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2009年06月 アーカイブ

2009年06月06日

表向きドライ、本心ウェット?

日本人は、アンケート調査とかで表向きドライな態度を取るが、その奥にある本心はウェットなのではないだろうか?

アンケート調査とかで、あなたはドライかウェットか、どちらですか、と質問すると、ほとんどの人が、自分はドライですと回答する。この結果から見ると日本人はドライになったのかと錯覚する。

ところが、実際に日本社会で生活していると、人間関係がべたべた湿っていて、わずらわしく、閉塞感に満ちている。学閥、先輩後輩関係に代表されるような縁故関係が社会中をバッコしており、所属する会社、学校等の組織、集団のことが何よりも最優先で、個人の人権はそれらの前には風前の灯であることが実感される。日本社会やそれを構成する個々の日本人の性格は、戦前と変わらずウェットなままなのではないかと想定される。

日本人が表面でドライな態度を選択するのは、強力な欧米指向、すなわち自分のことを、ドライな欧米先進国の一員とみなし、東アジアの他国を、そうした先進国一員の日本よりも、格下とみなす心理が働いているためと推測される。
特に、戦後は、日本を占領したアメリカが作成したドライな性格を持った日本国憲法が、戦前の神道に代わって、あたかも宗教のように、不可侵のものとして崇拝の対象になっており、「日本国憲法教」みたいな感じになっている。なぜ崇拝の対象となったかと言えば、天皇がアメリカの前に敗者としてひれ伏したのと、平和主義みたいな日本国憲法の理念に従って行動したら、高度経済成長を実現して、成功し、繁栄したからである。

こうした点、日本人には、表面、表向きのドライさとコアのウェットな本心との乖離、矛盾が存在するのではないかと考えられるが、アンケート調査では、回答者の表向きの面がもっぱら捉えられ、コアな本心には到達できていないということになる。

なぜ、ウェットな本心に到達できないのか?それは、アンケート調査とかでは、本心が、取り繕った表面経由で外に出るため、ウェットな本心がドライに変質して回答されるためである。

この問題を解決するには、アンケート質問する前に、心の奥にしまい込まれたウェットな感情を予め表に引っ張り出してから、アンケート質問を行う必要があるといえる。

要するに、
・人々が奥にあるウェットな本心を他者にさらけ出す場である、学閥やムラ社会的な雰囲気、
・そうしたウェットな派閥やムラ社会での自分が取っている行動、
・その中での他者の(ドライな)行動に対する自分の感じる感情、
を思い出させる手続きを、アンケート調査手続きに含めることができれば、人々は、自分を本当はウェットであると「思い出し」、そのように回答すると考えられる。

今後は、こうした方針で日本人の性格を測定することが必要になってくるのではないか?

日本国憲法教

日本は、戦後は、日本を占領したアメリカが作成したドライな性格を持った日本国憲法が、戦前の神道に代わって、あたかも宗教のように、不可侵のものとして崇拝の対象になっており、「日本国憲法教」みたいな感じになっている。憲法の内容は、聖典としてほとんど改変不可能な状況である。

なぜ崇拝の対象となったかと言えば、戦後、天皇がアメリカの前に敗者としてひれ伏したため国家神道の正当性が失われたのと、国民が国家神道ではなく、日本国憲法の理念に従って行動したら、高度経済成長を実現して、成功し、繁栄したからである。それゆえ、信じるとよいことが起こる、得をすると、日本人が皆思うようになり、信仰にまで発展したのであろう。

日本人は無宗教になったと言われるが、実際のところ、日本国憲法が国教、国家、国民の宗教と化しているのではないだろうか?実際は、国家神道代わりの「『日本国憲法』教」という宗教を信仰しているのである。

