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2009年07月 アーカイブ

2009年07月13日

京都大学の独創性

京都大学は、東京大学のアンチテーゼというか、東京への対抗心、東京否定の心が生み出した、東京とは違うことをやる、違ったものになることを目指していると言える。

それが、例えば、既存の定説を間違いなく習得し、そらんじる東京大学的な行き方に対抗して、理論面での独創性を前面に押し出す結果となっている。

では、東京と京都で、そんなに社会の本質が違うのかと言えば、京都の地の人たちも、本当は、東京大学の体質と大差ないのではないだろうか。

すなわち、京都の人たちも、保守的、退嬰的、閉鎖的でプライドが高いといった、「お上」意識の強い、女流の人たちであり、東京と本質的なところでは同じように思われる。

(東京と京都で)双方本質的なところで差がないのを、一方(京都)の他方(東京)へのライバル心から無理矢理差をつけさせようとするために、一方が(自分も持っている)他方の性質(保守、退嬰)をあえて否定して、それとは逆の性質(独創)を持たせようとした「対抗馬」が京都大学であると言える。

京都大学の学風が独創的であるのは、もともと独創的な風土があった訳ではなく、東京への対抗心から京都の人たちが人工的に作成した「対抗馬」としての風土である。京都の人たちそのものは、旧来からの「公家」的な、お高くとまった、保守的でしきたり、前例指向が強く、自分たちを中心に世界が回っていないと不満なプライドが高い、コネで動く人たちであり、その本質は、京都大学の独創性とはあまり関連しないのが実情ではないだろうか。

保証が必要

この国の人は、自分が行動を起こすに当たって、その安全、正しさを保証してくれる、自分より上位の保証者を何かと求めたがる側面がある。

誰に保証を求めるか。

一つは、天皇家の古来からの権力に由来する、国や官庁といった「お上」に保証を求める行き方である。公的資格が民間資格より、資格として、より保証されたものと考えるのがこれである。お上のお墨付きがあると考えるわけである。

次は、欧米に保証を求める行き方である。「日本では未だこうだけど、欧米では既にこうなっている。欧米を見習うべきだ。」といったように、日本を遅れた劣ったものとして、欧米を進んだ優れたものとみなして、欧米的な先進的行き方を保証されたものと考えるのがこれである。グローバルスタンダードのお墨付きがると考えるわけである。

3つ目は、専門家、教授に保証を求める行き方である。大学で教える教授を、その道の第一人者、最も詳しい、精通した人と考え、彼の言ったことは、専門家のお墨付きがあるとして、そこに保証を求める。

4つ目は、ビッグネーム、有名人に保証を求める行き方である。テレビとかで、名の通ったタレント、芸能人、文化人をゲストに迎えて、コメンテーターになってもらい、「あの有名人が言ったことだから」というので、そこに有名人のお墨付きという保証を求める。
これは、自分より上位の権威あるものによる保証を求める権威主義につながっていると言える。

年齢制限社会

この国では、何かと年齢制限が幅を利かせていると言える。すなわち、○歳までに、決められた関門を通過できないと、後は一切通過できず、門前払いになる。通過のチャンスは二度と与えられないというものである。

年齢制限が幅を利かせているのが、官公庁や大企業への就職である。たいてい新卒のみ採用という制限枠が暗黙のうちに設けられているのであるが、更にそこには、大学受験の浪人の回数や大学での留年の回数が厳しくカウントされ、採用されるのは実質24~25歳以下の若者に限られてしまう。大学院の博士課程とかに進んで年齢を食ってしまうと、採用面では絶望的となる。

あるいは、官公庁や大企業での正社員の管理職への登用が、40歳付近で管理職になれないと、後は一生管理職に昇進するチャンスが奪われ、定年まで(たとえリストラされなくても)ヒラ(役職無し)で過ごさないといけないというものである。40歳付近が幹部社員登用の年齢制限となっているのである。

これは、学生寮とかで、○時までといった決められた時刻までに門を入らないと締め出しを食らう門限制と根が一緒である。

こうした年齢制限が行き届いている背景としては、日本が、引き続き年功序列のエスカレータ社会であることがあげられる。何歳になったらこのステージ(階)に上がり、次に何歳になったら、更に上のこのステージ(階)に上がり、というように、年齢ごとのステージ昇進の位置決めが厳しく決められていて、制限時刻に間に合った者のみを通し、間に合わなかった者に対しては、永遠に門を閉ざし、門を通過するチャレンジの機会を与えないのである。

