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2009年01月 アーカイブ

2009年01月26日

個人の有能さを認めない社会


大相撲で、横綱の朝青龍が優勝する勢いで勝ち続けていたとき(結局優勝したが)、在阪のラジオ局で、「朝青龍が勝ち続けているのは、朝青龍が有能だからか?それとも、周囲の力士がふがいないからか?」という質問を視聴者に質問したところ、「朝青龍が有能だからではなく、周囲がふがいないからだ」という回答が圧倒的であった。

この回答は、個人の能力面での突出を、個人の有能さではなく、その個人を取り巻く集団の無能さが原因であるとするものである。

上記の回答では、個人が能力面で周囲を超越しているように見えるのは、たまたま周囲がダメだからで、その個人が優秀、有能だからではない、という感じであり、個人による能力発揮に否定的な、有能な個人の突出を認めたくないという思いが、強く見え隠れしている。そこには、能力ある個人のことをそのまま手放しで評価したくないという、妬みの根性が透けて見える。

また、個人の優秀さをプラス評価するというよりは、取り巻き集団のマイナス面を評価するという感じで、考え方が減点主義であり、個人や集団のマイナス面を見よう、マイナス面を見つけ出して、その人の芽を潰そうという魂胆も見え隠れしているように思われる。

あるいは、評価対象として、突出した個人をターゲットにしようとせず、周囲の集団を評価のベースにしようという考え方であり、個人よりも集団重視の見方が見て取れる。

「漏斗(ろうと)モデル」 最終完成品出力機としての日本と、技術・原料の一方通行

日本の人たちは、欧米から、今までに無い新しいが、荒削りで未完成な様々な広範な要素技術を導入、消化吸収して、小改良を重ねるのが得意である。

それと共に、海外から、日本では産出しない様々な原料をたくさん輸入しようとする。

そうして、それら技術、原料を互いに組み合わせてパッケージ化して詰め合わせ、1まとまりに凝縮すると共に、その過程で、パッケージに磨きをかけて、完成度を高めたものを、最終出力として、体外に排出する。

要するに、日本は、諸技術、諸原料を組み合わせ凝縮した最終完成品の出力機なのである。

そこには、
海外からの技術、原料の一方的な導入と消化吸収
→技術、原料の組み合わせ、相互凝縮(と高度な磨き上げ)
→最終完成品製品の海外への出力、排出
という、一方通行の流れが存在する。

これは、ちょうど、漏斗(ろうと)の周辺部に水をバラバラにかけると、それぞれの水が下方向へと一方的に流れ下り、互いに狭い筒の中で、互いに組み合わさり、凝縮され、相互一体化して、磨きをかけられたところで、最終完成品として、筒の下から、外部に出力、排出、落下するのと同じ理屈である。

これは、「漏斗(ろうと)」モデルと呼ぶことができる。

特徴は、入力が専ら欧米先進国の要素技術、日本自国では採れない原材料であり、出力が専ら、導入技術と原材料を組み合わせ、高度に加工、凝縮したところの最終完成品、といった感じで、文物の流れが一方通行であることである。ちょっと汚い話だが、食べ物の摂取、消化吸収、便の排出の一方通行性とも似ている(「排便モデル」とも言えるかも知れない)。

自分からは、(欧米のように)新規の独創的なアイデアを産出しようとはせず(自分からは出すのが苦手で)、欧米産の新たなアイデアを一方的、機械的に直輸入して、それらのアイデアを互いに組み合わせ、小改良して、最終的な売り物の製品を、物言わずにひたすら一方的に海外に向けて出力するというのが、日本の取りがちな行動であると言える。

最近は、日本国内では製造せず、より人件費の安い中国とかに製造を委託することが大半となっているが、商品製造の根幹部分を占める高度に改良された技術の持ち主という点では、日本人がまだ握っていると言え、「漏斗モデル」は健在であると言える。

2009年01月30日

先生頼み

日本国の人は、何かにつけて先生役の人を求めたがり、ありがたがる。

何か知らない状態で、自分自身で試行錯誤して解法が分からないまま未知の失敗を重ねるのが怖くて、既に上手な成功例、解法を知っている先生にすぐに頼ろうとするのだ。

なので、先生がいないと、自分からは何も出来ない。ひたすら、教えてもらいたがる傾向がある。生涯学習と言えば聞こえが良いが、裏を返せば、生涯先生に頼り切り状態が続くことになる。

先生役の人も、自分から未知のことに手を出して失敗する(、そして笑われる)のが怖いので、更に上の先生役、師匠、権威者を見つけて、そこから教えを請い、やっとの思いで教えてもらったことを、未だ知らない生徒役の人に向かって、今度は打って変わって偉そうな態度で教えるのだ。

日本では、先生(大学教授とか)が、知識を持っているからというそれだけの理由で、やたらと偉そうに威張ることが許されている。自分では何も新たな知識を生み出さず、更に上の先生役(先輩とか)から教えてもらったことを、横流ししているだけの場合でもである。

日本人が、欧米に対して、内心劣等感を抱きつつ、やたらとその文物を有り難がり、崇拝するのは、欧米が、日本にとっての先生役、先導役を今なお果たしているからである。日本と違って退嬰性が薄い欧米は、自分で未知のことに試行錯誤や失敗を繰り返しながら真っ先に乗り込む結果、払う犠牲は大きいが、先んじて新たな知識に触れることが出来、それゆえ日本に対して恒常的に先生であり続け、日本人から「スーパーお上」扱いされて崇拝され、頼りにされるのである。

そのことが、日本人が、欧米の新たな文物(iPodとか)の登場に敏感に反応し、やたらと賞賛し持ち上げ、有り難がって、一生懸命その真似をする、ひたすら消化吸収のための学習をする、そして自分では何も考えず判断停止状態のまま、日本社会に欧米文物を機械的に直輸入する姿勢をもたらしていると言える。欧米の新たな文物を人より先んじて手に入れる、学習、習得することで、自分自身が先生になれて、まだ知らない人に向かってたっぷり威張れるのである。

日本の大学教授とかは、その感覚が美味しくてたまらないのだろう。何しろ、自分では何も冒険、失敗の危険を冒さずに、欧米産の新事実を、何も考えず、そのまま頭を下げてデッドコピーしたのを、ただ左から右へと横流しするだけで、権威者扱いされ、先生として尊敬されるのだから、止められないね。

先生を何かに付け求めたがるのは、失敗したくない、危険を冒したくないという退嬰性がその根底にあり、元をたどれば、何事も保身第一で行動する女性性の現れと言えるのではないだろうか。

日本人の先生頼りな性質は、日本人の根本に持つ女性的性質、女々しさと深い関係があるのかもしれない。

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