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母性 アーカイブ

2007年05月22日

(参考)母性と父性-態度の比較-

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母性からの解放を求めて

-「母性依存症」からの脱却に向けた処方箋-



従来より、日本社会は、母性が中心となって動く、「母性型社会」であると言われてきた(例えば[河合1976])。筆者としては、その際、母性の担い手である女性だけでなく、男性までもが、母性的態度を取っている、という点に問題があると考えている。



日本の男性たちが、職場などで実際に取る態度は、いわゆる「浪花節的」と称される、互いの一体感や同調性を過度に重んじる、対人関係で温もりや「甘え」を強く求める、内輪だけで固まる閉鎖的な対人関係を好む、など、ウェットで母性的な態度が主流である。(母性的態度、父性的態度についての説明は、このリンクをクリックして下さい。



彼ら日本男性は、一応男性の皮をかぶっているが、実際には、母性的な価値観(それ自体、女性的な価値観の一部である)で行動しているのである。これは、日本社会における母性の支配力の強さを見せつけるものであり、日本社会の最終権力者が、実際には、彼ら男性たちの「母」(姑)ないし「母」役を務めている妻であることを示している。



こうした母性的行動を取る日本男性は、「母性の漬け物」と化している。その点、自分とは反対の性である母性の強い影響のもと、自分たちが本来持つべき父性を失っている。



要するに、日本社会を支配していると表面的には見える男性たちは、実際には、「母」によって背後から操縦、制御される「ロボット」「操り人形」なのであり、「母」に完全に支配されているのである。日本の男性たちは、「母」によって管理・操縦されているため、集団主義、相互規制、閉鎖指向といった、男性本来の個人主義、自由主義、開放指向とは正反対の、ウェットで母性的な振る舞いをするのである。



日本社会は、その全体像が一人の「母」となって立ち現れるのであり、男性は、母性の巨大な渦の中に完全に呑み込まれ、窒息状態にある。



日本男性を、こうした、自分とは反対の性の餌食になっている現状から救うには、「母性からの解放」が必要である。



今までは、日本における「母性」は、男性にとっては、自分たちを温かく一体感をもって包み込んでくれるやさしい存在として、肯定的、望ましいものとして捉えられることが多かった。日本男性がその結婚相手の若い女性に求める理想像も、「自分が仕事から疲れて帰って来た時に温かく迎えてくれる」「自分のことをかいがいしく世話してくれる」といったように、母性的なものになりがちであった。



また、「母性」の行使者である「母」「姑」といった存在が権力者として捉えられることはなかった。日本の女性学においては、権力者は、「家長」としていばっている男性であるという見方がほとんどである。彼ら「家長」たる男性が、その母親と強い一体感で結ばれ、母親の意向を常に汲んで行動する、言わば、「母の出先機関・出張所」みたいな意味合いしか持たない存在であることに言及した書物はほとんどない。



例えば、一家の財産権は、「家長」である男性が持つとされ、それが日本は男性が支配する国であるという見解を生んでいる。しかし、実際のところ、母親との強い癒着・一体感のもと、「母性の漬け物」と化した男性は、実質的にはその母親の「所有物」であり、その母親の配下にある存在である。彼は、独立した男性というよりは、あくまで「母・姑の息子」であり、母親の差し金によって動くのである。



だから、男性が財産権を持つといっても、それは、「母」が息子=自分の子分、自己の延長物に対して、管理の代表権を見かけだけ委託しているに過ぎず、実際の管理は、「母」が行うのである。その点、財産権は、実質的には、息子の母のものである。ただ、母親は、女性として、一家の奥に守られている存在であることを望み、表立って一家を代表する立場に立つことを嫌うので、その役割が息子に回ってくる、というだけのことである。母は、息子に対して、財産の名義を単に持たせているだけであり、実際の管理権限は母(姑)ががっちり握って離さない。



このように、母親に依存し、女性一般を母親代わりに見立てて甘えようとする、「母性依存症」とも呼ぶべき症状を起こしている日本男性に対しては、母性支配からの脱却を目指した新たな処方箋が必要である。日本男性にとっては、本来母性は、決して望ましいものではなく、脱却、克服の対象となる存在となるべきなのであるが、それをわかっていない、母性に対する依頼心の強い男性が余りにも多すぎるのが現状である。



筆者の主張する、「母性依存症」への対処方法は以下の通りである。



(1)まずは手始めに、取る態度を、本来男性が持つべき、個人主義的で自由や個性を重んじる、ドライな「父性的」態度に改めるべきである。言わば、自らの心の中に欠如していた父性を取り戻すのである。これについては、例えば「家父長制」社会=遊牧・牧畜中心社会の立役者である、父性を豊富に備えている、欧米の男性が適切なモデルとなると考えられる。欧米のような家父長制社会を実現しようとなると極端になってしまうが、今まで母性偏重だったのを、母性と父性が対等な価値を持つところまで、父性の位置づけを向上させることは必要であろう。



(付記)なお、従来も「父性の復権」が言われたことがあった(例えば[林道義1996])が、その際言われた「父性」とは、全体を見渡す視点、指導力、権威といったことを指しており、筆者が、上で述べた、個人主義、自由主義、対人面での相互分離、独創性の発揮といった、ドライさを備えた父性への言及が全くない。その点、従来述べられてきた復権の対象としての「父性」は、今までの母子癒着状態をそのまま生かしながら、従来の母性で足りない点を補完する「母性肯定・補完型」の父性であって、筆者の主張する、母性に反逆して、母性の延長線とは正反対の父性を築こうとする「母性否定・対抗型」の父性の復権とは異なると考えられる。




(2)また、「母」的価値からの逃走、ないし反逆を試みるべきである。今まで、自分が一体感をもって依存してきた母親に対して反抗とか独立を試みるのは、非常に難しいことであるのは確かだが、これを実行しない限り、永遠に母性の支配下に置かれることになる。そのためにも、相手との一体感や甘え感覚がなくても自我を平静に保てるように、相手からのスムーズな分離や独立を目指す、「母性からの脱却」「父性の回復」訓練を、自ら進んで実践することが必要である。女性一般に対しても、心の奥深くにある彼女たちへの依存心(自分の母親みたいに、温かく世話して欲しいなど)を克服し、「自分のことは自分で世話する」という自立の精神を持つ必要がある。



(3)子育てに父親として積極的に参加し、母子の絆の中に割り込んで、彼らを引き離すことが必要である。従来、日本の男性は、「仕事が重要である」として、子供との心理的な交流をほとんどしてこなかった。それが、男性が子供と自分とを切り離し、子供から無意識のうちに遠ざけられるようにすることで、母親と子供の間にできる、強固な、誰も割って入ることのできない絆を生み出し、それが、母性による子供の全人格的支配を生み出してきた。(この状態にある母子を、筆者は、「母子連合体」と仮に名付けています。詳細な説明はこのリンクをクリックして下さい。)



