メイン

女性 アーカイブ

2007年05月22日

「家庭内管理職」論



「家庭内管理職」論

日本社会は、政治家や官僚によって支配されている、とされる。
しかし、実際には、その官僚を支配するさらなる支配者がいる。
政治家・官僚の「生活管理者」「さらなる上司としての家庭内管理職」=主婦である。
 

日本の専業主婦=無給家事労働者論は、打破されるべきである。日本の女性は、家庭において、実際は、単なる労働者ではなく、家族成員の生活をコントロールする、家庭内管理職とでも言うべき地位についている。

日本の女性が男性の給料(労働の対価)を全て召し取って、自分の管理下に置く。その点、労働者たる男性を支配している。男性が、自分が被支配者の立場にあることに気づいてしまうと、男性が女性に対して反乱を起こしかねないので、一家の大黒柱とか、家父長とか言って、わざと崇め奉って、必死に、気づかれないように取り繕おうとする。

フェミニズムは、女性の弱い面、被害者の面にのみスポットを当てて騒ぎ立て、女性の強い面=既得権益(家計管理、子供の教育)については、知らんぷりするか、ことさらに無視し否定する。この女性の占める既得権益こそが、「家庭内管理職」としての側面なのである。

家庭内管理職の概念について整理すると、「家族員の生活を、管理・制御する者」と定義される。具体的には、

1)夫を管理する妻
2)子供を管理する母

として立ち現れる。

一方、欧米では、男性が、この家庭内管理職の地位についていると考えられる。すなわち、


 






日本 妻の監督・管理下で、給与稼ぎに従事する夫
欧米 夫の監督・管理下で、家事労働に従事する妻

 という図式が成り立つ。

女性が家庭内管理職の地位についていることは、日本の家庭における実質的な女性優位を示す。

日本における家父長制は見かけだけと考えられる。

女性が、家父長制をやたらと持ち出すのは、妻と姑という同性同士の対立(権力闘争)が根本の問題である。
女性は、同性間の相互の一体感を重視する。
同性同士の結束が弱い(仲が悪い、バラバラである)と見られるのをいやがって、異性の夫(息子)のせいにする。
 

日本女性の勢力が、「内」=家庭内限定であった理由は、戦闘や戦争状態を前提とした社会である、武家社会の名残と考えられる。戦前の日本社会も、陸海軍の発言権の強い、「武家」社会の一種であったと考えられる。戦闘や戦争が多く起きる状態では、外回りに危険が多い。したがって、生殖資源として貴重品たる女性を外に出すわけには行かないからである。

女性の方が、生物学的に貴重であることを説明したページへのリンクです。

日本男性(例えば、九州男児)は、威張って、身の回りの細かいことを妻にやらせることが多い。彼らは、自分からは何もやらず、動こうとしない。その根拠は、「怠け者=上位者」理論として整理できる。すなわち、仕事をしないでのんびり怠けて過ごせる者が、そうでない者よりも上位にある、という考え方である。

しかし、これでは、妻がいないと、自分一人では何もできない。言わば、妻に生活上の生殺与奪を握られている。妻に対して頭が上がらず、結局、弱い立場に追い込まれることになる。
 

日本女性は、家庭に入ることを求められる。職場で昇進しにくい。肩たたきで会社を辞めざるを得ない。
それは、職場で無能だから、という訳ではない。


日本女性が、社会から家庭に入ることを要請されている本当の理由は、家庭内管理職、すなわち、職場で働く者の生活を管理する者の方が、社会的に重要で、地位も高いから、そちらになってもらいたい、ということなのではないか。

日本の男性は、本当は、女性に家庭に入ってもらわない方が幸せである。

日常の生活を管理されないで済む。気の進まない(賃金)労働や、組織での昇進競争へと追い立てられなくて済む。

しかし、女性への心理的依存があるから、入ってもらわずに済ますのは無理である。

 

性別分業は、女性差別とされている。

しかし、必ずしも、女性に不利な差別がされている訳ではない。

「女は内、男は外」という場合、「内」の方が、家庭内管理職の役割を持つことが出来、地位が高い(欧米とは逆)。

「内」の方が、苛酷な自然環境に直接さらされないで済み、生存条件としては良好である。

日本では、妻が母艦の役割を果たし、夫は、母艦から飛び立って、職場で労働し、給与と共に帰って来る飛行機である。

母艦は、飛行機に出発や給与渡しなどの指示を出し、管理する。

母艦は永続的な場なのに対して、飛行機に乗るのは、一時的である。

職場は、一時的な滞留の場であり、最終的には母艦に帰らなければならない。

最終的な居場所である母艦たる家庭を支配する女性こそが、社会の強者である。

日本の父は、子育てに関わろうとしないと非難される。しかし、日本の父は、例え子育てに参加しても、補助労働者としてこき使われるだけであり、子育ての主導権は握れない。主導権は、女性=母の手にある。日本の父親には、子育ての権限がもともとなく、子育てから疎外された存在である。家事についても同様で、決定権が妻の側にある以上、夫は補助労働力に過ぎない。夫が家事にやる気を出さないのもうなずける。一方、欧米の父親が、家事や子育てに積極的に関わるのは、彼が、家庭内管理職として、家事や子育ての内容について、最終的な決定権を持っているからだと考えられる。次に何をすべきか決定する権限を持っていれば、当然、やる気が起きるであろう。

専業主婦は、社会的地位が低いと見られがちである。しかし、その様相は、欧米と日本とで大きく異なると考えられる。

欧米の主婦は、夫の管理下で下請け的に働く、家事労働者に過ぎず、その地位は、本当に低い。


日本の主婦は、もちろん、家事労働者の側面もあるが、実際には、家庭内管理職として君臨し、管理される夫よりも常に1ランク上に位置する。日本の主婦は、家族の生活を、隅々まで、制御・規制して、収入管理・分配権限、子供の教育支配権限を一手に握る。家族の健康な生活を守る、生活管理者、監督としての役割を担っている。

日本家庭では、買い物の順番として、子供のもの→妻のもの→(余ったら)夫のものという優先順位が付いていると言われる。妻のものが夫のものより優先される点に、女性支配の現実が見える。





日本女性と家計管理権限



日本女性と家計管理権限





1.小遣いと大蔵大臣

日本では、自分で他人を養うだけの給与を稼ぐ役割を男性がもっぱら担っていることが、男性優位(家父長制)の証拠と見なされる。

女性の立場が弱いのは、自分で給料を稼がないからだとされる。

上記の意見は、おかしいのではないか?

給与を稼ぐ立場にあることが、強い立場(家父長)にあることの証拠とは必ずしも言えない。

日本では、男性が稼いだ給与は、一昔前の給料袋から、現代の銀行振込に至るまで、男性によってほとんど何も手をつけられずに、女性の下に直行する。

日本では、女性が、家計を管理し、家計における、最終的な、予算配分決定の権限を握っている。彼女は、大蔵大臣と称される。

総務庁青少年対策本部「子供と家族に関する国際比較調査」1994では、日本において、家計管理を行っているのが、夫と妻とを比較したとき、60%以上妻が行っているとされており、日本女性が家計管理権限を独占的に掌握していることを裏付けている。

男性は、女性から改めて、小遣いを支給される。

男性は、小遣いの額を、女性と交渉しなければならない。額を最終的に決める権限は女性が握っている。

給与の使い道(予算配分)を決定するのが、本当は、家父長たらしめる役割のはずだが、日本では、この役割は、女性に占領されている。

給与を単に稼ぐだけで、稼いで来た給与の使い道配分を決定する権限がないのでは、日本の男性は、家計管理者=大蔵大臣としての女性の下で働く(こき使われる)下級労働者に過ぎない。

家計管理の権限を最初から剥奪され、小遣いをもらう立場に甘んじるのは、家父長とは言えない。

日本の女性は、女性は男性に養ってもらう被扶養者であるから、男性よりも立場が弱い、とまくし立てるが、それは、男性の自尊心(自分は偉い)をキープして、よりよく働かせる(給与を稼がせる)ための口実に過ぎない。

日本の男性は、お金を生み出す打ち出の小槌(大工道具)であり、女性は、打ち出の小槌を使う大工である。女性は、小槌によって生み出されたお金を取り上げ、自分の手元で管理する。男性は、主体的に自らを管理する能力を持たないため、管理者たる女性に頭を下げて、小遣いを恵んでもらわないといけない。

日本の男性は、女性によって、一家の大黒柱と持ち上げられるが、本当は、女性の管理下で働く下級労働者に過ぎない。女性によって、収入を吐き出させられ、ちゃんと仕事をするように監視される。日本社会は、「鵜飼型社会」であり、男性は、鵜飼である女性の管理下で、魚取りに従事し、捕まえた魚を吐き出させられる鵜鳥の役割をさせられている。
 

日本では、夫は、財産の所有権、名義は持っているが、その財産を自分の自由に動かしたり管理する権限は持っていない。一方、妻は、財産の所有権、名義は持っていないが、その(他人名義の)財産を自分の思い通りに、自由に使ったり管理する権限を持っている。

両者のうち、どちらが強いか?

