現在の日本の社会学、女性学においては、女性のみならず、男性のジェンダー学者が少なからず存在し、日本社会における女性差別の撤廃と、女性の勢力拡大を、女性の学者、運動家と一緒になって声高に叫んでいる。
はっきり言って、彼らは、母が支配する社会としての日本社会の現状を完全に取り違えており、日本社会を女性の立場が悪い社会と誤解しているのである。
これらの男性学者たちは、日本社会において、自分たち男性が置かれている立場の悪さに気付かず、自分たちを社会的強者、優位にある者として、より劣位にあるとする女性たちに慈悲的に接しようとしているのである。
彼らの心の奥底では、男性が女性よりも弱いことを認めることのできないプライドの高さがあり、その点、彼らが表立っては否定している男尊女卑に、彼らは強く染まっていると言える。女性差別撤廃を声高に叫ぶことで、彼らは、日本社会における女性の弱さを再確認したつもりになり、そのプライドを満足させているのである。
こうした、姑や母といった女性たちが強権を握っている日本社会の実情を正しく捉えることに失敗しつつ、そのことに気付かず、女性が弱い社会と見なし続ける彼ら男性学者たちの姿は、滑稽であり、冷笑の対象としてふさわしいものである。
興味深いのは、彼らのような、日本社会の現実の把握に失敗する学者がなぜ次々と輩出するのかということである。
彼ら男性学者は、基本的に、明治時代以来変わらない日本の学者(特に天皇家の御用学者)の伝統的な役割である、先進欧米理論の消化吸収と小改良、日本社会への導入、当てはめの役割にひたすら則っているのである。
彼らは、自らは、独自の正しい理論を生み出す力を持たない。彼らは、欧米を、「正しい」「正解の」理論の供給基地と見なし、「欧米=先生」という図式に基づいて、フェミニズム、ジェンダー理論のような欧米理論を何も考えずにひたすら導入する。欧米理論から離れて、自ら独自の理論を打ち出して主張することは、先生役である欧米を乗り越えようとする一種の越権行為と見なされ、学者仲間から足を引っ張られることになる。
彼らは、欧米理論を「正解」ないし「権威ある正しい学説」と見なし、その理解と暗記、小改良と日本社会への導入、当てはめに夢中になる。
それは、伝統的な大学入試や学者登用の試験に向けて、手っとり早く既存の「正解」を求める教育を受けてきた彼らにとっては、ごく自然な、疑問の余地のない行き方なのである。
ジェンダー理論のように、その当てはめの対象となる社会領域のあり方が、欧米と日本とで女性の持つ社会的勢力が大きく異なるといったように社会の実情が大きく異なる場合、欧米理論を日本社会に直輸入しようとする行為は、そもそも元々一定条件下でのみ有効であり、その条件の元で使用されていた化学薬品等を、それらとは性質の異なる条件の現場に対して、その性質や条件の違いを認識しないまま、投入するのと同じであり、危険な自殺行為となる。その危険を、彼らは、ほとんど認識しないまま、欧米産の「正解」理論を日本に広める第一人者となって尊敬を受けようと必死になって、欧米理論を日本に導入するのである。
彼らは、自分が真っ先に目を付けてシンパになった先進欧米理論を日本社会に、その理論の第一人者となって広めることができ、それによって自分の名声が上がればそれでよいのであり、ジェンダー理論も、自分たちの名声を上げるための手っとり早い道具なのである。
彼らにとって、日本社会の現状ははっきり言ってどうでもよいのである。彼らは、自分たちが導入しようとする欧米の理論に合わせた形で、日本社会の現状を曲げて把握する。
これは、ジェンダー理論についても同様であって、彼らは、自分たちが導入しようとする欧米のジェンダー理論、フェミニスム理論に合わせた形で、姑や母が社会的に大きな勢力を持つ日本社会を「正しく」曲解するのである。
欧米のジェンダー理論は、女性の立場が弱いことを前提とした理論であり、彼らはそれを日本社会に導入するに当たって、日本社会において女性が弱いと考えればうまく直輸入でき、理論の日本への第一の最先端の紹介者となれておいしい思いができて好都合だと考える。そこで、日本の女性のことを、自分たちが導入する「正しい」「正解の」欧米理論に合わせて、社会的に弱い存在だということにしようと半ば無意識のうちに考えるのである。
そして、日本女性が弱いことを示す証拠のみを専ら集めようとする。その際、日本社会において、表面的に男性が女性よりも威張っている男尊女卑とかに着目する。男尊女卑は、自分たちが導入しようとする欧米理論に合致した現象なので、それを見て「やはり自分の導入しようとする欧米理論は正しいのだ。自分たちはその先進理論を導入し、日本社会に対して啓蒙者となり、社会改革の最先端を行って皆の注目を集めるのだ。」と自己陶酔に陥る。
そうして、日本社会において、女性が男性よりも強いことを示す証拠は、意図的というか半ば無意識のうちに無視するのである。
その証拠に、彼らの書く論文や書籍には、日本社会が母子間の紐帯、癒着が強く、子どもが母の意を自発的に汲んで動く動く形で母が社会を支配している母性社会であるとか、日本の国民性がとかく受け身で、相互の和合や一体感を重んじる女性的な雰囲気を強く持っており、女性優位であるとか、家庭の財布の紐を握るのが夫ではなく妻や姑(夫の母)であるとか、家庭において、男性と子どもとの間の結びつきが薄く、子どもを教育する権限は女性が独占しているといった、女性が日本社会を支配する側面は、ほとんど出てこない。
日本の女性(嫁や嫁になる予定の娘さんたち)は、本当は姑を批判したいのだけれど、それができないので、心理的な捌け口を求めて、男性を批判しているという点にも彼らは気付かない。
こうした欧米理論の日本社会への強引な、機械的な直輸入と、輸入に伴う矛盾点の無視を行うこと自体、欧米理論を権威ある正解と見なして、それと心理的に一体化して、信仰の対象とし、この理論に付いていけば大丈夫だと考え、その理論のシンパとなって、理論を頼りにし、心理的に依存しよう、甘えようとする女性的な態度に基づくものであり、母性に支配されていることの証と言える。なおかつ、当の理論を直輸入しようとする本人は、そのことに気付かないまま、自分自身に対しても矛盾している欧米理論をひたすら信仰している点、心理的に矛盾、ねじれを内包していると言える。
彼らはまた、自分の性向が受け身であり、自分からは変われない、新たな機軸を生み出せないのを、欧米理論を身にまとって、自ら改革者になった、変わったつもりでいるのである。そして、自分を改革者としてアピールしようとするのである。