男性が子供との交流をしないのは、自分自身の子供時代に、父親との満足な交流の経験がないというのも影響している。一つ前の世代の父親が子供と心理的に隔離された状態に置かれることが、「母子連合体」の再生産を許してきたのである。



従って、子供が母親と完全に癒着した、母性による子供の支配が完成した状態である「母子連合体」の再生産を阻止するには、父親が、母と子供の間に割って入って、自ら主体的に子供との心理的交流を図る作業を実行することが大切である。今まで日本男性が子育てを避ける口実としてきた「仕事が忙しいから」というのは、子供と父とを近づけまいとする、母による無意識の差し金によるものであることを自覚し、それを克服すべきである。外回りの仕事を女性により任せるようにして、その分、自分は家庭に積極的に入るべきなのである。


[参考文献]

河合隼雄、母性社会日本の病理、1976、中央公論社

林道義、父性の復権、1996、中央公論社



「母性社会論」批判の隠された戦略について

-日本社会の最終支配者としての「母性」-



[要約]


「日本=母性社会」論は、その本質が、日本社会を最終的に支配している社会の最高権力者が母性(の担い手である女性)であることを示すものだと筆者は捉える。日本の女性学による「母性社会論は、女性に子育ての役割を一方的に押しつけるものだ」という批判は、女性たちが日本社会を実質的に支配していることを隠蔽する、責任逃れのための「焦点外し」だと考えられる。また、女性たちが従来の「我が子を通じた社会の間接支配」に飽き足らず、自分自身で直接、会社・官庁で昇進し支配者となる、言わば「社会の直接支配」を目指そうとする戦略と見ることもできる。






従来の日本女性学では、臨床心理学者などが提唱している日本を「母性社会」とする見方について、「日本社会が、子供を産み育てる役割を一方的に女性(母親)のみに押しつけていることを示しており、有害である。修正されなくてはならない。」という反応が主流である。



これに対して、筆者は、日本を「母性社会」とする見方は、本来、「日本社会における母性の影響力、権勢が強い。日本社会において、母親が社会の支配者となっている」ことの現れであると見る。要は、日本社会において「母」が社会の根底を支配しており、万人が母親の強い影響下で「母性の漬け物」になっている社会であることを示すのが、「母性社会」という表現だと考えている。



日本の母親は、例えば「教育ママゴン」みたいに、その力の強さを怪物扱いされるような、巨大で手強く、誰もが逆らえない存在なのである。



日本の女性学による、「臨床心理学者たちは、母性社会という言葉を使って、「母」としての女性のみを称賛し、子供を産み育てる役割を女性に押しつけている」という批判は、「日本社会の根幹を支配しているのが母性(の担い手である女性)である」という現状から人々の目を外して、自分たち女性が社会の支配責任を負わなくて済むようにしよう、自分たち(支配側にある)女性に被支配者(男性、子供)の批判、反発が集まらないようにしようとする、「焦点外し」の巧みな戦略、策略だと、筆者には思えてならない。要は、自分たち女性(母性)が社会の実質的支配者であることを、人々に気づかせまいと必死なのである。



また、「子供を産み育てる役割を女性に押しつけるのはいけない」みたいな論調が広がっているが、本来、日本の女性が社会で支配力を振るってこれたのは、彼女らが、子育ての役割を独占することで、自分の子供を、自分の思い通りに動く「駒」として独占的に調教できたから、というのが大きいと考えられる。日本の女性たちは、自分の子供を「自己実現の道具」として、学校での受験競争、会社での昇進競争に、子供の尻を叩いて駆り立て、子供が母親の言うことを聞いて必死に努力して社会的に偉くなった暁には、自分は「母」として、一見社会的支配者となったかに見える子供を更に支配する「最終支配者」的存在として、社会の称賛を浴び、社会に睨みを効かせることができる。



要は、子供の養育を独占することで、自分の子供を完全に「私物化」できることが、日本の女性たちが社会で大きな権勢をこれまで振るってこれた主要な理由であり、要は、「(自分の)子供を通した(日本社会の)間接的支配」というのが、日本の女性たちが社会を支配する上でのお決まりのパターン、手法であった。要は競走馬(我が子)のたずなをコントロールする騎手として、日本女性は、社会をコントロール、支配してきたのである。



「子供を産み育てる役割を女性に押しつけるのはいけない」という論調に日本女性が同調しているのは、彼女らが今まで築き上げてきた、「子供を通じた社会支配」という、彼女らによる日本社会支配手法の定石を自ら捨て去ろうとしている点、実は、日本女性にとってはマイナスであり、むしろ男性にとって、子供を女性の手から取り戻す機会が増える点、プラスであると言える。



ただ、日本男性にとって一番恐ろしいのは、日本女性が、従来の「我が子を通じた、社会の間接支配」に飽き足らず、自ら社会を「直接支配」する者になることを開始することである。従来の我が子を私物化することでの「我が子経由での社会支配」を維持しつつ、自分自身も、会社・官庁で昇進をして偉くなることで、「直接・間接」の両面で日本社会支配を完成させること、これが、本来なら日本のフェミニスト(女権拡張論者)の最終目標となるはずのものであり、日本男性としては、これが実現しないように最大限努力する必要がある。幸い、日本のフェミニストは、この最終目標にまだ気づいておらず、我が子を通じた間接(社会)支配権限を自ら捨て去ろうとしている。これは、日本男性にとって、女性から我が子を取り戻す絶好のチャンスである。



「子育ては女性がするもの」という固定観念は、日本女性による我が子の独占と、我が子を通じた社会の間接支配権限を助長する考え方であり、女性を利する点が多く、男性にはマイナスなのであるが、日本の男性は、そのことに気づかないまま、自分の母親の「自己実現の駒」として、会社での仕事にひたすら取り組み、それが「男らしい」と勘違いしている。



日本の男性は、もう少し、自分の子供に対する影響力を強化することに心を配るべきなのではないか?自分の子供に自分の価値観をきちんと伝えて、自分の後継者たらしめる努力をもっとしないと、いつまで経っても、子供は女性の私物のままである。そして、女性たちが、子供を自分にしっかりと手なずけつつ、自分自身、会社での昇進を本格化させると、心の奥底で、母性に依存したままの男性たちは、寄る辺もなく総崩れになってしまうであろう。そうならないように、自分と母親との関係を見直し、「母からの心理的卒業」と「子供をコントロールする力の確立」を果たすべきなのである。