性別を伏せて、Aさん、Bさんとして聞いてみたらどんな結果が出るだろうか?
 

2.日本専業主婦の地位と財産

専業主婦は、自分の食べる分の給料を稼がないから、地位が低いとされてきた。このことは、今までの日本における男性優位の根拠となってきた。それは果たして正しいか?
日本の専業主婦は、家庭における資金の出入りを、最終的に管理し、決定する権限を持っている。家計管理者として、給料の使い道を管理し、何に使うかを決定する。こうした財産管理・使用権限は、夫に対しても、小遣い支給という形で行使される。
従来、家庭において認められて来た財産形成(生成)・所有権限(主に夫が保持)とは別に、財産管理・使用(配分)権限というものの存在を、新たに認めるべきである。いくら、形式的に財産を所有していても、実際に使う権限を持っていなければ、意味がない。その点では、財産管理・使用権限の方に比重を高く置いてみるべきである。欧米では夫がこちらの権限も保持しているが、日本では、この財産管理・使用権限は、妻が保持している。
 
 






権限の強さ 欧米 日本
財産形成(生成)・所有権限 形式的・弱い
財産管理・使用(配分)権限 実質的・強い

従来の日本におけるフェミニズムが唱える家父長制についての議論では、財産形成・所有権限の方ばかりに目が行って、財産管理・使用権限について注意が行き届いていない。後者の存在に注意すれば、日本の家族=家父長制という結論は、絶対出ないはずである。

ただ収入を入れるだけで、自由に使うことができない(再配分の権限を持たない)、小遣いを、妻に対して、頭を下げて、もらわないといけない夫(彼は、妻の管理下で、下請けの給与稼ぎ作業に従事する)よりも、最終的な使用(収入の再配分)権限を握っている妻の方が、地位は高いのではないか?

日本における、「稼ぎ手(一家の大黒柱)がえらい、強い」コール、大合唱は、財産管理権限を握っている=本当に力を持っているのが、妻(女性)であることを隠蔽するため、女性によって、意図的に行われている。隠蔽することで、男性の自尊心を高い状態に保持し、自分たちに有用な働き(強い盾としての防衛者の役割、給与を稼ぐ労働者としての役割)をさせるのが目的である。「男性上位」を信じ込む男性は、女性によって、担がれているのである。

妻に対していろいろ威張って命令するが、妻がそばにいないと何もできない夫、家の中の物がどこにあるか、全て妻に管理されているため、全く分からない夫は、妻によって生殺与奪の権限を握られており、実際には、弱者である。

家計管理権限を、なぜ日本の女性が取れたか?

日本のように稲作農耕栽培行動が主流の社会では、態度のウェットさを要求される農耕活動により適するのは女性であり、環境適応力・環境合致度が、男性よりも強いのが原因と考えられる。

日本フェミニズムは、都合の悪い事実を隠す。女性が財布の紐を握ることなど、無視する。臭い物にふたをする、こうした姿勢は改められなければならない。

日本女性と国際標準

フェミニズムは、男性優位社会での女性解放をうたったものである。
これを、日本社会へと強引に当てはめた結果、
「日本は、男社会である(見かけはそうかもしれないが、きちんと調べれば、実態は違うことがすぐ分かるはず。敵はいない。)
したがって、男性に匹敵する(伍する)には、男性的にならなければならない。」
と考え、女性らしさを捨てようとした。

この際、女性は、誤りを犯そうとしている。
日本は、本当は、女性優位社会=「女社会」である。日本社会は女々しい。もともと日本の男性は、男性的でないのに、自分は男性的だと勝手に思い込んでいる。
女性は、男性的になろうとすることで、自ら、女性優位という強さの基盤(もと)を捨てて、「女社会」を壊そうとしている。

男性に伍するには、ドライ化=男性化しようとしても限界がある。欧米女性の二の舞になってしまう。
女性の本質を生かした方が、強いのではないか。
ウェットさ=女性らしさを保ったままで、職場・職域進出すればよいのではないか。
日本の職場はもともとウェットなのだから十分可能(女々しいままで適合的)なはずである。

現代日本社会は、ドライで男性の強い欧米社会の規範を真似ている。

日本女性は本当にドライか?

筆者が行った、ドライ・ウェットな心理テスト調査結果では、日本女性は、「自分の性格に当てはまるのはどちらですか?」という問いに対して、ドライな項目の方を選択することで、自らの女々しさを否定した。
男性的な欧米先進国に習おうとした。真似すべき成功の前例である、先進国という権威に弱い。

社会において、ウェットさが否定されることにより、本当は、本来ウェットであるはずの、女性の立場を弱くしている。
見かけは、Lady First~男女平等・同権なので、女性の立場を強くしているように見えるが。

女性は、伝統的な日本社会のように、ウェットな社会では、水を得た魚のように、主流派コースを歩めるはずである。
自分たちのペースで社会を引っ張れるはず。

女らしさは、国際標準から外れた行動様式である。
日本女性は、自らの女らしさ(女々しさ)=ウェットな行動様式を否定し、国際標準のドライな行動様式に合わせて、男らしくなろうとしている。しかし、地金がウェットなので、ドライになりきるのは無理であり、「擬似ドライ化」するにとどまる。

日本女性は、国際標準の行動様式を、ドライ=男性的=欧米的と考え、それに権威主義的に同調する。日本も先進国の仲間入りをした以上、当然ドライであるべきと考える。これは、伝統的な、脱亜入欧の考えに通ずる。ドライな社会向けの欧米理論であるフェミニズムを日本に当てはめて、何ら問題を感じない。国際標準の理論だから、ぜひ日本にも当てはめるべきと考える。それが正しい研究だと、思い込んでいる。

国際標準の行動様式を、ドライ=男性的と捉えることは、世界的に、男性優位=家父長制が標準だ、と考えることに通ずる。家父長制およびそれを告発するフェミニズムを世界標準とみなし、日本社会へと、機械的に、「上から」権威主義的に導入しよう、合わせようとする。日本が世界標準に追いついた、とか、標準に合わせている、という考えから、日本は家父長制社会だとする。日本社会は、前近代=封建制状態では、その性質はウェット=女性的で、国際標準からは外れているにもかかわらず、日本のフェミニズムでは、家父長制だとされている。国際標準に合っていても、外れていても、日本社会=家父長制という結論を導き出している。伝統(前近代、封建)日本的=ウェット=女性的という結びつきに気づいていないためと考えられる。

日本社会についての国際標準から外れた結論(日本的=女性的=ウェット)は、いずれ標準に追いつくと考えるなどして無視するか、国際標準に合わせて曲解する。欧米の研究結果を直輸入し、それにそぐわぬ現象を、無視・曲解するか、日本社会の現象を、欧米理論へと強引に当てはめる。

例えば、女性が握る家計管理の権限(財布を握ること)には、全く言及しようとせず、給与・収入を自らは稼がない点に固執し、無給の家事労働者の側面のみを強調して、女が弱い証拠とする。

あるいは、女性による育児権限の独占については、父親が育児を手伝わないことを、女性への育児労働押し付けとして、自ら進んで育児権限を放棄しようとしている。子供を自分のコントロール・支配下に置くことができる、とか、自分の言うことを聞く子供を作り出し、自分が生き続ける限り支配することができる、というのは、育児権限を持つことの大きな役得であるが、それを自ら放棄しようとしている。これは、権力論からみれば、自ら手に入れた権力を、進んで放棄する、という馬鹿げた行為を平気で行うことである。それとも、権限を全部放棄するのではなく、育児主体はあくまで自分=女性が保持し、父親を育児時の補助労働力としてこき使おうとする発想なのか?

ないし、男尊女卑についても、見かけ上の、行動面における男性優先を、その本質である、弱者である男性の保護、男性の人権保障、弱者優先(年寄りにバスの座席を譲るのと同じ発想)という点に気づくことなく、男性による女性支配の現れと決めつける。

女らしさを世界標準とすることが、フェミニズムの最終目標となるべきである。そのためには、欧米のドライな行動様式は、手本とすべきでない。

日本主婦論争に欠けている視点

日本社会には、母性が充満しているとされる。これに対して、女性学者やフェミニストたちは、母性的であることを、いけないこととして、攻撃する。

母性は、女性の、自分の子供に対する態度であり、女性性の一部である。
女性が、男性を、自分の子供のように慈しむ態度が広く見られる。
女性は、母親としての地位は、子供の役回りを演じる男性よりも強大である。
これらの事象は、日本社会における、女性優位・優勢の証拠であるはずなのに、なぜかそのことに気づこうとしない。
論者が、独身者だったり、若い未婚の女性が多いことが原因か?

既存の日本の主婦論争の視点は、

(1)主婦=無給の家事労働者、という視点ばかりである。
家庭の管理者である、男性の生活を管理している、という視点や自覚に欠けている。
社会で、女性の生活管理下で働く、労働者の役割を担っているのは、男性の方である。
主婦は、むしろ家庭内管理職として、男性の上に立って、その生活ぶりを指示・コントロールする役割を担っている。
女性が、家庭における、生活管理者 Life Managerの立場にあるという視点に欠けている。
無給という言葉にふさわしいのは、稼いだ給料をそのまま主婦の手元に直行させて、自分では配分の権限がない、男性の方ではないか?

