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2007年05月22日

日本男性解放宣言


[注]●印の付いた文章が、宣言本文である。
 
宣言の内容は、具体的には、以下の通りとなる。



[宣言1]

1-1●その心をもっとドライにせよ。男性の本分たる乾いた空気を、自らの行動様式の中に取り戻せ。個人主義、自由主義、契約思想を体得せよ。親分子分や、先輩後輩関係に代表される、ウェットなベタベタした人間関係から脱却せよ。自分より大きなもの(会社組織など)に頼ろうとするな。




1-2●母親や身の回りの女性によって強いられた、集団主義、同調指向、権威主義、リスク回避のくびきから、自分自身を解き放て。


1-3●男性が強い欧米をモデルにするので構わないから、真の男らしさとは何かに一刻も早く気づけ。日本社会における、ドライ=真に男性的な価値の認知、すなわち、個人主義、自由主義、独創性の重視の実現を目指せ。

[解説1]

国民性(社会の雰囲気)という面からは、「日本的=(ウェット)=女性的」である。
日本男性は、「浪花節」に代表される相互一体感、集団主義や、「和合」に代表される相互同調・協調性、「先生」という呼称に代表される権威者を崇め奉る権威主義、冒険や失敗を恐れ、前例やしきたりを豊富に持つ年長者をむやみに重んじる年功序列(先輩後輩)関係を偏重してきたが、それらは本来ことごとく女性的・母性的な価値観に基づくものである。こうした価値観は、男性の生育過程で「母子癒着」関係にある母親の支配・影響下で自然と身に付いたものであり、その点、日本の男性は「母性の漬け物」と化している、と言える。



日本男性が、いかに女性によってウェットさを強いられて来たか、それは、集約的な稲作農耕社会という条件がもたらしたくびきであった。



日本社会では、工業化、都市化、能力主義の浸透により、徐々にウェットさから解放され、ドライ化が進む兆しが見える。この方向が今後も続けば、やがて日本男性は、女性(母性)の支配から解放されるだろう。 日本社会のドライ化に当たっては、社会における欧米化の風潮を追い風にすべきである。ただし、社会を欧米化すると言っても、従来のような欧米への一時的な権威主義的同調で終わらせてはならない。このまま欧米化が進めば、着実に、日本社会のドライ化=男性化が進む。



[宣言2]

2-1●自分が社会的弱者であることに気付け。自覚せよ。男尊女卑をはじめとする「日本=男性中心社会」の神話にだまされてはいけない。



[解説2]

「日本=男社会(男性中心社会)」という言説は、全てまやかしのものである。「男尊女卑」にしても、見かけだけの男性尊重であり、男性の強さである。実際の社会の実権は、女性(母性)に握られているのが現状である。こうした「日本=男性社会」神話は、日本女性による、本来のドライな男性らしさを一度骨抜きにした(男性をウェット化した)後で、自らの保身に役立つ「強い盾」、および収入を得るための「労働力」として、道具扱いしてこき使おうとする心の現れであり、これが日本女性の毒である。




[宣言3]

3-1●女性に生活を管理されるな。女性に身の回りのことを何でもやってもらおうとするな。蔑称「粗大ゴミ」「濡れ落ち葉」を脱却せよ。妻に生活面で頼ろうとするな。妻に家庭内管理職として君臨されないように、できるだけ生活面で自立せよ。


3-2●女性に家庭の外に出て働くように促せ。女性の、家庭における影響力をなくす(女性に支配されないようにする)には、外に出て働いてもらうのが一番である。専業主婦を望む既存の男性は、こうした点で、認識不足である。そのままでは、生活の根幹を女性に支配されてしまうからである。

3-3●女性、特に母親に甘えるな。依存しようとするな。妻を母親代わりにしようとするな。母親から自立せよ。

[解説3]

今まで、日本の男性は、家庭における生活の根幹を、女性(母、妻)の管理下に置かれて来た。家庭における家計管理、子供の教育といった主要機能は、女性(母)が独占している。その点、「日本の家庭=家父長制」というのは、実は見かけだけの現象に過ぎない。日本の男性の立場を向上させるには、この現状から脱却する必要がある。




[宣言4]

4-1●子育てに介入せよ。自分の行動様式・文化をもっと子供に伝えよ。自らの内に秘められたドライな男らしさをもっと出して。子供(特に男の子)を、ウェットに女々しくさせるな。育児権限を母親に独占させるな。女性が、子育ての役割や母性を放棄しようとしている、今こそがチャンスである!

[解説4]

日本の父(夫)は、大人へと育つ間に、母親(女性)によって、父性を殺されている。日本の父は、力不足で、密着する母と子の間に割り込めない。これは、母子一体性および父性殺しの再生産の原因になる。


日本の父親は、子育てを母親に任せっきりである。結果として、育児権限(育児機会)は母親が独占する。
父親は、母子関係に介入しない~できない。子供(特に息子)の人格のウェット化=女性化をもらたす。


このことは、日本男性の育児意欲を、子供のうちに削除し、日本男性の育児機会からの疎外を、世代間で再生産している。これは、子供の社会化において、子供の人格をウェットにするために、ドライな父性の影響を排除する仕組みが、社会的に出来上がっているためと考えられる。


夫婦関係が薄く、母子関係(母娘関係だけでなく、母-息子関係も)が濃いのは、父親を子供から遠ざける効果(父性隔離効果)を持っている。母子癒着は、母親による子供の独占支配の再生産である。こうした現状は、変えられなければならない。


[宣言5]
5-1●いばるな。男尊女卑から自由になれ。女に都合のよく作られた、盾として作られた強さを捨てよ。本当の強さは、個人主義、自由主義といったドライな態度を自分の力で獲得することにある。
日本社会の本当の支配者は、自分たち男性ではなく、女性であることに早く気付け。見かけにだまされてはいけない。

5-2●母親=姑に反逆せよ。伝統的な家風という前例に従うな、自分で作れ(創造せよ)。「家」に頼るな、家を出て自立せよ。そのためにも、夫婦別姓を積極的に考えるべきである(結婚相手を、自分のイエに巻き込むな。姑と嫁との権力争いに巻き込まれ、姑と嫁の両方から非難されるはめになるから。)。

5-3●家の財布を妻に取られるな。収入管理と支出用途決定は、夫婦対等の協同管理に持ち込め。




[解説5]

日本社会が、本当は女性優位、女性的な風土なのに、男性優位、男社会と言われる理由はなぜか?


