日本の男性は、個人の独立や自由といったドライで父性的な価値ではなく、相互の一体感、甘え、懐きの重視、集団への所属の重視といった、ジメジメ、ベタベタしたウェットで母性的な価値観に支配されている。要は、父性を失った母性的な男性なのであり、「母男」(母性的男性maternal male)と呼べる。「母男」は、母性の漬け物と化した男性である。
一方、欧米の女性は、個人の独立や自由、自己主張といった父性的価値観に支配された、相互の一体感、相互依存を重視する母性を失った父性的な女性であり、「父女」(父性的女性paternal female)と呼べる。「父女」は、父性の漬け物と化した女性である。
それに対して、日本女性は、本来の母性を保った母性的な女性であり、「母女」(母性的女性maternal female)と呼べる。
また欧米男性は、本来の父性を保った父性的な男性であり、「父男」(父性的男性paternal male)と呼べる。
「母女」「父男」は正常であるが、「母男」「父女」は問題である。
では、なぜ「母男」「父女」が問題なのか?それは、彼らが、両者とも共通に、自分とは異質の異性によって支配される社会的弱者、本来持つべき生物学的特性を異性によってそぎ落とされ、殺された社会的無能者と化した存在だからである。
それに対して、「母女」「父男」は、本来の生物学的性の持つ特性をそのまま社会の中で発揮できる理想的な存在であり、社会的強者でいられるのである。要は、「母女」は相互の一体感、協調性を基調とする母性的態度が必要な農耕社会=母性的社会、「父男」は個人の独立を基調とする父性的態度が必要な遊牧・牧畜社会=父性的社会の中で、メジャーな支配者として君臨できるのである。
一方、「母男」「父女」は、それぞれ、母性的農耕社会、父性的遊牧・牧畜社会の中で、マイナーな被支配者としての立場に甘んじることになる。
日本は、稲作農耕社会の例にもれず、母性の支配する社会であり、そこでは、男性は「母男」、女性は「母女」となり、女性の勢力が男性を上回っている。
「母男」である日本男性は、母親と強い一体感で癒着したまま成長し、その過程で、本来持つべき父性の発達を母親によって阻害され、精神的に母親に依存したままの状態で大人になる。その点、「母男」は、いつまでも母親の息子の立場から脱し得ない男性の問題を明らかにするマザー・コンプレックスの概念と深い関係があると言える。(同様に、欧米女性=「父女」は、父親に精神的に依存し、父親の娘の立場から脱し得ない点、ファザー・コンプレックスと関係する。)
「母男」=日本男性は、会社とかの所属集団に母性的に包容されることを要求する。日本の会社や官庁は、その主要な構成要員が男性なのにも関わらず、相互の一体感、所属感を重視する母性的な雰囲気に包まれているというのが実態である。
彼は、家庭に帰れば、「母女」である妻に対して、母親代わりに心理的に依存する「大きな子供」である。また、家計管理や子供の教育といった家庭の主要な機能は「母女」である妻に独占されていて、家庭の中では居場所がなく、疎外された存在である。
彼は家庭内で子供に対して、精神的な影響力を持つことができず、その子供は再び「母」と癒着し、父性の発達を阻害されることを繰り返す。
「母男」である日本男性は、社会的弱者の立場を脱するためには本来、欧米男性のように、父性を正常に発達させた「父男」となるべきなのであろうが、仮にそれを実現すると、旧来の稲作農耕社会の伝統と対立することになり、社会の混乱を招くことになるという側面もあり、問題はさほど簡単ではないと言える。