(2)収入を得る場=職場中心の視点ばかりである。
「社会進出」の言葉が示すように、家庭を、社会に含めて考えようとしない。
職場を含めた社会の総合的な母艦としての役割を果たす、家庭中心の視点が、なぜか取れない。

(3)家庭の財産の名目的所有者(名義)が誰か、という視点ばかりである。
夫への小遣い額決定など、自分が、強大な家計管理権限を持っている=家庭の財産の実質的な所有者であることに、目が向いていない。

(4)誰が収入の稼ぎ手か、という視点ばかりである。
彼女たちは、稼ぐのが誰かという方にばかり注意が行って、使う権限を自分たちが独占していることに、ちっとも気づいていない。

彼女たちは、自分たちに欠けている視点に、
(1)気づこうとしなかった、気づくことを巧妙に避けた
気づいてしまうと、日本社会が、自分たちが導入しようとする、フェミニズム理論通りにうまく説明できなくなる
(2)気づかなかった
頭が、欧米理論を消化・吸収することで手一杯になっていて、社会の現実に対して、無知であった

専業主婦を求めて



1.専業主婦を求める男性

仕事で家を離れる女性は、家庭内での発言力・支配力が低下する。男性にとっては本来喜ばしいことのはずなのに、妻には家にいて欲しいとする男性が多いのはなぜか?女性への依頼心がそうさせる。女性を、母親がわりにして頼ろうとする。本来ドライであるべき男性の中に、ウェットさや女々しさが蔓延している。

女性は、伝統的な性役割からの解放を唱えている。伝統的な性役割では、自分たちの支配力が強いにも関わらずである。その理由は、ライフコースに従って変化する。
(1)結婚してからしばらくの間は、特に育児の面で、負わされる負担が大きい。とても忙しい。子供の都合に合わせて、自分のしたいことを我慢しなければならない。家事の面でも、家電製品の導入など省力化が進んでいない頃は、大変だった。

この場合、女性が
(a)家政面での主導権を引き続き維持しつつ、握りつつ、補助労働力として、男性に期待するのか?
(b)家政面での主導権も、夫婦で分担する。真の男女平等を目指すのか?
によって、男性の取るべき態度が変わってくる。補助労働力としてこき使われるのは、拒否すべきである。できるだけ、男女平等の主導権分配を行うべきである。


(2)結婚して大分経って、子育てが一段落し、家電製品の導入で家事の省力化が進むと、ひまになり、生きがいがなくなる。子育て後は、やりがいがなく、時間の空白ができやすい。専業主婦が価値ある職業と映らなくなる。専業主婦以外の職業をメインにしてみたくなる。男性の占める職域に進出する機会が欲しくなる。




日本の会社・官庁は、もともと、女性向きと言えるウェットな雰囲気の職場なので、女性は、本来、結構有利なはずである。




日本の組織のウェットさならではの問題点は、

同質性や閉鎖性が高く、最初に白紙状態で入った者=新卒者にのみ心を許し、組織風土を覚え込ませる(白装束を着る嫁入りと同じ)。組織の外部に一度去った者や他の組織に属していた者が、もう一度入り込むのが難しい。女性の場合、子育てに忙しく、就業にブランクができてしまうので、いったん組織を去る必要があるが、組織の閉鎖性は、これと矛盾する。育児休業制度は、組織に連続雇用してもらうことを前提としたものであり、組織内でのキャリアアップを目指すならば、不十分でも、耐えなければいけないのが現状である。

男性は、自分自身を解放したければ、女性の職場での中途採用への道を開くべきである。


ちなみに、妻が働きに出るのをいやがる夫は、
(1)自分の稼ぎが少ない、と周囲に映るのが、自分の能力を否定されるようで面白くない。
(2)妻に、自分の家を守っていてもらわないと、不安である。
(3)自分が帰宅したときに、温かく出迎えてほしい。
といった欲求を持っている。

しかし、それでは、妻に、家計管理や子供の教育の権限を、いつまでも握られ続けて、被支配者の立場に甘んじることになる。
自分が家を空ける時間が長いため、家族に対する影響力が少なくなる。
子供たちから、じゃまに扱われ、疎外される。


2.女性の、職場での性差別

女性に対する職場での性差別の背景には、女性に家庭にとどまってもらいたいという、「専業主婦願望」とも言うべき、男性側の欲求があると考えられる。

現状を変動させようとする側(女性)は、それなりの、変動しない方向への反発力を受ける。

女性が職場進出してしまうと、男性は、家庭のみならず、職場でも、女性に支配されかねない。男性は、自分たちの居場所がなくなるのを恐れて、女性の進出に反発する。

日本の男性は、現状では、自分の存在理由が、給与を稼ぐ、収入をもたらすことにのみある(収入の管理、使用用途別の予算配分などは、女性の手に握られてしまっている)。女性が進出すると、男性は、自分の存在理由を失ってしまう。

職場での性差別は、男尊女卑で、女を見下して、組織内の重要な地位につかせようとしない姿勢ももちろんある(それ自身、日本社会において女性の方が力が強いという実勢を反映しない、空虚な態度である)。

しかし、性差別は、実際のところ、「家庭内管理職待望論」とも呼べる、女性に家庭に入ってもらって自分の事を、自分の母親のように管理してもらわないと不安である、それには、女性に家庭に手っとり早く入ってもらうための方策として、職場に残ってもいいことはないよと女性に示せばよい、という考えによって引き起こされている面が大きい。




そういう点では、職場での性差別は、日本男性の、女性を母親代わりにして依存しようとする心と表裏一体のものであり、性差別をなくすには、男性の女性への依頼心をなくし、自立した存在にさせることが必要である。女性側でも、男性(自分の息子など)から自分への依存心をなくし生活面で自立させることが、女性自身の職場への進出を早めることにもっと気づくべきである。そういう点では、女性の職場進出の進展の条件は、日本の家庭における女性(母性)による男性支配を終わらせること=従来の母性的主婦観の解体でもある、と言える。

日本のフェミニズムを批判する

〔1.現在の日本のフェミニズムが抱える問題点〕

現代の日本のフェミニストの主張は、以下のような問題点を抱えていると考えられる。

1)女性が、男性より、必ず恒常的に弱い、とする偏見がある。19世紀に欧米で出た説である「女性の世界史的敗北(母権→父権への全世界的移行)を、新しい資料と照合せず、無検証のまま、定説として信じ込んでいる。東アジアの稲作農耕社会の社会心理的な実態(集団主義などウェット=女性的である)を、提唱者のEngelsらが熟知していたとは考えにくい。

2)男女の心理的性差についての研究成果を、考慮に入れていない。社会のあり方(ドライ/ウェットなど)と、心理的性差のあり方との照合を行わないまま、女性が優位の社会は存在しないと断定している。日本社会については、「日本的=ウェット=女性的」という相関が成立する。日本では、女性が男性よりも勢力が強いからこそ、「日本的=女性的」となるのである。日本社会は、事実上、女性優位の社会という見方が成り立つのであって、このことは、日本のフェミニズムの主張とは相いれない。

3a)再生産過程についている専業主婦を、生産過程についている職業人より劣ったものとみなす偏見がある。

3b)「男は仕事、女は家庭」といった性別分業を、一方的な男性優位=家父長制と見なして、性差別と批判する、過ちを犯している。性別分業は、男女間で、生物学的貴重性が異なる以上、女性が強い社会でも、起こりうる(男性は危険な外回りの仕事に従事し、女性は安全な内回りの家庭を主な暮らしの場とする、など)。男女どちらが優勢かは、性別分業が存在するということだけでは決まらない。男女どちらが、社会において、管理者的な重要な役割を果たしているかにより決まる。日本では、女性が男性の生活管理者として、家計管理権限などを全面的に掌握しているので、女性の方が優勢と考えられる(たとえ男性が首相だったとしても、その妻は、「首相の生活管理者」として、首相よりもさらに1ランク上の存在として君臨している)。

3c)日本では、男性が稼いだ給与の実質的な管理権限を持つのは女性なのに、その事実を無視して、名目的な所有名義のみにこだわっている。

4a)母性の優越(母子癒着)を、女性による社会支配と捉える視点に欠けている。

4b)女性主導による育児を、本来なら社会の女性化=女性優位を実現するものとして喜ぶべきなのに、「社会(職場)進出のじゃま」としてnegativeに捉えている(男性の育児への介入機会が増加する可能性が増えるので、男性をむしろ利することになる)。

5)日本のフェミニズム・女性学自体が、「女性が弱い、差別されている」と大合唱することで、日本の男性を故意に強く見せようとする日本女性の作為(作戦、策略)の現れである。
男性を強く見せるのは、男性を自分たちを守る強い盾として使おうとする意識の現れであり、日本男性の強さは、そうした女性の意識に支えられて初めて成り立つ、「虚像(虚勢に基づくもの)」である。日本社会の見かけ上の主人(公)である男性は、本当(真)の主人には、現状のウェット=女性的な日本社会の体制の下では、永久になれない。ウェットな日本社会の本当(実際)の主人(公)は女性である。

6)女性の社会進出を阻む男性を攻撃する際に、男性側の心理を考慮していない。今まで男性が主に占めてきた職場に、自分とは生理的・心理的に異質な者(女性)が、新たに自分の周囲に進出してくるのを、男性側が、不愉快に思い、阻もうとするのは、人間の心理として妥当である。

〔2.今後の日本のフェミニズムが取るべき途〕

従来、「日本の」フェミニズムで主張されてきたことは、間違っているのではないか?

