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父性 アーカイブ

2007年05月22日

日本の家族は「家父長制」と言えるか?


1.はじめに

血縁は、社会の最も根本をなす相互結合の部分であり、血縁レベルの権力を制する者が、その社会を制するといっても過言ではない。 血縁社会は具体的には家族であり、その生活が営まれる場が家庭である。家庭で実権を握る側の者が社会の根本部分を支配すると考えられる。

「家父長」制とは、父親が、家庭内の権力を掌握している(家庭で実権を握る)状態が当該社会に普及して、社会全体において半ば制度化された事実を指す。

従来の家父長制に関する理論は、普遍主義的理論であり、世界中どこでも女性が男性の統率下にあり弱いとするものであった。この考え方は日本でもそのまま機械的に受容され、日本は典型的な家父長制である、とされてきた。これは、果たして正しいのであろうか?

以下においては、家庭において行使される権力の種類をいくつかに分類し、それぞれについて、日本の家庭において、男女どちらが持っているかを明らかにした上で、日本の男性が果たして「家父長」と言えるかどうかについて考察したい。


2.家庭内権力の分類
 
 

家庭内権力は、経済的側面と、心理・文化的側面に分けられると考えられる。ここでは、まず、経済的側面について見ていく。


2-1.経済的側面 家庭内権力の経済面での起源にどのようなものであるかについては、 2通りの説明が可能である。すなわち、A.収入起源説と、B.管理起源説との2通りの説明ができる。

A.収入起源説

これは、収入をもたらす方がより発言権が強い、とする考え方である。
すなわち、「オレが稼いできたんだ、(一家の大黒柱だぞ)ありがたいと思え」ということで、収入をもたらしている(一家を収入面で支えている)ということを根拠に権力を振るう、というものである。日本においては、こちらに当てはまるのは、夫(父親)の側が多いと考えられる。

B.管理起源説

これは、家計における資金の出入りを管理する方がより発言権が強い、とする考え方である。


すなわち、「つべこべいうと(私に逆らうと)、お小遣いあげないわよ」などと、家計全体のやりくりの決定権を握っていることを根拠に、権力を振るうことを指す。日本では、こちらに当てはまるのは、妻(母親)の側が多いと考えられる。

A.収入起源説と、B.管理起源説とに関しては、欧米では、両方とも夫が掌握していることが多いので、欧米社会の夫(父親)は、すんなり家父長と言える
。しかし、日本では、B.の管理起源に関しては妻(母親)が掌握しているので、簡単に家父長制が成立しているというのは誤りなのではあるまいか?

すなわち、日本の場合、夫が得てきた収入が全額妻のもとに直行するので、(支出だけでなく)収入の管理は夫がしているのではなく、妻がしているというのが適当であると考えられる。また、単なる生活費だけでなく、預金など家族全体の資産運用も妻が行っている場合がほとんどであると考えられるから、そういう意味で、妻の振るう権力は大きいと考えられる。現に、妻に対しては、「我が家の大蔵大臣」などと呼ばれる事が多いようである。日本の官庁組織で最も権力が集中しているのが大蔵省と考えられることから、そういう点では、妻に「管理者」としての一家の権力が集中しているとも考えられる。

A.の収入起源説においては、夫(父親)がいくら稼いできても、その資金の家庭における出し入れを自分でコントロールできないのであれば、あまり実際の経済面での権力には、結びつかず、結局は、妻(母親)の管理下で働かされて、働いて得た給料をそのまま何も取らずに妻(母親)に差し出す労働者(下僕みたいな存在)にすぎない、とも言えそうである。言い換えれば、妻は働いてきた夫から収入を取り上げて、自分の管理下に置くのであって、夫は、「鵜飼」において、飼い主(妻、母親)に言われて魚(給料)を取ってきて、船に戻ってきたら、その魚を飼い主によって強制的に吐き出さされる(魚(給料)は飼い主(妻、母)のものとなる)、「鵜飼の鵜」のような存在にすぎないとも言えそうである。一家の大黒柱ということで、家族の構成員からある程度尊敬はされるかも知れないが、一種の「名誉」職としての色彩が強いのではあるまいか。

 

これと関連して、日本の家庭において資産の名義は夫(父親)になっていることが多いので、それが日本の家庭内で男性(夫、父親)の権力が強く、女性の地位が低い証拠であるとする見方がある。しかし、上でも述べたように、日本の家庭では、男性は、資産の管理権限(家計管理の権限、いわゆる財布)を女性に奪われている場合が多い。資産の管理権限を持たない名目上の所持者(男性)と、資産の出し入れをコントロールする実質上の所持者(女性)と、どちらが権力的に強いかと言えば、財布を握る実質上の所持者である女性であると考えるのが妥当なのではあるまいか。この場合も、男性は表面的に尊敬されるだけであり、実質的な権限を喪失した「名誉」職にとどまっているのが実状ではなかろうか。

土地などの財産名義は夫(男性)でも、実際に証書・帳面などを管理する(実際に資産を運用している)のは女性である。したがって、名義上では、男性の方が地位が上だが、実運用の権限を握っているという面では、女性の方が地位が上なのではないか?

