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2008年07月 アーカイブ

2008年07月07日

「母権社会」という呼び名に変えよう

従来、臨床心理の分野とかでは、母親の心理的影響力が強い日本のような社会のことを母性社会と呼んでおり、世の中ではこの呼び方がなされることが多い。

しかし、この母性社会という呼び方は、どちらかといえば社会の静的な性質を表した呼び方で、日本社会において母親が動的に行使している社会的影響力、支配力の大きさを実感するには物足りない。

筆者としては、従来の母性社会という言い方に代えて、「母権社会」(ないし母権制社会)という言い方にすることで、日本の母親の強大さを少しでも実感できるようになるのが望ましいと思っている。

同時に、欧米のように父親が強い社会は、父性社会と呼ぶよりは、父権社会(ないし父権制社会)と呼ぶのが望ましいと思っている。

2008年07月12日

「立てられる」存在としての日本男性と「母的存在」

日本男性は、わがままな暴君、専制君主である。腕白で威張るのが好きで、いい格好しがちな存在である。

日本男性は、精神的には、永遠に母の懐に抱かれた「息子」としての存在であり、母の手のひらの上に乗って威張っているが、心の奥底では、母に甘え、深く依存した、未成熟な子供のままである。

日本男性は、結婚しても、実質としては妻のもう一人の子供として、妻に心理的に依存し、父になれない、父未満の存在であり続ける。

未成熟な子供のまま、力任せにわがままに強引に振る舞うので、見かけは、強大な支配者のように見え、それが「家父長」であるかのように見えるのである。

彼ら日本男性は、「皆の面前で」格好よく目立ちたい、威張りたい、皆を代表したいとか、上に立って指示、指図、命令したいとか、周囲に有能、できると思われ、周囲よりも早く出世、昇進したいといった、周囲の視線を前提とした「見栄っ張り」の性質を持っている。

日本男性は、こうした見栄を張るために、少しでも格好良く皆の前でぴしっと決めたいという欲求を持ちつつ、それを自分一人の力で実現していくだけの心の強さを持ち合わせず、無意識のうちに周囲の自分を包み支えてくれる母的存在に心理的に頼ろうとするのである。それが自分の一人の足では立てない、ひ弱な張りぼてのような「立てられる人」状態を生み出しているのである。

日本男性は、基本的に背後から「立てられた」存在である。会社とか社会の表面に立って威張っているが、その状態を維持するには、支えが必要であり、何らかの「母的存在」が彼を立たせ、支えている。この場合、「母的存在」とは、実母であったり、妻であったり、居酒屋のママであったり、所属する会社であったりと、多種多様である。

立てられているとは、自分を立ててくれている存在に依存していることを意味する。そこら辺の、自分一人では何もできず、周囲に「立ててもらっている」という自覚がなく、まるで自分一人で自立していると思いこみ、社会の表だった支配者みたいに威張っている点が、日本男性の痛いところである。そのくせ、立ててもらわないと、優秀な社員が逃げ出した会社のように、すぐ不格好に倒れたり、潰れたりしてしまう。

日本社会の実際の支配者は、見かけ上威張っている男性たちを立たせてくれる、支えてくれる、依存させてくれる、大きく温かく包んでくれる、甘えさせてくれる側の存在であり、先に述べた「母的存在」がそれに当たる。「母的存在」こそが、日本社会の奥まったところに座る真の支配者であるということができる。

こうした「母的存在」が、「立てられる人」である日本男性を行動させる、つき動かす原動力、モーター、エンジンとなっている。それは、「母性エンジン(お母さんエンジン)」「母性モーター(お母さんモーター)」とでも呼べるものである。そうした母性(母的)エンジン、モーターに基づいて行動するために、日本男性の行動様式は自然と、所属組織との一体化や集団行動を好む、母性的なものとなるのである。

2008年07月27日

「日本=男社会」説は「日本=母社会」説に修正されるべき

日本の職場は、女性の管理職の割合が、他の国に比べて少なく、昇進とかも男性より遅れる等、男性中心で動く「男社会」だ、という社会学者の研究結果が、半ば社会の公式見解になっている。

しかし、そうした見解は、職場とかで表立って支配者みたいに威張って活躍する日本男性の背中に、男性の母親が、男性が子供の頃からぴったりと密着して貼り付いて、男性と心理的に一体化して、男性を自分の思いのままに操縦しているという事態を想定していない。

日本男性は、表立っては社会の支配者であるが、実はその男性の背中に更に真の支配者である男性の母が貼り付いて、男性を依存させ甘えさせると共に、男性にあれこれ指図、命令を下して支配している。そのため、日本社会で表立って活躍するのが男性でも、日本社会の性質は、相互の一体感、包含感、集団行動を重んじる母性的なものになる。こうした構図に、「日本=男社会」論者は、気づくことができていない。

その点、「日本=男社会」説は誤っており、「日本=母社会」説に修正されるべきである。

性別分業と男性社会、女性社会

世界的に著名な組織国際比較の著書(G.Hofstedeとかの)では、社会の性別分業の度合いの高さが、その社会が男性社会か、女性社会かの指標となると考えられており、性別分業の度合いが高いと男性社会、低いと女性社会という見解になっているようである。そして、性別分業の度合いが高い日本社会は、男らしい社会の筆頭に上げられているようである。

しかし、これは正しいのだろうか?

性別分業の度合いが高いとは、男性が働いて稼ぎ、女性は外で働かずに家事や育児に専念する度合いが強いことであり、そうした社会は、女性側からは「あなた稼ぐ人、私使う人」の社会であると思われる。

恐らく、そうした性別分業が女性が強くなるとなくなるという見解は、欧米のように家庭において女性の権限が弱く、例えば家の財布を管理する権限が男性(夫)側が占めていて、女性(妻)が月々決まった小額を男性(夫)からもらって家事をこなす社会にのみ当てはまるのではないだろうか。そうした家計管理とかの家庭内権限が女性が弱い場合、家庭は女性にとって居心地がよい場所だとはとても言えず、少しでも自分の経済的自由を得るために、家庭の外に出て働こうとし、それが性別分業がなくなる方向につながっているのだと言える。

一方、日本のように家庭における女性の権限が強く、例えば家の財布を管理する権限が女性(妻)側が占めていて、女性(妻)が月々決まった小額を男性(夫)に渡す社会では、家庭は女性にとって居心地がよい場所であり、「あなた稼ぐ人、私使う人」を地で行く、女性が好きなように家のお金を使い放題、使い道を決め放題の経済的自由を謳歌できる場所である。そのため、自分の経済的自由を得るために、自分からわざわざ外に働きに行く必要がなく、いつまでも実質的な家庭の奥まった主である専業主婦の「奥さん」でいたいと思う訳である。

そこで、日本では、夫の稼ぎがよほど悪くて妻も働きに出る必要がない限り、妻は外に出て働こうとせず、それが性別分業が温存される方向につながっているのだと言える。

この日本の場合、性別分業が強いことは、男性の強さとはほとんど関係なく、むしろ、女性の強さと関係があるように思われ、性別分業が強いことは、むしろ女性社会の現われであるように思われる。

したがって、性別分業が強い社会は男性社会だとする説は、日本社会を見る限りは誤りだと言えるのではないだろうか。

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