同格同士のライバル視と対案提示合戦

日本の組織は、官庁であれ、会社であれ、学校であれ、互いに同格同士ライバル視し合い、同格同士の相手、ライバルの決めた仕様を、自分のところで決して採用せず、別の対案を作ろうと必死になってエネルギーを注ごうとする傾向があるのではないだろうか?同格の相手に合わせたら負けみたいな雰囲気が漂っている。

同格同士、互いにけん制して、自分のところの案が他方に吸収合併されて消滅しないように、自分のところの案の存亡を賭けて、相互に妨害しあうのである。その結果、施策、仕様が各社ごとにバラバラになって統合されないことが起きる。

例えば、同格の総務省と経済産業省とで、一方が何か施策を発表すると、他方がそれをかたくなに取り入れず、別の、その省庁独自の対案を出すため、施策にダブりが生じて、不経済なことになっている。

あるいは、同じ業種のメーカー同士で、製品の仕様を共通化、規格化した方が、コストダウンや市場の拡大とかで好都合そうなのに、なぜか、他の自分と同格のメーカーの製品仕様を決して取り入れようとせず、自社独自の仕様にこだわる行動が頻繁に見られる。例えば、1980~90年代のパソコンで、同格のNECと富士通が互いに別々の仕様のパソコン販売にこだわり、互いに相手の仕様を拒否して取り入れなかった動きがこれに当たる。

政党でも、同格の自民党と民主党が、ほとんど同じような政策を互いに提案し合い、互いに潰し合っている。

こうした同格同士の相互の相手提案拒絶と対案提示合戦を止めるのは、彼らより更に1ランク上の「お上」の仲裁以外に存在しない。その点、日本社会のトップは、複数の同格がいるのでは駄目で、他より1ランク上位に抜き出た単独の別格上位者の存在が必須である。

そこら辺の事情をうまくまとめた欧米を初めとする海外勢に、いつのまにか国際標準仕様を提案され、おいしい所を持って行かれてしまうことも頻繁に起きているようである。1990年代のパソコンについて言えばIBMによるDOS/V規格の市場席捲と国内各社独自仕様のPC9801、FMRシリーズの消滅とかがそれである。

女性人権侵害、抑圧の欧米

最近、イギリス辺りの人権団体が、日本のソフトウェア会社が作ったレイプを主題とするエロゲーを人権侵害であるとして非難し、それに敏感に反応した日本側が、ソフト制作の自主規制を始めたようだ。

しかし、実際のところ、イギリスを初めとする欧米(というか詳しくは西欧と北米)は、社会、国家レベルで、女性の人権侵害、抑圧をやっているのである。

どういうことかと言えば、欧米は、気体的でドライな社会であり、個人行動、相互のバラバラな独立と自由の確保を何よりも重視するのであるが、実際のところそれらは、女性の持つ集団指向、相互の一体感や同調性の確保を重視する液体的でウェットな本質をことごとく否定し、消し去ろうとすることにつながっているのである。

女性のジメジメ、ドロドロ、ウェットな本質的性格を社会、国家レベルで否定することは、そのまま女性本来の性質の否定と、女性への男性的性格の強制につながり、それゆえ女性の人権を、社会の根本で否定、侵害、抑圧していることになる。

イギリスとか女王がトップではないかという声が聞こえてきそうだが、実際のところ、欧米の女性は、本来持っているはずのウェットな性質を殺され、ドライな男性にひたすら合わせて生きる、無害だがあまり役に立たない只の置物であり、男性の専制下で働く家政婦か、所有物、ペットみたいに扱われているのではないだろうか。その実態を巧みにレディーファーストで覆い隠しているのだ。

一方、ウェットなムラ社会日本では、表向きは男社会ということになっているが、実際は、母親や専業主婦の立場の女性が好き放題に活躍しており、男性(息子、夫)を尻に敷いて支配している。息子を操縦する教育ママや、妻が小遣いを夫に渡す制度とか代表的である。

普段女性に抑えられている日本男性としては、例えゲームの上だけでもいいから、女性を思いのままに支配したいと思って、エロゲーを購入してきたのである。それに応えてきたのが女性レイプ性暴力のソフトを作ったソフト会社である。