そこには、3つの打ち崩されるべき壁・神話がある。


(1)男が威張る。男尊女卑。


(2)男中心の家族制度。父系相続。男性側は姓替わりをあまりしなくて済む。


(3)男が収入を得る。一家の大黒柱として君臨。


それぞれ現実は、

(1)実際は、女性によっておだてられて、単なる「(女性、母性を護衛する)強い盾」「(女性、母性に対して)給与を貢ぐ労働者」の役割を果たして喜んでいるだけに過ぎない。




(2)日本においては、家庭の実権は母・姑にあり、「粗大ゴミ」扱いされる男性にはない。
それなのに、女性がなぜ「日本の家庭は家父長制だ」と主張するかと言えば、女性は、自分たちが、前例指向的なものだから、家風という前例による支配の序列(姑→嫁)を否定できない。また、同性である姑には反抗できない。女性=嫁は、嫁いじめされる悔しさを夫に向けるので、夫が支配者ということで非難の対象になってしまう。




(3)男性はあくまで収入を家族にもたらすにとどまる。もたらされた収入を実際に管理して、歳出面での配分などの最終権限を握るのは、女性側である。男性側は、一方的に小遣い額を決められるのみである。男性は、「ワンコイン亭主(一日一枚のコイン分の小遣いを支給されるだけの存在)」という言葉に代表されるように単なる労働者であり、一方、女性は、家庭内管理職(大蔵大臣、厚生大臣..)として君臨する。

日本の男性は、女性に強いと持ち上げられて、自分が本当に強いと錯覚し、虚構の強い自分の姿に酔っている。女性も、自分が、男性に比べて弱いかのように錯覚している。ここから、日本フェミニズムの不幸な歴史が始まった。

日本の家庭は、実質的に女性の支配下にある。

男性は、家族制度のもとでの、父系であることの有利さ・気楽さの原因である、姓替わりをしなくて済む(最初から他家の家風を習得しなくてよい)ため、「家」と自分とを一体化しがちである。


家族が父系であることと、男性(父性)支配とを混同してはならない。父系制が多いのは、男が表に出て、女が奥に隠れた方が、女性の生物学的貴重性に対応するために便利だからである。この場合、自分の身の安全を男性によって保障される女性の方が、生物学的地位や価値としては、男性よりも上である。




(付記)日本男性解放論の目新しさ

以下の3つの命題の結びつきに今までの人は気がつかなかった。これに初めて気づいたのが、日本男性解放論である。

(1)日本社会は女性的である
(2)日本社会においては、女性が強い、優勢である
(3)日本社会においては、解放されるべきなのは男性である

上記の結びつきは、理屈から行って自然なはずであるが、「女性が、全世界共通に弱い、解放されるべき存在である」という既成概念に支配され、じゃまされて着想されなかった。

この既成概念は、男性の強い欧米やアラブのような遊牧系社会でのみ通用する概念のはずなのに、いつのまにか国際標準の概念となってしまい、そうした国際標準や権威といったものに弱い日本の学者が、何も考えずに強引に、(本来女性が強いはずの)日本社会に当てはめてしまった。

したがって、そうした既成概念から自由になることで初めて生れた、日本男性解放論は、学説として十分目新しい。


(付記)日本で男性解放論が広まらない理由

男性解放論が、今までの日本で注目されたり、歓迎されてこなかったのは、男性自身が、自分のことを強い者と思い込まされ、自己満足感に浸っているのを打ち壊すため、男性に不快感を与えるからである。
 
日本では、本来解放されるべき男性が現状に満足し、支配者である女性が現状に不満を持ち、「解放」を唱えている。



男性は、男尊女卑や結婚時の姓替わりなしといった表面的な優遇措置に満足している。
真の男性解放を実現するには、日本男性のこうした表面的な満足感を突き崩す必要がある。これが、上記の日本男性解放宣言の存在理由となる。


男尊女卑(男性優先)の本質について



〔1.はじめに〕

男尊女卑は、物事一般を進める上で、男性が(女性よりも)尊重・優先されることを指しており、(欧米における)レディファースト(女性優先)の対概念と考えられる。

従来、男尊女卑の概念は、日本など東アジアにおける、男性による女性支配(家父長制)の実態を示すもの、あるいは、女性の(男性に比較した)地位の低さを示す象徴として、女性解放の立場を取る人々からの非難にさらされてきた。

一方、欧米などでのレディファーストの概念は、女性の地位の高さを示すものとして、日本のような男尊女卑の社会慣例を持つ社会が、女性解放を進める上で、積極的に学ぶべき手本となるもの、と、女性学者や女性解放論者(フェミニスト)によって主張されてきた。

レディーファーストは、身近な例をあげれば、例えば、自動車のドアを男性が先回りして女性のために開けてあげるとか、レストランで女性のいすを引いて座らせてあげるとか、の行為を指す。この場合、見た目には、男女関係は、女王と従者の関係のように見える(女性が威張っていて、男性は下位に甘んじている)。

しかるに、女性解放を目指すウーマンリブ運動はレディーファーストの欧米で始まっている。このことは、欧米では、男性が女性に形式的にしか服従しておらず、見かけとは逆に、実効支配力、勢力の面では、女性を上回っていることを示しているのではないか?

それと同様のことを男尊女卑に当てはめると、女性は男性に対して、見掛け上のみ従属することを示しており、勢力的には女性の方が男性よりも強く、必ずしも女性は弱者ではないと言えるのではないか?

