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男尊女卑(男性優先)の本質について



〔1.はじめに〕

男尊女卑は、物事一般を進める上で、男性が(女性よりも)尊重・優先されることを指しており、(欧米における)レディファースト(女性優先)の対概念と考えられる。

従来、男尊女卑の概念は、日本など東アジアにおける、男性による女性支配(家父長制)の実態を示すもの、あるいは、女性の(男性に比較した)地位の低さを示す象徴として、女性解放の立場を取る人々からの非難にさらされてきた。

一方、欧米などでのレディファーストの概念は、女性の地位の高さを示すものとして、日本のような男尊女卑の社会慣例を持つ社会が、女性解放を進める上で、積極的に学ぶべき手本となるもの、と、女性学者や女性解放論者(フェミニスト)によって主張されてきた。

レディーファーストは、身近な例をあげれば、例えば、自動車のドアを男性が先回りして女性のために開けてあげるとか、レストランで女性のいすを引いて座らせてあげるとか、の行為を指す。この場合、見た目には、男女関係は、女王と従者の関係のように見える(女性が威張っていて、男性は下位に甘んじている)。

しかるに、女性解放を目指すウーマンリブ運動はレディーファーストの欧米で始まっている。このことは、欧米では、男性が女性に形式的にしか服従しておらず、見かけとは逆に、実効支配力、勢力の面では、女性を上回っていることを示しているのではないか?

それと同様のことを男尊女卑に当てはめると、女性は男性に対して、見掛け上のみ従属することを示しており、勢力的には女性の方が男性よりも強く、必ずしも女性は弱者ではないと言えるのではないか?

以下は、こうした疑問をきっかけにして、男尊女卑という概念を、社会を取り巻く自然環境への適応度という観点から、もう一度吟味し直した結果について述べたものである。
 

〔2.自然環境への不適応と性差〕

農耕社会(ウェットな行動様式を要求する)における女性(ウェットな行動様式を生得的に持つ)、および遊牧社会(ドライな行動様式を要求する)における男性(ドライな行動様式を生得的に持つ)は、その環境下で生き抜く上で有益な行動様式(プラスの機能)を持ち、より適応的である。すなわち、存在を肯定され、強い勢力を持つ(強者の立場に立つ、影が濃い)。

一方、農耕社会(ウェット)における男性(ドライ)、遊牧社会(ドライ)における女性(ウェット)は、環境下で生き抜く上で有害な行動様式(マイナスの機能)を持ち、適応障害を起こす(不適応である)。すなわち、その環境下で構築された社会の中でマイナスの価値を持ち(存在を否定され)、勢力が弱い(弱者の立場に立つ、影が薄い)。

上記の内容の詳細については、日本における母権制の再発見についてのページを参照されたい。
 
 

男女は、生物として生殖を行う必要上、同一環境下に、必ずペアで存在する必要がある。したがって、当該環境下の社会では、適応的な側の性だけでなく、適応障害を起こす側の性もその場に同時に存在する必要がある。例えば、農耕社会(ウェット)では、適応的な女性(ウェット)と、適応障害を起こす男性(ドライ)とが、同一の場に共生しなければならない。適応障害を起こす側の性の個体の遺伝レベルでの行動の発現を、そのまま放置しておくと、(1)社会に当該環境下の生存にとって不適切な行動様式をもたらすことで、社会全体の環境適応力を著しく損ない、社会そのものの消滅につながる、(2)適応障害を起こす側の性の個体が、環境不適応の末に死滅してしまうので、当該社会下での生殖活動が不可能となり、ひいては社会そのものの消滅につながる、といった甚大な被害を、社会全体に引き起こす。

こうした被害を未然に防ぐためには、

(1)適応障害を起こす側の性が持つ不適応な部分を、社会化(育児・教育)の過程で、適応している側のそれに対応する部分によって、打ち消す(パッチを当てて中和、無力化する)必要がある。

(2)適応障害を起こす側の性を、適応している性の側で絶えず、生活全般にわたって、社会的弱者として、大事に保護する(サポートする、面倒を見る)必要がある。

こうした必要性は、農耕社会では、(1)は、育児・教育上の母子癒着(母親主導)として、(2)は、男性尊重(男尊女卑)となって現れる。遊牧社会では、(1)は、育児・教育上の母子分離(父親主導)として、(2)は、女性尊重(レディーファースト)としなって、現れる。

人間の周囲の自然環境への適応は、その自然環境下で必要とされる生活様式(湿潤(ウェット)環境では農耕、乾燥(ドライ)環境では、遊牧)に合わせて、行動様式の「湿度」(ウェット~ドライの度合い)を調節する過程として捉えられる。