「母」「姑」視点の必要性

-日本女性学の今後取るべき途についての検討-



既存の日本のフェミニズム、女性学は、社会的弱者である「娘」「嫁」の立場の女性ための学問であり、社会の支配者、権力者である「母」「姑」の立場からの視点が、決定的に欠落している。

今までの日本の女性学の文献を調査すると、「嫁」「妻」「女(これは未婚の女性である「娘」に相当することが多い)という言葉は頻繁に出てくるが、「母」となると急速に数を減らし(それもほとんどは、女性と「母性」の結びつきを批判する内容のものであり、「母親」の立場に立った内容の記述はほとんど見られない)、「姑」に至っては、全くといってよいほど出てこない。要するに、「母」「姑」の立場から書かれた女性学の文献は、今までは、ほとんどないというのが現状だと考えられる。要するに、日本の女性学は、「娘」「嫁」の立場でばかり、主張を繰り返しているようなのである。

既存の日本の女性学は、「日本社会の男性による支配=家父長制」を問題視し、批判の対象としてきた。しかし、彼女たちが真に恐れるのは、本当に男性なのだろうか?

例えば、日本の若い女性は、結婚相手の男性を選ぶ際に、長男を避けて次男以下と結婚しようとしたり、夫の家族との同居を避け、別居しようとする傾向がある。こうした行動を彼女たちに取らせる核心は、「ババ(姑)抜き」(「お義母さんと一緒になりたくない」という一言に尽きる。

要するに、彼女たちにとって一番怖いのは、夫となる男性ではなく、夫の母親である「姑」(女性!)なのである。なぜ、彼女たちが「お義母さん=姑」を恐れるかと言えば、姑こそが、夫を含む家族の真の管理者(administrator)であり、彼女には家族の誰もが逆らえないからである。結婚して同居すれば、夫も夫の妻も、等しく彼らの「母」ないし「義母」である「姑」に、箸の上げ下ろし一つにまでうるさく介入され、指示を受ける。従わないと、ことあるごとに説教されたり、陰湿な嫌がらせを受けたり、といった、精神的に逃げ場のないところまでとことん追い込まれてしまうのである。また、経済的にも、「母」「姑」に一家の財布をがっちりと握られるため、どうしても彼女たちの言うことを聞く必要が出てくる。

こうした点、「母」「姑」こそが、その息子である男性にとっても、「嫁」「娘」の立場にある女性にとっても、等しく共通に、乗り越えるべき「日本社会の最終支配者」なのである。特に、母子癒着こそが、「母」「姑」が自分の子供(特に男性=息子)を、強烈な母子一体感をもって、自分の思い通りに操る力の源泉となり、「母性による社会支配」の要となっている考えられる。


日本の女性学が、そうした「母」「姑」のことを、今まで取り上げてこなかったのはなぜか?

[1]日本の女性学は、社会的に不利な立場にある女性の解放というのを、主要な目的として掲げてきたが、日本社会の支配者としての「母」「姑」という存在は、「弱小者としての女性を解放する」という目的に反する、厄介なものだったからであろう。いったん強大な権力者である「母」「姑」の視点を取ってしまうと、「女性=弱者」という見方は実質的に不可能となるからである。

[2]日本の女性学は、女性同士の連帯・団結を重要視して発展してきたと考えられる。従来は、「娘」「嫁」「妻」の立場を取ることによって、広く女性全体がまとまりを作りやすかった。しかるに、そこに「母」「姑」の立場を持ち込むと、(a)子供を持つ「母」の立場の女性と、未だ持たざる女性、および(b) 「姑」の立場の女性と、その支配を嫌々受けなくてはいけない「嫁」の立場の女性との間に亀裂が生じ、女性同士の連帯感、一体感が大きく損なわれると考えられる。そのため、女性全体の一体性を保つために、あえて「母」「姑」を無視してきたと考えられる。

これら[1][2]は、いずれも「臭いものにはふた」「自説を展開する上で都合の悪い事象は無視」という考え方であり、日本の女性学が、説得力のある内容を持った「科学」として発展していく上で、大きな阻害要因となると言える。日本の女性学が科学として今後も伸びていくには、「母」「姑」の視点を取り入れることで、

(1)「女性=世界のどこでも弱者」という見方を根本からひっくり返して、「日本社会においては、女性=強者である」として、女性に関する社会現象を正しく取り扱えるようにする

(2)女性同士の表面的な連帯感・一体感の深層にある、「母」と「未だ母ならざる女性(娘、妻)」、「姑」と「嫁」との対立を、連帯感・一体感が損なわれることを恐れずにとことんまで明らかにして、もう一度見つめなおすことで、今までの表面的なものではない、女性同士の真の、心の底からの新たな連帯の可能性を見出す

といったことが必要なのではあるまいか?


一方、日本の女性学が、「母」「姑」を軽視してきたのには、以下のような理由もあると考えられる。

[3]日本の女性学は、視点が、(男性が活躍してきた)社会組織(すなわち企業、官庁)における女性の役割や地位向上に向いており、その分、家庭の持つ、一般社会に対する影響力を過小評価してきたからである。要するに、家庭において「母」「姑」が権力を握っていることを仮に認めたとしても、その影響力はあくまで家庭内止まりであって、社会には影響が及ばないと考えているため、「母」「姑」を無視してきたと考えられる。

これに対しては、家庭こそが、社会における基本的な基地、母艦であり、そこから毎日通勤、通学に出かける成員たちが、いずれはそこに帰宅しなくてはいけない、最終的な生活の場、帰着地である、とする見方が考えられる。この見方からは、社会の最も基礎的なユニットが家庭であり、企業や官庁といった社会組織の活動も、家庭という基盤の上に乗って初めて成立するということになる。要するに、「家庭を制する者は、社会を制する」ということになる。

こうした見方が正しいとすれば、「母」「姑」は、企業や官庁で活躍する人々(その多くは男性)の意識を、根底から支え、管理、制御、操縦する、「社会の根本的な支配者、管理者」としての顔を持つことになる。要するに、家庭は、一般社会に対して大きな影響力を持つ存在であり、その支配者としての「母」「姑」を無視することは、日本社会のしくみの正しい把握を困難にする、と言える。そうした点でも、「母」「姑」を女性学の対象に含めることが必要である。


なお、日本女性学で「母」「姑」が無視されてきたのには、次のような推測も可能である。

[4]日本の女性学での主張内容は、そのまま女性たちの不満のはけ口となっていると考えられる。彼女たちにとって不満なのは、弱者としての「娘」「嫁」としての立場なのであって、「母」「姑」となると、社会的にも地位が高止まりで安定し、それなりに満足すると考えられる。女性たちは、自分たちにとって不愉快な「娘」「嫁」としての立場に異議申し立てをする一方、「母」「姑」については、その申し立ての必要がなくなり、そのため、日本女性学の主張内容から外れたと考えられる。

日本の女性学が、社会現象を正しく捉える科学として成立するには、上記のように女性自身にとって不満な点のみを強調するだけでは、明らかに片手落ちであり、何が不満で何が満足かという、両面を把握する必要があるのではないか?