以下は、こうした疑問をきっかけにして、男尊女卑という概念を、社会を取り巻く自然環境への適応度という観点から、もう一度吟味し直した結果について述べたものである。
 

〔2.自然環境への不適応と性差〕

農耕社会(ウェットな行動様式を要求する)における女性(ウェットな行動様式を生得的に持つ)、および遊牧社会(ドライな行動様式を要求する)における男性(ドライな行動様式を生得的に持つ)は、その環境下で生き抜く上で有益な行動様式(プラスの機能)を持ち、より適応的である。すなわち、存在を肯定され、強い勢力を持つ(強者の立場に立つ、影が濃い)。

一方、農耕社会(ウェット)における男性(ドライ)、遊牧社会(ドライ)における女性(ウェット)は、環境下で生き抜く上で有害な行動様式(マイナスの機能)を持ち、適応障害を起こす(不適応である)。すなわち、その環境下で構築された社会の中でマイナスの価値を持ち(存在を否定され)、勢力が弱い(弱者の立場に立つ、影が薄い)。

上記の内容の詳細については、日本における母権制の再発見についてのページを参照されたい。
 
 

男女は、生物として生殖を行う必要上、同一環境下に、必ずペアで存在する必要がある。したがって、当該環境下の社会では、適応的な側の性だけでなく、適応障害を起こす側の性もその場に同時に存在する必要がある。例えば、農耕社会(ウェット)では、適応的な女性(ウェット)と、適応障害を起こす男性(ドライ)とが、同一の場に共生しなければならない。適応障害を起こす側の性の個体の遺伝レベルでの行動の発現を、そのまま放置しておくと、(1)社会に当該環境下の生存にとって不適切な行動様式をもたらすことで、社会全体の環境適応力を著しく損ない、社会そのものの消滅につながる、(2)適応障害を起こす側の性の個体が、環境不適応の末に死滅してしまうので、当該社会下での生殖活動が不可能となり、ひいては社会そのものの消滅につながる、といった甚大な被害を、社会全体に引き起こす。

こうした被害を未然に防ぐためには、

(1)適応障害を起こす側の性が持つ不適応な部分を、社会化(育児・教育)の過程で、適応している側のそれに対応する部分によって、打ち消す(パッチを当てて中和、無力化する)必要がある。

(2)適応障害を起こす側の性を、適応している性の側で絶えず、生活全般にわたって、社会的弱者として、大事に保護する(サポートする、面倒を見る)必要がある。

こうした必要性は、農耕社会では、(1)は、育児・教育上の母子癒着(母親主導)として、(2)は、男性尊重(男尊女卑)となって現れる。遊牧社会では、(1)は、育児・教育上の母子分離(父親主導)として、(2)は、女性尊重(レディーファースト)としなって、現れる。

人間の周囲の自然環境への適応は、その自然環境下で必要とされる生活様式(湿潤(ウェット)環境では農耕、乾燥(ドライ)環境では、遊牧)に合わせて、行動様式の「湿度」(ウェット~ドライの度合い)を調節する過程として捉えられる。

行動様式の湿度調節は、環境に適応する側の性が、環境に適応障害を起こす(湿度が逆の)性の行動様式(特性)に対して、一方的に中和するかたちで行われる。各性の持つ中和の役割は、女性(遺伝レベル=ウェット)は、液化(ウェット化)、男性(遺伝レベル=ドライ)は、気化(ドライ化)である。

農耕社会(文化レベル=ウェット)では、女性が男性に対して、一方的に液化を行い、逆に遊牧社会(文化レベル=ドライ)では、男性が女性に対して、中和(気化)を行う。パッチ当てを受けた側は、結果として、本来持っていた行動様式が使えなくなり、無力化されて、社会的弱者の立場に転落する。
 

文化レベルのウェット~ドライな行動様式の実現には、遺伝レベルでの性差において、ウェット~ドライな行動様式にすでに従っていることを積極的に利用すべく、自分の性に固有な行動様式を、人間の社会化の過程、特に行動様式の可塑性の大きい、育児最初期の段階で、子供に対してそのまま直接流用するのが、効果的であり、現実に、流用が起きている。

流用のあり方は、例えば[増田1964]では、以下のように描写されている。アメリカ社会(遊牧系:注筆者)では、子供の面倒を見るのはたいてい男性である夫の仕事であり、赤ちゃんは夫(男性)に抱かれているか、ゆりかごに入れて夫(男性)が抱えている。それに対して、日本(農耕系:注筆者)では、母親(女性)が赤ちゃんをおんぶして、上の子の手を引いて、おまけに...といった調子で、育児は母親(女性)の役目となっている。幼少期に自分の性に固有の行動様式を、育児という形で、子供に注入する権限を持つのは、遊牧系の社会では、男性、農耕系の社会では、女性、という図式が成り立つ。

以上の内容をまとめると、次のようになる。

1)女性が主導権を持つ農耕社会では、男性は、女性側がデファクト・スタンダートとする、ウェットな社会的行動様式に、無理やり合わせないと生きて行けない。農耕社会という環境下では、性格がよりウェットな女性のペースで物事が進むため、それに合わせて生活しなければならない、女性の流儀にいやいやながら従わなければならないのであり、それを、幼少から強要され、拒めなくなっているところに、男性の弱さが認められる。男性本来の個人主義的、自律的...といった特性を打ち消され、殺され、抑圧されている。そして、男性本来の特性とは逆の、集団主義的、他律的..といった、ウェットな女性的特性に従って行動させられるため、社会的不適合者、弱者としての地位に甘んじることになる。

2)男性が主導権を持つ遊牧社会では、女性は、男性側がデファクト・スタンダードとする、ドライな社会的行動様式(個人主義、同調を嫌う..)に、無理に合わせないと、とりまく自然環境の中で生き延びられない。遊牧社会では、性格がよりドライな男性のペースで物事が進行するため、それに合わせて生活する必要があり、女性本来の集団主義的、同調的...といった特性は抑圧・消去の対象となる。その結果、女性は、社会的不適合者、弱者の立場に転落する。
 