行動様式の湿度調節は、環境に適応する側の性が、環境に適応障害を起こす(湿度が逆の)性の行動様式(特性)に対して、一方的に中和するかたちで行われる。各性の持つ中和の役割は、女性(遺伝レベル=ウェット)は、液化(ウェット化)、男性(遺伝レベル=ドライ)は、気化(ドライ化)である。

農耕社会(文化レベル=ウェット)では、女性が男性に対して、一方的に液化を行い、逆に遊牧社会(文化レベル=ドライ)では、男性が女性に対して、中和(気化)を行う。パッチ当てを受けた側は、結果として、本来持っていた行動様式が使えなくなり、無力化されて、社会的弱者の立場に転落する。
 

文化レベルのウェット~ドライな行動様式の実現には、遺伝レベルでの性差において、ウェット~ドライな行動様式にすでに従っていることを積極的に利用すべく、自分の性に固有な行動様式を、人間の社会化の過程、特に行動様式の可塑性の大きい、育児最初期の段階で、子供に対してそのまま直接流用するのが、効果的であり、現実に、流用が起きている。

流用のあり方は、例えば[増田1964]では、以下のように描写されている。アメリカ社会(遊牧系:注筆者)では、子供の面倒を見るのはたいてい男性である夫の仕事であり、赤ちゃんは夫(男性)に抱かれているか、ゆりかごに入れて夫(男性)が抱えている。それに対して、日本(農耕系:注筆者)では、母親(女性)が赤ちゃんをおんぶして、上の子の手を引いて、おまけに...といった調子で、育児は母親(女性)の役目となっている。幼少期に自分の性に固有の行動様式を、育児という形で、子供に注入する権限を持つのは、遊牧系の社会では、男性、農耕系の社会では、女性、という図式が成り立つ。

以上の内容をまとめると、次のようになる。

1)女性が主導権を持つ農耕社会では、男性は、女性側がデファクト・スタンダートとする、ウェットな社会的行動様式に、無理やり合わせないと生きて行けない。農耕社会という環境下では、性格がよりウェットな女性のペースで物事が進むため、それに合わせて生活しなければならない、女性の流儀にいやいやながら従わなければならないのであり、それを、幼少から強要され、拒めなくなっているところに、男性の弱さが認められる。男性本来の個人主義的、自律的...といった特性を打ち消され、殺され、抑圧されている。そして、男性本来の特性とは逆の、集団主義的、他律的..といった、ウェットな女性的特性に従って行動させられるため、社会的不適合者、弱者としての地位に甘んじることになる。

2)男性が主導権を持つ遊牧社会では、女性は、男性側がデファクト・スタンダードとする、ドライな社会的行動様式(個人主義、同調を嫌う..)に、無理に合わせないと、とりまく自然環境の中で生き延びられない。遊牧社会では、性格がよりドライな男性のペースで物事が進行するため、それに合わせて生活する必要があり、女性本来の集団主義的、同調的...といった特性は抑圧・消去の対象となる。その結果、女性は、社会的不適合者、弱者の立場に転落する。
 

〔3.弱性保護の思想〕

ウェットな農耕社会(日本)は、男性の表面的な尊重(優先)・女性の実質的支配が生じている社会、ドライな遊牧・牧畜社会(欧米)は、女性の表面的な尊重(優先)・男性の実質的支配が生じている社会、とまとめられる。

ウェットな社会の男性およびドライな社会の女性は、自分とは異質な(反対のジェンダーに適した)原理で動いている社会に、無理やり適応させられているのである。そうした点で彼ら(彼女ら)には、自分たちとは異質な性の行動原理に合わせる生活上、足りなかったり至らぬ点が生じてくるが、そうした適応不足を補償するのが、男性優先(男尊女卑)、女性優先(レディファースト)である、と考えられる。これらは、社会の中でより弱い立場の性の行動を優先する、「弱性優先」という言葉でまとめることができる。
 

優先(priority)には、1)強者優先(力ある者が優先される。権力者がよりよい待遇を受ける)と、2)弱者優先(年寄りや子供など、弱い者が、優先的に、食事にありついたり、座席を譲ってもらったりなど、よりよい待遇を受ける)との、相反する2種類が存在する。優先されるのが、必ずしも強者だからとは限らない。上記で述べている、男尊女卑・レディファースト(弱性優先)は、弱者優先の一種と考えられる(従来のフェミニズムは、男尊女卑を、強者優先とのみ見なしており、弱者優先の選択肢に気づいていない)。

あるいは、ウェットな社会では男性が、ドライな社会では女性が、社会に対して不適応であり、社会における存在意義・理由が、そのままでは、欠乏する(社会の中で、じゃま者扱いされ、軽蔑される)。それでは、彼らの人間としての尊厳(人権)が保たれず、モラル(やる気)の維持などに重大な支障が出ることが予想される。そこで、たとえ表面的であっても、不適応者である彼らのことを、尊重・優先して、自尊心を保ってあげる必要が出てくる。そうした自尊心を補完する社会的な仕組みが、男性優先(男尊女卑)、女性優先(レディファースト)である、と考えられる。

