京都大学の独創性
京都大学は、東京大学のアンチテーゼというか、東京への対抗心、東京否定の心が生み出した、東京とは違うことをやる、違ったものになることを目指していると言える。
それが、例えば、既存の定説を間違いなく習得し、そらんじる東京大学的な行き方に対抗して、理論面での独創性を前面に押し出す結果となっている。
では、東京と京都で、そんなに社会の本質が違うのかと言えば、京都の地の人たちも、本当は、東京大学の体質と大差ないのではないだろうか。
すなわち、京都の人たちも、保守的、退嬰的、閉鎖的でプライドが高いといった、「お上」意識の強い、女流の人たちであり、東京と本質的なところでは同じように思われる。
(東京と京都で)双方本質的なところで差がないのを、一方(京都)の他方(東京)へのライバル心から無理矢理差をつけさせようとするために、一方が(自分も持っている)他方の性質(保守、退嬰)をあえて否定して、それとは逆の性質(独創)を持たせようとした「対抗馬」が京都大学であると言える。
京都大学の学風が独創的であるのは、もともと独創的な風土があった訳ではなく、東京への対抗心から京都の人たちが人工的に作成した「対抗馬」としての風土である。京都の人たちそのものは、旧来からの「公家」的な、お高くとまった、保守的でしきたり、前例指向が強く、自分たちを中心に世界が回っていないと不満なプライドが高い、コネで動く人たちであり、その本質は、京都大学の独創性とはあまり関連しないのが実情ではないだろうか。