欧米で主張されているフェミニズムには正当な根拠が認められる(正しい)が、それをそのまま社会のあり方が異なる日本に直輸入して、機械的に当てはめようとするのは、正しくない。

伝統的な日本社会は、むしろ、女性向きにできており、その中で不利益をこうむっているのは、男性の方である可能性が高い(日本人の国民性はウェット=女性的な方向に偏っている、日本の家庭の財務を管理するのは女性である、...といったように、女性が実質的に社会を支配している)。

同じ男女差別でも、欧米と日本とでは、その性質が異なる。欧米では女性の立場が本当に弱いのに対して、日本のそれは、(女性向き社会に不適合を起こす)男性に生活面で依存されることによる負担を、女性が一方的に担わされる、というものである。日本の男女差別は、むしろ女性の立場が強い(男性を上回る)ために起きている。

「日本」のフェミニストは、こうした現実の(女性が強い)日本社会のあり方を、新たな枠組みで捉え直す試みを行うことで、自らが犯した、欧米理論の日本社会への強制的当てはめによる誤り(日本における、男女の力関係について、男性が強いという、誤った説を流したこと)を認めるべきである。

現在の、欧米(遊牧系社会)生まれの理論を、機械的に日本社会(農耕社会)に当てはめるだけの、日本のフェミニズムは、以下のような視点を取り入れて、新たな段階に脱皮を図るべきである。

(1)女性が弱いと見なす、欧米直輸入の部分を全て取り外し(削除し)、女性が強いことを前提とした理論構成に組み換えるべきである。例えば、女性が強い社会において、「強者の負担」が不合理なほど重いので、男性の、自分たちのところへ寄り掛かってくる度合いを、もう少し減らしてもらうには、男性にどのような形で協力を求めていけばよいかを、議論するなどである。

(2)強いのは見かけだけで、本当は、女性よりも立場が弱い、男性への配慮をもっと示すべきである。単純に、(欧米フェミニストのように)男性を強者と見なして攻撃するだけでは、日本の男性は、違和感を感じて心を閉ざしたままであろう。

(3)男女平等を説くのなら、女性に対して、家計管理権限の男性との共有(今までみたいに男性が稼いだ収入の全額を男性から取り上げて、小遣いだけを渡すやり方の廃止)の他、男性も育児に積極的に参加させて、女性向けに大きく偏った国民性をより男性向きの形に変化させること、などを、女性の側も受け入れるよう説得するべきであろう。

「鵜飼型社会」からの脱却

農耕社会は、優位に立つ女性による、劣位の男性に対する生産管理が行われている、「鵜飼型社会」である、といえる。男性は、魚(給料)を取ってくる鵜鳥である。一方、女性は、鵜鳥(男性)を、魚(給料)を取らせるために、船(家庭)から漁場(職場)へと追いやる形で、働かせつつ、鵜鳥(男性)が働いた成果である魚(給料)を、鵜鳥(男性)から、(給与袋まるごと召しあげる、ないし給与振込銀行通帳を我が物にする形で)強引に吐き出させて、取り上げて自分の管理下に置く、鵜匠の役を実行している。鵜鳥(男性)は、実質的には、鵜匠(女性)の下で一方的にこき使われる下級労働者である。

農耕社会におけるメンズリブ=本当の男性解放は、本来男性が生得的に持ち合わせていたが、ウェットな社会に適応する過程で失った、個人主義、自律・自立指向、非人間(メカ)指向など、ドライな生き方の回復にある、と考えられる。
上記のことが果たせぬまま、家事・育児などに参加しても、下級労働者として、女性にこき使われるだけの存在に成り果ててしまう。
育児に参加する場合も、次世代の子供に、自分の生得的に持つドライな行動様式を注入できる場を確保することが条件となる。

女性への職場開放は、従来日本女性が家庭で占めてきた権限を縮小する(女性が、外の仕事に忙しくなって、家庭内の管理に回す時間が少なくなる)。これは、従来、家庭内で影が薄かった日本の男性が、家庭運営の主導権を女性と対等に持てるようになるチャンスである。したがって、「鵜飼型社会」からの脱却のためにも、男性は、女性の「社会進出」に対して寛容になるメリットは、十分あると考えられる。

日本における女性の「社会進出」について

1.はじめに(家庭は「社会」ではないのか?)

現在言われている、女性の「社会進出」とは、従来、家庭に囚われている女性を、そこから解放して、男性が占有してきた「社会」(官庁、企業...といった家庭以外の場所)に進出させる、ことを指すものと思われる。

まず、女性の「社会進出」を唱える人たちは、家庭を社会の一部と見なしていない節がある。

家庭は、誰もがそこから出かけ、仕事などをしたあとで、必ず帰着するところの、社会の「(航空)母艦」のような意味合いを持ち、社会の根幹部分を形成するといえる。その意味で、家庭を社会とを別々に捉える、「社会進出」という考え方は、誤っていると思われる。家庭を支配するものこそが、社会全体の根本を支配すると言ってもよいのである。

2.なぜ日本女性の「社会進出」が進まないか?

なぜ、日本の女性が家庭に囚われてきたか?女性が、家庭に縛られる現象がなぜ起きているか?これについては、(1)生物学的な見地に由来する問題と、(2)日本など、農耕社会固有の問題とに分けて考えるべきである。

(1)まず、生物学的側面について考える。女性の方が、男性よりも、担うところの生殖細胞(卵子)の数が少なく、作りがリッチであり、生物学的貴重性が高い。その点、人間の種としての存続をはかるためにも、女性は、(貴重性が低い男性よりも)より安全が確保されたところに常時とどまり続ける必要があった。それが、「巣」「内」としての家庭であった。一方、家庭から切り離されたところの職場は、より危険性の高い「現場」「外」の世界であり、男性により向いた場所であった。

しかるに最近は、ほとんどの職場では、安全性が高くなった。コンピュータ化が進んで、危険な作業は、みな機械が行い、人間は安全なところにいたままで、職務を遂行できるようになった。その結果、職場は、(生物学的貴重性の低い)男性が占有する必要がなくなってきた。女性の「職場進出」は、十分可能な状態にあると考えられる。

ただし、現状では、職場は、あくまで、日中、家庭から、出かけていって、作業をするだけの場所に限定されており、職場で働いた人間は、家庭に再び帰って、食事をする、寝る..などのことをする必要がある。

今後は、職場にも、家庭同様の「巣」としての機能(一日中占有することのできる、睡眠や食事を取ったりできる、ないし育児の設備が整っている、自分専用の安全な居場所)を持たせること、すなわち家庭と職場との同一化が、恒常的に安全な場所を求める女性が、職場に完全に進出する根本的な条件となる、と考えられる。

(2)次に、農耕社会固有の問題について考える。家庭は、社会の基盤部分を支配する「(航空)母艦」としての役割を担っている。日本のような農耕社会においては、そこは、女性が支配している。従来、外働きしていた日本の男性は、女性に対して、心理的に依存して(甘えて)おり、母親代わりの女性に家庭にいてもらわないと不安である。そのため、女性が家庭から外に出ることに反対する。

したがって、日本社会において、女性がスムーズに「社会進出」するには、家庭が男性による心理的依存の場である状態を止めればよい。具体的には、女性が、男性の母親役から降りればよいのである。より根本的には、男性が女性に心理的に依存する元となる、女性による男性支配をやめて、男性を自立させることが必要である。これには、例えば、育児時に、母親や祖母が子供(特に息子)に、心理的な一体感をあまた持たせないように、自分にあまりなつきすぎないように、甘えないようにすることが必要と考えられる。

日本の男性は、フルタイムの過酷な条件で働けるが、女性は、家事・育児があるからパートタイムでないと働けない、それゆえ、社会進出が遅れているとする見方があるが、これも、家庭において、男性が女性に対して、心理上、全面的に依存しており、それを女性も許容しているため起きる現象である。すなわち、男性が家庭を省みないで働けるのは、女性に、家庭の全てを、心理的に任せているからである。より正確には、家庭は、女性に全面的に支配されているので、任せざるを得ないからである。男性がフルタイムで勤務しようとする強迫感から逃れさせるには、女性が家庭を全面的に支配する状態を改め、男性にも、家庭に心理的な居場所(自分の存在を明確化・肯定する場)を設けてあげる必要がある。

3.男性が女性の「社会進出」を受け入れる条件とは?

