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日本における母性と女性との対立

-姑の権力について-


日本では、母性の父性に対する優位を主張する日本=母性社会論が、松本滋や河合隼雄らによって、以前から唱えられて来た。
母性は、女性性の一部であり、母性が父性よりも強いとする母性社会論は、女性優位を示すと考えられる。
これに対して、フェミニズムは、なぜ、女性が強いという結論を導き出さないのか?
その隠された理由に、以下では迫ってみたい。
 

1.姑と「女性解放」

女性による家族制度批判が行われる場合、女性は、自分を嫁の立場に置いて、制度を批判する。
姑の立場に自分を置いて、家族制度を批判する女性を見たことがない。
姑の立場では、家族制度は、それなりに心地よい、批判の対象とはならないものなのではないか?
同じ女性なのに、姑と嫁という立場が違うと、協同歩調が取れない。
従来のフェミニズムは、嫁の視点ばかりで、姑の視点は取ったものは見当たらない。
同じ女性なのに、姑は、解放の対象からは外れている?解放できない=十分強くて、する必要がない、というのが本音であろう。
根底に、嫁姑の対立という、同性間の対立がある。一方、同性間の連帯意識というのが建前として存在するので、対立を公にできない。

嫁の立場の女性から見ると、姑と、その息子=夫が、一体化して、嫁に対して攻撃をしかけてくる。
姑は、その家では、しきたり・慣習に関する前例保持者、先輩としての年長女性である。
姑は、嫁や息子に対して、先輩、先生である。家風として伝えられて来た前例を教えるとき、威張る。威圧的になる。
本来は、男性=息子も支配している、姑を、自分を抑圧する者として、批判の対象とすべきなのではないか?

女性は、自分と同性の姑の批判ができない、しにくいから、代わりに、男性(姑の息子)を批判するのではないか?
同性間では、見かけだけでも仲良いことにしておきたい、複雑な事情があるのだろう。
日本フェミニストによる「日本家族=家父長制」攻撃の本当の目標は、夫=男性ではなく、姑=同性である女性の権力低下にあるのではないか?本当は、「日本家族=(姑=)母権制」攻撃の方が当たっている。でもそれでは、女性の地位を高めようとする、フェミニズム本来の目的と矛盾する。

「日本=母性社会」攻撃も、まだ子供を産んでいない嫁の立場からは理解できるが、姑の立場からは理解不能である。
同じ女性なのに、嫁の立場と姑の立場とで、まるで連携が取れていない。フェミニズムは、同性間の対立をどう取り扱うのか?
フェミニズムは、弱い立場にある女性しか対象にできない限界がある。姑のように、強い立場にある女性をどう取り扱うのか?
 



2.日本家族における2つの結合

姑は、血縁(親子関係)による結合に基づいた家風の先達者として、嫁を支配し、嫁は姑に服従する関係にある。
「日本家族=家父長制」論者は、
(1)この姑との間の支配服従関係を、夫による支配と勘違いした。


(2)女同士の対立を表に見せようとしない。女同士(嫁・姑)が結束しているように見せかける。

夫婦は、異性間の結合により互いに引きつけ合う。

血縁による結合(親子関係)と、異性間の結合(夫婦関係)とが互いにライバル・拮抗し、互いに強さを強めようとする。強い方が主導権を握る。

夫は、どちらにも深くコミットする、付くことができず振り回される。漁夫の利を得ることもある。

 





3.「女性的=日本的」の相関に対する反応

筆者は、「女性的=ウェット=日本的」、という行動様式や性格面での相関を、インターネット上でのアンケート調査によって明らかにした。

これについての反応は、以下の2通りが考えられる。

(1)何ら驚くべきことではない、当たり前である

既に、豊富な前例がある。石田英一郎の「農耕-遊牧」社会論や、河合隼雄の「母性」社会論など。

(2)とても驚くべきことである、信じられない、間違っているのでは?

フェミニストによる日本「男社会」論が大手を振ってまかり通っている現状からは。女性が、日本社会を支配しているという結論を導き出すものだから。

従来は、上記の2つの見方が、互いに何ら交流を持たず、別々にバラバラに唱えられて来た。そうなった根底には、日本社会における、「女性と母性」との対立が、要因として存在する。

「女としては弱いが、母としては強い」

これは、女性の弱さを強調したがるフェミニストの逃げ口上として、使われる。


しかし、これはおかしい。母性は、女性性の一部であるはずであり、分けたり、対立させて捉えるのは変である。

母は、女性ではないのか?常識から考えて、そんなはずはない。

1人の女性の家庭内での立場に、結婚して子供ができるまでと、子供ができてからとで、大きな格差が存在することを示している。女性の立場は、前者は弱く、後者は強いということだろうか。

大学研究者は、特に若い大学院生などは、前者の立場をもっぱら取るであろう。自分たちの境遇にとって、前者(女性は弱い)のウケがいいから、女性が強い日本社会には適用不可能なはずのフェミニズムが、学説でまかり通る。ないし、フェミニズムが女性学研究者の間でメジャーなのは、担い手である研究者が、嫁の立場にいることが圧倒的に多いからではないか?