この場合、門を通過する時刻は、年齢的に遅いだけでなく、速すぎるのも駄目だというのが、この国の年齢制限の特徴である。小中高の学校とか、みんな仲良く同期して1年ずつ持ち上がるのが良しとされ、飛び級のように、皆より速く上がることは許されないのである。

日本社会の4大支配者

日本社会には、4つの支配者がいると言える。

1つ目は、天皇家、あるいはそれを背景にした政府官僚、役人、公務員による民間人の支配である。いわゆる「官」「お上」による支配である。

この場合、日本政府=「お上」よりも更に上に、アメリカとかが「スーパーお上」として君臨しており、二重の支配構造になっているということも考えられる。

2つ目は、老人による若者の支配である。年功序列で、会社とかで上位の地位役職を独占して威張るだけでなく、自分たちが地位に見合う高い給料を貰うことで、そのつけで本来貰うべき給料を老人たちに吸い上げられた若者が低賃金にあえぐ構図を作り出している。金融資産の面でも、日本では、老人がそのほとんどを所有し、老人に偏った資産形成となっている。

3つ目は、母による支配である。日本の母親は、自分の子供を自分と一体化させて、完全な操りロボット化して自由に操縦して、自分の自己実現の道具としている。また、家計管理の権限を握り、夫を小遣いで支配している。いわば母性社会の立役者としての母親が、そのまま社会の支配者となっているのである。

4つ目は、「パンピー(一般人)」による支配である。彼ら一般人、「普通の人」たちは、一つのことに突出せず、様々な役割を次々とまんべんなくこなす「ゼネラリスト」であろうとする。要するに、やろうと思えば何でもできる、つぶしが効くことを目指すのである。彼らは、一つのことにその場で停止してこだわったり、特殊、特異な趣味に偏った人たちを「オタク」と呼んで軽蔑したり、異質な偏向者、邪魔者扱いしたりして、社会から排除しようとする。皆、自分のことを「あの人、オタクだね」と呼ばれないよう必死である。「パンピーのオタクに対する優越」が日本社会の特徴である。

以上述べてきた、官、老人、母、一般人が、日本社会の4大支配者であると言える。

問題を起こさないことが何より大切

この国では、役所とか、自分の在任中とかに問題が起きなければよい、何事もなく大過なく過ぎればよいという考え方が支配的である。何かにチャレンジして問題や失敗を引き起こすよりも、何もせずにそのままいた方がいいという考えである。

あるいは、企業の研究にしても、予め研究の筋道が見えていて、そのまま進んでも大丈夫なことが分かっている、成功することが見えている、失敗しないことのみを取り上げる傾向がある。

こうした退嬰性、消極性、減点主義的な行き方が、日本を覆っており、日本社会の特徴となっている。

安定志向、保守性、退嬰性は、性差から見れば女性的であり、新しいことにチャレンジしたり、既存の秩序を破壊するのが男性的であるとすれば、問題回避体質の日本社会は、女性的と言えるのではないだろうか?

2009年07月15日

高密度社会、過密社会

この国の人は、人も物も狭いところにギュウギュウに詰め込んで、高密度、過密状態で生きるのを好む傾向があると思う。

首都圏の住宅とか、狭い家屋にひしめき合って暮らすのを何とも思わず、それを好んでいるかのように見える。これが粗放に慣れた海外の人間には、奇異に映るのだと考えられる。

2009年07月19日

年功序列型成果主義

日本の企業とかに導入された成果主義は、従来の年功序列と混交し合い、結果として「年功序列型成果主義」と呼べる成果主義を新たに形成している。

要するに、従来と同じく年齢順に昇進し、昇給していくのであるが、その際、昇進ポスト、役職は数に限りがあるため、成果を上げた者のみが、それらの昇進ポストに優先してついて上がっていき、一方成果を上げられなかった者は、昇進ルートから脱落し、そのまま役職なしで定年まで過ごすことになる。

成果を上げた(と経営層に認識された)者が、昇進のエスカレータに乗って、留まって、年功順に上がっていく。

しかし、組織が錐体型を形成し、上に行くほど就ける役職の数が減っていくため、その限られた役職ポストを巡って、競争が起きる。

その際、より優れた成果を上げた者がそれら限られた役職に優先して就けるようにして、成果を上げることに対するモチベーションを維持しているのである。

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