〔3.弱性保護の思想〕

ウェットな農耕社会(日本)は、男性の表面的な尊重(優先)・女性の実質的支配が生じている社会、ドライな遊牧・牧畜社会(欧米)は、女性の表面的な尊重(優先)・男性の実質的支配が生じている社会、とまとめられる。

ウェットな社会の男性およびドライな社会の女性は、自分とは異質な(反対のジェンダーに適した)原理で動いている社会に、無理やり適応させられているのである。そうした点で彼ら(彼女ら)には、自分たちとは異質な性の行動原理に合わせる生活上、足りなかったり至らぬ点が生じてくるが、そうした適応不足を補償するのが、男性優先(男尊女卑)、女性優先(レディファースト)である、と考えられる。これらは、社会の中でより弱い立場の性の行動を優先する、「弱性優先」という言葉でまとめることができる。
 

優先(priority)には、1)強者優先(力ある者が優先される。権力者がよりよい待遇を受ける)と、2)弱者優先(年寄りや子供など、弱い者が、優先的に、食事にありついたり、座席を譲ってもらったりなど、よりよい待遇を受ける)との、相反する2種類が存在する。優先されるのが、必ずしも強者だからとは限らない。上記で述べている、男尊女卑・レディファースト(弱性優先)は、弱者優先の一種と考えられる(従来のフェミニズムは、男尊女卑を、強者優先とのみ見なしており、弱者優先の選択肢に気づいていない)。

あるいは、ウェットな社会では男性が、ドライな社会では女性が、社会に対して不適応であり、社会における存在意義・理由が、そのままでは、欠乏する(社会の中で、じゃま者扱いされ、軽蔑される)。それでは、彼らの人間としての尊厳(人権)が保たれず、モラル(やる気)の維持などに重大な支障が出ることが予想される。そこで、たとえ表面的であっても、不適応者である彼らのことを、尊重・優先して、自尊心を保ってあげる必要が出てくる。そうした自尊心を補完する社会的な仕組みが、男性優先(男尊女卑)、女性優先(レディファースト)である、と考えられる。

これをまとめると、
 




男尊女卑 強い女性が、弱い男性の、農耕(ウェット)社会への適応不足を、補償する
レディファースト 強い男性が、弱い女性の、遊牧(ドライ)社会への適応不足を、補償する

である。

ここで、「男尊女卑」の原因をまとめると、以下のようになる。 基本的には「弱性優先」の考え方に基づくものである(1~3)が、 「男性優位」の作為的演出(4)、という面もある。

1)「福祉」モデル (農耕社会に向かない)無能者=弱者である男性の世話・サポートを優先的に行う。弱者福祉が目的である。乗り物などで年寄りに優先的に座席を譲るのと同じ考え方である。農耕社会の男性は、家庭ではゴロゴロして何もしない。それは、自分とは異質なウェットな人間関係に取り囲まれ、それに無理に適応しなければならず、無意識のうちに心が疲れて、何もする気が起きない(無気力となる)からである。それゆえ、女性が、家事・洗濯・炊事などで、かいがいしく世話をする必要が生じる。あるいは、男性に無理を言われても、「はいはい」と聞いてあげる寛容さを持つ(弱い子供をあやすように振る舞う)必要が生まれる。

2)「自尊心・モラール」モデル 自尊心を向上させて、(農耕社会にとって有害なため無力化された)男性に、自らを「有用視」させて、勤労・防衛意欲を出させる。(個人主義、自由主義などのドライな=有害な要素を殺したあと)残った能力(筋力・武力)を有効利用する。物事を優先的に行ってよいとされれば、自尊心が起きやすい。

3)「人権」モデル 社会的弱者たる男性の人権保全に配慮する。女性が、男性のことを優先して取り扱ってくれれば、男性の人権がより保たれやすい。(農耕)社会的に有害・無力であることを悟らせず、人間としての尊厳を保たせる。女性に全生活を管理・制御されていることを気づかれないようにする。

4)「貴重」モデル 生物学的に貴重な女性は、自分を「盾」として守ってくれる者を作り、どうせならなるべく強く見せようとする。その方が、外敵を恐れさせることができるからである。農耕社会のように、女性が優位に立っている場合には、女性には、自分を守る「盾」としての男性が、相対的に弱く見える。それだと、女性が、外敵から自己防衛・保身を行う上で不安であり、不都合である、と農耕社会の女性自身が感じた。そのため、男性に、わざと積極的に恐い態度を取らせたり、威張らせる(強圧的な態度を取らせる)。女性に意図的に仕向けられて強がっている男性は、「張り子の虎」のような存在であり、女性の(男性を強く振る舞わせようとする)心理的支えがないと、見かけの強さを維持できず、潰れてしまい、元の、(農耕社会特有の)無能な、頼り無い姿に戻る。

レディ・ファーストの原因は、上記の「男尊女卑」の原因説明における、男性についての記述を、女性に置き換えたものとなる。

1)「福祉」モデル (遊牧社会に向かない)無能者=弱者である女性の世話・サポートを行う。

2)「自尊心・モラール」モデル 女性を表面的に敬うことで、女性に自尊心を与え、物事を行う意欲をかきたたせて、(集団主義、同調指向などのウェットな=有害な面を打ち消したあと)残った家事や職業労働能力を、有効利用する。

3)「人権」モデル 遊牧社会での社会的弱者たる女性の、人間としての尊厳を保つ。

4)「貴重」モデル 遊牧社会での男性が、生物学的に貴重な女性を、高貴な存在=「貴婦人」として崇拝し、より守護しがいがあるものとして捉えることにより、自分自身が内蔵する、女性を守ろうとする欲求を満足させる。
 

男尊女卑・レディファーストは、共に、社会の中でより弱い性を保護しようとする「弱性保護」の思想(弱者保護の一種)と言える。依存する(寄りかかる、もたれかかる)方の性(農耕社会の男性、遊牧社会の女性)は、その依存を受け止める方の性(農耕社会の女性、遊牧社会の男性)よりも、力がなく、弱い(自分ひとりでは立てない)。 受け止める方の性は、力があり、強いからこそ、余裕を持って、依存する相手をしっかり支えることができる。
 