これをまとめると、
 




男尊女卑 強い女性が、弱い男性の、農耕(ウェット)社会への適応不足を、補償する
レディファースト 強い男性が、弱い女性の、遊牧(ドライ)社会への適応不足を、補償する

である。

ここで、「男尊女卑」の原因をまとめると、以下のようになる。 基本的には「弱性優先」の考え方に基づくものである(1~3)が、 「男性優位」の作為的演出(4)、という面もある。

1)「福祉」モデル (農耕社会に向かない)無能者=弱者である男性の世話・サポートを優先的に行う。弱者福祉が目的である。乗り物などで年寄りに優先的に座席を譲るのと同じ考え方である。農耕社会の男性は、家庭ではゴロゴロして何もしない。それは、自分とは異質なウェットな人間関係に取り囲まれ、それに無理に適応しなければならず、無意識のうちに心が疲れて、何もする気が起きない(無気力となる)からである。それゆえ、女性が、家事・洗濯・炊事などで、かいがいしく世話をする必要が生じる。あるいは、男性に無理を言われても、「はいはい」と聞いてあげる寛容さを持つ(弱い子供をあやすように振る舞う)必要が生まれる。

2)「自尊心・モラール」モデル 自尊心を向上させて、(農耕社会にとって有害なため無力化された)男性に、自らを「有用視」させて、勤労・防衛意欲を出させる。(個人主義、自由主義などのドライな=有害な要素を殺したあと)残った能力(筋力・武力)を有効利用する。物事を優先的に行ってよいとされれば、自尊心が起きやすい。

3)「人権」モデル 社会的弱者たる男性の人権保全に配慮する。女性が、男性のことを優先して取り扱ってくれれば、男性の人権がより保たれやすい。(農耕)社会的に有害・無力であることを悟らせず、人間としての尊厳を保たせる。女性に全生活を管理・制御されていることを気づかれないようにする。

4)「貴重」モデル 生物学的に貴重な女性は、自分を「盾」として守ってくれる者を作り、どうせならなるべく強く見せようとする。その方が、外敵を恐れさせることができるからである。農耕社会のように、女性が優位に立っている場合には、女性には、自分を守る「盾」としての男性が、相対的に弱く見える。それだと、女性が、外敵から自己防衛・保身を行う上で不安であり、不都合である、と農耕社会の女性自身が感じた。そのため、男性に、わざと積極的に恐い態度を取らせたり、威張らせる(強圧的な態度を取らせる)。女性に意図的に仕向けられて強がっている男性は、「張り子の虎」のような存在であり、女性の(男性を強く振る舞わせようとする)心理的支えがないと、見かけの強さを維持できず、潰れてしまい、元の、(農耕社会特有の)無能な、頼り無い姿に戻る。

レディ・ファーストの原因は、上記の「男尊女卑」の原因説明における、男性についての記述を、女性に置き換えたものとなる。

1)「福祉」モデル (遊牧社会に向かない)無能者=弱者である女性の世話・サポートを行う。

2)「自尊心・モラール」モデル 女性を表面的に敬うことで、女性に自尊心を与え、物事を行う意欲をかきたたせて、(集団主義、同調指向などのウェットな=有害な面を打ち消したあと)残った家事や職業労働能力を、有効利用する。

3)「人権」モデル 遊牧社会での社会的弱者たる女性の、人間としての尊厳を保つ。

4)「貴重」モデル 遊牧社会での男性が、生物学的に貴重な女性を、高貴な存在=「貴婦人」として崇拝し、より守護しがいがあるものとして捉えることにより、自分自身が内蔵する、女性を守ろうとする欲求を満足させる。
 

男尊女卑・レディファーストは、共に、社会の中でより弱い性を保護しようとする「弱性保護」の思想(弱者保護の一種)と言える。依存する(寄りかかる、もたれかかる)方の性(農耕社会の男性、遊牧社会の女性)は、その依存を受け止める方の性(農耕社会の女性、遊牧社会の男性)よりも、力がなく、弱い(自分ひとりでは立てない)。 受け止める方の性は、力があり、強いからこそ、余裕を持って、依存する相手をしっかり支えることができる。
 

男尊女卑(男性優先)は、男性保護の思想である(通説のように、男性の強さを示しているのではなく、むしろ逆である=弱いから女性によって大切にされる、わがままを聞いてもらえる)。レディファースト(女性優先)の裏返しである(ウーマンリブ運動は、レディファーストの欧米で生まれている。欧米で女性の社会的立場が弱い証拠である。)。