日本においては、母の代用言葉として、「おふくろ」という言葉があるが、その語源は、一家の財産を入れた袋を持つ人の意味という説がある。
この語源が正しければ、一家の財産を管理していたのは、男性ではなく、女性であるということになり、かつ、財産の使用する/しないの権限などを持つ者が、そうでない者よりも、より上の地位にあるとすれば、女性の方が、男性よりも、地位がもともと高いことになる。

日本では、女性が、夫名義で銀行口座を作るなどして、家庭の資産の全面的な運用をする場合がほとんどなのではないか。夫の名前を表面的にせよ名義に利用することで、夫の顔を(一家の代表であるとして)立てる(面子を潰さない)が、実質的な資産運用権限は、女性(妻)がしっかり掌握して、男性(夫)の手には渡そうとしない。

日本の女性フェミニストは、被害者意識ばかりが先行して、いかに自分たちが家庭生活上、強大な権限を振るっているかについての自覚が足りないのではないか?

いずれにせよ、欧米では、家庭の資産の出し入れ(財布)を一手に握る夫(父親)のもとで、家事に必要な金額をその都度もらって家事を行うだけの妻(母親)は、「家事労働者(家政婦)」に過ぎず、その家庭の中での地位は低いので、「家父長」制を告発したくなる理由は明白で理解しやすい。これに対し、日本においては、妻(母親、姑も含む)のほうが財布を握っているのだから、その地位は単なる家事労働者ではなく、他の家族構成員の上にたって彼らの生活をコントロールする「家庭内管理職」「生活管理者」と見なすのが妥当なのではないか。

日本の女性がみずからが所持する実質的な経済的権力のことに目をつぶり、男性が持つ名目的な権力を「家父長」制だと言って攻撃するのは、アンフェアであると言えないだろうか(それとも実質的な権力と名目的な権力との両方を手に入れたいとの意欲の現われなのか)?

日本においては、女性が一家の財布の紐を握る(財産の管理をする)のは全国世帯の少なくとも60~70%を占めるとされる。家計簿の付録が、男性雑誌でなく女性雑誌(主婦の友とか)に付いてくるのもこのことの現れと見てよい。

妻は、家庭の財政上の支出権限をにぎる。夫自身には自分の稼いできた給料を管理する権限がない。家に給料を入れるだけの存在である(単なる給料振込マシンに過ぎない)。彼は昔は給料袋をそのまま妻に渡していた。彼の給料は現代では銀行振込で通帳を握る妻のもとへと直行する。彼がせっかく稼いできた給料は、彼自身の手元には残らず、みな妻のもとに直行してしまうのであり、彼自身の自由にはならない。彼は自分の稼いだ給料から疎外されているのである。

なぜ、日本の男性は、自分にとって最低限必要な資金(本来家庭とは関係ないところで自分が使う)まで、みんな妻に渡してしまい、改めて小遣いのかたちでもらうことが多いのか。しかも、夫自身の小遣いの額を最終的に決める権限は妻にあって、夫自身はそこから疎外されている。夫は自分自身のことを自分で決められない(決定の主導権を妻に渡してしまう)。日本の男性(夫)は、自分の立場をわざわざ弱くするようなことをするのか?自分がせっかく稼いだ賃金からの疎外現象(「自己賃金からの疎外」)をみずから引き起こすのか?

何故、欧米と日本とで「大蔵省」になるジェンダーに差が出たか、の原因解明は今後の課題である(日本において、夫が妻に対して自分の稼いだ給料をまるごとそのまま渡してしまう慣例がいつどのようにして出来上がったのであろうか?)が、一つの考え方として、遊牧社会と農耕社会との違いが考えられる。地理学や文化人類学の知見によれば、遊牧社会は男性向きなのに対して、農耕は女性が始めたものであり、女性により向いているという。稲作という、女性向きの環境適応(食料の確保など)行動がメインとなる日本において、生活の要衝を占める家計管理の役割が女性によって担われるようになったのは、ごく自然の成り行きではなかったか?

家庭における支出(小遣いなど)決定(予算編成)の権限を女性が握っているといっても、男性に、予算編成の能力がないのではない(現に日本国の大蔵省では、主に男性が予算編成をやっている)が、家庭においては、過去(いつかは分からない)に権力闘争に敗れた結果、ずっと女性のものとなってしまった、と考えられる。




2-2.心理・文化的側面

(1)夫の妻・母(姑)への心理的依存 

日本では、夫に、妻を母親がわりにして心理的に依存する傾向があると言われる。自分の母親が姑として生きているときには母親に甘え、母親亡き後は妻に甘える、というものである。こういった現象を一つの文化と見なして、
「母ちゃん文化」と呼ぶ人もいるようである。また、「結婚して、大きな子供が一人増えた」などと言う主婦の声も多い。

また、日本の家庭で多く発生する「嫁姑問題」は、夫(息子)と姑(母親)との絆が強く、夫と妻との絆と拮抗するために起きると考えられている。日本社会が、母性優位で動いている一つの証拠とも見られる。夫が本当の家父長ならば、夫は妻と姑の上に立って、即座に両者間の葛藤を解決できるはずなのであるが、日本の夫は、実際には、妻と姑の両者に振り回されて、どっちつかずの中途半端な態度しか取れない場合が大半なのではないか?また、潜在的にマザーコンプレクスである(自分の母親に対して頭が上がらない)夫の割合も、欧米に比べてかなり高いのではあるまいか?

