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2008年07月 アーカイブ

2008年07月09日

同期横並び処遇と妬み

以前説明した崩れない年功序列と関連することであるが、日本の会社や官庁において、同期入社の人たちの間で、一方が上司となり、一方が部下となって、同期が同期に上から目線で命令したり、されたりすることが、命令する側にとっても、される側にとってもためらわれるという事態も起きていると考えられる。一緒に入った同期の間は、同一の処遇がなされるべきで、上下の差を設けるべきではないという考えが根底にある。

この同期の間で処遇の上下を設けるべきでないという考え方、同期は一緒に同じタイミングで昇っていくべきだとする同期同時昇進、同一処遇の考え方が、年功序列と表裏一体になって、現在も強固に存在している。これは小中高の学校教育で、飛び級とかが許されず、同じ学年の生徒同士が、同じタイミングで順序よく1学年ずつ昇っていくのが自然だとする考え方が身に付いたためと考えられる。

中高年になって、昇進可能な役職ポストの数に限りが出てきて、同期の間で上のポストに就けた人と就けずに平社員のままでいる人の処遇格差が生じ、格差の生じた同期同士が同じ組織に一緒にいるのは気まずいことで、それは上のポストの同期にとっても、下のポストの同期にとっても居心地が悪いので、では上の役職に就けなかった、相対的に能力の劣る同期を間引こうという考えにつながる。これが日本における中高年のリストラのもう一つの原因である。

こうした同期同一処遇、横並び処遇をよしとして、やむを得ない格差が同期の間に生じた場合は、格下になった同期社員を切る、という考え方が、中高年のリストラにつながっているのであり、中高年のリストラは、欧米流の成果主義導入以前に、既に日本の会社や官公庁の組織のあり方として、伝統的に必然的に起こっていたのだと言える。

そうした同期の間の格差発生と格下同期の切り捨てが職務能力の差に基づいて生じるということで、わざわざ欧米流の成果主義を持ち出さなくても、日本には伝統的に成果主義が存在するのだということもできる。

ただ、競争させて上下の格差を簡単に作ろうとする欧米と違い、日本の場合は、可能な限り、同期間の横並び状態が続くように、許容範囲を持たせ、同期の間で心理的に一体感、同一感を持たせようと努力する点が異なると言える。

「会社に一緒に入社した」同期の間の心理的一体感を持たせることで、会社組織への一体感、親近感を持たせると共に、同期の間での「あいつは先に行った、自分は遅れた。取り返さなきゃ。」の横並び競争を絶えずさせることで、業績を上げさせる原動力としていると言える。その点、先を進む同期ライバル社員への相対的に遅れた社員の妬みの心をうまく利用しているとも言える。

つまり、日本の会社の業績を伸ばす原動力は、「会社への一体感」と、「同期ライバルへの妬み」であると言える。

2008年07月12日

上方向錐型水流ポンプシステムとしての日本社会

日本の会社、官公庁のシステムは、上に行くほど進路が狭まっていく錐体型の液体水路、上方向錐形水流として捉えることができる。「上方向錐型水流・水路ポンプシステム」という言葉でまとめることができる。

ポンプシステム図

ここでは、覆水盆に返らず、ということわざが当てはまる。すなわち、いったん外れてこぼれ落ちてしまうとやり直しができない。元に戻れない。

先端の細まった上下方向の水路、水流をポンプで上に順々に押し上げられていく。水路、水流は、錐体なので上に行くほど狭まっていく。水路の狭まりは、昇進して上に行くほど、就任できる役職の数が少なくなることと対応している。一番上の会長、社長が「上がり」の役職に相当する。

錐体には、上方に行こうとして空間が狭まって行くため行き場を失った水を排出するための穴がいくつも開いており、狭まった水路で、それ以上先へ進めなくなった、昇進からあぶれた者は、排出穴から外に出されて格下の組織へと流れ下って「天下り」したり、リストラされ、ふるい落とされる形で、錐体内から排出され、二度と戻れない。

下方からの水流は、絶えず上方に昇進することを指向する新卒社員とかを雇うことで、絶え間なく供給される。水流を押し上げるポンプの役割を果たしているのは、上方に行っておいしい思いをしたいという、人々の出世、昇進を指向する心理、エネルギーである。

水流は、錐体の下から順々に同期を取って上がっていく。先に錐体に入った水が、後から入った水より上位にある。これは、年功序列、先輩後輩同期制に対応する。
最初に錐体に入った水が、そのまま一番上の「上がり」まで生え抜きで上がっていく。これは終身雇用に対応する。

浮気を許さない日本の会社、官庁

日本の会社や官庁は、社員がいったん入社したら、その社員が他の会社とかに転職しようとしたり、会社の業務外のことに関心を持つことを許さない性質を持つ。要するに、いったん一緒、内輪になったら「自分以外への浮気を許さない」のだ。

その点、社員は会社と結婚して、一生を会社のために尽くす、みたいな感じになっている。

その代わり、その社員が会社にとって不要だと分かったら、あっさりとリストラをするようになっている。

会社は、社員には「終身の忠誠」を要求するが、会社側は社員の首を簡単に切って追い出せるというようなダブルスタンダードになっていると言える。

終身雇用とは、社員に「一生、ずっと脇目を振らずに、浮気せずに自分の会社のことだけを考えていなさい。さもないと追い出しますよ。」という暗示をかけているみたいなものである。

会社は、社員が、常に会社への忠誠を誓って、忠誠への競争に励み、会社のために成果を出して会社を経済的に潤わせることを要求し、その競争に勝った社員のみを取りあえず内部に残れるようにしておくことで、社員を働かせる原動力を得ているのだと言える。

2008年07月13日

「母的存在」としての日本の社会組織と、海、湖

立てられる存在としての日本男性にも書いたが、
日本の会社、学校・・・といった組織は、メンバーの全人格を呑み込む母的存在である。
それは、その中に飛び込んだら、飛び込んだメンバーの全身を包み込み、出られなくする深い海や湖のような、液体、ゲルのような存在であるとも言える。

自由が嫌い

日本社会は、根本的なところで、フリーを嫌う側面があると考えられる。

会社とかに、どこにも属さない人のことをフリーターとか言ってさげすみ、馬鹿にする風潮が強い。

一カ所に定着せず転々と動き回る、束縛されずにいる人のことを、住所不定とか言って、信用ならないとみなす。

また、自由な人を、自分勝手と見なし、整った場の内的秩序を乱す不安分子と捉え、外に排出しようとする。学校とかで、自由な服装を好まず、制服を好むのがその現れである

どこかに入って定着する、そこで動かずじっとして、場の秩序形成に貢献するのがよいとされる。

日本社会が強迫的に欧米化を試みる理由

日本社会が一生懸命欧米化を試みる理由は何か?