男尊女卑(男性優先)は、男性保護の思想である(通説のように、男性の強さを示しているのではなく、むしろ逆である=弱いから女性によって大切にされる、わがままを聞いてもらえる)。レディファースト(女性優先)の裏返しである(ウーマンリブ運動は、レディファーストの欧米で生まれている。欧米で女性の社会的立場が弱い証拠である。)。

全世界どこでも、(フェミニズムが訴えるように)女性が弱い、というわけではない。勢力面で、女性の方が男性を上回る社会(母権制社会)は、現在でも確実に沢山存在する(それが、例えば日本や、東アジアの稲作農耕社会などである)。従来、母権制社会は存在しないなどというのが定説となっているが、それは母権制についての議論が不十分(母系制との混同、男尊女卑を父権制と混同)なためである。このことの詳細については、日本における母権制の再発見についてのページを参照されたい。
 
 

男尊女卑(男性優先)の社会では、見かけは男性が強い。男性は、自分が(女性よりも)強い立場にいると錯覚するため、男性の自尊心が満たされやすく、男性は自己の立場の弱さに気づきにくい。男性中心社会の神話は、こうして生まれた。この場合、男性には、自分の置かれている立場の弱さ・悪さの自覚がない(男性優先の本当の意味を取り違えて、自分は強いとうぬぼれている)。

男尊女卑が、男性の強さを象徴する行動様式であると見なす、従来の日本フェミニズムの見解は、否定されなくてはならない。男性優先だから、男性が強い、支配的であるとは言えない。男尊女卑(男性優先)は、実質的には、農耕環境に不適合な、弱い立場にいる男性を(強い女性が)サポート・保護する思想である。言い換えれば、男性が弱く、環境適応に手間がかかる分を、強い(農耕環境により適合的な)女性に肩代わりさせる思想である。

日本では、封建的とされる第二次大戦前からも、女性の方が強かった形跡が認められる。 [Benedict1948]によれば、一家の財布・事務処理を一手に切り回すのは姑(女性)であった。 姑(女性)は、息子の嫁を一方的に離縁させる権限を握っていた(舅は何もしていない)。 家庭の父(男性)は、子供たちがあらゆる義務を尽くしてその恩に報いはするが、ややもすれば「あまり大して尊敬されない人物」であった、とされている。(優先されるのは表向きだけで、実質的には、父親の「心理的な」地位は低かった)。

男女平等が唱えられ、男性の女性に対して当然のように世話や奉仕を要求できる特権=「男尊女卑」が剥奪されるようになったことにより、社会の実権を握っている女性の強さが、前面に徐々に出て行き始めた。
 
 

〔4.日本のフェミニズムとの関連〕
 

日本のフェミニズムは、女性の弱さ、性差別(女性が不利)を訴える。これは、女性の弱い欧米社会で生れた理論を、女性が強い日本社会へと、何も考えずに直輸入して、強制的に当てはめようとするものである。かえって、男性の、実質的根拠のない自尊心(自分の方が立場が上、女性は哀れむべき存在)を満足させ、男尊女卑の表面的理解につながっている。日本社会の本当のあり方(女性主導、女性支配)を見えなくさせる原因となり、有害である。

男尊女卑は、欧米流フェミニズムによる批判の対象とは、もともとならない。男性の弱さを原点とする、強い女性が弱い男性を保護する(サポートする・面倒を見る...)、という考え方が根底にあるからである。男性の強さを前提とするフェミニズムは、女性の弱い遊牧社会(欧米)向きであり、農耕社会(日本)には馴染まない。
 

男尊女卑は、男女両者の立場を、少なくとも表面的には対等にする(見かけ・表は男性が強い、実質・裏的には女性が強い、ということで、表裏合わせると、ちょうどバランスが取れる)ためにやはり必要ではないか。女性が支配する社会で、男性の自尊心(人間としての尊厳)を保つために必要と考えられる。人間らしく生きたいという動機づけは誰もが持つものであるが、農耕社会の男性は、男尊女卑による支援がないと、そのままでは、女性主流の社会から邪魔者・やっかい者としてつまはじきされ、人間らしく生きられないのである(中年~高齢の男性に、「粗大ゴミ」などの蔑称が付けられていることがその好例である)。

ただし、女性にとっては、男性が一方的に依存しようとして寄り掛かってくる重みを、自ら受け止める必要があり、負担が大きいのは確かである。男性は、女性に負担がかかるのを当然と思っている。この負担面での男女不平等(性差別)は、日本のフェミニズムでも、家事負担が一方的に女性に押しつけられるなどの形で、問題にされてきたが、(欧米直輸入の部分を無視して)この部分だけを取り出せば、それなりに理に適っている、と考えられる。
 


[参考文献]

Benedict,R. The Chrysanthemum and  the Sword : Patterns of Japanese Culture, Boston Houghton Mifflin, 1948 長谷川松治訳 「菊と刀 - 日本文化の型」社会思想社1948

増田光吉:アメリカの家族・日本の家族,日本放送出版協会,1964

日本男性の弱さについて

日本男性は、以下の点で、女性よりも弱い立場にあり、女性による支配の対象となっていると考えられる。こうした現状を打破する必要がある。これが、男性解放論の骨子である。

(1)自分の生得的傾向に反する「ウェットさ」を、育児過程で強制的に身につけさせられている。男性が本来持つべき、個人主義、自由主義といったドライさを失っている。

(2)女性にあたかも首輪を付けられて職場で給与稼ぎをさせられるかのような「鵜飼型社会」の中で、生活を女性によって全面的に管理されている。自分の稼いだ賃金の使い道を決定する権限がない。自己賃金からの疎外が起きている。

(3)母性への依存心、甘えがある。すぐに母親やその代わりの存在に頼ろうとする。

(4)育児から疎外されている 子供が自分になつかない、子供から馬鹿にされる。自分の持つ文化を子供に伝えられない。

日本男性はなぜダメか?