女性(妻、母)に心理的に依存し頭の上がらない男性(夫)が、本当の意味での家父長と言えるかといえばはなはだ疑わしいのが現実ではあるまいか?

(2)家庭における夫の不在 

日本の家庭においては、特にサラリーマン家庭においては、夫が仕事人間で、家庭のことを省みないことが多いとされる。その結果、夫の家庭における影が薄くなり、ひいては他の家族成員から疎外される現象が起きている。これは、自分の父親が家庭にいなかったため、自分の父親の家庭人としての観察学習ができなかったことが原因と思われる。夫は、予め家庭・子供の育児などに興味を持たないように→家庭から自発的に疎外されるように、家庭において妻が経済・教育上の権限を自動的に掌握することが、家族において代々続いて起きるように、社会的に仕組まれている、と考えられる。

家庭に不在な者が、家庭の心理的な面で権力を握るとは考えにくい。結局、妻によって「お父さんはえらいんだよ」とか人為的に立ててもらわない限り、男性(夫)の権力は成立しないと見るのが、妥当なのではないか?

(3)子供の教育権限の女性への集中

日本の家庭においては、子育ては母親(女性)が独占する割合が、欧米に比べて高いと見られる。そういう点で、日本の男性は、自分自身の子供の教育を行う権限から、自ら進んで疎外されてきた、といってよい。子育てを行う結果、子供が自分になつき、自分の言うことを聞くようにさせたり、自分が持っている価値観を子供に伝えたりできるのは、子育てをする者にとって、大きな役得である。その役得を得る者が、日本では女性に集中し、男性は、「男は家庭に振り回されるべきではない、給料稼ぎに専念すべきだ」とする周囲の、男性を家庭から切り離す価値観によって、自ら子育て・子供の教育を行う権利を失っているのである。結果として、家族内で子供を実質的に統率する役目を、父親ではなく、母親(女性)が占めることが多くなる、と考えられる。

子供の管理者としての妻は、子供の教育面での実権を握る。妻は(女性)は、夫に賃金供給者としてよりよく働くように、プレッシャーを与えて(となりの〇〇さんの御主人は課長になったそうよ、あなたにも一生懸命働いてなってもらいたい、などと言う)、夫(男性)から、子供を無意識のうちに近づけない(自分が独占する)。その結果、夫(男性)には、子供からの疎外(教育の権限を奪われる、子供から無用者、粗大ゴミ扱いされる)
とも言うべき現象が生じる。

家庭や自分自身の子供から切り離された存在である日本の男性が、家庭において、自分の子供を思うままに統率できる「家父長」にそのまますんなりなれるとは、考えにくい。実際の権力を握る女性側のお膳立て(「お父さんはえらいんだよ」と子供の前で持ち上げるなど)が欠かせないというのが現状ではないだろうか?

子供と母親の間の一体感や絆が(欧米に比べて)強い、裏返せば子供と父親との間の絆が弱い、ということも、父親が子供にとって一家の中心的存在からかけ離れている(むしろ母親の方が一家の中心にいる)ことの例証にならないであろうか?

結局、心理・文化的側面においても、日本において、男性(夫)は、女性(妻)に対して依存的でかつ家庭内で影が薄い、ということになれば、日本に家父長制が成立しているという、従来の日本のフェミニズムの論説は、はなはだ怪しいと見るべきではあるまいか?


3.家父長制と混同しやすい慣行

家父長制と紛らわしい慣行として、男尊女卑と嫁入りがあげられる。

3-1.男尊女卑

男尊女卑とは、男性が女性よりも尊重される、女性の男性への服従であり、欧米におけるレディーファーストの反対の現象であると考えられる。

従来の日本では、男尊女卑は、女性の(男性に比較した)地位の低さを示す象徴として、フェミニストのやり玉に挙げられてきた概念であった。

日本で男尊女卑に反対して女性解放運動を起こすという日本のフェミニズムの解釈が正しいのならば、レディーファースト(女性が男性よりも尊重される、男性が女性に服従する)の欧米では、男性解放運動が起きるはずである。

レディーファーストは、身近な例をあげれば、例えば、自動車のドアを男性が先回りして女性のために開けてあげるとか、レストランで女性のいすを引いて座らせてあげるとか、の行為を指す。この場合、見た目には、男女関係は、女王と従者の関係のように見える(女性が威張っていて、男性は下位に甘んじている)。

しかるに、女性解放を目指すウーマンリブ運動はレディーファーストの欧米で始まっている。このことは、欧米では、男性が女性に形式的にしか服従しておらず、見かけとは逆に、実効支配力、勢力の面では、女性を上回っていることを示しているのではないか?