それは、日本が、第二次大戦後、自分とは異質な、アメリカ等の西側自由主義陣営に組み入れられたのが原因である。

日本は、本来は、ロシアや中国と同じ、農耕民由来の液体的な体質(集団主義的、規制好き、対人関係や相互一体感の重視・・・)の存在であるにもかかわらず、ロシアや中国の液体陣営ではなく、自分とは異質な、アメリカ等の気体陣営に入れられてしまったのである。

ロシア、中国みたいな液体陣営(東側)と同じ性質を持っていると見なされると、西側気体陣営の他の国(アメリカ等)から敵の性質を持つ者として攻撃の対象となってしまう。それは避けるべきことであった。

そこで、異質だ、敵だと見なされないように、必死で、自身の持つ液体的性質を隠し、個人主義、自由主義といった気体的性質を表面上だけでも持とうと必死になって努力してきたのが、戦後の日本の歩みであったといえる。

このように、自身のロシアや中国と共通な液体的性質を表面だけでも除去し、アメリカや西欧等の気体的な同盟国から異質と呼ばれずにスムーズにやっていけるように行動しようとする姿勢が長期間取っている内にすっかり身に付いてしまい、取れなくなっているのが、現状の日本の姿であるということができる。

日本が戦後、経済大国になれた理由

日本社会が強迫的に欧米化を試みる理由」の記事で、日本は、戦後の東西冷戦期間中、本来自分たちと同じ液体的性質を持つロシア、中国の東側陣営とは互いに敵対するアメリカ、西欧陣営(西側、気体陣営)に組み入れられたと書いた。実は、このことが、日本が戦後経済大国になれた原因であり、そして、現在中国やロシアに経済的に追い上げられて苦戦している原因である。

つまり、冷戦期間中西側だった日本は、東側の中国、ロシアを蚊帳の外にして、自由で独創的な気体的性質を持つ欧米が生み出した先進技術を、優先的に独占入手することができ、それゆえ、入手に苦労した同類の中国、ロシアに比べて、大幅に先んじて経済発展することができ、容易に優位に立てたのである。

液体的性質を持つ目立った国が、他に西側気体陣営では余りなかった(韓国位?)ため、日本は、その液体的本性である、大胆な独創的発想こそないものの、きめ細やかな製品小改良と磨き上げの能力で、他の西側気体陣営が生み出すアイデアを、同盟国のよしみで優先的に入手し、それに改良を施して高品質な製品を作り、世界中にばらまくことに成功した。これこそが、日本社会が、戦後冷戦下で経済大国になれた真の理由であった。

しかし、こうした日本の優位となる条件は、東西冷戦が終わると共に、急速に消滅した。今まで敵であると欧米西側陣営から見なされて、十分な技術供与を受けられなかった、液体的な中国、ロシアが、欧米との反目を止めて敵でないと新たに見なされるようになり、技術供与等の協力を受けられるようになったからだ。つまり、東西冷戦下で日本が優先的に入手できていた欧米の先進技術が、中国、ロシアにもそのまま入ることになったため、日本の技術面での優位は急速にしぼんでいくことになったのである。

中国は、日本と同じ液体的性質の国であり、液体として同類の日本にとって、差別化が難しい存在である。現状のまま差別化ができない状態が続けば、液体的故に自分からは独創技術を生み出すのが苦手で、気体陣営からの先進技術導入無しに進歩しにくい日本が、同類の中国に技術的に追いつかれるのは時間の問題であり、既に日本の優位は怪しくなっているとも言える。

今後、日本を待ちかまえているのは、同じ液体的でライバルに当たる中国とかとの絶え間ない抜きつ抜かれつの横並び競争であると考えられる。日本が優位に立つには、気体的な欧米からいかに素早く先進技術を、中国とかに先んじて手に入れるかということと、その手に入れた技術をいかに高度に磨き上げられるかにかかっていると言える。

リーダー上位社会とフォロワー上位社会

従来の社会学とかでは、物事を先導して引っ張っていく能動的なリーダーが上位で、付いていく役のフォロワーは下位であるという見方が一般的であった。

しかし、後ろから付いていく、受け入れていくフォロワーの方が、社会によっては上位である。

まず、フォロワーはどういう行動を取り勝ちか、まとめると以下のようになる。

フォロワーは、自分からは動かない人たちである。誰かがやってくれるのを待っており、誰もやらないでいると、不便だと言って不平を言ったり愚痴をこぼす人たちである。そして、誰かがやって、もし失敗すると、嘲笑したり、盛んに駄目出しをする。苦労して成功した人が出ると、当初はよくやったと言って盛んにもてはやすが、そのうちに成功した人のことを妬ましく思うようになり、あら探しをして、その足を引っ張る。

フォロワーは、日和見主義者である。周りが何をやっているか注意深く観察し、周りに遅れないように、周りの人の輪の中に入り続けていられるように、大勢に合わせようとする。

フォロワーであることの利点は何か?なぜ、フォロワーが上位なのか?

フォロワーは、何か権力筋の怒りにふれるようなことをしても、首謀者とはならないため、自分からは行動責任を取らなくてよい。いつでも安心、安全圏に逃げられる、とどまれるのであり、保身できる。フォロワーは、安全、安心が保たれることができないと動かない。大丈夫、確実でないと動かない。その点、いつでも身の安全、安心を優先して享受できる。

また、フォロワーは、絶えず周囲の皆と一緒になって行動するため、一人で率先して行動せざるを得ない、助けを求めにくいリーダーに比べて、周囲の相互援助を受けやすく生き延びやすいという利点を持つ。皆と一緒であれば何をやっても怖くないというのもある。

フォロワーは二番手である。リーダーのように先頭を切って進むと、風雨にまともにさらされてしまい、条件が厳しい。フォロワーは先頭を切る苦労をせず、先頭が苦心して切り開いた成果を、楽して受け取ることができる。生存環境が、先頭のリーダーよりも恵まれており、温室的であり、ぬくぬくできる。

フォロワーは、自分からは直接手を上げず、危険を冒さず、誰かにやってもらう。そのため、まともに危険にさらされたり、責任を取らされるリーダー役に比べて、生存環境として恵まれている。

身の安全、安心、保身や、楽な温室的生活を優先的に享受できるため、生存可能性がリーダーよりも上であり、その点リーダーより恵まれた生活環境を手に入れられている点が、フォロワーが上位となる理由である。

フォロワーのように、身の危険を感じない、安全圏にずっといられる人、逃げ道を確保できる人、高見の見物ができる、ぬくぬくと生きながらえることができる人、生き延びやすい人が、一番地位が高い、上位にある。