以上、述べたように、今後の日本の女性学は、自らを「被支配者」「下位者」「弱者」として扱う、「娘」「嫁」の視点から、自らを「支配者」「上位者」「強者」として扱う、「母」「姑」の視点への転換を行うべきである。そうすることで、日本女性たちは、今まで正しく自覚できてこなかった、社会の根本的な管理者、支配者(administrator)としての自らの役割に気づくことができるはずであり、そこから、新たな社会変革の視点が見えてくると考えられる。

そういう点では、今後の日本女性学では、「姑」の研究、ないし「母」の研究が、もっと活発になされるべきであろう。

日本社会における母性支配のしくみ

-「母子連合体」の「斜め重層構造」についての検討-



1.日本を支配する母性


一般に、「日本の支配者」というと、表立っては、政治家とか官僚、大企業幹部といった人々が思い浮かぶのが普通であろう。しかし、実際には、彼ら支配者を支配・監督する「支配者の支配者」と呼び得る立場にいる人々が、表立っては見えない、隠れた形で確実に存在する。



そうした、日本社会の根底を支配する人々、すなわち日本社会の最終支配者は、実際には、一般に「お母さん(母ちゃん)」「お袋さん」と呼ばれる人々である。彼女たちには、日本人の誰もが心理的に依存し、逆らえない。日本男児は、肉体的には強くても、「お袋」には勝てないのである。日本は「母」に支配される社会である。従来、日本の臨床心理の研究者たちは、日本社会を「母性社会」と呼んできたが、この呼称は日本社会における「母」の存在の大きさを示していると言える。



当たり前のことであるが、「母」「お袋」と呼ばれる人々は、言うまでもなく女性である。しかし、従来、日本社会において女性の立場はどうかと言えば、男尊女卑、職場での昇進差別やセクシャルハラスメントの対象であるといったように弱い、差別されている被害者の立場にあるという考えが主流であった。



この場合、「女性」と聞いて連想するのは、若い「娘さん」とか、「お嫁さん」といった立場の人が主であると考えられる。「女」という言葉には弱い、頼りないイメージがどうしても先行しがちである。従来の日本の女性学やフェミニズムを担う人たちが「女性解放」の対象としたのは、「娘」「嫁」といった立場にある女性たちであった。


しかし、同じ女性でも、「母」という呼称になると、一転して、全ての者を深い愛情・一体感で包み込み呑み込む、非常にパワフルで強いイメージとなる。「肝っ玉母さん」といった言い方がこの好例である。あるいは、「姑」という呼称になると、自分の息子とその嫁に対して箸の上げ下ろしまで細かくチェックし命令を下すとともに、夫を生活面で自分なしでは生きていけないような形へと依存させる強大な権力者としての顔が絶えず見え隠れする存在となる。



「母」「姑」の立場にある女性は、強力な母子一体感に基づいた子供の支配を行うとともに、夫についても、自分を母親代わりにして依存させる形の「母親への擬制」に基づいた支配を行っている。家庭において、子供の教育、家計管理、家族成員の生活管理といった、家庭の持つ主要な機能を独占支配しているのが「母」「姑」と呼ばれる女性たちの実態である。



言うなれば、「母」「姑」は社会にどっしりと根を降ろし、父とは重みが段違いに違う存在である。そういう点で「母」「姑」には、日本社会の根幹を支配するイメージがある、と言える。しかるに、日本女性のこうした側面は従来の日本の女性学やフェミニズムでは、自分たちの理論形成に都合が悪いとして「日本女性には、母性からの解放が必要だ」などという言説で無視するのが一般的であった。要するに日本の女性学やフェミニズムの担い手たちは、自分たちをか弱い「娘」「嫁」の立場に置くのが好みのようなのである。



確かに、日本の夫婦・夫妻関係では、日本のフェミニストたちが「家父長制」という言葉を使うように、夫が妻を抑圧する、夫優位の関係に少なくとも結婚当初は立つことが多いように思われる。夫による妻に対するドメスティック・バイオレンス問題も、この一環として捉えられる。これは、「男性による女性支配」というように一見見えるのであるが、実際は、直系家族の世代連鎖の中で、夫の母親である「姑」が、我が息子を「母子連合体」として自分の中に予め取り込み、自らの「操り人形」とした上で、その「操り人形」と一体となって「嫁」とその子供を支配する現象の一環に過ぎないと取るべきであると、筆者は考えている。



つまり、一見、妻を支配するように見える夫も、実は、その母親=「姑」の「大きな息子」として「母性」の支配を受ける存在であり、「姑」の意を汲んで動いているに過ぎない面が強い。その点、彼は、母親による支配=「母性支配」の被害者としての一面を持つ。



「妻に対する夫優位」の実態は、「嫁に対する姑の優位」のミニチュア・子供版(姑の息子版)=つまり、「嫁に対する『姑の息子』の優位」に過ぎないと言える。夫が妻に対して高飛車な態度に出られるのも、「姑」による精神的バックアップ、後ろ楯のおかげである側面が強く、「姑」の後ろ楯がなくなったら、夫は妻を「第二の母性(母親代わり)」として、濡れ落ち葉的に寄りすがるのは確実である。



要するに、「母性による(母性未満の)女性の支配」というのが、日本のフェミニストたちによって批判されてきた「家父長制」の隠れた実態であり、そういう点で実際には、日本における「家父長制」と呼ばれる現象は、女性同士の問題として捉えるべきなのである。この場合、「母性未満」の女性とは、まだ子供を産んでいないため、母親の立場についていない女性(未婚の娘、既婚の嫁)を指している。




2.「母子連合体」の「斜め重層構造」の概念について



日本社会においては、母親と子供との間は非常に強力な一体感で結ばれている。これは従来、「母子癒着・密着」という言葉で言い表されて来た。この、父親を含めた他の何者も割って入ることを許さない母親と子供との癒着関係をひとまとめにして表す言葉として、ここでは「母子連合体」という言葉を使うことにする。この場合、子供は、性別の違いによって息子・娘の2通りが考えられるが、「母子連合体」は、そのどちらに対しても区別なく成り立つと考えられる。言うまでもなく、母子連合体の中で、母は、息子・娘を親として支配する関係にある。