日本のフェミニズムでは、女性が家庭に縛りつけられるのは、(欧米の基準から見て)遅れている、として否定するする考え方が強い。しかし、女性が、家庭に留まることを否定すること自体、(家庭が男性主導のものであり、女性はそこから出たがっている)欧米的な家庭観を、強引に(家庭が女性主導のものであり、女性はそこから出る必然性は特にない、むしろ女性にとっては、皆を心理的に支配できて居心地がよい)日本社会の家庭に当てはめようとするものである。これは、日本のフェミニストの、浅慮による日本社会の現状把握失敗の現れである。なぜならば、家庭こそが、日本において、女性によって、社会全体を支配するための効果的道具として使われてきたことに気づいていないからである。

社会のあり方を職場中心に見る、日本のフェミニズムは、日本社会が男性中心に動いているとする、誤った見方に囚われている。これは、この説を見て、「自分も『社会進出』しなければ」と考える女性による、家庭の放棄をもたらし、かえって家庭を、男性を含めた社会全体の管理・コントロールの基地(社会を支配する力の源)として利用して来た、女性の力を、皮肉にも弱めている(日本男性にとっては、都合のよい事態であるが)。

欧米の女性にとっては、家庭は自分たちの居場所ではない(男性に支配されている場であり、女性たちはそこから疎外されている)から、家庭からの脱出を求めた。日本では、家庭は女性の支配する場であり、男性はそこから疎外されているからこそ、家庭の外である職場に、逃げ出して、そこに安住の地を求めているのである。日本における女性の職場進出は、男性にとって安住の地を脅かされる行為に他ならない(欧米の男性にとっては、そうではない。彼らは、ちゃんと家庭を押さえている(自らの支配下に置いている)からである)。

女性の「社会進出」は、日本の男性にとっては、社会のあり方全般を女性的なものに支配される中で、自尊心(一家の経済を支えるのは私だ..)を保つためのの最後の拠り所・牙城を切り崩される由々しき事態に他ならない。女性の「社会進出」をスムーズに行われるようにするには、職場が、男性にとって、自尊心を保つ最後の切り札として働く性格をなくすことが必要である。

女性が従来占有して来た特権(家計管理による収入・支出決定の権限、育児権限..)を、男性にも明示的に開放することが、男性が、官庁・企業などの組織における地位に強迫的に固執する(女性を排除しようとする)心理から解放させる、一番の手である。日本において、女性の「社会進出」を進めるには、こうした男性の「全面的に女性に支配される」という恐怖心を取り除くことが必要である。

4.女性はなぜ高い地位に就かないか?

女性の「社会進出」の遅れと関連して、女性が組織(官庁、企業..)で高い地位に就くことが少ないことが、「男性が女性を支配している」ことの恰好の証拠として、日本のフェミニズムでは、取り上げられている。

なぜ、女性が高い地位に就かないかについては、(1)生物学的側面と、(2)農耕社会特有の「女性が男性を持ち上げる」側面の2つから考えることができる。

(1)高い地位への就任を、組織において、役職に就くことと捉えるならば、高い地位に就くことは、失敗したときの責任を取らされる度合いがそれだけ重くなることを意味する。これは、成功している時はよいが、失敗時には、真先に批判の矢面に立たされることになる。責任を取るには、社会的な制裁(懲戒処分、刑罰、悪い風評..)を受け入れなければならないが、その際、自らの生活が脅かされる危険が大きくなる。これは、生物学的に貴重な、それゆえ、自らの保身に敏感な女性には、耐えがたい事態である、と考えられる。女性が大事にする、生活上の「安全性」が保たれないのである。男性は、その点、自らの保身に、女性ほど敏感ではないため、役職について、失敗した結果、責任を取ることにも平気である、と考えられる。

あるいは、女性は、男性に比べて、人間関係の維持を重要課題とするが、地位相応の業務に失敗して、周囲の、自分が依存している皆から、後ろ指を指される(疎外される)状態が、耐えられない。それゆえ、高い地位を、そういう事態も受け入れる男性により任せるようになる、とも考えられる。

自ら直接は高い地位には就かず、男性に就かせて、その男性を、(自分を母親代わりにさせるなどして)自分に心理的に依存させることで、社会全体を間接的に支配するのが、伝統的な、女性による男性支配、社会支配のやり方である、と考えられる。これならば、社会を支配しつつ、なおかつ責任を取る事態からは免れることができる。

(2)女性の地位の低さは、「男尊女卑」がもたらしている現象でもある。日本のような農耕社会では、社会が女性のペースで動いており(社会が女性向けにできており)、男性の地位は女性に比べて低い。これをそのまま放置すると、男性は、「自尊心」をなくし、やる気をなくす(仕事をしない)。

そこで、農耕社会では、男性を、組織において、肩書のある「高い」地位に優先的に就かせて、「自尊心」を満足させ、仕事に打ち込むようにしむけることが必要になる。女性が就く地位は、男性の補助となり、低めになる(男性を立てる)。これは、男性の地位が実は低いことを自覚させないことで、男性の力を引き出すために必要である。働けば、自分の地位が高くなると男性に思わせることが、社会の発展の原動力となる。この場合、高い地位は、あくまで、見かけだけのものである(本当に社会をコントロールしているのは、女性である)が、そのことを隠して、男性を「エライ」とほめそやすことにより、男性は、女性が支配する社会の中で、「自尊心」を何とか保持できる。

5.女性を高い地位につかせるには?

女性が自ら社会的に高い地位につくことを積極的に追求するようにするには、失敗時に取らなくてはいけない責任を小さくすることが求められる。失敗時に、その責任を上下左右の地位へと分散させること、責任を周囲との連帯責任とすることで、本人の取らなくてはいけない責任を軽くすることが必要である。

例えば、女性が責任者のプロジェクトチームで作業を進めている場合、作業が失敗したら、従来のように上司(の女性)一人が責任を取る(上司に責任が集中する)のではなく、チーム員全体で責任を取るようにする、責任をチーム員各員に分散させる、といった仕組みを作る必要がある。そうすることで、上司の女性の取らなくてはいけない責任が軽くなり、責任を取ることへの心理的圧力が少なくなるため、女性は、より上司の立場に気軽に立つことができるようになり、高い地位につきたがるようになると考えられる。

また、日本のような農耕社会では、女性が、「男尊女卑」でわざわざ男性を心理的に持ち上げて仕事をさせることをやめ、自分で職場進出を果たすことで、今よりも男性が頼りなくなり、自分に対してより依存的になってしまうことを受容しつつ、自力で、職場での仕事と育児などを両立させていく方向に進むことが考えられる。その際は、女性が、部下の男性に対して、母親のように接することで、日本男性の持つ母親的な存在への依頼心を満足させ、男性はスムーズに上司の座を女性に譲ると考えられる。

なお、従来、日本男性が女性に対して生活面で依存的で、食事、洗濯などいろいろ世話を求めることが、職場で働き、高い地位を追求しようとする女性の負担を一方的に増している点は見逃せない。対策としては、例えば、男性に対して、従来のような「妻」「嫁」ではなく、「母親」の態度を取ることで、男性をスムーズに自分に従わせることが考えられる。つまり男性を自分の配下にある「子供」のように扱って、男性自身がそうした自分の世話を自分でやらせる方向へと、男性の母親のような態度を取って絶えず「しつける」「命令する」のである。あるいは、男性が必要とする世話を、家庭外にアウトソーシングすることが考えられる。食事は、コンビニエンスストアの弁当をあてがうといった対処をするのである。その際は、男性の健康をきちんと気をつけていることを男性に対して示すために、例えば、事前に、コンビニ弁当に栄養士の監修が付いていることが当たり前となるような運動をコンビニエンスストアや外食産業などに対して起こすべきであろう。

日本女性の経済的自立について

日本において、女性の経済的自立が達成されていないと言われてきた。収入を得るのが専ら男性で、女性は収入を自ら得る機会が閉ざされており、その点女性は差別されている、とされてきた。。

しかし、実際には、必ずしも収入を得ることが、経済的自立につながらないと言えるのではないか?いくら、収入を得る力があっても、その最終的な使い道を自分で決められず、管理者を他において、使い道の決定をその管理者にゆだねているのであれば、彼は、管理者に経済的に従属しており、自立していない、と考えられないであろうか?

日本の女性は、自分は収入を得なくても、収入供給源となる男性の動作をコントロールする主体として現れることにより、家庭における経済活動の主体であることで、自立を果たしているのではないか?