リーダー上位なのは、一人一人が我こそは一番先頭を行くという人々の集まりである社会、すなわちアメリカに代表されるような、自ら率先して動く能動的な人々の集まりである気体的な父権社会に限定される。こうした父権社会では、危険に直面して落命してもいいから、人々を先導する、独創的な成果を出せることがかっこいいとされるのである。

一方、フォロワー上位なのは、日本のように、他人の行った成果を受け入れ、受け止め、呑み込むクッションのような人々の集まりである液体的な母権社会である。母親は女性であり、何よりも自らの保身を重んじ、安全、安心の確保にうるさい。そうした母親の影響を強く受けた社会においては、自分からは行動をなるべく起こさず、周囲の動向を見極めた上で、最も安全で、それでいてそこそこ儲かることをするのがいいとされるのである。

例えば、母権社会日本の政府において、実質一番上位なのは、表面に立って目立っているが、批判、風雨の矢面に立たされ、すぐ更迭される大臣ではなく、そこからワンランク下の、大臣による風除けが効いた立場にいる事務次官であるということができる。

あるいは、外部に露出して外敵と直接対決しなければならない男性リーダーよりも、その言うことに従いながら守られる女性の方が、より安全、安心で、地位が高いと言える。

つまり、フォロワー上位社会では、風雨の矢面に立つ最上位ではなく、そこから1~2ランク下のクッションの効いた位置が一番安全、安心であり、実質の地位が高いと言える。

その点、フォロワー上位社会では、表立って目立つ人が上な「表面的地位」と、保身の上で居心地のよい人が上な「実質的地位」を区別する必要がある。

なお、場合によっては、リーダーがワンマンかつ保身タイプで、失敗したときにフォロワーに責任をかぶせるトカゲのしっぽ切りのようなことを行うことがあり、この場合は、フォロワーにとっては、責任を取らされないようにうまく逃げる必要がある。

完全無傷指向と日本の「専門家」

日本の大学とかシンクタンクとかにいる、いわゆる専門家と呼ばれる人は、以下のような「完全無傷」を求めがちである。

・間違ったことを言ってはいけない。言うことは、常に正しくないといけない(正解でないといけない、正確でないといけない)。間違うのは恥である。

・有名学説や最新学説を、絶えず正しく理解していないといけない。

・専門分野に関して、答えられないこと、知らないことがあってはいけない。何でも知っていないといけない。うんちくがないといけない。

・言うことは、絶えず厳密でないといけない。理論的な破綻、欠け、漏れが少しでもあるとダメである。

その結果、考えがこわばって、しゃちほこばってしまい、自分からは、多少不正確で傷はあるかもしれないが、自由で新しい物言いをすることができなくなっている。新しい物言いをしているように見えても、よく聞いていると、誰か(特に欧米研究者)の説の受け売りだったりする。

上から目線の、日本の大学人

日本の大学人は、教授側も、大学院生も含め、以下のような特徴を持っていると考えられる。

・排他的な学閥第一の考え方である。所属する学閥への一体感が強い。その中で、師弟、先輩後輩同期の上下関係に非常にうるさい。

・無知な目下(の学生)に教えてやるんだ、啓蒙してあげるんだ、ありがたく思え、といった感じで、恩着せがましい。

・(特に教授は)自分は偉いんだ、上位者だ、オールマイティな支配者だと考え、学生を格下の憐れみの目で見たり、パワーハラスメントをする。

・権威ある有名学者の説に付いて行こうとする。また、自らのことを権威ある者と思いたがる。

ガスタイプの会社、リキッドタイプの会社

筆者は、以前より、ガスタイプ、リキッドタイプという分類を提唱しているが、それに基づいて、欧米と日本の会社のあり方を以下のように比較してみた。


リキッド(液体)タイプを示す動画↓(液体分子運動シミュレーション)


ガス(気体)タイプを示す動画↓(気体分子運動シミュレーション)



欧米のようなガスタイプの会社は、本来バラバラで独立したフリーな人同士が、より多くの利益を上げるために、一時的に手段としてタッグを組んで協力して仕事をする。成果や利益が出て、頃合いのよい時点で、さっさと抜ける。

会社は利益を出すための単なる一時的な道具である。
出資した株主へのその時々の短期的な利益還元を重視する。


日本のようなリキッドタイプの会社は、ベタベタ近づいてくっつくのが好きな人同士が、互いに強い一体感で結ばれ、その状態を存続、維持すること自体を目的とする。
会社にずっと所属すること自体が目的となる。会社は永続する共同体である。

自分の所属する会社共同体の価値や格付けを上げることを重視する。会社共同体の価値は、規模(売上高等)や市場シェアの大きさで図られるので、それを上げようとする。
出資した株主へは、自社株の長期的な価値保持~上昇を重視する。短期の利益配当は重視せず、株を長期にわたって安定的に保持し続ける優良財産として、株主に見てもらおうとする。

国際的な分業の観点からは、果敢に未踏分野に飛び出して、無から有を生み出す独創的成果を上げるが、往々にしてその成果の内容が荒削りでおおざっぱなままな「ガスタイプ」の会社が、国際的な分業行程において初期上流工程を担当し、未踏分野でいきなり独創的な成果を上げるのは不得意だが、ガスタイプの会社から持ち込まれた新たな知見の小改良、磨き上げで高い完成度を生み出すことができる「リキッドタイプ」の会社が下流工程を担当するのがよい。ガスタイプとリキッドタイプで合弁するのが、最強といえる。

2008年07月15日

新卒一括採用と、閉鎖集団間の時限ブリッジ渡り


日本の会社には、正社員の採用を原則として新卒一括採用のみ行う不思議な慣習が存在する。
選別した新卒者を4月に入れると、それ以外の間は、門戸を閉ざし、中に入れようとしない。

むろん、最近は即戦力人材の獲得のため転職者市場もそれなりに成熟しているが、その転職者として想定されているのは、前職をたどっていくと、かつてどこかの企業に新卒一括採用された人がほとんどであり、学校卒業時どこにも就職する当てがなく、新卒採用されずにそのまま既卒扱いになってしまった就職氷河期に学生だった人たちとかは、転職者市場においても正社員として採用されることにおいて苦戦を強いられているのが現状であるといえる。


新卒一括採用がなぜ好まれるか?