女らしさを社会の根本で否定、抑圧している、いわば女性への男性性の押し付けという性暴力を国家、社会レベルで行っている欧米社会は、その本質面で女性の人権を侵害しており、その社会の産物である欧米の人権団体も、本来女流日本のソフト会社に女性人権侵害のケチを付けられる立場にはいない。しかるに、欧米に頭の上がらない日本の政府やその配下のソフト会社の機関は、欧米人権団体に言われるままにエロゲー規制をなしくずしで始めてしまった。これは問題だと思う。

経験偏重社会

日本の会社は、転職やリストラ後の再就職で、実務経験者しか採用しようとしない。
資格(例えば情報処理分野で言えば、応用情報技術者とか結構高度なもの)を持っていても、会社での実務経験がないと採用されない。
採用されるのは、どこの色にも染まっていない新卒者か、経験者か二者択一である。

日本社会は、「やったことがある」人や状況を何より重視する。逆に言えば、「やったことがない」人や状況を嫌うのである。すでに経験していること、事前(にこうすれば成功するという)情報があることを重んじ、好み、一方、経験がないこと、事前情報がないことは極力避けようとするのである。自分から未知、未経験の荒海に漕いで出ることを恐れる、「未経験回避」が、社会の慣わしになっている。

その点、既卒者や年長者が、未経験の分野で、一から始める「再チャレンジ」が難しい社会となっている。

2009年06月14日

個人情報保護と、日本社会の「覗き」「内情隠蔽」体質

最近の日本の人たちは、個人情報の保護にやたらと熱心である。最近では、年金や医療等の社会保障に関する情報を国民一人一人について一元化して便利に扱えるようにすることをねらった「社会保障カード」の政府案が、個人情報が漏れた時の影響が大きいとして、猛反対が起きて、結局情報の一元化が取りやめになったりしている。

では、この国の人たちは、なぜそんなに個人情報保護にこだわるのか?筆者は、その原因として、日本社会が、やたらと、個人の内情についての噂が広まりやすい、個人の内情を皆で覗き見しようとする体質を持っているため、個人情報の漏洩の影響が大きいのが原因と考える。

この国の人には、漏洩した個人情報を、皆でよってたかって面白がって広め、閲覧し、噂話の種にしようとする社会的な傾向というかモチベーションがあるように思われる。

また、覗き見体質というか、他人の内部情報を覗き見するのを好んだり、そもそも他人の内情が気になって仕方がなくて、そのことにいつも興味津々である人が多いように思われる。

この国の人たちは、そうした自分たちの体質を熟知しているからこそ、その体質が自分本人に影響を及ぼすのを恐れ、やたらと個人情報保護にうるさいのだと考える。

この国の人たちが個人情報保護に熱心なことの根底には、個人の内情が漏れるのを嫌う閉鎖性、隠蔽体質が存在し、それは、覗き好きと表裏一体になっているのである。

要するに、自分個人の内情は漏れて欲しくないが、他人の内情は興味津々で知りたくてたまらない、漏れるのを心待ちにし、いったん漏れたら皆で噂話の種にして広めたい、という相反する心理が、個人情報保護に関するこの国の人たちの動きの根底にあるのだと言える。

100点満点指向

この国の人で、特に東京大学とかの秀才と呼ばれる人たちは、テストとかで、100点満点というか、失敗、ミスの全く無い、完全無欠なのを目指そうとする人が多いように思われる。

とにかく、正しいこと、間違いのないこと、確実なこと、失敗しないことのみを覚えたり、実行しようとするのである。

このように満点を求める傾向は、ミスを恐れてチャレンジしない退嬰性につながる。

また、自分の言っていることが正しいことを保証してくれる、より上位の権威者の存在を求めること、権威主義につながる。
あるいは、合っていることが保証された既存の定説に心理的に寄りかかり、定説以外の新説を、定説でないというそれだけの理由で一律に却下したりすることにつながる。

