和合と白色
日本人が好きな和合は、各自の持つ意見を、互いにすり合わせて、同じ意見へと合致させて、互いの一体感を得る、ということである。
これは、互いに異なる色の意見を、互いに合わせて、同じ色の意見にしようとする過程であると言える。
その際、異なる色同士を混ぜていくと、光の場合、白色透明の色となる。この点、和合を表す色は、白色であるということができる。
神社において、汚れを落とすみそぎの色は、無垢の白色であるが、この点、みそぎは和合の概念と強い関係を持っていると言える。
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日本人が好きな和合は、各自の持つ意見を、互いにすり合わせて、同じ意見へと合致させて、互いの一体感を得る、ということである。
これは、互いに異なる色の意見を、互いに合わせて、同じ色の意見にしようとする過程であると言える。
その際、異なる色同士を混ぜていくと、光の場合、白色透明の色となる。この点、和合を表す色は、白色であるということができる。
神社において、汚れを落とすみそぎの色は、無垢の白色であるが、この点、みそぎは和合の概念と強い関係を持っていると言える。
日本社会は、母親の勢力が強く、父親の影が薄い母性社会、母権社会である。
そうした、母親がもっぱら目立つ日本社会において、父親の代わりの役割を果たしているのが、社会において父性の力が強い欧米の人々である。
彼ら欧米人の新たに打ち立てる学説とか、テレビとかでのコメント、主張が、日本人にとって、父親によるアドバイスの役割を果たすことになり、日本人は唯々諾々とそれに従うことになる。
日本における父性の供給基地が、欧米なのである。
日本は、互いに気の合う仲良し同士で集まり固まって、その中によそ者を入れようとない閉鎖的な「仲良しクラブ」が寄せ集まって出来た社会である。
そこでは、気の合う仲間同士のウェット、液体的な一体感、和気あいあいとした空気が何よりも重んじられる。
よそ者を入れないのは、彼らよそ者が、仲良しクラブのメンバー同士の和気あいあいとした良い雰囲気を、空気の読めない言動で壊してしまうからである。
そこで、新たにクラブに人を加える時は、慎重に審査して、軽々しく加えないようにするのである。
この国の人は、何か不平不満があっても、内輪で陰口を叩くばかりで、自分からは動かずに、誰か他の人がやってくれる、解決してくれるのを待つというタイプの人が多いのではないか?
地方の農村部とか、自分から進んで自発的に改良運動を起こすのではなく、対策は、誰か他の人、特にお上=政府にお任せ、頼り切りという考え方が根強いように思われる。
そのくせ、誰かが試しに対策を試みて失敗すると、彼を厳しく叱責、弾劾して、八つ当たり、袋叩きにするのである。
この国では、「お上」に楯突いて抵抗すると、ひどい目に遭うのが通例である。
何かお上(これは、場合によって、国だったり勤め先の会社=奉公先だったりする)の政策や待遇に不都合があった場合に、お上に直訴したり、異議申し立てをすると、見せしめに遭うのである。
例えば、正社員と同等の作業をしながら、待遇が著しく悪い派遣社員が、正社員にして欲しいと直訴すると、懲罰的に解雇される、といった感じである。
異議申し立てをした人の人権は、建前だけで、実際には無いのと同じである。
異議申し立ての中身は精査されず、異議申し立てをした、楯突いたこと自体がお上に対する反逆とみなされ、処分の対象となる。
その点、日本社会は、昔も今も変わらず、楯突きや異議申し立てが事実上禁止された社会と言うことができる。
対策としては、日本で異議申し立てをする人は、国内のお上を飛び越して、アメリカとかのスーパーお上に直訴して認められると、見せしめに遭わなくて済む。
現在の日本社会においては、官公庁や大企業が、(厳しい入社試験をパスした)限られた「選民」の人員を内部で囲い込み、外部に対して、内外を隔てる膜を設けて、内と外を区別し、余所者を門戸を閉ざして入れない排他的、閉鎖的な姿勢を取っている。
中小企業、自営業の人たちも、同様に内外を隔てる膜で、自分たちを囲い込んでいる。
それらの囲いの中に入れない人たちが、非正規雇用の派遣社員やフリーターとして、社会の中を、原子のような状態でバラバラにあてどもなくさまよっている。
一方、欧米とかのドライな外資系企業が、常に外部に対して門戸を開き、雇用を求める人をオープンに受け入れるが、厳しい能力査定を行い、できない人は首にしてすぐに外に放り出してしまう。