まず、非所属者、よそ者、浮浪者嫌いの考え方が、根底にある。(欧米やモンゴルのような遊牧・牧畜民では、むしろ非所属者、よそ者、浮浪者の状態が普通、一般的であり、それほど嫌われないと考えられる。)

新卒一括採用は、採用する人員が、所属集団の外部に出ずに、一方の所属集団から他方へと、いわば「ウチ」から「ウチ」へと移行するから、好まれると言える。

人員は、卒業と同時に、入社しないといけない。
学校を出ると同時に、会社に入らないといけない。タイムラグがあってはならない。そのタイミングで入り損ねて既卒扱いになるともう入れない。

学校、会社が、それぞれ閉じた「ウチ」の袋、球状の閉鎖的、排他的スペースを形成しており、一方の「ウチ」と他方の「ウチ」をつなぐ時限ブリッジ、パイプ、通路が一時的に形成されるようになっている。

通路は、通れる新規学卒者を事前に選抜して内定しており、選抜された者のみが学校側から会社側へと一時的に通れるようになっている。通れるタイミングを逃し、通り損ねると、会社側へは正社員としては一生入れない。

一方の集団(学校)から他方の集団に移れる人員(内定を勝ち取った新卒者)およびタイミング(3月31日23時59分~4月1日0時0分の一瞬のみ)を限定し、その間のみ二つの集団間に時限ブリッジを設けて、人員を自動的に渡らせる。



日本では、信頼される人員は、いつでも、どこかの集団(「社」、「閥」、ネットワーク)に必ず属していないといけない。常時、どこかの「ウチの人」でないといけない。

日本人は、どの集団にも属さず、所属集団の外に1人出たままになるのを好まない。そうした状態になった人、どの集団にも入れてもらえない人を信用しない。こうした「よそ者」には、フリーター、非正社員(契約社員、派遣社員)、転職したばかりの人が含まれる。彼らは「よそ者」として括ることができ、彼らが正社員に比べて格下扱いされるもととなっている。


ある集団(ウチ、ムラ)から他の集団(ウチ、ムラ)へと移るとき、普段は入り口を閉ざしたそれぞれの集団が、同時に合意して同期して、一時的に出口入り口を同時に開け、集団間を渡るブリッジを設けた時のみ移ることが出来る。

この時限ブリッジ上を指定期日にうまく渡るのに成功しないと、落ちてしまい、そのうちブリッジが消えてしまい、集団の外に一人出てしまう。そうすると、一方の集団を既卒扱いになってしまい、二度と他方の集団に入れてもらえなくなる。

学校は、期日が来ると、トコロテン式に成員を外に排出する。排出されて、次の集団に入れなかった人は、既卒者、フリーター、非正社員として扱われ、他の集団にも正式に中に入れてもらえる機会を、半永久的に失ってしまう。



日本の会社における中途採用と正社員の関連は、以下のようになっている。

日本の会社での正社員の中途採用は、
・他のれっきとした会社で正社員だった人
に限られる。
正社員になれるのは、
・新規学卒
に限定される。
学校を卒業した時点で、即どこかの会社の正社員になっていないと、一生正社員になれない、なりにくい構図になっている。学校を出ても、無職でどこの会社の正社員でもない期間ができると正社員になれない。
正社員と、非正社員(派遣、パート)との間に大きな待遇格差がある。
学校を卒業して、正社員になれるかなれないかで、その後の人生で大きな格差が生じる。生じた格差は、いったん非正社員になってしまうと正社員への道(中途採用を含む)が閉ざされるため、再チャレンジできず、埋められない。



「ウチ」を連発する人は、所属組織に呑まれている

日本の会社員(正社員)は、自分の勤め先の会社のことを「ウチの会社」、あるいは単に「ウチ」と呼ぶことがほとんどである。官公庁の職員にもこの傾向があるし、学生たちにおいても、「ウチの高校、大学」「ウチらのサークル、同好会」といった感じで、自分の所属する組織について、「ウチ」という言葉を連発する。

「ウチ」という言葉を使うようになるのは、使う人が、その組織に足を踏み入れ、その中、内側に完全に取り込まれ、出られなくなった状態になっていることを意味する。要するに、組織に「呑まれた」ということである。

「呑まれた」というのは、日本の会社のような組織が、内外を隔てる強力な膜ないし、外部の者を中に入れないよう表面積を最小化する表面張力を持ち、人は、その中には厳しい試験とか通らないとなかなか入れてもらえず、その一方、人がいったん膜を貫通して中に入ると、膜に開いた穴はすぐに修復して閉じられてしまい、その人は、どっぷり中の液体に浸りきって、一体化しきって、外に出られなくなり、中にいる他のメンバーとひたすら「内輪」「ウチウチ」の集団コミュニケーションを取り続けるようになる、という状況の発生を意味している。

このことはまた、日本の会社が、外部に向かって閉じられ、内部で互いに引き寄せ合って、密着し合って動く、液体原理で動いていることの現れである。液体分子のかたまりの中が「ウチ」である。それは、母の胎内の羊水の中にも例えることができ、母性を体現したものであるとも言える。

つまり、「ウチ」という言葉を連発する人は、自分は、人付き合いやコミュニケーションのあり方において相互一体化を好む、閉鎖的、内部限定なのを好む・・・といった液体原理、母性原理にどっぷり浸っていますよ、「お母さん子」ですよと、無意識のうちに宣言しているようなものである。

「ウチ」の組織に呑まれた、取り込まれた状態では、その組織から一定の距離を置いて冷静に付き合うことが不可能となり、物事が何でも「ウチ」中心で動くことになり、個人の自主独立、プライバシーや自由の尊重や、物事に対する客観的視点(気体的性質)が永遠に失われてしまう。また、所属する「ウチ」の存続繁栄のために、メンバー個々人は犠牲になってもぜんぜん痛くないかのような感覚麻痺が各メンバーに生じ、「会社人間」「所属組織第一主義」が誕生するのである。

その組織に取り込まれた、呑まれた程度を計測するバロメーターが、「ウチ」という言葉の使用頻度と使用の自然さの度合いであるといえる。「ウチ」という言葉をどのくらい頻繁かつ自然に発しているか、それが多いほど、自然で抵抗がないほど、「呑まれている」と言える。そして、取る態度や思考が液体的であり、母親の影響が強い(思考が母性的になっている)と言える。

2008年07月21日

所属できない、入れてもらえない・・・

現在の日本社会においては、どの集団にも入れてもらえず、さながら風に吹かれるままに移動する砂粒のように、あちらこちらを孤独のうちにさまよい歩く人たちが、大勢存在する。

日本社会は、会社であれ、学校であれ、何らかの集団に「正規に」所属しないと、人間らしい生活が送れなくなっている。正規の集団に入るには、普通厳しい入試(入社試験、入学試験・・・・)が課せられ、その試験を突破できたもののみ、あるいは、その集団と関係する有力者とのコネを持つ者のみが、正規の社員(正社員)、正規の学生として、その身分を保障されるようになる。