日本男性は、総じて、世界的に見て魅力に乏しい存在であるとされている。日本男性が、なぜ魅力に欠けるダメな存在なのか、どうした点を改善すべきなのか、以下に考えられる点を列挙してみた。

(1)所属する組織との一体感を追求し、集団主義、安定指向、年功序列(先輩の言うことを何でも聞き、後輩に対して威張る)意識が強い、といったように女性的な性格を持つ。個人主義、自由主義、未知領域への積極的探検といった男性が本来持つべき性格に欠けている。

(2)本当は社会の中では、女性に従属する下位者なのに、上位者と思って、命令口調で威張る。
女性に比べて優遇されるの(男尊女卑)を当然と思い込んでいて、スポイルされている。

自分のことを上位者と思っているだけに、プライドが高く、傷つきやすい。相手が自分に対して失礼かどうかやたらとうるさい。気難しく短気で、すぐ暴れたり怒ったりする。ガサツな乱暴者であり、暴君である。

なぜ、日本の男性がスポイルされるかについては、母親の影響が大きい。

日本の男性=息子は、母親によって甘やかされ、かしずかれ、何でもしてもらえる状態に置かれる。身の回りの世話を全部されている、焼かれている。

息子は、そういう状態が続いているうちに、いつの間にか自分を中心に世界が回っていると思いこむようになり、尊大で、わがままで、それでいて傷つきやすい性格を持つようになると見られる。

しかもその根底には、母親に心理的に頼り切り、甘えきった、依頼心が根強く息づいており、表面的にいくら威張っていても、母親に心理的に支配されきっていると考えられる。


(3)女性に対して、母親代わりに甘えようとする。女性を、観音様、マリア様みたいなと見なす。女性に対して依存的であり、その際、女性に対して当然のごとく寄りかかり、のしかかってきて、それに対してごめんなさいとか、ありがとうとか、一言も言おうとしない。女性に対する思いやりに欠ける。

(4)自活・生活能力に欠ける。身辺の世話を自分で行うことができず、皆、女性にやってもらおうとする。


以上を総括するに、日本の男性は、本来の男性性を失い、女性に頼りきりになっていて、人間的な成熟に乏しい存在であると言える。しかも、そのことを認めようとしない偏狭さを持ち合わせている。

女性からの解放を唱える以前に、こうした欠点をまず改めない限り、日本男性の明日はない。


(2007.4 追記)

しかし、インターネット掲示板の書き込みとかを見る限り、日本の男性は、今まで通り、母親や、母親代わりの女性(妻とか飲食店の女性とか)、女性代わりの組織(会社、学校等)に対して甘えつつ、威張ったり、わがままを通したりして、好き放題したいと考えているようである。

つまり、母の支配の枠内にとどまりつつ、その中で好き放題するのが望みのようである。

同じ女性でも、「お袋」「母」~「姉」「姉御」には甘え、頼り、支配されるのを気にとめることもないが、一方、母以外の女や妻は叩いたり、見下す、低く見る、自分の性欲を満たす道具と見るのが通例である。女叩きをする男性は多いが、母を叩く男性は少ないかほとんどいない。

また、自分の甘ったれた現状に対する批判、耳の痛い言葉を、それが建設的なものであっても、全て自分に対する悪意の攻撃とみなして怒り出し、牙をむく、ひねくれた心を持っている。

少しは、父権の強い、欧米やモンゴルといった遊牧・牧畜系社会の家父長を見習って、母に対する依存心を捨てて、母から解放されて、男性として成熟してはどうなのだろうか?

筆者にとって気がかりなのは、実際のところ、日本における「男性解放」は、母からの解放ではなく、女性が社会的に優遇されている(楽ができる、おいしい思いができる)のを撤廃するための「解放」になっている点である。

女性ばかり優遇されるのは確かに問題であり、そうした状況から男性一般が解放される必要があるのは明らかであるが、その一方で、自分たちを根底で支配する母なる女性の存在や、そこからの解放に鈍感なのは、どうしたものであろうか?

日本のメンズリブを批判する

-今後の日本のメンズリブが取るべき途-



従来の日本のメンズリブは、今まで男尊女卑の考え方や家父長制的な家族制度、男性による企業・官庁などでの給与をもたらす社会的役職の独占などで、忍従的な役割を強いられて来た、とする女性側の抗議に押されて、男性の従来取って来た性役割をしぶしぶ見直す、言わば、女性に突き上げられた受け身の形で、進展して来たと言ってよい。

もう一つ、日本のメンズリブを特徴づけるのは、女性に対して優位に立っていることを前提として、弱い女性を助けようとする同情心である。劣位の立場に置かれた、解放されるべき女性に対して、自らの優位にある立場を、少し譲ってあげようとする、「強者の余裕」に裏打ちされた親切心がそこには見られる。職業面での役職を女性に明け渡すこと、育児や家事に負われる女性を手伝ってあげること、などが、従来のメンズリブが取って来た方策であった。

日本のメンズリブには、劣位にあるとされる日本女性の解放に自ら歩調を合わせることで、自分は女性に対して優しいんだ、人格者なんだ、と周囲に(特に女性に対して)印象づけるねらいもあると見られる。

しかし、日本のメンズリブを押し進める人々が、こうした男性の優位を前提とした、悠然とした態度を取っていられるのは、彼らが、日本社会の持つ本当の性格に対して無知だからである。

伝統的な日本社会は、実は、ウェット=女性的な性格を持っている。それは、集団主義、周囲との同調指向などといった、対人的な相互牽制、規制から成り立っている。こうした女性的性格は、日本社会における女性の勢力が、男性のそれを上回る、すなわち、女性が優位に立っていることで成立する。

また、日本女性は、社会の中で、家計管理権限の掌握など管理職的な役割を果たし(男性は単に労働力としてこき使われているに過ぎない)、育児・教育面でも子供を支配し(この間、男性は自動的に、蚊帳の外に置かれている)、子供が成長しても、自分に対して甘えや依存心を持ち続けるように絶えず制御することで、強固な「母性社会」を築き上げている。