それと同様のことを男尊女卑に当てはめると、女性は男性に対して、見掛け上のみ従属することを示しており、勢力的には女性の方が男性よりも強く、必ずしも女性は弱者ではないと言えるのではないか。

男尊女卑は、女性が男性に対して、見かけ上も、実質上も支配下に置かれる状態をさすので、欧米のレディーファーストよりも、女性にとって問題は深刻であるというのが従来の日本のフェミニストの見方であろうが、日本において、実質的な支配力という点で、女性が男性に服従していると見なすことには、いくつもの反論が可能である。

日本の女性が、経済的に、家庭における家計管理全般の権限(夫への小遣いの額を決める権限など)を握っている点、あるいは文化的な面として、子供の教育の権限を一手に握っており、その影響下で子供(特に男性)が育てられる結果、日本人の国民性(社会的性格)が女性化している(父性よりも母性原理に従って動く、人間関係で和合を重んじる、集団主義的であるなど)点、などが、日本ではむしろ女性が男性を支配しているのではないか、と思わせる証拠には事欠かないと考えられる。

日本人の国民性が女性的であると思われる根拠としては、例えば、以下のような点があげられる。
・人間関係を重要視する(女性の方が、男性よりも、赤ん坊の頃から、人間に対する興味が強いとされる)→対人関係の本質視
・外圧がないと自分からは動こうとしない(外交など)→受動性
・就職などの大組織(官庁・大企業)指向 寄らば大樹の陰→安全指向
・前例のないことはしない(科学分野で、独創的な理論が少なく、欧米理論の追試ばかりしている)→冒険心の欠如 
・理性的というよりは、情緒的である(社会学の家族理論で、情緒面でのリーダーは、女性に割り当てられている)→ウェット
・集団主義(女性のほうが、男性よりも、互いに集まること自体を好むとされている)


 

日本において、女性(妻)が、家庭内で男性(夫)に従うように見えるのは、(夫の収入供給者としてのやる気を出させるなどのため)見掛け上夫を立てているからであり、妻が夫を立てるのを止めると、もともと確固たる足場を持たない夫の権威はたちまち地に落ちてしまうと考えられる。

実際、日本の男性は家庭内では、「粗大ゴミ」とか「濡れ落ち葉」などと称されて、存在感のないことはなはだしい。これらは、男性の実際の家庭内の地位の低さを示す言葉だと言える。

前にも触れたが、日本の一般的な家庭生活においては、女性が、経済面での家計予算編成権限(夫の小遣い額の決定など)だけでなく子供の教育権限(母子一体感の醸成に基づく)を一手に握っているため、日本の家庭は、実質的には男性ではなく女性の支配する空間となっている(家父長制は表面だけ)のではないか?

マードックのいう核家族の4機能のうち、日本では、2機能(経済、教育)を女性が独占している。あとの2つは、性と生殖という、どちらが優勢とは言えない項目である。

 むしろ、日本の女性は、特に専業主婦の場合は、その権限の強さから、「家庭内管理職」「(家族生活の)管理者」として、夫や子供など他の家族よりも上位にある存在として捉えるのが適当なのではないか?つまり、家庭を官僚制組織のように見なした場合、日本では、女性が男性の生活全般を管理する管理職の立場につき、男性はその下で生活する単なる労働者として、自分が働いて得た給与を、女性に全額差し出す行動をとっているのが、日本の現状であると考えられないか?

日本においては、女性が官庁や企業などで管理職につく事が(男性よりも)大幅に少ないとされ、それが日本の女性の地位の低さを示している、と日本のフェミニズムの批判の対象となってきたが、これも、上記の見方を適用すれば、夫が、家庭の外でどんなえらい地位(例えば首相)についても、妻がその「生活管理者」(「首相」を管理する「(家庭内)管理者(職)」)ということで、夫よりも常に1ランク上の地位にいると考えた方が妥当なのではないか?


3-2.嫁入り

家庭における妻の夫への服従というのは、夫個人への服従というよりは、夫の家の家族(姑とか)への服従と考えるべきである。

従来の直系家族における(新たに嫁入りした)妻の地位の低さは、「新参者効果」とでもいう効果によって説明できるのではないか? つまり、妻は、「新入り」家族の一員として、外から夫の家へと、影響力ゼロの状態から入ることになる。従って、入り立ては地位が低く、夫他の家族に比べて弱いことになる。しかし、この「新参者効果」というものは、妻が家庭内の慣習などに慣れて実力をつけていくにつれて、やがて消えることになり、妻の力は次第に強くなっていくと考えられる。夫の家に入って間もない時点で地位を測定すると、夫に対して弱いように見えるが、姑から家計管理の権限などを譲り渡された時点では、地位の面で夫を上回っていることが考えられる。また、夫婦別姓になると夫の家への服従がなくなる分、強く見えるようになると考えられる。