何らかの形で入試に失敗したり、有力者とのコネがなかったりすると、集団に正規の形で加入することは許されず、一時的に契約、派遣の形で集団に「非正規」扱いで入れてもらうことになる。契約とかが満了すると、いったん集団から追い出されることになり、再度入れてもらえる保障はない。これが、契約社員、派遣社員に相当する、いわゆる「非正規雇用」である。

こうした、集団に正規の形で入れてもらえない、所属できない、「非正規」雇用の人たちは、正規に入れてもらった「正社員」の人たちよりも、日本では格下の扱いを受けることになる。例えば賃金とかで差別されたり、社会保障が不十分だったりする。

正社員へとランクを上げたくても、再就職において「非正規」で働いた分は職歴としてカウントされない(正社員として働いた分しかカウントされない)ため、正社員になるだけの職歴が認められず、再び「非正規」で雇ってもらうしかなくなる。いったん「非正規」の枠にはまってしまうと、そこから半永久的に抜け出しにくいのである。

日本では、どこかの集団に正規で属することが必須であり(例えば、自己紹介とかで、「どこにお勤めですか」と聞かれて「○○社の社員です」と言うのが普通である)、集団から自立、独立して一人でやっていくことへの積極的な考え方はほとんど認められず、「フリーター」「根無し草」として軽蔑され、人間扱いされない。集団にどこにも入れてもらえない、所属させてもらえない「劣等生」「半人前」「無能力者」の烙印を押されてしまうのである。

そうした「非正規」雇用、所属の人たちは、劣等感にさいなまれながら、あちこちの会社とかを定着を許されずに渡り歩くことになる。さながら、風に吹かれて孤独にさまよう砂粒のような人生である。それはまた、正社員の踏み台、道具として、「使い捨て」られる人生でもある。

個人がバラバラに一人でフリーで行動する、気体的な行き方は、欧米ではプラスの価値を持つのに対して、個人が何らかの集団に所属することが必須な、液体的な行き方を取る日本では実質マイナスの価値しか持たない。「非正規」所属、雇用の人たちは、心の底では、どこかの集団に所属し(どこかの「ウチ」に入れてもらい)、一体化して安心したい(液体的に暮らしたい)と願いながら、その望みがかなわず、仕方なく一人ずつバラバラに社会の中を、どこにも定着できずに孤独に動き回っているのである。

そうした日本の「非正規」雇用、所属の人々の姿は、一見個人がバラバラな気体分子に見えるのであるが、実際には、気体分子(欧米人)のように自ら一人独立自立することを目指して、自分で進む目標を見定めて、周囲から自ら離れて高速に動き回るという主体的な姿ではない。空間を一人低速で当て所もなく漂いさまよう、集団から切り離され、切り捨てられた、(本当は自分も集団に所属、一体化したくて仕方がない)孤独な液体分子単体と見るのが妥当であろう。

コネ、世話と、自由な言論

社会で自由な言論を保つには、コネを作らない、世話にならない、頼らないのが一番である。

いったんコネに頼ると、何らかの形で、その頼った、世話になった人の言うことを聞かないといけなくなってしまう。そのため、頼った人の意見に反論しにくく、自由な物言いができなくなるのである。かといって反論すると、コネを切られてしまい、生活手段を失ってしまう。

日本社会は、実際のところ、コネ重視の社会なので、言論の点では、有力者のご機嫌伺いに走って、言論の自由がなくなりがちなのではないだろうか?

迎合社会、媚びの文化

日本は、こちらから相手に合わせることをよしとする、相手本位の「迎合社会」「媚びの文化」である。

例えば、製品(携帯電話とか)を使う場合、製品の仕様に合わせて使いこなすことがよしとされ、「自分に合わない」「使いにくい」と不満を漏らすことは、大人げないとされる。

既にある前例、しきたりに、自分を合わせて、適応していくのがよいとされ、自分に合わないからと言って、前例を勝手に変えようとしたりするのは、「忍耐力がない」「わがまま」として非難の対象になってしまう。

互いに相手に合わせる、協調性、同調性が重視され、それができないと「空気が読めない」とか批判されてしまう。相手を盛んに持ち上げて、「褒め殺し」したり、媚びたりする態度が、日本社会には蔓延している。

こうした「迎合」「媚び」が効果を生み出すのは、それだけ日本の人々が内心では、他人から持ち上げられて威張りたい、偉そうにしたい、鼻の下を伸ばしたい、いい格好をしたいという思いを強く持っているからだとも言える。その意味で、「迎合」「媚び」の重視は、裏返しで「威張り」の重視であるとも言える。媚びの文化は、裏返せば「威張りの文化」ということになる。

癒着、馴れ合い文化

リキッドタイプの日本の人たちは、互いに近づいてベタベタくっつき合う人間関係を好む。

互いにくっつき合って離れない状態は、相互の「癒着」や「馴れ合い」にどうしてもつながる。

日本で「談合」とか「賄賂の汚職」とかが多発するのは、日本の人たちがリキッドタイプだからだ。

この癒着や馴れ合いをなくすには、くっつき合った人間関係を定期的に強制的に断ち切るしかない。

公務員の人事異動が短い期間で頻繁に行われるのも、人事異動をすることで公務員と民間業者相互の関係を強制的に断ち切ることで癒着、馴れ合いの防止と関係があると見てよい。

2008年07月27日

疑似気体タイプ社会と日本

日本社会は、基本的には、相互に一体化して集団で行動するのを好む液体タイプの社会であるが、社会の中のある部分では、液体性が徹底されておらず、気体的になっている部分が存在する。


液体タイプを示す動画↓(液体分子運動シミュレーション)


気体タイプを示す動画↓(気体分子運動シミュレーション)


1つめは、欧米文化の導入が盛んな箇所である。戦後の日本においては、アメリカ流の気体的な性質の憲法が導入され、天皇を含め国民がそれに従うことが求められたため、従来の天皇を頂点とする官庁=お上の上に、更にアメリカとかの「スーパーお上」が出現し、そこから気体的なドライな空気が日本社会全体に向けて絶えず吹き付けるようになっている。そのため、国全体が絶えず気体化の波にさらされているのである。

あるいは、今までにない新しい目の付け所の学説や製品は、引き続き欧米からやってくることが多く、その導入にいそがしい学界や業界は、奥底には、学閥とかコネに頼る伝統的液体的体質を温存しつつ、表面は気体的な欧米文化の影響で気体化している。