日本の直系家族の系図の中では、「母子連合体」は、複数が重層的に積み重なった形で捉えられる。世代の異なる「母子連合体」の累積した「斜め重層構造」、より分かりやすく言えば「(カタカナの)ミの字構造」が、そこには見られる。新たな下(次世代)の層の「母子連合体」の生成は、家族への新たな女性の嫁入りと出産により起きる。この場合、より上の層に当たる、前の世代の母子連合体が、より下の層に当たる、次の世代の母子連合体を、生活全般にわたって支配すると捉えられる。上の世代の母子連合体に属する成員の方が、下の世代の母子連合体に属する成員に比べて、その家庭の行動規範である「しきたり・前例」をより豊富に身につけているため、当該家庭の「新参者」「新入り」である下の世代の母子連合体の成員は、彼らに逆らえない。この「母子連合体の斜め重層構造」を簡単に図式化したのが、以下のリンクである。



「母子連合体の斜め重層構造」の図(PDF)へのリンクです。





ここで着目すべきことは、家族の系図において、夫婦関係のみを取り出して見た場合、夫=姑の息子は、上の世代の母子連合体に属し、妻=嫁(あるいは姑の息子にとって自分の妻になりそうな自分と同世代の女性)は、次(下)の世代の母子連合体に属する(か、属する予定である)という点である。夫婦間で夫が妻を抑圧・支配しているように見える現象も、実際は上の世代の母子連合体の成員(姑の息子)が、次の世代の母子連合体の成員(嫁)を抑圧・支配しているというのが正体であると考えられる。



要するに、姑が、息子を自分の陣営に取り込む形で嫁を抑圧しているというのが、夫による妻抑圧のより正確な実態と考えられる。この場合、夫は、(従来の日本女性学が「家父長」と称してきたような)自立・独立した一人の男性と捉えることは難しく、むしろ「姑の息子」「姑の出先機関・出張所」として、姑(母親)に従属する存在として捉えられる。嫁にとっては強権の持ち主に見える夫も、その母親である姑から見れば自分の「分身・手下・子分」「付属物・延長物」であり、単なる支配・制御の対象であるに過ぎない。



母子連合体の支配者は母親であるから、家族という母子連合体の重層構造の中では、実際には母である女性が一番強いことになる。これは、日本社会が、見かけは「家父長制」であっても、その実態は「母権制」であることの証明となる。


日本男性は、母子連合体において、母によって支配される子供の役しか取れない(母になれない)ため、家庭~社会において永続的に立場が弱いのである(上記の母子連合体説明図において、「父」の字がどこにも存在しないことに注目されたい。これは、日本の家庭において、父の影が薄く、居場所がないことと符合する。日本の家庭では、男性は、(その母親の)「子」としてしか存在し得ないのである)。



この辺の事情を説明するのが、「小姑」と呼ばれる女性の存在である。つまり、嫁として夫(の家族)に忍従してきた女性が、一方では、自分の兄弟の嫁に対しては、「小姑」として高圧的で命令的な支配者としての態度を取るという、矛盾した態度を引き起こしている、という実態である。要するに、女性は、2つの異なる世代の母子連合体に同時に属することができるのである。「小姑」として威張るのは、上の世代の母子連合体に属する立場を、「嫁」としてひたすら夫(の家族)の言うことを聞くのは、次の下の世代の母子連合体に属する立場を、それぞれ代表していると考えられるのである。



要は、上の世代の母子連合体の成員である、姑、夫(姑の息子)、小姑が一体となって、自分たちの家族にとって異質な新参者である夫の妻=嫁(下世代の母子連合体成員)を、サディスティックに支配しいじめているのであり、それは、企業や学校における既存成員(先輩)による「新人(後輩)いびり」「新入生(下級生)いじめ」と根が同じである。これらのいじめを引き起こす側の心理的特徴は、共通に「姑根性」という言葉で一つにくくることができる。



ここで言う「姑根性」とは、要は、相手を自分より無条件で格下(であるべきだ)と見なし、相手の不十分な点を細かくあら探ししたり、相手の優れた点を否定する形で、相手を叱責・攻撃し、相手の足を引っ張り、相手を心理的に窮地に追い込んで、自分に無条件で服従、隷従させようとする心理である。



日本の若い男性が、同世代の女性に対して、高圧的で威張った態度に平気で出るのは、単に「男尊女卑」の考え方があるというだけではない。自分たちが、未来の家族関係において、結婚相手の候補となる同年代の女性たちよりも、一つ前の世代の母子連合体に属することが決まっているため、母子連合体の「斜め重層構造」から見て、「嫁」となって一つ下の世代の母子連合体を構築するはずの同年代の女性を、自分の母親と一緒になって、一つ上の母子連合体の成員として支配することができる有利な立場にあるからである。



夫による妻への暴力であるドメスティック・バイオレンス(DV)は、夫による妻の暴力を利用した支配、いじめということで、一見、男性による女性支配に見えやすい。しかし、実際には、日本の家族の場合においては、妻=嫁を支配したり、いじめたりしているのは、夫だけに限ったことではなく、夫の母親である姑や、夫の姉妹である小姑も、夫の妻=嫁をサディスティックに支配し、いじめている。



この点、夫によるドメスティック・バイオレンス(DV)は、実は、上世代の母子連合体成員(姑、夫、小姑)による、下世代の母子連合体成員(嫁とその子供)の支配、いじめの一環に過ぎないと言える。要は、日本における夫による妻へのドメスティック・バイオレンスは、嫁いびりをする姑のいわゆる「姑根性」と根が同じというか、その一種なのである。家風、その家の流儀を既に身につけた成員(姑、夫、小姑)=先輩による、家風をまだ身につけていない新人、後輩(=嫁)いじめの一種とも言える。



この場合、男性が高圧的になれるのは、男性自身に権力があるからでは全然なくて、心理的に(一つ上の世代の)母子連合体を一緒に形成する自分の母親という後ろ楯があるからであり、そこに、日本男性の母親依存(マザーコンプレックス)傾向が透けて見えるのである。



夫が妻に対して、高飛車で命令的で、乱暴な態度に出られるのも、夫がその妻よりも、一つ上の世代の母子連合体に属することで、妻とその子供が形成する次の下位世代の母子連合体を支配することができるからである。



この場合、見かけ上は、夫は妻(嫁)よりも常に優位な立場にいることができる訳であるが、だからと言って、それが日本社会において男性が女性よりも優位である証拠かと言われると、それは間違いであるということになる。つまり、夫は男性だから優位なのではなく、「姑の息子」だから=妻よりも1世代前のより上位の母子連合体に属するから、妻よりも優位なのである。