夫の家族との同居が妻を萎縮させる原因となる。漫画のサザエさんのように同居しないと強くなる。妻の服従は、夫の家への服従、夫の親への服従であり、特に同性の女性である姑への服従である。その意味では、妻の服従とは女性(姑)と女性(義理の娘)の間の問題になる。夫への服従は、夫の家の家風などへの一連の恭順の一部であり、夫個人に対してのものとは必ずしも言えない。夫が「家父長」だから従っているわけではない、と考えられる。夫個人をその属する家から分離させる形で取り出して、妻と一対一で向かい合わせたとき、夫が優位を保てるかは、甚だ疑わしい。


4.悲しき「家父長」-日本女性による「家父長」呼ばわりの本当の理由

以上の点を勘案すると、必ずしも女性が弱いとは言えない。 また、日本において正しい意味での家父長制があったと言うことはできない。男性(夫、息子)のほうが女性よりも弱く、女性(妻、母)の支配下に入っていたというのが、歴史的に見ても妥当なのではないか?

現状の日本のフェミニズム理論は、将来的には、理論の欧米からの直輸入と、日本社会への機械的当てはめが失敗に終わった事例として、後世に汚名を残すのではあるまいか。

日本の男性たちは、仕事のためと称して家庭に遅く帰り朝早く出て行く生活を送っており、家庭における父親不在をもたらしている。なぜならば彼らは家庭の中で自分の部屋が持てないなど居場所がなく、家族成員から疎外されており、家庭にいるのが不愉快だからである。彼らは家計管理や子供の教育についても主導権を持てないでいる。家庭内の実権はすべて女性に握られており、日本の家庭は実質的に母権制なのである。



このように日本の家庭において男性の影が非常に薄いにもかかわらず、女性が男性のことを「家父長」呼ばわりし続けるのには、それなりの理由と戦略があると考えられる。



一般に、組織において「長」の付く役職にある人の果たす役割は、大きく分けて1)代表、2)責任、3)管理の3つがあると考えられる。代表機能は、組織の顔として、外部環境に対して自分自身を直接露出する役割、責任機能は、組織成員が失敗を犯したときにその責任を取って社会的制裁を受ける役割、管理機能は、組織成員の行動を強制力を伴って管理・制御する役割である。



日本の家庭では、このうち管理の役割は女性がほぼ独占している。女性(妻、母)は家計管理や子供の教育の権限を持ち、男性(夫、息子)を自分に対して心理的に依存させることで、男性(夫)や子供が自分の思い通りに動くように、自分の言うことを聞くように仕向けている。管理者=「長」と見なす考え方からは、日本男性は「家父長」の資格を明らかに欠いている。




しかし、代表と、責任の役割については、女性はその役割を遂行することを回避し、男性に押しつけようとしている。女性が家庭管理の権限がない男性のことを意図的に「家父長」呼ばわりするのは、家庭という組織を対外的に代表し、運営がうまく行かなかった時の責任を取る役回りを男性に全部やらせようと策略を巡らしているからに他ならない。ではなぜ女性は、代表・責任役割を自ら取ろうとしないのか?それは、女性が根源的に持つ、我が身を危ない立場に置こうとせず、常に安全な位置にいようとする自己保身の指向に基づく。


なぜ、女性が自己保身の指向を持つかについては、生物学的貴重性について述べたページを参照されたい。



女性は、代表者として対外的に表面に出るのを嫌う。それは、危険にさらされる外側よりも内側の世界に留まった方が安全が確保しやすいからである。家庭を対外的に代表するということは、外部に対して我が身を露出することであり、直接攻撃や危害を加えられる立場に立つことである。そのため、女性は、男性を対外的な「盾」となる代表役に仕立てて、自分はその内側で安全を保証された生活を送ろうとする。男性を家庭を代表する「家父長」に仕立てるのは、男性を家の外の風にさらして、自分はその内側で気楽に過ごそうとする魂胆があるからに他ならない。



女性は、また、失敗時に責任を取らされて社会的制裁を受けるのを嫌う。制裁を受けることにより、社会的生命を失い誰からも助けてもらえなくなり、自分の身の安全を脅かされることを恐れるからである。そのため、自分からは行動上の最終的な決断をせず、決断をする役回りは全て男性に押しつけようとする。



責任逃れの口実として、男性を家庭内の物事を最終的に決断する「家父長」に仕立て上げて「あなたが決めてよ」と言って決めさせ、失敗時には「決めたのはあなたよ。あなたがこうしなさいと言ったから、私はそれに従ったまでよ。あなたがいけないからこうなったのよ。私の責任ではないわ。」と逃げられるようにする。男性が物事を自分からは決めようとしないと、「優柔不断な男は嫌い」ということで、その男性を非難する。