日本のメンズリブに関わる人々は、こうした、自分の「男性優位」の価値観を根底から突き崩す社会的事実から、無意識のうちに目を背けてきた。日本のメンズリブの弱さは、まさに実質的な女性優位という、日本社会の現実に対応できていない、その点にある。

これからの日本のメンズリブには、その考え方を、従来の「男性優位」から、「女性優位」を前提としたものへと、180度転換させることが必要である。「強者の余裕」など、もはや存在しないのである。

日本のメンズリブは、少なくとも、女性と対等な立場に立つために、従来、ウェット=女性的であった日本社会の性格を、少しでもドライ=真に男性的なものに変えることを目指すべきである。そのためには、ドライな行動様式、すなわち真の個人主義、自由主義などを、少しでも早く、よりよく、身に付けるための「精神のドライ化」運動を起こすべきだろう。

また、従来、「一家の大黒柱」などとおだてられて来たのが、実は、単なる労働力として、母や妻の管理下でこき使われて来ただけ、という真実にも、早く気づき、その現状から一刻も早く脱却すべきである。女性の管理下から脱却するには、例えば、家計管理権限を、女性と共同で持ち合う比率を高める運動を進めることなどが考えられる。あるいは、女性が独占して来た、子育てにも積極的に関わり、自分の価値観を、少しでも子供に伝える努力をすべきだろう。また、女性の持つ家庭内での影響力を少しでも少なくするために、彼女らを積極的に、職場という「外の世界」へと進出させるべきである。家庭の外に出ようとする女性と入れ替わりに、家庭の中に入ればよいのだ。

最大の障害は、日本男性が無意識に持つ、女性への「甘え」、依存心である。日本のメンズリブは、女性を「母性」の権化として、母親や妻などに、精神的に頼ろうとする現状の日本男性の持つ傾向から、男性を何とかして脱却させる方策を練らなければならない。

日本男性=「母男」(母性的男性)論

日本の男性は、個人の独立や自由といったドライで父性的な価値ではなく、相互の一体感、甘え、懐きの重視、集団への所属の重視といった、ジメジメ、ベタベタしたウェットで母性的な価値観に支配されている。要は、父性を失った母性的な男性なのであり、「母男」(母性的男性maternal male)と呼べる。「母男」は、母性の漬け物と化した男性である。

一方、欧米の女性は、個人の独立や自由、自己主張といった父性的価値観に支配された、相互の一体感、相互依存を重視する母性を失った父性的な女性であり、「父女」(父性的女性paternal female)と呼べる。「父女」は、父性の漬け物と化した女性である。

それに対して、日本女性は、本来の母性を保った母性的な女性であり、「母女」(母性的女性maternal female)と呼べる。
また欧米男性は、本来の父性を保った父性的な男性であり、「父男」(父性的男性paternal male)と呼べる。

「母女」「父男」は正常であるが、「母男」「父女」は問題である。

では、なぜ「母男」「父女」が問題なのか?それは、彼らが、両者とも共通に、自分とは異質の異性によって支配される社会的弱者、本来持つべき生物学的特性を異性によってそぎ落とされ、殺された社会的無能者と化した存在だからである。

それに対して、「母女」「父男」は、本来の生物学的性の持つ特性をそのまま社会の中で発揮できる理想的な存在であり、社会的強者でいられるのである。要は、「母女」は相互の一体感、協調性を基調とする母性的態度が必要な農耕社会=母性的社会、「父男」は個人の独立を基調とする父性的態度が必要な遊牧・牧畜社会=父性的社会の中で、メジャーな支配者として君臨できるのである。

一方、「母男」「父女」は、それぞれ、母性的農耕社会、父性的遊牧・牧畜社会の中で、マイナーな被支配者としての立場に甘んじることになる。

日本は、稲作農耕社会の例にもれず、母性の支配する社会であり、そこでは、男性は「母男」、女性は「母女」となり、女性の勢力が男性を上回っている。

「母男」である日本男性は、母親と強い一体感で癒着したまま成長し、その過程で、本来持つべき父性の発達を母親によって阻害され、精神的に母親に依存したままの状態で大人になる。その点、「母男」は、いつまでも母親の息子の立場から脱し得ない男性の問題を明らかにするマザー・コンプレックスの概念と深い関係があると言える。(同様に、欧米女性=「父女」は、父親に精神的に依存し、父親の娘の立場から脱し得ない点、ファザー・コンプレックスと関係する。)

「母男」=日本男性は、会社とかの所属集団に母性的に包容されることを要求する。日本の会社や官庁は、その主要な構成要員が男性なのにも関わらず、相互の一体感、所属感を重視する母性的な雰囲気に包まれているというのが実態である。

彼は、家庭に帰れば、「母女」である妻に対して、母親代わりに心理的に依存する「大きな子供」である。また、家計管理や子供の教育といった家庭の主要な機能は「母女」である妻に独占されていて、家庭の中では居場所がなく、疎外された存在である。

彼は家庭内で子供に対して、精神的な影響力を持つことができず、その子供は再び「母」と癒着し、父性の発達を阻害されることを繰り返す。

「母男」である日本男性は、社会的弱者の立場を脱するためには本来、欧米男性のように、父性を正常に発達させた「父男」となるべきなのであろうが、仮にそれを実現すると、旧来の稲作農耕社会の伝統と対立することになり、社会の混乱を招くことになるという側面もあり、問題はさほど簡単ではないと言える。

日本男性はなぜ家事をしないか?

日本においても、近年、男女共働きの家庭が増えている。その際、女性の側から問題とされるのが、日本男性が家庭において、炊事、洗濯等の家事をほとんど手伝わず、職場に直行して仕事ばかりしているということである。

それでは、なぜ、日本男性は家事をほとんどしようとしないのであろうか?