日本の女性は、収入供給者たる男性に対するコントロールを、隅々まで行き届かせている、と考えられる。日本の女性は、収入供給者のメンテナンス(世話)~収入供給者への指示(よく働いてきなさいと命令)を行う管理者(収入管理者、家庭内管理職)としての役割を果たしている。男性は自分が稼いできた収入を管理する権限を持ち合わせていない。給料袋の中身は手を付けずに女性のもとに直行する。そういう意味では、家庭における経済行為の主体は、決定権を持つ女性であり、その主体たる女性こそが、経済的に自立しているといえる。

女性(妻)から小遣いを配給される(家計上の最終決定権を持たない)男性(夫)は、経済的には女性の従属者(女性の配分決定に従うだけ)であり、自立しているとは言えない。

以上の女性と男性との関係は、大工道具(男性に当たる)と棟梁(女性に当たる)との関係と同じである。経済的主体は、管理者たる棟梁であり、大工道具はその従属物(自らは経済的に主体性を持てない)に過ぎない。これを男女の関係に当てはめて考えると、経済的主体は、管理者である女性であり、男性はその従属物(主体性がない)ということになる。ただし、大工道具がないと棟梁は生活の手段を奪われるため、生活できなくなる恐れがあり、その意味で、道具に頼りきることはリスキーである。それと同様に、収入を生み出す打出の小槌である男性がいなくなると、女性は、収入をもたらしてくれる生活の手段がなくなるため、管理者としての手腕がいくらあったとしても、そのままでは自活できなくなる。

収入供給者たる男性が都合で(死別、離婚など)いなくなったときに自活できるようにすることを求めるのが、日本における女性のいわゆる「経済的自立」への動機である。

こうした、女性の「経済的自立」は、あくまで、収入保険としての意味合いが強い。たいていの場合は、男性は定年までは生きつづけるので、収入は確保されることがほとんどであり、女性の収入管理者としての地位は安泰である。家庭に収入を入れる者がいる限り、女性は、収入の使い道を最終的に決定する家計管理者としての地位を確保できるので、自ら収入を得ることの必要ないしプレッシャーは弱い。収入供給者側の世界への進出は進みにくい。これが、日本で女性のいわゆる社会進出が遅れる一つの理由であると考えられる。

収入供給者(男性)のたまり場たる官庁・企業における生存環境が厳しいのは、家庭における管理者(女性)による収奪(給与を男性から取り上げて自分の配下に置くとともに、よりよい収入高を求めてのプレッシャーを男性に対してかけつづける)が激しいから、と考えられる。男性は、稼いでこないと、もっと稼いでこいという批判やプレッシャーを女性から受ける。男性は、生活面で女性に全面的に依存している(一人で生活して行けない、自分自身の生活の面倒を見ることができない、生殺与奪を握られている)ので、働くのがいやと断れない。男性は、その結果、全力投球で働かざるを得ない。そのことが、男性の家庭内での不在をもたらし、家庭内の居場所がなくなり、存在感がますます薄くなるという悪循環に陥る。

女性が、男性に比べて、パートタイマーのような補助的な仕事にしかつかない(つけない)というのも、家庭における、収入・支出額のコントロールを含めた、総合的な「管理職」の仕事が女性の本分であり、最も重要な主たる任務であり、それをおろそかにしてもらっては困る、という社会の要請があったからである、と考えられる。家庭が、社会全体の「(航空)母艦」としての役割を果たしている(いた)ことと関係がある。

現代日本の女性が、自ら収入を得る立場につこうとするのは、

(1)男性と一緒でなく、一人で生活する自由を確保したい(ないし、一人で生活することになっても困らないようにしたい)、という傾向による。従来の、収入管理者としての職務を遂行するには、生活面で、男性との二人三脚が必須(男性と一緒に生活することが必須)であったのを、忌避する。すなわち、男性がいなくても、収入面で困ることがないようにしたい、と考えるためである。なぜ、そのような考えが生まれるのであろうか?

日本の男性は、(農耕社会においては、弱者の立場にあるため)女性に対して生活面で依存的であり、食事、入浴など生活上のさまざまな面で、いろいろ女性に世話をしてもらうことを要求するのを当然とする気風があるため、それが(生活面で自立を果たしている)女性には、うっとうしく、煩わしく感じられる。そこで、男性と一緒でなくて、一人でいる場合でも、十分な収入を得られるようになる状況を予め確保することで、心理的に男性から自由になること、を望む。これは、社会における待遇面での男女平等、すなわち社会的負担の大きさにおける男女格差(女性の方が、社会的に強い分、負担も大きい)をなくそう、という考えにもつながっている。

(2)「家庭内管理職」の職務が、電化製品やコンピュータの普及、ないし子育ての保育園~学校への委託、すなわち、家事・育児の「アウトソーシング」化、により簡易化され、時間的な余裕が生まれたので、その分を、自らの生きがいとなることをしたり、探したりすることに充当したい、という考えによる。収入を得る仕事自体が、自分自身にとって、生きがいを生み出す、積極的な意味合いを持つものとして感じられるから、仕事をしたい(その結果として、収入を得たい)と考える。

今後、女性の、自ら収入を得たいという傾向は、一層強まると考えられるので、その点、今まで主婦が担ってきた、社会の「母艦」的役割(食事、洗濯、育児..など家族の面倒を見る機能の負担)を、公共的な役割を担う機関に「アウトソーシング」(外部委託)することが普通になるようにする体制を整えることが、より必要となる。

囲う男、閉じ込められる女

-女性の自立、社会進出が進まない本当の理由-



男性は、女性を、自分の世界よりも内側に閉じ込めておきたがるものである。


男性は、女性が自分のところから出て行ってしまおうとするのを阻もうとする。要するに、女性の男性からの自立を阻もうとする。



この事実は、生物学的貴重性の性差の面から説明できる。



生物学的貴重性と性差についてのページへのリンクです。



男性は、危険に直面する、自分の居場所の内側に女性を守る「ソトの性」である。男性は、粗末に扱われ、大切にされない点、女性よりも、社会的に不利な扱いを受けている。



女性は、外側を、男性に守られる形で、危険に直面しないで済む「ウチの性」である。女性は、大切に扱われる。



従来の学説では、例えば、「サムソン-デリラ コンプレックス」(E.Margolies,L.VGenevie,1986)による説明のように、男性は、女性よりも強くありたい、女性を支配したいから、女性の自立を阻むのだとされてきた。



しかし、実際のところは、男性が、女性の自立を阻むのは、男性が自ら守る対象がいなくなるのを恐れるから、というのが、本当のところではないだろうか。



要するに、男性は、女性に、自分の設定した枠の外に出られると、女性を自分の内側で守る、庇護するという自分の存在意義がなくなってしまうから、女性が自分の枠の外に出る形で自立するのを拒むのではないかと考えられる。






男性が、女性を自らの設定枠内に閉じ込めようとすることで、女性は、男性に守られて安心して暮らせるという安心感と共に、それと矛盾する、男性に閉じ込められているという閉塞感を感じる。言い換えると、女性は、「籠の中の鳥」みたいな気分になって、男性の押しつける、安全だが、閉じた世界から解放されたい、といつか考え始めるようになる。



そうすることで、女性は、男性よりも、外の世界に出たくなる。



女性による、いわゆる「社会進出したい」「自立したい」という主張の本音は、女性が男性により閉じ込められた世界から解放されたいというところにあり、これこそが、実は、「(男性からの)女性解放」運動の真実というか、中心的な主張なのではないかと考えられる。



従来、「女性解放」運動は、「女権拡張(フェミニズム)」運動とほとんど等価と見なされてきたが、実は、両者は、別物であると考えられる。というのは、日本のように、母親が強い、社会が女性の色に染まった母権(女権)社会においても、「女はウチ、男はソト」の図式が未だに強固に成立しており、その点、「女性の男性からの解放」は進んでいない。



「男性が女性より強くありたいから、女性を恐れて閉じ込めたがるのだ」という従来の(「サムソン-デリラ
コンプレックス」のような)主張は、女性より男性が強い欧米社会固有の、家父長制社会にのみ当てはまるものである。あるいは、欧米におけるフェミニズムでは、女権拡張(弱い女性の権利拡張)と、女性解放(女性の男性からの解放)が一緒くたになって主張されていると言える。



日本においては、女権拡張運動は、「女性は弱くない」ので、成立しないが、「男性によって「ウチ」に閉じ込められるのはイヤ」という、(男性からの)女性解放運動は、十分成立する。




「(男性からの)女性解放」運動は、男性が、生物学的により貴重な女性を守るという、「男=ソト、女=ウチ」という図式が全世界的に成立する以上、世界中に普遍的に起こりうるものである。






「女は家庭(ウチ)、男は仕事(ソト)」という、性別役割分業を肯定し、それにこだわる男性は、女性に対して快適な環境を、自分一人で一通り提供して、女性を感心させたいという自負が強く、それが十分可能であると考え、自分の能力に自信があり、それを自慢したいと考えている。また、女性を自分の枠の中にずっと置いておき、外に出したくない思いが人一倍強いと言える。



こうした男性は、女性によい暮らしをしてもらいたいと思う点、とても女性想いなのであるが、一方では、女性の生活の自由(外に出ようとする自由)を縛って、自分の手の届く範囲に行動を制限しようとする点、女性にとっては、閉塞感を強める原因となる。






男性が、給与稼ぎにこだわるのは、女性に快適・安全な生活空間を提供するに足る、十分な経済力や給与を稼ぎだす能力を持っていることを、女性に認めてもらい、自分が「頼りがいのある男」であることを確認したいからである。




女性に収入の道を与え、経済的に自立させると、女性は、男性の設定枠の外に出て行ってしまう。これが、男性が、女性の経済的自立を望まない本当の理由の一つである。



男性は、女性に贈り物をして、経済力があることを見せて、女性の関心を引こうとする。一方、女性は、そうした男性の品定め、評価をして、一緒に暮らすだけの価値がある男性かどうかを決定する。その点、「男性=貢ぐ性、女性=もらう性」であり、女性の方が、上位にあると考えられる。