「家父長」の呼称は、彼が、女性による責任押し付けの標的・対象となっていることの現れであり、その意味で、ありがたい呼称とはお世辞にも言えない。日本の女性は、普段は男性をやっかい者扱いしながら、行動結果の責任なすり付けに都合の良いときだけ男性を頼りにしよう、利用しようとするのであり、それが女性が家庭内での実権を持たない男性のことをいつまでも「家父長」呼ばわりする真の理由なのである。このことを知らずに、女性から「あなたは家父長」とおだてられていい気になっている日本の男性たちは、救いようのない愚かな存在なのかも知れない。

見かけだけの家父長制社会日本

日本の女性は、失敗したとき、自らの責任逃れをするために、男性に責任ある「長」の地位を押しつけている。
その点、女性による、男性優位の演出が行われている。日本男性は、女性の厚意で威張らせてもらっている、と考えておいた方が身のためである。

日本が本当に家父長制の社会なら、国民性が、男性的=ドライとなるはずである。しかるに、伝統的な日本社会の国民性は、ウェットで女性的(女々しい)。国民性が女々しくて、かつ家父長制というのは成立しえないのではないか?日本社会=母権制ではないかと、疑うべきである。

家父長制
父親-子供の紐帯が、母親-子供の紐帯よりも強い。
父が子育ての最終的な権限を握っている。子供がドライ=男性的に育つのは、父親の影響力が大きいからである。
近親相姦は、父親と娘の間に起こりやすい。

母権制
母親-子供の紐帯が、父親-子供の紐帯よりも強い。
母が子育ての最終的な権限を握っている。子供がウェット=女性的に育つのは、母親の影響力が大きいからである。
近親相姦は、母親と息子の間に起こりやすい。

日本では、夫が妻に、心理的に依存する程度が、妻が夫に、心理的に依存する程度よりも、ずっと強い。
夫婦の間に子供が生れたとたんに、夫は、妻の事を、「ママ」とか「お母さん」と呼ぶようになり、実の母親に対する甘えを、妻に移行させる、とされる。
妻に対して心理的に依存している夫が、妻を支配する家父長であるというのは、依存される方が、依存する方を支配する、という常識と矛盾している。

日本における家父長像の誤解について

真の家父長となる条件は何か?
日本における家父長像は、本来のものとはずれており、誤解されている。

(1)日本の父親のように、自分からは何もしないで、「○○しろ」「○○持って来い」というように、自分は座ったままで何もしないで、妻に、身の回りのことを、威張って命令口調でやらせる(やってもらう)のは、家父長とは言えない。皆妻にやってもらわないと、自分の力では、何一つできない。本来、家父長は、動的に、自ら進んで体を動かす、家族の手本となる行動様式を示す指導者でなくてはならない。能動性が必要である。単なる怠け者や快楽主義者では、家族は、自分の事を家父長とは見なさず、厄介な「お荷物」としてしか、見ないであろう。

(2)日本の父親が持つ、浪花節的な、ベタベタした親分子分のような関係は、男性的ではない。メンタルな面で母性の支配下にあり、家父長とは言えない。家父長たるには、ドライな合理性、個人主義、自由主義などを、身につける必要がある。

(3)日本の父親は、どっしりとして(どっしり座って)、てこでも動かない、重い存在であることが、理想的であるとされてきた。
一カ所から動かないのは、定着指向であり、静的(ウェット)であり、母性的である。本来、家父長というものは、積極的に、あちこち動き回る、ドライな存在なのではないか?

不在家長

なぜ、男性が、深夜まで残業するなど、職場に引きつけられて家庭に帰らないか(「不在家長」現象が起こるか)?

1.家庭で、父親の姿を見ずに育った(父親不在の家庭)。家庭にいる父親像を学習していない。
2.職場で、昇進競争をするように、母や妻から圧力がかかる。
夫(息子)の肩書(表看板)が、そのまま管理者たる妻(母)のえらさになる。いかにうまく管理したかの証拠となる。
こうした原因が、男性を、職場に長くい続けさせることにつながる。

日本男性=「強い盾」論

-日本男性の虚像 見せ掛けの強者-


戦前から、日本の男性は、本当は無力な弱い存在なのに、女性によって強大な者と見せかけられている。「差別される弱い女性」を演出するフェミニズムもこの一環である。

女性は、生物学的貴重品として、男性に守ってもらおうとする。男性に、強い盾となってもらうことを必要とする。そのためには、男性に自分は強い、役に立つ人間だという自尊心を持ってもらうことが必要である。
日本の女性は、男性の自尊心を保つのに、躍起となっている。

男性が強い、強くなければいけないという神話の起源は、以下の通りである。

生物学的貴重性が強い女性を、外敵から守らねばならない。
守るには、襲ってくる相手より、強くなければならない。
男尊女卑(男性が偉くなければいけない)とは別である。

あくまで、盾、防衛的な役割について、強いことが求められる。
それ以外の側面では、強いことは必ずしも求められない。

「強い盾」の生成過程は、

本来持っているドライさを、稲作農耕社会のようなウェットさを要求される自然風土下では有害であるとして、生育過程において、育児権限を独占する女性によって剥奪され、無力なかたわ者となる。
そのままでは社会のお荷物となるので、生得的な筋力の強さ、武力指向および、生物学的に生き残らなくても、人間の子孫の継承にあまり影響が出ない点を生かし、(生き残らないと、種の保存に支障をきたす)女性を守る「強い盾」として、もっぱら活用され、訓練される。