筆者は、その答えは、実は、日本の女性側に原因があると考える。この場合、女性というのは、男性の母親や、専業主婦の妻を指す。

従来、日本においては、男性の母親は、自分自身では社会的出世を直接行わず、自分の息子を「自己実現の駒」として、学校、職場で、いい成績を取らせて出世、昇進させ、自分自身は彼らの管理者となることで、社会的に偉くなった息子の内側から、日本社会を間接的に支配してきたのである。

そのように、息子を、学校、職場でいい成績を取らせて、ひたすら出世、昇進の道を歩ませるには、息子の母親は、学校での勉強や、職場での仕事以外の、それらに差し支えるような家庭の様々な家事は、なるべく息子にさせず、自分が代わりに全てやってあげようとする。息子の方も、母親のそのような態度にいつの間にか慣らされて、自分は勉強、仕事だけやっていればいいんだ、その他のことは皆母や妻がやってくれるんだと思い込むようになる。

これが、日本において男性=母親の息子が、勉強、仕事以外の家事をしなくなる一番の原因であると言える。原因は、男性を社会的になるべく効率的に出世、昇進させようとする男性の母親の態度にあるのである。

この男性の母親の態度は、男性の(専業主婦の)妻にも引き継がれる。妻は、男性が社会的に出世、昇進して、偉くなり、それに伴って、自分の社会における扱いが例えば「社長夫人」とか言われるようになって向上したり、男性が出世するのに伴って収入が増えて、自分もよい暮らしができるようになることを望んでいる。

そこで、妻は、男性を、職場での仕事に専念させて、それ以外のことに神経を使わなくて済むように、仕事以外の家事は全て自分が賄うという姿勢を見せる。それが、男性に、「ああ、自分は家事をやらないでいいんだな、仕事だけしていればいいんだな」と思わせるのである。

最近は、日本の若い女性も、あまり家事をしなくなってきているという話がある。これも、娘の母親が、娘のことを「自己実現の駒」として、勉強、仕事に専念させ、家事は全部自分が代行する態度を見せているからに他ならない。この背景には、男女雇用機会均等法とかの導入で、女性も、職場で一生懸命仕事をすれば、男性と同じように出世できるとする、「女性による社会の直接支配」の道の整備が開始されたことと関係している。

今までは、娘は、自分自身は直接社会的出世を行わず、男性のもとに嫁いで、家事を全部やる代わりに、男性(夫や息子)を職場での仕事に専念させ、ひたすら男性(夫や息子)の尻を叩いて、出世させようとしてきた。言わば、夫や息子を経由した間接的な社会的出世を行っていたのである。それが、今度は、自分自身が直接出世する道が開けたため、今までのように、家事を女性ばかりする(男性がしない)のが急に不公平に見えるようになって、不満の声を上げているのが実態であろう。

この問題を解決するには、どうしたらいいか?それには、男性を「自己実現の駒」としてその尻を叩いて出世させようとする、言わば「社会の(男性を通じた) 間接支配」をしようとする女性の数を減らすことが第一である。男性が勉強、仕事ばかりして、家事をしないのは、彼女らの態度が根本原因であるからだ。

そういう点で、「男性が家事をしないのは不公平だ」と非難の声を上げる女性たちの本当の敵は、実は男性ではなく、(男性を「自己実現の駒」として極限までこき使うために、家事を男性に代わって全て代行しようとする)男性たちの母親や、専業主婦指向の妻であると言える。そういう女性たちが減らない限り、職場での仕事指向の女性の(男性に対して)感じる不公平感はなくならないであろう。

要は、彼女たちに、男性を通さず、自分自身で、直接社会の中で偉くなるように方向転換させる必要がある。特に、男性の母親たち+専業主婦指向の妻たちをそういう「自己実現を男性に頼らず、自分自身で行う」方向に持っていく必要がある。

そのためには、そうした女性たちに、家事以外の、職場での仕事をこなしていくための能力を付与していくことが必要となる。要は、彼女たちに「職業訓練」をさせるのである。

ここで問題なのが、彼女たちが、家事以外には、余りこれといった職業的能力が身についていないことがあげられる。そこで考えられるのが、家事それ自身の職業化である。要は、各家庭において、家事の全面的なアウトソーシングを行い、家事の外部委託を大幅に増やすのである。その委託業務に、「家事のプロ」である彼女たちを投入するのである。要は、炊事、洗濯を外部社員が代行するようにし、その外部社員としての仕事を彼女たちが行うと言う訳である。

それも、家政婦として働く訳ではなく、炊事なら、食事を外部の大規模な給食会社センターで作って配達する。洗濯なら、洗濯物を各家庭に集配に来て、従来のドライクリーニング業と同様に工場で集中的に洗濯を行い、再び、各家庭に済んだ洗濯物を届けるというのを、大きな会社組織として分業して行うのである。そして、その会社の主要業務を、それらに慣れている女性たちに担わせるのである。そして、それらの会社で、彼女たち自身が、自ら(従来の男性同様)職場での仕事に専念して、昇進、出世競争を行うのである。

こうすることで、そもそも会社の仕事と、家庭の家事という分け方自体が消滅する(全て会社の仕事に一本化される)ので、従来の、「男性は家事をしないので、一方的に家事の負担が来る女性には不公平」という論調は成り立たなくなる。要は、従来の家庭における家事を、炊事、洗濯会社の職場での仕事として外部委託することで、「男性も女性も、(仕事以外で)家事をしなくて済む」ようにすればいいのである。

これは、子育ても同様であり、手間のかかる作業は、保育園、幼稚園によるアウトソーシングを積極的に活用することで、従来女性に負担が偏りがちだった作業を低減することができ、女性が職場での仕事に専念できるようになると考えられる。

男性にとっても、家事や育児をせずに、今までどおり職場での仕事に専念しても、何ら非難をされる筋合いがなくなることになり、「男は仕事」という価値観をそのまま維持することができるというメリットがある。もっとも「女は家庭」という価値観は放棄しないといけない。

あるいは、男性たちは、女性たち(母、専業主婦指向の妻)による「自己実現の駒」としての役割、プレッシャーから解放されることで、今までみたいに母、妻の(男性自身の社会的昇進に対する)期待という精神的重圧から解放され、より自由に精神的余裕を持って生きることができるようになるメリットもあると言える。

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