要は、夫(姑の息子)による妻(嫁)の支配は、小姑による嫁の支配とその性質が同じである。夫も小姑も、嫁よりも一つ上世代の母子連合体の成員=嫁にとっての先輩だから、嫁を共通に(嫁を後輩として)支配できるのである。この場合、言うまでもなく、夫は(小姑も)、その母と形成する母子連合体の中で、母である女性の支配を受ける存在である。



要するに、夫は、母親である姑と癒着状態で、その支配下に置かれており、その点、日本社会において本当に優位なのは、「母=姑」である女性であり、その息子として支配下に置かれる男性(夫)ではない。この点、日本は女性=母性の支配する社会であり、男性社会ではない。



日本の家庭においては、先祖代々、夫が威張って、妻が服従的な態度を取ることが繰り返され、それが、日本の家庭は、男性優位という印象を与えてきたわけであるが、実際には、その高飛車な夫が、その母親である姑の全人的な密着した支配下に置かれた「姑の付属品、出張所」に過ぎない存在であることを考えれば、日本の家庭は、実際には先祖代々恒常的に、母性=女性優位である、と言える。



おとなしく夫に従属しているかに見える妻も、実際のところ、その子供と強力に癒着して、何者も割って入ることのできない強烈な一体感のうちに、自分の子供を支配している。妻の子供(息子)は、大きくなっても、その母(夫にとっての妻)と強い一体感を保ち、母に支配された状態のまま、結婚をする。そして妻は、その息子を通して、新たな結婚相手の女性とその子供を支配することになる。



要するに、母子連合体においては、母はその子供(息子、娘)の全人格を一体的に、息苦しい癒着感をもって支配する存在である。日本の直系家族は、その母子連合体が、上世代の連合体が下世代の連合体を支配する形で積み重なって形成されてきた。日本の直系家族は、「母による子供の支配」の連鎖、重層化によって成り立ってきたと言える。



こうした母子連合体重層化の考え方は、「日本の家族において、夫婦関係が希薄で、母子関係が強い」、という家族社会学の従来の見解とも合致する。日本の家族では、各世代の母子連合体に相当する母子関係が非常に強力で家族関係の根幹をなしており、夫婦関係は、異なる世代の母子連合体同士を単にくっつけるだけの糊の役割を果たしているに過ぎないため、影が薄く見えるのである。



以上述べた母子連合体重層化のありさまを、家系図の形で表した図(PDF)へのリンクです。




以上述べたように、日本では女性が「母子連合体」を形成して、社会の最もベーシックな基盤である家族を支配している。従来の日本の家族関係に関する「夫による妻の支配=家父長制」という現象も、実際は、上世代の母子連合体による、次(下)世代の母子連合体支配として捉えられ、それは、母子連合体の中における母による息子・娘の支配という関係を視野に入れることで、「時系列的に上位(前)の世代の女性(母性=姑)とその配下の子供(息子=夫、娘=小姑)による、下位(後)の世代の女性(嫁またはその候補)の支配=母権制」の現れとして説明することができる。


以上は、日本の家族について説明したものであるが、この「母子連合体」の概念は、育児における母子癒着の度合いが強い他の東アジアの社会(中国、韓国...)における家族関係にも応用可能と考えられる。

「母性的経営」-日本の会社・官庁組織の母性による把握-

詳細は、以下のリンクをご覧下さい。

母性的経営

日本における母性と女性との対立

-姑の権力について-


日本では、母性の父性に対する優位を主張する日本=母性社会論が、松本滋や河合隼雄らによって、以前から唱えられて来た。
母性は、女性性の一部であり、母性が父性よりも強いとする母性社会論は、女性優位を示すと考えられる。
これに対して、フェミニズムは、なぜ、女性が強いという結論を導き出さないのか?
その隠された理由に、以下では迫ってみたい。
 

1.姑と「女性解放」

女性による家族制度批判が行われる場合、女性は、自分を嫁の立場に置いて、制度を批判する。
姑の立場に自分を置いて、家族制度を批判する女性を見たことがない。
姑の立場では、家族制度は、それなりに心地よい、批判の対象とはならないものなのではないか?
同じ女性なのに、姑と嫁という立場が違うと、協同歩調が取れない。
従来のフェミニズムは、嫁の視点ばかりで、姑の視点は取ったものは見当たらない。
同じ女性なのに、姑は、解放の対象からは外れている?解放できない=十分強くて、する必要がない、というのが本音であろう。
根底に、嫁姑の対立という、同性間の対立がある。一方、同性間の連帯意識というのが建前として存在するので、対立を公にできない。

嫁の立場の女性から見ると、姑と、その息子=夫が、一体化して、嫁に対して攻撃をしかけてくる。
姑は、その家では、しきたり・慣習に関する前例保持者、先輩としての年長女性である。
姑は、嫁や息子に対して、先輩、先生である。家風として伝えられて来た前例を教えるとき、威張る。威圧的になる。
本来は、男性=息子も支配している、姑を、自分を抑圧する者として、批判の対象とすべきなのではないか?

女性は、自分と同性の姑の批判ができない、しにくいから、代わりに、男性(姑の息子)を批判するのではないか?
同性間では、見かけだけでも仲良いことにしておきたい、複雑な事情があるのだろう。
日本フェミニストによる「日本家族=家父長制」攻撃の本当の目標は、夫=男性ではなく、姑=同性である女性の権力低下にあるのではないか?本当は、「日本家族=(姑=)母権制」攻撃の方が当たっている。でもそれでは、女性の地位を高めようとする、フェミニズム本来の目的と矛盾する。

「日本=母性社会」攻撃も、まだ子供を産んでいない嫁の立場からは理解できるが、姑の立場からは理解不能である。
同じ女性なのに、嫁の立場と姑の立場とで、まるで連携が取れていない。フェミニズムは、同性間の対立をどう取り扱うのか?
フェミニズムは、弱い立場にある女性しか対象にできない限界がある。姑のように、強い立場にある女性をどう取り扱うのか?
 



2.日本家族における2つの結合

姑は、血縁(親子関係)による結合に基づいた家風の先達者として、嫁を支配し、嫁は姑に服従する関係にある。
「日本家族=家父長制」論者は、
(1)この姑との間の支配服従関係を、夫による支配と勘違いした。


(2)女同士の対立を表に見せようとしない。女同士(嫁・姑)が結束しているように見せかける。

夫婦は、異性間の結合により互いに引きつけ合う。

血縁による結合(親子関係)と、異性間の結合(夫婦関係)とが互いにライバル・拮抗し、互いに強さを強めようとする。強い方が主導権を握る。

夫は、どちらにも深くコミットする、付くことができず振り回される。漁夫の利を得ることもある。

 





3.「女性的=日本的」の相関に対する反応

筆者は、「女性的=ウェット=日本的」、という行動様式や性格面での相関を、インターネット上でのアンケート調査によって明らかにした。

これについての反応は、以下の2通りが考えられる。

(1)何ら驚くべきことではない、当たり前である

既に、豊富な前例がある。石田英一郎の「農耕-遊牧」社会論や、河合隼雄の「母性」社会論など。

(2)とても驚くべきことである、信じられない、間違っているのでは?