日本女性の地位を考える上で、強い方(姑の立場)に焦点を当てないのは、不公平であり、間違っていないか?

女性≠母性、ないし女性と母性を対立するものとみなす。姑と嫁との家庭内での対立が、この捉え方の源となっている。

世代間での対立(20~30代の嫁世代と、50~60代の姑世代との)とも言える。

(1)の日本的=女性的の結びつきを当たり前とする見方は、母性の立場に立ったものであり、一方、(2)の、両者の結びつきに意図的に気づこうとしない見方は、(若い)女性の立場に立ったものと見ることができる。

 

姑は、家族の後継者としての子供を産むと共に、家風を一通りマスターし、家風を伝える正統者として、家庭内で揺るぎない地位を築き、強い立場に立つ。

嫁は、子供が生まれないし(生まれるかどうかも分からない)、家風にも習熟していないので、家庭内での地位は不安定である。赤の他人である、姑の言うことに、一方的に従わねばならず、ストレス・反発心がたまる。

この立場の差が、女性同士での世代間支配・抑圧をもたらす。ひいては、相互間の反発・対立を招く。これが、日本のフェミニストに、女性性(嫁の立場)と母性(姑の立場)とを、統合して捉えることを止めさせる原因となっている。

包含関係としては、母性は、女性性の中に含まれる。女性性は、本来姑も持っている性質である(女なのだから当たり前)。しかるに、日本フェミニストは、女性性を持つ者を、嫁の立場の者に限定して捉えようとしていないだろうか?これは、日本における女性の地位を正しく測定する上で、見逃せない、偏向である。嫁の立場は弱いので、フェミニズム理論に当てはまる。しかし、姑は、強いので当てはまらない。だからといって、姑をあたかも「女性でない」ようにみなして、検討の対象から外すのは、普遍的な女性解放をうたう、本来のフェミニズムの精神からして問題あるのではないか?この辺りに、女性を弱者としてしか捉えられず、理論の対象にできない、現在の日本フェミニズムの限界があるように思われる。

無論、中には、家族制度が廃止されて、嫁の発言権がより強まった、姑がより弱くなった、から、現代の日本フェミニズムは、姑も理論の対象に加えているのだと反論する向きもあろう。

しかし、フェミニズムは、本来、男性支配からの女性解放を提唱するのであって、同じ女性同士の支配からの解放=姑からの嫁の解放を、フェミニズムで取り扱うのは、おかしいのである。

フェミニズムが成り立つのは、女性が、男性に支配されている場合だけである。日本では、男性は、夫婦関係のみを取り出してみれば、家風の習得度において、妻=嫁を上回っており、優位な立場に立っている、と言えるかも知れない。しかし、日本の男性は、姑とは、「母→息子」の関係で、心理面では、姑によって、自分の子供として、一方的に支配・制御される立場にある。解放されるべきなのは、強い姑=母ではなく、支配下にある息子の男性の方なのではないか?こうなると、日本では、女性のみの解放を進めようとするフェミニズムは、成り立ちがたくなる。また、嫁が、家風をすっかりマスターし、姑から家計を切り盛りする権限を譲ってもらった時点で、家庭内の勢力としては、夫=男性を抜きさって、より上位に立つということも十分考えられることである。こうしてみると、夫婦関係を取り出した場合でも、フェミニズムが適用可能なのは、夫婦関係のごく初期だけで、時間の経過と共に、適用しにくくなる、というのが、現実ではないか?

姑と嫁は、さらに、男性(夫であると同時に、息子である)を自分の味方につけて、対立において、自分が有利に事を進めようとして、男性の取り合いを引き起こす。


姑は、嫁に自分の言うことを聞かせたいと考えて、息子に対して、嫁にこう言えと指図する(親子関係の利用)。嫁は、姑の支配からの防波堤として、夫を利用しようとする(夫婦関係の利用)。

親子関係(母→息子) と、夫婦関係(夫=妻)の力比べは、最初は、血縁に裏打ちされた親子関係(母→息子)が強いと考えられるが、姑側の老齢化により、段々拮抗してくると考えられる。

親子関係は、垂直な支配-従属関係なのに対して、夫婦関係は、本来対等であるはずである。しかし、日本では、家風学習のレベルの違いと、姑の介入により、夫が有利となる。従って、夫は妻を支配する、家父長だという説が生じる。しかし、ここで注意すべきことは、夫は、自力で有利さを勝ち取ったのではないことである。家風学習レベルの(妻との)差も、姑の存在も、予め外から与えられた条件である。また、妻には、家風先達者として、偉そうなことを言えても、母たる姑には、口答えできないのであれば、女性(母親)に支配された男性(息子)ということになり、家父長制とは言えない。

日本のフェミニズムは、この水平面の夫婦関係のみに焦点を当て、親子関係による垂直支配(女性による男性支配)に目が向いていない。

舅は何をしているのか?影が薄い。舅は家父長と言えるか?

姑と嫁との間の対立を抑えられない以上、家父長失格なのではあるまいか。

 

日本の女性学、フェミニズム、ジェンダー社会論は、「嫁」の立場にたった学問である。

「姑」の立場に立った学問は、作れないものか?