日本において、男性が優位に立っているというのは、男性に、強い盾になってもらおうとする女性による、作為的な見せ掛けである。

女性は、自分の掌のうえで、男性を泳がせている。

女性は、その気になればいつでも社会の本当の支配者が誰かを見せつけることができる。
ただし、それをすると、男性が、自尊心を失って萎縮してしまい、防衛・強い盾の機能を果たさなくなるので、しないだけである。

強い自尊心を女性によって与えられた男性は、わがまま・専制君主的になりやすい。

日本の父親(特に戦前)が「家父長的」に見える理由は、

1)強引であること
2)威圧的・威張ること

3)厳しい、威厳がある、厳格である
4)怒る 怖い

5)専制的、わがまま

6)断定的、責任を取る(取ってくれる)、決断力がある

といった点にある。

いずれも、人間的には、決して成熟しているとは言えない。
そこには、女性が望む「強い盾」としての側面ばかりが強化されている。
また、ドライさとは無関係のものばかりである。本来の男らしさ、父らしさは、ドライさにあるのではないか?
個人主義、自由主義、合理性など、ドライさを削除されている点、男性としては、精神的に奇形である。

一方、強さは、確かにある。それは、筋力、攻撃力(怒り)といった、女性を守る道具としての強い盾として用いられる。

責任を取る、決断をするというのも、女性に欠けており、女性が欲しがる資質である。失敗したときに、責任を男性になすり付けることができる。
女性にとって、自らの保身を行う上で、都合のよい性質である。

男性にウェットさを強いて、支配下に置いたまま、自分の保身を図るため、うまく使いこなす際に、上記の性質を男性が持っていると重宝する。

ウェットな男性は、いかに強引、専制的...であって(強く見えて)も、本来のドライさを失っている以上、心理的には奇形、障害者であり、社会的弱者である。

強い盾、ないし、給与を差し出す下級労働者としての、女性に都合よく限定した役割しか果たせない、それ以外の点では無能である。
本質的には弱者であり、女性によって搾取される存在である。

日本女性は、自分が社会の支配者であることを、必死に隠そうとしている。
男性の自尊心を傷つけて、強い盾として機能しなくなることを恐れる。

日本における女性への差別待遇も、男性の自尊心を確保するために必要である。
もともと、女性優位なので、そのままでは、劣位にある男性の自尊心が確保しにくく、人権問題となる。

日本女性の男性に対する見方は、男性固有の、個人主義、自由主義など、ドライな側面を、(稲作農耕社会にとっては)有害なので消したいが、かといって、自分たちを守る盾としての存在ではいてほしい。

根底では、ドライな、本来の男らしさを否定し、男尊女卑といった、見かけ上の男性尊重と、女性によって人為的に作られた強さでしのごうと考えている。

日本的な「男らしさ」は、ドライさに基づく男性本来の男らしさとは異なる。

日本の家庭を父権化する計画について



従来、母性の支配下にある日本の家庭は、男性の立場からは、少しでも父親の力を取り戻し、父権化、家父長制化することが必要である。



そのためには、まず、最近の、社会進出を優先して、子育てに母性が不可欠とする母性愛神話を打破しよう、子育てを放棄しようとする女性側の動きを利用することが望ましい。



つまり、女性学、フェミニズムによる育児回避・放棄運動に乗じて、「母親たちが育てないならば、父親が育児を一手に引き受けよう」「父性主導の子育てを実現させよう」と運動するのである。



3歳児までの、子供の人格の基盤が固まる時期を、母性を排除し、父性側で押さえる。父性の介入を最大限にして、母性による子供の独占を阻止する。



従来の日本の子供は、母親と癒着した、「母性の漬け物」と化している。これを改め、子供から母性分を「脱水」し、代わりに、「父性の漬け物」とするのである。



そのためには、欧米の父権制(家父長制)社会を手本にして、母性偏重の日本家庭に父性の風を持ち込むことが重要である。



父親主導のドライな雰囲気の子育てを行う。例えば、川の字添い寝を廃止し、母親と子供の密着を阻止するため、子供を、早期に個室に入れる。子供が、一人で自分自身を律することが早い段階で可能になるようにする。そうすることで、子供もドライな父性的な風を身につけることができ、父親主導の子育てが可能となる。



そうすることで、子供は、父親になつく、父親を頼りにするようになり、今度は、逆に、母親の方が子供たちから疎外される感じになるであろう。そうすればしめたものである。家庭の中心に、父親が位置するようになる日は近い。



父権制における真の父親は、戦前日本の父親のように、家庭の中で、ワンマンの暴君、専制君主のように、わがままな大きな子供のように振る舞うことはない。父権制の父親は、ドライで合理性を持った、自由で個人主義で自律的で明確な自己主張を持った、必要な時には危険に直面し、きちんと責任を取り、探検好きで、進取の気性に富んだ、ドライな存在である。