そのように、女性が男性の経済力を当てにすることは、実は、男性にとっては、女性が自分の内側に止まってくれることを意味して、都合がよいのである。



女性が男性に閉じ込められるということは、女性がウェットで、男性がドライであることとも関係する。



性格・態度のドライ・ウェットさについての説明ページへのリンクです。



なぜ、女性がウェットで、男性がドライかということについての、生物学的貴重性との関連による説明は、以下の通りである。



ドライな男性は、「守る性」であり、自らの分布領域の内側に、自ら体を張って、安全で快適な領域を形成し、そこに女性を閉じ込める形で住まわせる。自らは、危険領域との境界に広く分散して、危険な外敵の侵入を阻止すると共に、絶えず、安全・快適領域を広げようとして、どんな危険が待ち構えているかも知れない領域への探検を繰り返す。



男性がドライなのは、広域に拡散して分布して、内側の女性が住む領域へ外敵が侵入するのを防ぐとともに、自分たちの適応領域を絶えず広げようとして、未知領域へ進出を図ろうとするからである。



一方、ウェットな女性は、「(男性によって)守られる性」であり、一定範囲の狭い閉じた安全・快適領域に寄り集まって、互いに一体化・密着して過ごす。女性が心理的に、互いの同調、一体感を、男性よりも偏重する、ウェットな心理を持つ原因は、この辺にあると考えられる。



この点、ドライな男性が、外側に、ウェットな女性が、内側に分布する。

あるいは、男性は、外側に分布する必要があるからこそドライであり、一方、女性は、男性よりも内側に分布する必要があるからこそウェットであるとも言える。




男性が、女性を、自分より内側の狭い領域に閉じ込め、束縛して、外出する自由を与えないのは、男性が、女性を守っているという実感が欲しいからである。男性は、女性を護衛する(エスコートする)役をきちんと果たしていると思いたがっている。その点、男性には、「(女性を)護衛(する)本能」が備わっていると言え、それは、女性に備わっている「自己保身本能」と対になって成立する。



男性が、女性を、自分の内側に閉じ込めるのは、女性に安全で、快適な環境を提供しようとする意図に基づくものである。女性に安全、快適な環境を提供しないと、女性にそっぽを向かれたり、振られたり、逃げられてしまうのである。その点、女性を単に強制的に閉じ込めているというよりは、「この中にどうか入っていて下さい」という懇願とも取ることができる。



しかし、それは、女性にとって、強い閉塞感を感じさせるもととなり、「(男性からの)女性解放」を女性が求めるきっかけを作る。



生物学的貴重性という点では、本来、より貴重な女性の方が、より上位で、その点、男性よりも支配的な立場に立っているのである。しかし、男性に閉じ込められている点、女性は、囚われの身であり、言わば、宝石箱に閉じ込められたダイヤモンドのような「囚われの貴人」なのである。



女性の「社会進出」は、女性が、男性の元を抜け出して、自由に行動できるようにすることで、その点、男性から「自立」する、男性の設定枠を超えることを意味している。これは、自らの内側に女性を囲っておくことで、自分の護衛欲求を満足させようとしている男性にとっては脅威である。



また、女性が閉じ込められている空間は、(男性が分布するところの、危険が一杯な空間に比べて)より安全、快適であり、その安全性、快適性は、男性の犠牲の上に初めて成立しているのである。そういう意味で、「自由」と「安全」は本来、両立しないのである。



つまり、自由さを求めるには、自分自身による、危険領域への露出、危険な外敵との直接対峙を覚悟しなければならず、一方、安全なままでいるためには、(男性に)閉じ込められた状態を容認したままでいる他ない。安全性、快適性が欲しければ、ある程度、男性の決めた制約を受け入れなければならないことになる。






男性は、女性に対して、経済的余裕やバックアップを貢ぐ、もたらす性であり、「貢ぐ、養う性」である。



一方、女性は、男性に「貢がれる、養われる性」であり、自分では稼がずに、経済力のある男性を選ぼうとする。



経済的な豊かさこそが、男性にとって、安全、快適空間を提供維持するためのバックボーンとなり、安全、快適空間を提供する能力レベルを測定する指標となる。



そこから、女性に経済的な豊かさを与えることが、男性自身のステータスだという考えが生じる。






女性の男性に対する存在意義というのは、基本的に、女性が自分の内側にただいてくれるだけでOKというものであり、存在そのものに価値がある。男性にとっては、女性が自分の内側にいないと、そこがもぬけの殻になってしまい、寂しいだけでなく、本来守るべき対象が欠如している点、自らの存在意義が危うくなる。



あるいは、女性は、男性にとって、心の安らぎ、オアシスである。外敵に対応しなくてはいけない男性の気疲れ、緊張を癒してくれる存在である。女性は、看護のように、傷ついた男性を治療し、心理的に支えとなる。あるいは、炊事、栄養士のように、あるいは、職場で「お茶を出す」行動に代表されるように、男性の水分、栄養分の補給を行う。こういった女性の役回りは、前線の外敵に立ち向かう戦闘機役の男性を後方で支援し、バックアップし、補給を行う、空母の役回りである。



一方、男性の女性に対する存在意義というのは、前線に戦闘機として、外敵に立ち向かうことで、女性を守り、女性に安全で、快適な生活条件を提供するというものである。快適、安全に暮らすには、経済的な豊かさが欠かせない。女性は、男性によるこうした快適、安全空間の提供を当然のものと思い込んで、男性に寄り掛かってきた。これが、女性がいつまでも自立できない真の原因である。



「囲う男」の正体は、「守らされる男」とも言える。要するに、男性は、女性に快適で安全な生活を提供できる能力がないと、「ダメな男」と言われて、すぐ振られてしまったり、相手にしてもらえない。



男性が、必死になって女性を守っても、あるいは、女性に快適、安全な暮らしを提供しても、当然視されるだけである。自ら進んで、問題に立ち向かい、困難な事態を切り開かなければならなかったり、危ない目に会ったり、命の危険にさらされるのは、いつも男性側であり、そういう点では、男性に損な役回りが回ってくると言える。しかも、こうしたことに対処できないと、女性から「いくじなし」とか言われて非難されてしまうのである。



女性にとっては、男性は上記のことは「できて当然」と思われる。その点、男性は、女性の提示するハードルを唯々諾々として乗り越えなければならない下僕のような側面を持つ。あるいは、男性は、女性に自らの女性を大切にするという姿勢を伝えるために贈り物をしなければならないが、これも、日本の若い男性によく見られる、女性に一方的に貢がされる「貢ぐ君」、女性の手足としてこき使われる「アッシー君」になってしまうことにつながる。






男性は、女性を自分の所有物のように、しばしば扱う。「オレの女に手を出すな」とかいう表現がそれである。女性とモノとは、男性にとって、自分の設定した枠内に入れて守る対象という点で共通している。





日本では、結婚や出産を機に、女性が会社を辞めて家庭に入るのが望ましいとされてきた。



家庭的というのは、男性の枠内で、すなわち、男性が提供する、経済的なバックアップを含めた、快適、安全な生活の枠内で、生活するのに満足するタイプということになる。



女性がお茶汲みで昇進しないまま退職するというのも、ある面、男性による護衛、設定の枠内で生活するのに満足して、その枠をはみ出ないようにしますよ、という意思表示と言える。



男性は、女性に、自分の領域の内側にいてもらいたがる。それは、女性を守っているという実感が欲しいからでもあるし、あるいは、前線に赴く戦闘機としての自分を後ろから支えてくれる空母、母艦の役回りをしてもらって、心理的に依存したいからでもある。



女性側が、経済的自立を得にくいのも、何も言わなくても女性に安全、快適空間を提供してくれる男性についつい頼ってしまう、当てにしてしまうからだと言える。



女性は、快適、安全な生活を男性に提供されて、それに満足し、男性に乗っかった形で生活をする。従来、専業主婦と言われてきた生活がこれに当てはまる。女性は、男性から経済的な支えを得られるので、自分からは稼ぐ必要がないし、稼ごうと思いにくい。これが、女性による職場進出が遅れる真の理由である。



こうした、女性による、自分からは男性の設定枠の外に出ようとしない生活は、一見、男性に支配されているように見える。これが、女性は男性の枠の外に出て自由に活動すべきだとする女性解放運動の論拠となっていると考えられる。






男性が、自分より優れた学歴や能力を持つ女性と結婚しようとせず、劣った女性と一緒になろうと、劣った女性のみを受け入れようとするのは、なぜであろうか?その理由は、自分より学歴や能力が優れた女性は、その活動領域が、男性自身による設定枠内に収まり切らない。すると男性は、その女性を、自分では守りきれないとして拒絶したくなる。あるいは、女性が、自分の守る能力を超えた存在として、自分の護衛能力に対する自信を傷つける存在として、一緒になるのを恐れる。(注)



(注)あるいは、日本のような母性支配社会においては、次世代の母子連合体を担う女性が、自分たちよりも優れていると、彼女とその子は、前世代の母子連合体(男性とその母親)による支配を脅かす存在となり、反抗されると太刀打ちできなくなる。そのため、自分より優位の立場から結婚相手の女性が来るのをいやがる傾向がある。