それは、権力者としての日本の主婦を、特に姑の視点から解明するものである。

日本の女性は、妻・母の両方の立場を兼ねると、矛盾が生じる。

母の立場としては、息子が自分の言うことを聞いて欲しい。

妻の立場としては、夫が自分の言うことを聞いて欲しい。

妻として、夫に自分に同調して欲しいと思う(嫁の立場)。

子供が産まれると、

母として、息子に、自分に同調して欲しいと思う(姑の立場 次の世代にとって)。

嫁の立場と姑の立場を、同一人物が兼ねている(同一人物の中で共存)。

嫁姑の対立では、夫=息子を自分の味方に付けようとする。
立場の矛盾を男性に押しつける。
男性は、どっちつかずの立場に立たされて困る。
 

母性支配からの解放を!という主張への賛同者は、

1)男性
2)女性 結婚していない、子供がいない

となる、と考えられる。

この点、日本では、女性と母性(結婚した、子供を産んだ)とが切り離されて捉えられている。

日本女性にとって、家父長制からの脱却は、名目のみである。
姑支配からの脱却が、本当の目的である。

核家族化(親と同居しない、独居老人の増加)も、姑支配からの脱却と関連がある。
それぞれの核家族が、ウェットなまま、自閉、孤立するのも、嫁姑関係の暗さを払拭しようとする努力の現れと見てよい。
 

日本の子供は、母親のしつけにより、コントロールされ、父親の影が薄い。
父親-息子のラインはあまり強くない。

日本男性は、「若くしては母に従え。老いては妻に従え。」というように、一生を、女性の支配下で暮らしている。

女性は、「老いては子に従え」のはずが、実態は、逆に子供(特に息子)を支配している。

家庭内の実権は、祖母にあって、祖父にはないのでないか?
 

父ないし夫が優位に立てるのは、姓替わりをしなくて済む、家系の跡継ぎ=本流でいることを保証されている、財産所有権限を持つ点にある。

母ないし妻が優位に立てるのは、財産管理権の把握、子供に自分の言うことを聞かせる育児権限の把握にある。

家庭における支配には、世代間支配と、世代内支配とがある。世代間支配とは、母親が息子に、自分の言うことを強制的に聞かせることであり、世代内支配とは、夫が妻に自分の行動様式を強制することである。

日本では、夫が妻に、自分が正統の家風継承者・先達者として、妻に教える立場から、妻を支配して来た。これが、日本における男性による女性支配の典型とされてきた。これは、世代内支配に当たる。ところが、家の中で、夫は母親の息子という立場にあり、母親=姑によって、夫=息子は、絶えずコントロールされ、言うことを聞かねばならない。これが、世代間支配である。これは、女性=母親による、男性=息子の支配であると言える。一方、母親=姑は、夫の妻=嫁にも同時に、自分の行動様式を押しつけ、支配している。姑=母親こそが、息子と嫁の両方を支配する、世代間支配の主役であり、影の薄い舅に代わって、家族の中の支配の頂点に立っているのである。図式化すると、母(姑)→息子(夫)・嫁(妻)の支配が、世代を超えて繰り返し量産されている。父(舅)は、子育てに介入しないので、父→息子ラインは、母→息子ラインに比べて、あまり強くない、目立たないのが現実である。

しかるに、従来のフェミニズムでは、母-息子の世代間支配の存在を無視し、姑による支配を、夫による支配と混同している。あるいは、姑(家庭内強者)の立場に立った理論構築を放棄し、いつも嫁=家庭内弱者の立場に立とうとする。
姑→嫁、姑→息子(夫)という、2つの支配のラインについてその存在を無視している。



4.姓替わりと夫婦別姓

現代の日本女性がいやがることは、
(1)姑との同居 対応策として、次男との結婚を好む
(2)姓替わり 対応策として、夫婦別姓を好む
である。原因は、夫の家風を強制されるのが嫌なことである。強制するのは、同性である姑である。

日本の家庭では、男性が保護されている。


(1)男尊女卑 男性が優先して、いろいろな身の回りの世話をしてもらえる。

(2)姓替わりしなくて済む  家風習得の苦労をしなくてよい。新しく入った家族先で、ストレスがたまったり、既に構成員となっている人たちからいばられたりする体験をしなくて済む。

こうした点は、日本の女性が弱く見える理由ともなる。

姓替わりする方(嫁、入り婿)は、「イエ」の、ないし家風の新参者として、弱い立場に立つ。

強い立場に立つのは、元からその姓を名乗っている、姑+息子(夫)ないし娘である。

女性の弱さと見なされがちだが、嫁にとって敵役の姑は、女性である。

夫婦別姓は姓替わりによる、古参者と新参者との間に勢力面での差別が生じるのを是正しようとするものである。

(1)男女(夫婦)間の問題 男=夫が、家風の先達者として、妻に対して、威張ったりなど振る舞えなくする。

(2)女同士の問題 姑-嫁間の主導権争いを回避する。

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2007年05月22日 22:58に投稿されたエントリーのページです。

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