全世界どこでも、(フェミニズムが訴えるように)女性が弱い、というわけではない。勢力面で、女性の方が男性を上回る社会(母権制社会)は、現在でも確実に沢山存在する(それが、例えば日本や、東アジアの稲作農耕社会などである)。従来、母権制社会は存在しないなどというのが定説となっているが、それは母権制についての議論が不十分(母系制との混同、男尊女卑を父権制と混同)なためである。このことの詳細については、日本における母権制の再発見についてのページを参照されたい。
 
 

男尊女卑(男性優先)の社会では、見かけは男性が強い。男性は、自分が(女性よりも)強い立場にいると錯覚するため、男性の自尊心が満たされやすく、男性は自己の立場の弱さに気づきにくい。男性中心社会の神話は、こうして生まれた。この場合、男性には、自分の置かれている立場の弱さ・悪さの自覚がない(男性優先の本当の意味を取り違えて、自分は強いとうぬぼれている)。

男尊女卑が、男性の強さを象徴する行動様式であると見なす、従来の日本フェミニズムの見解は、否定されなくてはならない。男性優先だから、男性が強い、支配的であるとは言えない。男尊女卑(男性優先)は、実質的には、農耕環境に不適合な、弱い立場にいる男性を(強い女性が)サポート・保護する思想である。言い換えれば、男性が弱く、環境適応に手間がかかる分を、強い(農耕環境により適合的な)女性に肩代わりさせる思想である。

日本では、封建的とされる第二次大戦前からも、女性の方が強かった形跡が認められる。 [Benedict1948]によれば、一家の財布・事務処理を一手に切り回すのは姑(女性)であった。 姑(女性)は、息子の嫁を一方的に離縁させる権限を握っていた(舅は何もしていない)。 家庭の父(男性)は、子供たちがあらゆる義務を尽くしてその恩に報いはするが、ややもすれば「あまり大して尊敬されない人物」であった、とされている。(優先されるのは表向きだけで、実質的には、父親の「心理的な」地位は低かった)。

男女平等が唱えられ、男性の女性に対して当然のように世話や奉仕を要求できる特権=「男尊女卑」が剥奪されるようになったことにより、社会の実権を握っている女性の強さが、前面に徐々に出て行き始めた。
 
 

〔4.日本のフェミニズムとの関連〕
 

日本のフェミニズムは、女性の弱さ、性差別(女性が不利)を訴える。これは、女性の弱い欧米社会で生れた理論を、女性が強い日本社会へと、何も考えずに直輸入して、強制的に当てはめようとするものである。かえって、男性の、実質的根拠のない自尊心(自分の方が立場が上、女性は哀れむべき存在)を満足させ、男尊女卑の表面的理解につながっている。日本社会の本当のあり方(女性主導、女性支配)を見えなくさせる原因となり、有害である。

男尊女卑は、欧米流フェミニズムによる批判の対象とは、もともとならない。男性の弱さを原点とする、強い女性が弱い男性を保護する(サポートする・面倒を見る...)、という考え方が根底にあるからである。男性の強さを前提とするフェミニズムは、女性の弱い遊牧社会(欧米)向きであり、農耕社会(日本)には馴染まない。
 

男尊女卑は、男女両者の立場を、少なくとも表面的には対等にする(見かけ・表は男性が強い、実質・裏的には女性が強い、ということで、表裏合わせると、ちょうどバランスが取れる)ためにやはり必要ではないか。女性が支配する社会で、男性の自尊心(人間としての尊厳)を保つために必要と考えられる。人間らしく生きたいという動機づけは誰もが持つものであるが、農耕社会の男性は、男尊女卑による支援がないと、そのままでは、女性主流の社会から邪魔者・やっかい者としてつまはじきされ、人間らしく生きられないのである(中年~高齢の男性に、「粗大ゴミ」などの蔑称が付けられていることがその好例である)。

ただし、女性にとっては、男性が一方的に依存しようとして寄り掛かってくる重みを、自ら受け止める必要があり、負担が大きいのは確かである。男性は、女性に負担がかかるのを当然と思っている。この負担面での男女不平等(性差別)は、日本のフェミニズムでも、家事負担が一方的に女性に押しつけられるなどの形で、問題にされてきたが、(欧米直輸入の部分を無視して)この部分だけを取り出せば、それなりに理に適っている、と考えられる。
 


[参考文献]

Benedict,R. The Chrysanthemum and  the Sword : Patterns of Japanese Culture, Boston Houghton Mifflin, 1948 長谷川松治訳 「菊と刀 - 日本文化の型」社会思想社1948

増田光吉:アメリカの家族・日本の家族,日本放送出版協会,1964

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2007年05月22日 22:18に投稿されたエントリーのページです。

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