2つめは、非正規雇用の人たちである。日本社会では、会社や官庁に入社する際の関門の厳しさが増しており、正社員になれずに派遣、契約社員になる人たちが続出している。日本社会は、どこかの集団に正規に所属して「ウチ」に入っていないと、人間らしい生活が保障されない。非正規雇用の人たちは、どこの会社にも正規に入れてもらえず、その時々に会社に一時的に雇用されるだけで、用が済んだらさよならされて、社会の中を一人一人孤独にさまよい続ける、流砂のような生活をすることになる。その点、彼ら非正規雇用の人たちは、一人一人がバラバラに独立して動く気体とよく似た動きをしていると言える。

むろん本当の気体と本質的に違う点が存在する。それは、本当の気体タイプの人の場合は、自分から進んで、他人と離れて一人自由になって独立自立し、自分の目標を明確に定めて高速で能動的にアタックしようとする気概が強いことである。これに比べて、日本の非正規雇用の人たちは、本当は、自分たちもどこかの会社に正規に雇用されて正社員となって、会社に所属、一体化し、あわよくばずっと安定した正社員の地位を続けたいと言う気持ちが強いのではないだろうか。また、明確な目標を持たずに、その時々の条件のいい働き口なら何でもいいと思って、その時々の条件に流され漂流する受動的な性格を持っているように思われる。

3つめは、東京のような大都会に住んでいる人たちである。大都会では、人の出入りや移動の動きが激しく、隣がどういう人だか分からないアパートやマンションにいきなり引っ越したりするのがざらである。そのため、自分の身の安全に敏感で身元の知れた信用できる人としか付き合おうとしない傾向のある日本人は、そうした何者か分からない自分の周囲の人とはできるだけ関わりをもとうとせず、各自が一人孤立して住居に住むことになる。その様子が、一人一人バラバラな個人単位で動こうとする気体タイプと似ているのである。

むろん本当の気体と本質的に違う点が存在する。それは、大都会の日本人が、本質的には、身元の確かな信頼のおける相手だと分かった場合は、相互に強い一体感で結ばれた、伝統的な「ムラ」的=液体的な人間関係を作るということである。隣の人が誰だか分からないところに住んでいる勤労者も、自分の勤め先の会社に出社すると、「ウチの会社」で気の置けない同僚と、家族のような親密さや一体感で協調して仕事をするのである。

密室育児と日本人の対人安全、安心指向

-同所(同期)加入者相互うち解け」現象の活用-

東京のような大都会では、人の出入りや移動の動きが激しく、隣がどういう人だか分からないアパートやマンションにいきなり引っ越したりするのがざらである。そのため、自分の身の安全に敏感で、身元の知れた信用できる人としか付き合おうとしない傾向のある日本人は、そうした何者か分からない自分の周囲の人とはできるだけ関わりをもとうとせず、各自が一人孤立して住居に住むことになる。その様子が、一人一人バラバラな個人単位で動こうとする気体タイプと似ている。

男性の場合、隣の人が誰だか分からないところに住んでいる場合でも、自分の勤め先の会社に出社すると、「ウチの会社」で気の置けない同僚と、家族のような親密さや一体感で協調して仕事をすることができ、その点、従来の液体的な所属欲求を、会社で満たすことができる。

女性も、正社員の会社員である場合はいいのであるが、結婚して夫の転勤に付いてきて大都会住まいをしてそこで子供が生まれて育児をすることになった場合、周囲に誰も助けてくれる人を見つけられないまま、母子だけで、孤独な密室で育児をしなければいけないことになる。その際の女性の孤独感や窒息感、ヘルプレスの感覚は相当なものであり、ストレスがたまって、我が子の虐待とかに走ることになる。

こうした密室育児が起きる原因は、女性たちが、自分の身の安全に敏感で、身元の知れた信用できる人としか付き合おうとしない、まさにその点にあるのだと言える。つまり、対人面での安全、安心を確保できる相手としか関係を持とうとしない「対人安心、安全指向」が、周囲の見知らぬ、安全かどうか分からない人に助け、つながりを求めることができず、一人孤独に育児を抱え込むことにつながるのである。

この密室育児は、子供が成長して、保育園とか幼稚園に入ることで解消されることが多い。なぜならば、同じ保育園や幼稚園に入った他の母親や入園先の保育士たちと、同じ所に一緒に入ったということでつながりが出来、互いに同じ境遇を共有する者同士で、自然と相互信頼、安心感が生まれ、相談し合ったり、助け合ったりすることができるようになるからである。

ここに、密室育児の解決方法が存在する。日本人には、同じ所に一緒に入所した者同士が、互いに同じ境遇で信頼し合い、うち解けて仲良くなりやすい傾向があるというのを活用すればよいということになる。この傾向は、「同所(同期)加入者相互うち解け」現象とでも呼べる。この現象を活用する。

具体的には、母親が子供を出産した段階で、母親のその地域の「育児ネットワーク」への加入を、自治体なりで制度化して促進し、同じ境遇の母親同士、あるいは相談員、コーディネータとの間で、自由に情報交換したり、悩みを聞いてもらったりするようにすればいいのではないだろうか。小学校とかと同じく、同じ公共機関の会に一緒に加入することで、育児の境遇を互いに共有でき、母親同士が相互にうち解けて、育児上の情報交換をして心理的に助け合うようになることで、孤独感、密室感を解消することができると考えられる。「育児ネットワーク」は保育園、幼稚園みたいに公的裏付けを持った機関とすれば、母親たちも安心して加入することができると考えられる。

「育児ネットワーク」は、別に物理的交渉を頻繁にしなくても、mixiのような地域限定の内密なソーシャルネットワークのサークルみたいな感じで、ネット上で意見交換する場を設けると共に、いざという時の助けを呼べるために、必要に応じて「自分は○○地区に住んでいます」みたいな居住地の情報を開示すればよいのではないか。

個人的金本位制、ユーロ本位制・・・円本位思考からの脱却

普通、日本においては、経済活動において、何事も通貨の円を基準にして物事を考えるようになっている。

例えば、○月○日の金地金の価格は1g3210円で、昨日(3250円)より40円下がったので損したとか言う。
あるいは、○月○日のユーロの為替レートは1ユーロ160円で、昨日(157円)より3円も円安になったとか言う。


経済的な損得を、全て円を基準に考える癖が付いているのである。

しかし、本来、何を通貨の指標と見るかについては、個人の自由なのではないだろうか。全ての日本人が円を基準とすることを強制されるいわれはないと思う。日本人も別に円ばかり基準とするのでなく、金地金とかユーロとかを基準として、個人的に金本位制で物事を考えたり、あるいはユーロ本位制で考えたりとか自由に自分の基準通貨、商品を選べるようにすべきだ。