論文の執筆とか、学会発表とかで、決して間違えてはいけないと思って、精神的にしゃちほこばり、ぎこちなくなる。少しでも間違ったことを書いて、ミスとして指摘されることを極度に恐れるようになり、ひたすら既存の定説を自分の中にため込むばかりで、自分からは新しい論文が書けなくなる。

こうした退嬰性やミス、失敗を恐れる傾向は、何事も安全や保身第一な女性的な傾向であり、秀才の精神が女流であることの現われである。

日本社会の勝ち組男子は、実は負け組

日本社会において、収入や地位の面で上位を確保した、いわゆる勝ち組の男性たちは、実際のところ本当に勝ち組なのであろうか?

日本社会において勝ち上がるには、それなりに日本ムラ社会に適応、適合することが必要であるが、その際問題となるのが、ウェットな日本ムラ社会は、女性的(集団重視、相互一体感、和合の重視・・・)であり、実質母性の支配下にあるということである。

つまり日本社会で成功するには、ものの考え方を女、母に合わせないといけないということである。女流にならないと成功できない。

日本社会における勝ち組男性の人生は、往々にして男性当人の人生ではなく、その母の人生になっていることが多いのではあるまいか。一見自分の意志で動いているように見えながら、実は母の意志で動いているのではないだろうか。日本社会のシステムは、母のためのシステムなのである。

要するに日本社会で勝ち上がるには、自らの男性性(個人の自立、自由の確保・・・)を捨てて、女流になり、母の言うことを聞いてその通りに動くことが必要であり、その点、男らしさの喪失という点で負け組になってしまうのである。

これと対比して、女性は、女流の日本社会では、存在するだけで勝ち組であると言える。

ウェットな液体社会日本のドライ・気体な人たち

ウェット、液体的な日本社会で自分のことをドライ、気体的であると認識する人には3種類あるように思われる。

1つめは、本当は、ウェット、液体的な日本的集団に正規で入社したいのだけれど、入れて貰えない非正規社員、職員の人たちである。

集団に門前払いされて入れて貰えず、一人孤立して疎外感を味わっている人たちとか、所属している/していた集団から落ちこぼれたり脱落して一人ぼっちになった人たちが、自分のことをドライで気体分子のような境遇に置かれていると感じて、ドライ、気体の方を選んでいると考えられる。ウェットな社会では、疎外感の強さが、ドライ、気体性と関連があると考えられる。この1つめは、「疎外感」タイプと呼べる。

2つめは、本当の自分はウェット、液体的かもしれないんだけれど、ドライ、気体の方が何となく先進的で格好いいので、見栄を張る形で無意識のうちにドライ、気体を選択するというものである。この2つめは「格好付け」タイプと呼べる。

3つめは、ウェットで液体的な社会や集団の中で周囲への同調の強制、行動の制限を受けていて、自由が無い、自分が自立していないというか、絶えず互いに足を引っ張り合う囚われの存在であると自分のことを実感して、個人が自立していて自由なドライで気体タイプがうらやましく、憧れる。

そのため、何をするにも独自の自己主張が必要で、行動の結果について厳しく自己責任が問われ、自分のことは自分で何でも助けないといけないといったドライ、気体タイプの負の側面には目をつぶり、無意識の願望のうちにドライな方が自分に合っている、ひいては自分はドライだと思いこむのである。この3つめは、「囚人」タイプと呼べる。

この囚人タイプについては、例えば匿名掲示板の利用者のように、ネット上で現実社会のしがらみから自由になることを望む人たちが含まれる。

以上の3種類のうち、「疎外感」タイプは、ドライ、気体的なのを好ましく思っていないのに対して、「格好付け」「囚人」タイプは、好ましく思っている、という区分けがある。

この3類型を、性格診断テストで区別できればと思っている。

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