・

液体的な母性社会の住人である日本の人たちは、閉鎖的、排他的なムラや内輪の中で、周囲の人々と互いに一体化して、相互に引力で引き合うようにして生きている。

そのため、何かにつけて、周囲の目や意向を気にする、周囲の空気を読むことに必死になることになる。日本社会は、周囲に対する感度が強いことが求められる「センサ社会」であると言える。

日本社会は、周囲に見張られている「相互監視社会」であり、他人に見られて恥ずかしいという感覚が強い「恥の文化」である。「見られている」という感覚が強い、他人の視線を絶えず気にする、また他人のすることに関心が高く、他人に視線をよく向ける「視線社会」である。

日本人は人前でのプライドが高く、見栄っ張り、いい格好をしがちで、人前で自分にケチや傷が付くのを嫌う傾向がある。

何をするにも、「人前で」「皆の前で」うまく立ち回って、恥をかかないようにしよう、面子を保とうと必死になる。

何をするにも、周囲の視線が気になり、「皆の前で」という前置詞みたいのが必ずついて回るのである。

すなわち、

皆の視線が怖い。皆にどう思われるかが心配である。自分に悪い噂が立つ、陰口されるのが怖い。

皆の前で間違う、失敗するのが怖い。恥をかくのが怖い。間違っても目立たない、周囲にばれないのがよい。マイナス面で皆に注目されたくない。

自分だけが知らないのが怖い。周囲が知っていて自分が知らないことがばれるのが怖い。知ったかぶりをしたい。パソコンとか、初めて触って、操作しても、そのことがばれずにすぐに知ったかぶりができるのがよい。

皆の前で難しいことができているように見せたい。あんなことできるなんて凄いねと褒められたい。皆の前でいい格好をしたい。威張りたい。自慢したい。進んでいると思われたい。プラス面で注目されたい、目立ちたい。

崩れない年功序列

よく、成果主義の進展で、日本的年功序列は崩壊したと言う論調をよく目にするが、それは誤りではないだろうか。

その証拠が、40歳以上の中高年の就職・転職先がぐっと少なくなることである。
なぜ少なくなるかと言えば、日本の企業において、40歳以上は、管理職となることが前提とされ、その管理職の口は、外部から募集しなくても、内部で充当されてしまうからである。

逆に言えば、40歳以上は、平社員として雇うことが難しいということである。会社で40歳以上で昇進して役職に就けなかった平社員は、リストラの対象となるということでもある。

これは、すなわち、管理職が年功が下で、平社員が上だと、若い管理職が年長の平社員に対して命令しにくいので、それを忌避するため、年長の平社員は採用しない、会社から消そうとする心理が働いていると言える。

逆に言えば、年下の人間が、年長の人間に命令することが、異常で、許容できないこととして捉えられていると言える。後輩が先輩に命令することが困難だと言うことである。そのため、年下の管理職には、自分が命令する対象であるにも関わらず、年長と言うだけで自分に対して大きな面をする先輩を疎ましく思い、追い出して、自分の命令しやすい後輩だけで固めようという心理が働く。あるいは、年上の平社員にとっても、自分より年功の下の人間に上から目線で指図されるのは耐えられない、屈辱だとする心理が存在し、自ら会社を去ろうとする。これが中高年リストラの真の姿である。

この、後輩が先輩に対して、上から目線で指図、命令することが後輩にとっても、先輩にとっても、心理的にためらわれることこそが、年功序列の本質であり、年功序列は消えてなくなるどころか、小中高の学校における先輩後輩制の絶えざる再生産によって、強固に維持され続けていると言ってよい。

続く終身雇用

グローバリゼーションの進展で、日本的終身雇用は崩壊したと言われるが、果たしてそうであろうか?

日本の官庁とかのトップの人たちを見ると、いわゆる最初に入った組織で生え抜きで、ずっと上まで最後まで昇進し、雇用され続けて、上がりを迎えた人たちが多数を占めていることに気づくだろう。

この、生え抜きでてっぺん、最後まで行くことを良しとする考え方、「生え抜き信仰」「生え抜き第一主義」こそが終身雇用の本質である。

確かに、大会社や官庁でも途中でリストラされて(含む天下り)雇用を失う中高年とかが多いのも事実であろう。しかし、その中でも組織の中核を担う人たちは、昇進するにつれ就けるポストが減るのに伴いその数を減らしながらも、今も昔と変わらず生え抜き、純粋培養で、すなわちいったん就職したら、リストラされるまで最初の会社や官庁のままで、終身雇用で組織トップへと上り詰めているのである。

若年層とかは、最初に入った会社が過酷だったり、給与が少ない、自分と合わないということで2~3年で辞める事例がある程度多いのは事実だが、彼らが転職すると、第二新卒という呼び方をされる。これは、少しだけ歳を食った新入社員扱いで、再び生え抜きの中に含められることを意味している。

また30歳代とかのある程度専門能力を身につけた人たちとかが途中で中高年で正社員扱いで転職する事例も増えているが、どちらかと言えば、転職先の会社で人員に不足ができたのを補う補充要員扱いであり、イレギュラーな少数事例と見なされている場合が多いのではないか。

終身雇用でない派遣社員、契約社員が増大しているので、終身雇用は崩れたとする見方もあるようだが、よくよく注意してみると、彼らが「非正規」雇用されているという言い方をされているのに気づくであろう。では逆に「正規」の雇用をされていると見なされる官公庁や大企業の雇用形態を視ると、「正社員に限っては」、リストラされるまでずっと一カ所に勤務し続ける雇用が当たり前になっているのではないだろうか?

日本の(外資系でない)大企業や官公庁の過半数で、勤務者の大多数が中高年も含めて転職者で、かつトップも非生え抜きの転職者出身とかいう状態になれば、日本の終身雇用は崩壊したと言えるのかも知れないが、現状は果たしてそうなっているであろうか?なっていないのではないだろうか?

勤め先の会社を変えずに最後まで長く勤め上げるほどその人が得をするというのが、終身雇用の本質であり、現に勤め先を最初から変えずに定年まで勤め上げる人が給与や役職とかの面で一番優遇される実態が変わっていないとするなら、例え事情によって途中で止むなく会社を辞める、変える人がいくら増えたとしても、日本社会が終身雇用指向であり続けていることに変わりはないのではなかろうか?

「遅れた」日本的風習をかなぐり捨てて、先進的な欧米のふりをしたい気持ちは分かるが、実態を偽るのはどういうものか?あと、欧米でも、フランスのように終身雇用の国が存在するようなのだが、その真似はしなくていいのだろうか?

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