円ばかりにしばられず、自分自身がこれぞ基準だと思う通貨や商品の指標で、世界の経済活動をウォッチして、損得を判断すべきではないだろうか。
これは、国際情勢の物の見方を、いつものように日本中心にばかり見るのではなく、他の視点から見ましょう、そうすることで違う物の見方ができるようになりませんかということである。

最初の例で言えば、

個人的金本位制なら

○月○日の価格は、1円につき0.311mgで、昨日(1円につき0.307mg)に比べて0.004mg分の円高

といった、金地金を基準に見る感じになるのであろうか。


あるいは、個人的ユーロ本位制なら

○月○日のユーロの為替レートは1円0.00625ユーロで、昨日(1円0.00636ユーロ)より0.00011ユーロ分円の価値が下がった

といった、ユーロを基準に見る感じになるのであろうか。

流行追従移動根無し集団と定点根付き集団

日本社会においては、

1)常にその時々の周囲の流行、大勢に従おう、合わせようとして、大きな集団を作って、絶えずあっちにふらふら、こっちにふらふら移動して、行方が定まらないタイプの人たち=メジャー指向の流行追従移動根無し集団

2)自分の根付く、定着する、飛び込む「ウチ」はここだ、と定点を定めて、そこに根付き、例え、どんなに流行らなくても、その場所を死守して、やがてそこに陽が当たる日がやってくるのを待つタイプの人たち=マイナー許容の定点根付き集団

の2通りがある。

1)の根無し集団では、物事の評価基準は「皆が○○しているから」であり、物事の善し悪し、優劣を、皆が使っている、やっている、多数か、マイナーかで判断する。携帯電話の文字入力方式で言えば、「お」の文字を入れるのに「あ」ボタンの5回押しが必要なマルチタップ方式を、例えどんなに入力が遅くて不便であろうと、皆が使っているから、というだけで支持し、文字入力効率で勝る「ニコタッチ」方式を、使っている人が少ないというだけで無視するというのが、この集団である。

2)の根付き集団では、物事の評価基準は「自分のこだわり」であり、物事の善し悪し、優劣を、自分が気に入っているかどうかで判断する。気に入れば、例えマイナーでも問題ないとする。携帯電話の文字入力方式で言えば、入力効率はよいが、知名度の点で圧倒的に劣る「ニコタッチ」方式にこだわるというのが、この集団である。
根付きについては、
A)既に開拓済の、前例やしきたりが存在し、先生、師匠役の先達たちが威張っているところに、自分を入門者として新たに加えてもらう場合と、
B)自らベンチャーで新規開拓する場合
との2通りがある訳であるが、女性の影響力が強く安全第一で、冒険、危険を嫌いがちな日本の人たちは、A)の開拓済みの方に根付こうとするのが一般的である。既に開拓、開発済の技法を師匠、先生に教えてもらおう、習おうとするものであり、いわゆる「学習指向」である。

「日本=先進国」のプライドを捨てること

世界経済のグローバル化の進展に伴い、「同一労働、同一賃金」の原則が、日本国内だけでなく、世界レベルで通用するようになってきている。

現在の日本の公務員、正社員ベースの賃金は、中国とかに比べると、明らかに高めであり、その生み出す製品は高コストで高価になりやすい。

そこで、派遣社員、契約社員のような非正規雇用の人たちに、中国並みの賃金を無理矢理押しつけて、製造コストを下げて製品の海外競争力を何とか保っているのが現状ではないだろうか。

こうした形での賃金格差の一方的な押しつけは、公務員、正社員が行う一種の人権侵害であり、本来は、似たようなレベルの仕事しかしていない公務員、正社員の賃金も、それなりに下げるべきであろう。痛みは、特定の物言わぬ弱者のみに押しつけるものではないのである。

また、近年の日本国の財政赤字は巨額にふくれあがっているが、その多くは公共事業費のばらまきで生まれたものと考えられる。ではなぜ巨額の公共事業費が必要だったかと言えば、近年の発展著しい中国とかに比べて、似たようなアウトプットしか出していない割には高すぎる日本国民の生活水準、そのままでは高すぎて仕事がない(だから仕事を中国とかに奪われ不況だった)賃金レベルを、国の威信をかけて強引に維持するため、本来ない仕事を国レベルで無理矢理たくさん作り出すために必要だったということになるのではないか?

要するに、現在の日本国民は、アジア近隣諸国に比べて、自分の国のことを「先進国」だと誇りに思っており、その先進国としてのプライド、体裁、を保つために、官民上げて、経済的に無理をして、高い生活水準を演出してきた、そのつけが国の巨額の財政赤字として、解消が困難なレベルまで膨らんだ、ということであろう。

日本人の、そのアウトプットの割に高すぎる生活水準を維持するのは、実際の所もう不可能なのではないか?日本人にとって、公務員、正社員を含めた適正な賃金水準は、現在、彼ら(公務員、正社員)が非正規と言って馬鹿にしている派遣社員、契約社員のレベルなのではないだろうか?

日本の物価は、現状、高給取りの公務員、正社員レベルの賃金で暮らしていけることを基準に組み立てられていると思われるが、これを、非正規労働の人たちの賃金を基準として、その賃金で十分暮らしていけることを前提としたものに組み直すべきだろう。

はっきり言って、生活のレベルが1ランク~数ランク下がっても良いから、アジア内で並みのレベルでいいから、普通の労働で、普通に暮らしていけることが、人々の暮らしにとって一番大事なのではないだろうか?

日本が経済的に破綻しないためには、あるいは破綻しても再生するためには、公務員、正社員を含めた全ての人々が、いったんもう1~数ランク下の中国並み、アジア並み賃金、生活レベルを受容すること、そして「先進国」としての高いプライドをいったん捨てること(普通の国、並の国になることを受容すること)が必要なのではないだろうか?

いったん並になっても、戦後日本のように、また努力して上がればいいのではないだろうか?