フェミニストによる日本「男社会」論が大手を振ってまかり通っている現状からは。女性が、日本社会を支配しているという結論を導き出すものだから。

従来は、上記の2つの見方が、互いに何ら交流を持たず、別々にバラバラに唱えられて来た。そうなった根底には、日本社会における、「女性と母性」との対立が、要因として存在する。

「女としては弱いが、母としては強い」

これは、女性の弱さを強調したがるフェミニストの逃げ口上として、使われる。


しかし、これはおかしい。母性は、女性性の一部であるはずであり、分けたり、対立させて捉えるのは変である。

母は、女性ではないのか?常識から考えて、そんなはずはない。

1人の女性の家庭内での立場に、結婚して子供ができるまでと、子供ができてからとで、大きな格差が存在することを示している。女性の立場は、前者は弱く、後者は強いということだろうか。

大学研究者は、特に若い大学院生などは、前者の立場をもっぱら取るであろう。自分たちの境遇にとって、前者(女性は弱い)のウケがいいから、女性が強い日本社会には適用不可能なはずのフェミニズムが、学説でまかり通る。ないし、フェミニズムが女性学研究者の間でメジャーなのは、担い手である研究者が、嫁の立場にいることが圧倒的に多いからではないか?

日本女性の地位を考える上で、強い方(姑の立場)に焦点を当てないのは、不公平であり、間違っていないか?

女性≠母性、ないし女性と母性を対立するものとみなす。姑と嫁との家庭内での対立が、この捉え方の源となっている。

世代間での対立(20~30代の嫁世代と、50~60代の姑世代との)とも言える。

(1)の日本的=女性的の結びつきを当たり前とする見方は、母性の立場に立ったものであり、一方、(2)の、両者の結びつきに意図的に気づこうとしない見方は、(若い)女性の立場に立ったものと見ることができる。

 

姑は、家族の後継者としての子供を産むと共に、家風を一通りマスターし、家風を伝える正統者として、家庭内で揺るぎない地位を築き、強い立場に立つ。

嫁は、子供が生まれないし(生まれるかどうかも分からない)、家風にも習熟していないので、家庭内での地位は不安定である。赤の他人である、姑の言うことに、一方的に従わねばならず、ストレス・反発心がたまる。

この立場の差が、女性同士での世代間支配・抑圧をもたらす。ひいては、相互間の反発・対立を招く。これが、日本のフェミニストに、女性性(嫁の立場)と母性(姑の立場)とを、統合して捉えることを止めさせる原因となっている。

包含関係としては、母性は、女性性の中に含まれる。女性性は、本来姑も持っている性質である(女なのだから当たり前)。しかるに、日本フェミニストは、女性性を持つ者を、嫁の立場の者に限定して捉えようとしていないだろうか?これは、日本における女性の地位を正しく測定する上で、見逃せない、偏向である。嫁の立場は弱いので、フェミニズム理論に当てはまる。しかし、姑は、強いので当てはまらない。だからといって、姑をあたかも「女性でない」ようにみなして、検討の対象から外すのは、普遍的な女性解放をうたう、本来のフェミニズムの精神からして問題あるのではないか?この辺りに、女性を弱者としてしか捉えられず、理論の対象にできない、現在の日本フェミニズムの限界があるように思われる。

無論、中には、家族制度が廃止されて、嫁の発言権がより強まった、姑がより弱くなった、から、現代の日本フェミニズムは、姑も理論の対象に加えているのだと反論する向きもあろう。

しかし、フェミニズムは、本来、男性支配からの女性解放を提唱するのであって、同じ女性同士の支配からの解放=姑からの嫁の解放を、フェミニズムで取り扱うのは、おかしいのである。

フェミニズムが成り立つのは、女性が、男性に支配されている場合だけである。日本では、男性は、夫婦関係のみを取り出してみれば、家風の習得度において、妻=嫁を上回っており、優位な立場に立っている、と言えるかも知れない。しかし、日本の男性は、姑とは、「母→息子」の関係で、心理面では、姑によって、自分の子供として、一方的に支配・制御される立場にある。解放されるべきなのは、強い姑=母ではなく、支配下にある息子の男性の方なのではないか?こうなると、日本では、女性のみの解放を進めようとするフェミニズムは、成り立ちがたくなる。また、嫁が、家風をすっかりマスターし、姑から家計を切り盛りする権限を譲ってもらった時点で、家庭内の勢力としては、夫=男性を抜きさって、より上位に立つということも十分考えられることである。こうしてみると、夫婦関係を取り出した場合でも、フェミニズムが適用可能なのは、夫婦関係のごく初期だけで、時間の経過と共に、適用しにくくなる、というのが、現実ではないか?

姑と嫁は、さらに、男性(夫であると同時に、息子である)を自分の味方につけて、対立において、自分が有利に事を進めようとして、男性の取り合いを引き起こす。


姑は、嫁に自分の言うことを聞かせたいと考えて、息子に対して、嫁にこう言えと指図する(親子関係の利用)。嫁は、姑の支配からの防波堤として、夫を利用しようとする(夫婦関係の利用)。

親子関係(母→息子) と、夫婦関係(夫=妻)の力比べは、最初は、血縁に裏打ちされた親子関係(母→息子)が強いと考えられるが、姑側の老齢化により、段々拮抗してくると考えられる。

親子関係は、垂直な支配-従属関係なのに対して、夫婦関係は、本来対等であるはずである。しかし、日本では、家風学習のレベルの違いと、姑の介入により、夫が有利となる。従って、夫は妻を支配する、家父長だという説が生じる。しかし、ここで注意すべきことは、夫は、自力で有利さを勝ち取ったのではないことである。家風学習レベルの(妻との)差も、姑の存在も、予め外から与えられた条件である。また、妻には、家風先達者として、偉そうなことを言えても、母たる姑には、口答えできないのであれば、女性(母親)に支配された男性(息子)ということになり、家父長制とは言えない。

日本のフェミニズムは、この水平面の夫婦関係のみに焦点を当て、親子関係による垂直支配(女性による男性支配)に目が向いていない。

舅は何をしているのか?影が薄い。舅は家父長と言えるか?