真の父親は、レディーファーストで、表面的には母親を立てるが、裏では、彼女を愛人兼家政婦として、その上に立つ形で支配する。もちろん家計も父親が管理し、母親に、家事労働に必要な小遣いを渡すのである。



日本家庭において、こうした父権制化を実現するためには、何よりも、日本の父親たちが、従来の母親べったりのウェットな存在から脱却して、欧米並みのドライな考え方を取るようになる必要がある。そのために、父親がドライな態度を取れるように訓練する、教育プログラムを、欧米における父親の意見を参考にしながら、日本で開設する必要がある。



特に、キリスト教系の学校では、欧米人の宣教師が、父権的なドライな接し方で、子供や児童に接するので、日本の男子生徒~父親たちは、それを参考にして、早くから父性的な振る舞いを身につけるようにすることが考えられる。



父権モデルは、欧米が白人のため、日本と人種的に離れていて問題だというのであれば、欧米同様遊牧・牧畜民であるモンゴルでもよい。




日本の家庭を、女性、母性の支配の場でなくすには、家庭を「妻の王国」「母の王国」として、そこに君臨する妻や母たちを、家庭の外に出して、家庭の中での女性、母性の支配力、影響力をできるだけ減らし、その代わりに父性をどんどん注入することで、日本の家庭を女性、母性支配の場から、男性、父性支配の場へと転換させる必要がある。



その意味で、日本において、女性を、家庭の外の、会社などに社会進出させることは、社会の根幹をなす家庭において、男性の影響力をより増やす上で、有効かつ重要な戦略である。



日本女性の家庭における支配力を弱めるため、日本女性が家庭を離れて職場社会進出するのを促進することこそが、現状の日本男性の社会的地位向上のために重要なのである。



現状では、日本の男性は、女性に社会進出されて、給料を稼がれると、自分の経済的な甲斐性、女性を経済的に養う力を否定されるように感じて、女性の社会進出に反対することが多い。



しかし、重要なのは、誰が稼ぐかではなく、誰が財政の紐を握るかなのである。いくら、稼いできても、その稼ぎを妻に取り上げられて、妻から小遣いを渡される「ワンコイン亭主」でいるようでは何もならない。男性が「財布の紐を握る」「財布の紐を女性から奪い取る」ことこそが、日本における家庭ひいては社会全体の父権化、家父長制化(男性による支配の実現)にとって本質的である。その点、日本の男性は、誰が稼いだかには、これまでのようにはこだわらず、むしろ、誰が(家族が)稼いだ金を管理するか、誰が家計を支配するかという点にこだわるべきなのである。



子供の教育についても同様である。子供の教育を母親、妻任せにしていると、子供は母親の言うことを聞いて、父親の影が薄くなる。これが、日本において、父性の欠如した次世代の子供を繰り返し再生産することにつながっており、家庭や社会における父権の強化のために、父親が子供の教育を主導する形へと改める必要がある。その際、父親は、子供を母親から切り離して独立した自律的存在とすることに心を砕くべきである。そうすることで、子供に対する(子供を包含し一体化し、強い紐帯を子供との間で維持しようとする)母親の影響力を弱めることができる。



女性を社会進出させて、家庭内における影響力を低下させ、その間隙を突いて、家庭の中枢をなす機能(家計管理、子供の教育)を奪取することこそが、日本の男性にとって必要である。

ジェンダー・フリー思想と父性強化

従来、日本において、ジェンダー・フリー思想は、フェミニスト(女権拡張論者)主導で押し進められてきた。それは、性差別をなくし、男らしさ、女らしさの枠にはまらない個々人の個性を重視しましょうという主義主張である。

現に、学校での名簿の男女混合化等、性差をなるべく考慮から外すのが先進的で優れた考え方だとする見方が日本中に広がっている。

ここで、立ち返って考えてみると、ジェンダー・フリー思想のような、各人が、所属するカテゴリから解き放たれてバラバラになるのを好む行き方は、気体分子運動パターンに近い、ドライな考え方である、と言える。

それは、個々人の(集合からの)自立独立を好む男性、父性向きの考え方であり、一見、性別からの解放を謳いながら、実際には、男性、父性の力を強めている。個々人の相互一体融合化、共通カテゴリへの集合、一致団結を指向する、母性、女性の力を弱める考え方であるとも言える。

日本のフェミニストは、ジェンダー・フリー思想を導入することで、皮肉にも、日本社会における母性(女性)の力を弱めることに一生懸命になっていると言える。

日本において、父性の力を強めるのに、ジェンダー・フリー思想は格好のツールとなると言える。要は、個々人の個性重視、集合からの独立を謳うジェンダー・フリー思想は、日本における父性強化、母性からの男性解放に役立つのである。

そこで、日本の男性たちは、フェミニストたちが自分たちの誤りに気づいて、撤回する前に、どんどんジェンダー・フリーを推進すべきである。

(参考)母性と父性-態度の比較-

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