視線敏感症候群(シンドローム)

日本人は、自分が他人の目にどう映るか、他人の視線を絶えず気にしながら生きている。それと同時に、他人が何をしているか、興味津々で大きな関心を持ち、視線を絶えずちらちら無遠慮に送り合って、相互監視しようとする。何をするにも「周囲の目」の存在が付いて回るのである。

日本人は、「皆の面前で」格好よく目立ちたい、威張りたい、皆を代表したいとか、上に立って指示、指図、命令したいとか、周囲に有能、できると思われ、周囲よりも早く出世、昇進したいといった、周囲の視線を前提とした「見栄っ張り」の性質を持っている。

日本人は、たくさんの人が見物する舞台の上で、格好良く「見得を切る」歌舞伎役者のように、自分も少しでも格好良く皆の前でぴしっときれいに決めたいという欲求を持っている。自分のプラス面を皆の目の前で格好良く披露して、よく見られたい、体面を傷つけず維持したいと考える。

一方、皆の見ている前で失敗して恥をかきたくない、皆の見ていないところで失敗したい、といったように、自分のマイナス面を他人に見られるのを、自分の体面に傷が付いたとして、非常にいやがる。いわゆる「恥の文化」である。

他者の視線を浴びるとき、自分のマイナス面を見られ注目されて、自分の面目が傷つけられ、マイナスの感情を抱くのが「恥」であり、プラス面を見られ注目されて、自分の面目を保ってプラスの感情を抱くのが「見栄、見得」であると言える。

このように、互いに他人の目、視線の存在に非常に敏感で、絶えず「周囲に見られている」という感覚を持つと共に、周囲の他人が何をしているか絶えず気になって、視線を送って監視、のぞき見するのに敏感で、絶えず周囲を見ていないと気が落ち着かないという感覚を持つのは、一種の病的な状態であり、「視線敏感症候群(シンドローム)」とでも名付けることができる。要するに、何をするにも、互いに周囲の他者の視線を絶えず気にしながら行うようになってしまう病気である。

視線敏感症候群(シンドローム)の表面(周囲に自分の良いところ、プラス面を積極的に見せようとする側面)が「見得、見栄」であり、裏面(周囲に自分の悪いところ、マイナス面を見せまいとする側面)が「恥」であると言えるのではないか。その点、「見得、見栄」と「恥」とは表裏一体の関係にあると考えられる。

また、視線に敏感であることについては、周囲の他者から受ける視線に敏感である側面(周囲からの視線の受信に敏感)、周囲の他者のすることが気になって、周囲に視線を盛んに送ることに敏感である側面(周囲への視線の送信に敏感)の2つの側面を同時に考える必要がある。

この病気に、自分の体面や見栄を気にする多くの日本人がかかっているということができる。
あるいは、「面子」の維持に神経を使う中国人とか、東アジア全般に見られる症状かも知れない。
常に他人との関わりの中で生きている女性的な病気であるとも言える。

互いに他者の目を気にするということは、互いに周囲の他者との絶え間ない関わり、結びつきの中で生きているということであり、関係指向の、相互の良好な一体感を重んじる液体的な生き方である。それは、他者に対して、良好かつ優位な立場を持ちたい、保ちたい、と同時に、変な目立つ失敗をして周囲の他者の自分に向ける目が厳しくなることで他者といままで築いてきた良好な関係が崩れ、他者に対して劣位に立つはめになるのを避けたいという心理が働いていることを意味する。

こうした視線敏感症候群(シンドローム)と反対の生き方は、他者の存在や視線に無関心で、自分の行きたい、やりたいことを、失敗等恐れずにマイペースでやっていく生き方であり、欧米等の気体的な社会がこちらに当たると考えられる。こちらも、他者の視線への無関心の度合いが進みすぎると、それはそれで問題なのだと考えられる。これは、視線無関心症候群(シンドローム)とでも呼べる。

自分の意見への固執、意見不動傾向と植物的思考

日本では、国会の論戦とか政治討論会とかを聞いていると感じることであるが、表立って自分の意見、持論に固執して、最後まで変えようとしないタイプの人が目立つと思う。

要は、植物的思考というのだろうか、一つの意見に根を下ろして、しっかり根付いて、簡単にころころ変えないのがよいという考えが定着している感じである。そのため、意見の対立する者同士で、いつまでも同じ押し問答を、制限時間終了まで延々と繰り返したり、そもそも議論や対話を拒否して、退席したり、欠席したりすることが平然と行われる。なぜ、対話を拒否して欠席するかと言えば、結局は、いくら議論しても、意見はどうせ変わらないから、として、自分の意見、意思の強さをアピールできたと自己満足するためである。

議論のその場その場で、意見や話の流れを柔軟に変化させるのが苦手であり、最初にこう言おうと仲間内で打ち合わせて決めた原稿内容を延々と繰り返し主張し続けるため、いくら貴重な時間を割いても、同じ押し問答が延々と続いて、平行線をたどってしまう。また、そうした押し問答の持続に伴って両者の間に感情のもつれが生じ、さらに合意が難しくなる。同時に、双方共に押し問答を長く続けて、決して妥協しないことで、自分の意思の強さを対外的に表現できる、アピールできるという読みもある。

そして、対立する二者間の実質的な意見調整、感情のもつれの調整のための協議は、往々にして仲介者を立てて、公開の本会議場とは別の密室で互いの腹を割って秘密裏に本音で話し合う談合の形式で行うといった感じになるのである。

第二先進国としての日本

世界の先進国は、第一先進国と第二先進国に分かれる。

第一先進国は、自ら全く未開、闇の分野に飛び込んで行って、試行錯誤や失敗を繰り返した末に、闇の領域を光の領域に変えるビジョンを自前、自力で見つけ出し、そのビジョンに従って、基礎的な全く新しい独創的な発見、発明を成し遂げ、そうした新たな先進的な知見に、最初にいち早く接して、軍事、産業分野等に応用することで、世界の中で優位に立つ国々である。欧米がこれに該当する。

第二先進国は、自分からは未開の分野には危険すぎるとして入らず、第一先進国の人々が入って、苦労した末に取ってきた先進的な知見を、(他の後進国に比べて)いち早く学習して取り入れ、吸収し、その先進知見に更に磨きをかけて最先端の改良知見として、それを手中に収めることで、世界の中で優位に立つ国々である。日本がこれに該当する。第一先進国に比べ、全く新しい独創的な知見に接するのが、ワンテンポ遅れるため、二番手、第二ということになる。

今まで、日本は自分は先進国の一員だと盛んに主張してきたが、同じ先進国にも2種類あって、欧米とは違う種類なんだと自覚しておいた方がよい。日本は、今まで欧米に追いつき、追い越せで来た訳であるが、欧米はしょせん第一先進国で、日本のような第二先進国とは異質であり、日本が追い越すことはできないということを自覚した方がいいのではないだろうか。

また、第二先進国は、いままで日本と、加えて韓国辺りの独壇場だったが、今後は中国とかも仲間入りする可能性があり、同質なライバル同士の熾烈な競争が待っていると言わねばならない。

第一先進国の精神的バックボーンは、危険な未知領域への冒険に積極的に立ち向かう男性であり、父権である。
これに対し、第二先進国のバックボーンは、危険を回避して既知の安全領域の中に座って小さなミクロの発明改良の手仕事にいそしむ女性であり、母権である。

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