-日本男性の虚像 見せ掛けの強者-
戦前から、日本の男性は、本当は無力な弱い存在なのに、女性によって強大な者と見せかけられている。「差別される弱い女性」を演出するフェミニズムもこの一環である。
女性は、生物学的貴重品として、男性に守ってもらおうとする。男性に、強い盾となってもらうことを必要とする。そのためには、男性に自分は強い、役に立つ人間だという自尊心を持ってもらうことが必要である。
日本の女性は、男性の自尊心を保つのに、躍起となっている。
男性が強い、強くなければいけないという神話の起源は、以下の通りである。
生物学的貴重性が強い女性を、外敵から守らねばならない。
守るには、襲ってくる相手より、強くなければならない。
男尊女卑(男性が偉くなければいけない)とは別である。
あくまで、盾、防衛的な役割について、強いことが求められる。
それ以外の側面では、強いことは必ずしも求められない。
「強い盾」の生成過程は、
本来持っているドライさを、稲作農耕社会のようなウェットさを要求される自然風土下では有害であるとして、生育過程において、育児権限を独占する女性によって剥奪され、無力なかたわ者となる。
そのままでは社会のお荷物となるので、生得的な筋力の強さ、武力指向および、生物学的に生き残らなくても、人間の子孫の継承にあまり影響が出ない点を生かし、(生き残らないと、種の保存に支障をきたす)女性を守る「強い盾」として、もっぱら活用され、訓練される。
日本において、男性が優位に立っているというのは、男性に、強い盾になってもらおうとする女性による、作為的な見せ掛けである。
女性は、自分の掌のうえで、男性を泳がせている。
女性は、その気になればいつでも社会の本当の支配者が誰かを見せつけることができる。
ただし、それをすると、男性が、自尊心を失って萎縮してしまい、防衛・強い盾の機能を果たさなくなるので、しないだけである。
強い自尊心を女性によって与えられた男性は、わがまま・専制君主的になりやすい。
日本の父親(特に戦前)が「家父長的」に見える理由は、
1)強引であること
2)威圧的・威張ること
3)厳しい、威厳がある、厳格である
4)怒る 怖い
5)専制的、わがまま
6)断定的、責任を取る(取ってくれる)、決断力がある
といった点にある。
いずれも、人間的には、決して成熟しているとは言えない。
そこには、女性が望む「強い盾」としての側面ばかりが強化されている。
また、ドライさとは無関係のものばかりである。本来の男らしさ、父らしさは、ドライさにあるのではないか?
個人主義、自由主義、合理性など、ドライさを削除されている点、男性としては、精神的に奇形である。
一方、強さは、確かにある。それは、筋力、攻撃力(怒り)といった、女性を守る道具としての強い盾として用いられる。
責任を取る、決断をするというのも、女性に欠けており、女性が欲しがる資質である。失敗したときに、責任を男性になすり付けることができる。
女性にとって、自らの保身を行う上で、都合のよい性質である。
男性にウェットさを強いて、支配下に置いたまま、自分の保身を図るため、うまく使いこなす際に、上記の性質を男性が持っていると重宝する。
ウェットな男性は、いかに強引、専制的...であって(強く見えて)も、本来のドライさを失っている以上、心理的には奇形、障害者であり、社会的弱者である。
強い盾、ないし、給与を差し出す下級労働者としての、女性に都合よく限定した役割しか果たせない、それ以外の点では無能である。
本質的には弱者であり、女性によって搾取される存在である。
日本女性は、自分が社会の支配者であることを、必死に隠そうとしている。
男性の自尊心を傷つけて、強い盾として機能しなくなることを恐れる。
日本における女性への差別待遇も、男性の自尊心を確保するために必要である。
もともと、女性優位なので、そのままでは、劣位にある男性の自尊心が確保しにくく、人権問題となる。
日本女性の男性に対する見方は、男性固有の、個人主義、自由主義など、ドライな側面を、(稲作農耕社会にとっては)有害なので消したいが、かといって、自分たちを守る盾としての存在ではいてほしい。
根底では、ドライな、本来の男らしさを否定し、男尊女卑といった、見かけ上の男性尊重と、女性によって人為的に作られた強さでしのごうと考えている。
日本的な「男らしさ」は、ドライさに基づく男性本来の男らしさとは異なる。