姑と嫁との間の対立を抑えられない以上、家父長失格なのではあるまいか。

 

日本の女性学、フェミニズム、ジェンダー社会論は、「嫁」の立場にたった学問である。

「姑」の立場に立った学問は、作れないものか?

それは、権力者としての日本の主婦を、特に姑の視点から解明するものである。

日本の女性は、妻・母の両方の立場を兼ねると、矛盾が生じる。

母の立場としては、息子が自分の言うことを聞いて欲しい。

妻の立場としては、夫が自分の言うことを聞いて欲しい。

妻として、夫に自分に同調して欲しいと思う(嫁の立場)。

子供が産まれると、

母として、息子に、自分に同調して欲しいと思う(姑の立場 次の世代にとって)。

嫁の立場と姑の立場を、同一人物が兼ねている(同一人物の中で共存)。

嫁姑の対立では、夫=息子を自分の味方に付けようとする。
立場の矛盾を男性に押しつける。
男性は、どっちつかずの立場に立たされて困る。
 

母性支配からの解放を!という主張への賛同者は、

1)男性
2)女性 結婚していない、子供がいない

となる、と考えられる。

この点、日本では、女性と母性(結婚した、子供を産んだ)とが切り離されて捉えられている。

日本女性にとって、家父長制からの脱却は、名目のみである。
姑支配からの脱却が、本当の目的である。

核家族化(親と同居しない、独居老人の増加)も、姑支配からの脱却と関連がある。
それぞれの核家族が、ウェットなまま、自閉、孤立するのも、嫁姑関係の暗さを払拭しようとする努力の現れと見てよい。
 

日本の子供は、母親のしつけにより、コントロールされ、父親の影が薄い。
父親-息子のラインはあまり強くない。

日本男性は、「若くしては母に従え。老いては妻に従え。」というように、一生を、女性の支配下で暮らしている。

女性は、「老いては子に従え」のはずが、実態は、逆に子供(特に息子)を支配している。

家庭内の実権は、祖母にあって、祖父にはないのでないか?
 

父ないし夫が優位に立てるのは、姓替わりをしなくて済む、家系の跡継ぎ=本流でいることを保証されている、財産所有権限を持つ点にある。

母ないし妻が優位に立てるのは、財産管理権の把握、子供に自分の言うことを聞かせる育児権限の把握にある。

家庭における支配には、世代間支配と、世代内支配とがある。世代間支配とは、母親が息子に、自分の言うことを強制的に聞かせることであり、世代内支配とは、夫が妻に自分の行動様式を強制することである。

日本では、夫が妻に、自分が正統の家風継承者・先達者として、妻に教える立場から、妻を支配して来た。これが、日本における男性による女性支配の典型とされてきた。これは、世代内支配に当たる。ところが、家の中で、夫は母親の息子という立場にあり、母親=姑によって、夫=息子は、絶えずコントロールされ、言うことを聞かねばならない。これが、世代間支配である。これは、女性=母親による、男性=息子の支配であると言える。一方、母親=姑は、夫の妻=嫁にも同時に、自分の行動様式を押しつけ、支配している。姑=母親こそが、息子と嫁の両方を支配する、世代間支配の主役であり、影の薄い舅に代わって、家族の中の支配の頂点に立っているのである。図式化すると、母(姑)→息子(夫)・嫁(妻)の支配が、世代を超えて繰り返し量産されている。父(舅)は、子育てに介入しないので、父→息子ラインは、母→息子ラインに比べて、あまり強くない、目立たないのが現実である。

しかるに、従来のフェミニズムでは、母-息子の世代間支配の存在を無視し、姑による支配を、夫による支配と混同している。あるいは、姑(家庭内強者)の立場に立った理論構築を放棄し、いつも嫁=家庭内弱者の立場に立とうとする。
姑→嫁、姑→息子(夫)という、2つの支配のラインについてその存在を無視している。



4.姓替わりと夫婦別姓

現代の日本女性がいやがることは、
(1)姑との同居 対応策として、次男との結婚を好む
(2)姓替わり 対応策として、夫婦別姓を好む
である。原因は、夫の家風を強制されるのが嫌なことである。強制するのは、同性である姑である。

日本の家庭では、男性が保護されている。


(1)男尊女卑 男性が優先して、いろいろな身の回りの世話をしてもらえる。

(2)姓替わりしなくて済む  家風習得の苦労をしなくてよい。新しく入った家族先で、ストレスがたまったり、既に構成員となっている人たちからいばられたりする体験をしなくて済む。

こうした点は、日本の女性が弱く見える理由ともなる。

姓替わりする方(嫁、入り婿)は、「イエ」の、ないし家風の新参者として、弱い立場に立つ。

強い立場に立つのは、元からその姓を名乗っている、姑+息子(夫)ないし娘である。

女性の弱さと見なされがちだが、嫁にとって敵役の姑は、女性である。

夫婦別姓は姓替わりによる、古参者と新参者との間に勢力面での差別が生じるのを是正しようとするものである。

(1)男女(夫婦)間の問題 男=夫が、家風の先達者として、妻に対して、威張ったりなど振る舞えなくする。

(2)女同士の問題 姑-嫁間の主導権争いを回避する。

2007年05月23日

日本女性とマザコン

マザコンは、母親による子供の一体支配を、子供が母親の意を汲んで自発的に受け入れている状態のことである。母性の力が強い日本では、結構メジャーな現象であると思われる。

日本においては、マザコンは、女性の立場の違いから、同一の女性にとって否定的にも肯定的にも捉えられる。

これから結婚する、あるいは結婚した嫁の立場の女性にとって、マザコンは、望ましくない、否定すべきものである。
自分の彼氏や夫が、姑と親密にくっついて、姑の同盟軍となって、自分のことをあれこれ批判したり、支配しようとするのに反発したり、彼氏や夫がそうなるのを避けようとして、「マザコン男はダメ」と、マザコンを必死になって批判する。

ところが、そのようにマザコンを批判していた同じ女性が、自分の子供、特に息子を持つと、子供が可愛くて、子供との一体感を楽しみにするようになり、子供を自分の思い通りに動かしたいという支配欲も働いて、子供がいつまでも自分の元にベタベタ愛着を持ってくっつく状態=マザコンを肯定的に捉えるようになる。「マザコン歓迎」となるのである。

自分の姑や夫に対しては、「マザコン反対」で、自分の子供に対しては「マザコン賛成」という、相反する立場を、両方場合に応じて便利に使い分けて、矛盾に気づかないか、気づいても開き直っているのが、日本の女性の現状であると言える。

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