これまでの職場での女性の役割というのは、「職場内家庭的」「職場内のウチ」とでも言うか、「後方支援的」とでも言うか、秘書、お茶汲み、看護といった、仕事の前線に飛び出して行って、傷ついて戻ってくる男性たちをケアする役回りがメインであった。この点、職場においても、女性たちは、外部に赴く男性たちの内側、枠内で生活している「閉じ込められた存在」と言える。





女性による男性の設定枠を超えた活躍というのは、ある意味、生物学的に守られるべき女性が、男性による護衛の前線を超えて、危険領域に直接露出してしまうことを意味する。そういう点で、女性の男性の領域を超えた活躍、社会進出というのは、保護されるべき女性が危険な外敵に直接身を晒して死んでしまい、数を大きく減らす可能性を増大させるため、種の保存に直接深刻な影響を与える可能性を持っている。



その点、女性が「社会進出」して、能力を発揮したいという欲求と、男性の女性を守りたい、自分の枠内に女性を抑えたいという欲求という、相反する欲求を同時に満足させる解を見いだすことが必要である。






女性の指向しがちな環境というのは、安全、安心で、甘い、温かく穏やかで、快適で気持ちいい、といった生存に有利なものであり、これらは、男性の犠牲、労苦の上に成り立っていることが多い。



一方、男性の指向しがちな環境というのは、寒かったり、冷たかったり、ストレスのたまる、ハードで不快な、疲れる、辛い、外敵が襲ってくるといった生存に不利な環境であり、これらは、自ら本能的に進んで向かっているという以外に、快適な環境下にい続けたい女性たちから無理やり押しつけられている面がある。護衛や防衛といった、守りの役目、挑戦、戦闘、撃破といった攻めの役目が、男性の指向しがちな役目であり、そこでは、アドレナリン全開状態が出現する。





女性たちは、男性によって提供される心地よい生活が、男性の多大な労苦の上に成り立っていることを忘れ、「閉じ込められている」という閉塞感、被害者意識、満たされぬ感覚を、一方的にむやみに膨らませている。



要するに、女性たちは、男性による安全、快適な「温室生活」の提供を当然のものと思い込み、それに甘え寄り掛かっているのである。そして、「温室生活」や貢ぎ物、贈り物としての給与や、経済力の裏付けとなる貴金属の提供がないと、怒り出し、男性を見捨ててしまう。それでいて、一方では、その「温室生活」が持つ、閉ざされた側面に敏感に反応し、男性に対する不平不満を募らせるのである。



女性たちによる、こうした快適生活享受と、それに満足しない一方的な被害者意識の拡大は、女性のために、せっかく快適な生活空間を作り出そうと汗水たらして努力している男性の立場や気持ちを考えない、尊大で、傲慢不遜な行動と、男性側には映る。これが、「女性解放運動」に男性が批判的になる理由である。



ほとんどの男性は、捨て駒として、数少ない上位者に頭をぺこぺこ下げて自尊心を傷つけられつつ、その中で必死に働き、稼いでいるみじめな存在である。一見支配者に見え、うわべはいい思いをしているかのように見える上位者の男性も、実際は、周囲は仮想敵ばかりで、心休まる暇がない孤独な存在であることが多い。こうした男性の労苦に思いを致す女性が少ないのではあるまいか。






「閉じ込められた」女性の社会進出を促す解決策としては、どうすればよいか?すなわち、女性が、自力で稼いで働くことで、専業主婦以外の自己実現を果たしながら、自力で快適に暮らすにはどうしたらよいいか?



一つは、生態学的な分布領域における男性のパイを食うという戦略が考えられる。今まで、自分たちの外側といっても、比較的内周寄りで相対的に安全なところにいた男性を追い出して、代わりにその領域に進出するというものである。つまり、相対的に快適で、労力のあまり要らない、例えば、腕力不要の建機操縦などの業務に、男性の代わりに入り込むということである。



そうすることで、女性たちは、自ら活動可能な分布領域を広げることができ、より広範囲な活躍をすること=「社会進出」が可能となる。なおかつ、自分たちの外側、外周部は、男性に守らせることで、自分は安全を今までどおり享受できる。その分、男性は、より苛酷な前線活動に追いやられることになる。






男性が女性を囲い閉じ込めるというのは、社会全体としてそうなっているということもあるし、個々の男女のペアでもそうなっているということでもある。



個々の夫婦でも、夫は、妻のいる領域の外側、表側にいて、妻を外側から囲うことで、家の中=巣の中=奥に閉じ込めることになる。





男の領域(外側の危険領域)に女が入り、女の領域(内側の快適領域)に男が入ることで、男女が相互の領域を完全対等に分け合うのが、いわゆるジェンダーフリーである。しかし、これは、男が守り、女が守られるという、精子・卵子システムに基づく遺伝的性差、生得的傾向に反逆している。



そこで、この場合、女性(男性)がどの程度訓練によって、身体的に、あるいは心理的に、男性(女性)の性質を持つことができるか、実験によって確認する必要がある。不可能であることが分かった場合には、遺伝子操作による、遺伝的性差の解消を狙った人体改造が必要となる。



遺伝的性差をなくすには、卵子、精子を体外保存、複製するなり、クローン胚を作るとともに、体外子宮、体外授乳生体器官、ないし人工装置を開発することで、女性の生物学的貴重性をなくし、男性が女性を守る必要をなくすしかない。



そういう点で、完全なジェンダーフリーは、遺伝的、生物学的性差をなくさないと実現しない。



そもそも、女性のヌードやボディラインを見るだけで、男性が性的に興奮したり、男性の筋肉に女性が興奮したりするのは、心理的性差の根源が、遺伝的に決まっている証拠のように見える。こうした心理的性差が、後天的な学習によって覆せるものかどうか、一度きちんと実験して白黒をはっきりさせるべきである。覆せないと、性を超越した人間を作ろうとするジェンダーフリー社会の実現は難しい。



あるいは、女性を見ても興奮しない男性を作るなどして、人間の心から性的な要素を完全に追い出す必要がある。そうしないと、性差に拘束されないジェンダーフリー社会の実現は難しいだろう。






要するに、女性にとっての社会進出を試みる時にぶち当たる壁は、男性によって囲われることによってできる壁であり、それは、根源的には、卵子(女性)・精子(男性)の役割の違い(生物学的貴重性の違い)に基づく壁なのである。



この壁を根本的に壊すには、あるいはなくすには、従来の卵子・精子システムに代わる生殖システムを作成する必要がある。これは、結構大変なことである。そこで、壁や囲いそのものをなくすよりも、囲いを広げることを目指す方がより簡単で効果が大きいのではないかと考えられる。



すなわち、男性の女性を囲う想定枠のサイズを広げることで、女性の活躍可能な領域を広げることができ、女性の男性からの解放を実現できる。



要するに、男性に対して、メンタルなトレーニングや治療を施し、男性が、女性による、従来の男性自身の想定を超えた活躍を許容できるように、人格改造を行うのである。例えば、女性が自分を超える給与をもらうようになった事態を想定して、それを徐々に受け入れていく訓練を行うのである。そうすることで、女性が、ある程度、男性を超えた活動をしても男性から拒絶される度合いが減ると考えられる。



あるいは、女性が、男性に守られた、快適空間を提供された、専業主婦並みのヌクヌクとしたコアを、男性の枠内に残しつつ、男性の作った枠の一部を破って外部進出することが考えられる。



しかし、それでも、完全に囲いをなくするのは、そのままでは無理である。男性による女性の囲いをなくすには、男が女を守るという状況を生み出す、卵子・精子図式を崩す必要がある。それには、卵子・精子によらない生殖を行うように人体を改造するといった、生殖革命が必要となる。








「甘え」とは、相手への一体感を伴った寄り掛かりであり、相手に許される、受容されることを見越して、一方的に負担をかけることである。例えば、女性が、より環境条件の良いところに、男性を外に追い出してでも、い続けようとすることがこれに当てはまる。




男性が女性を囲い、外出させないもう一つの理由は、自分が手に入れた好きな女性を、他の男性に取られたくないとして、女性が浮気しないようにするというのがある。要するに、女性が外に出ないようにして、他の男性に接触する機会をなるべく減らしたいというものである。



これは、男性が、他の男性経験がない処女を好むのと理由が同じである。要するに、「自分専用の女性になってくれる」からである。



男性は、自分の好きな女性に、他の男性の子供を生んでほしくないのである。他の男性の子供を育てるはめになる危険を減らしたいのである。



この場合、男性による女性への囲いは、全ての人が誰の子供かを一発で判定できるようになることで軽減されると考えられる。



遺伝子診断により、子供が胎児の段階で、誰の子供かすぐ分かるようにして、相手男性に子供の養育費を負担させることを義務づけることが必要である。



今までは、女性が産む子供が誰の子供か、妊娠した時に分からなかったが、これが、男性が女性を囲う一つの原因となっている。男性としては、自分の血を引かない子供を育てる脅威を避けたいと考え、それが、女性を他の男性とくっつかないように囲う、独占するきっかけとなっている。



今後、こうした男性による囲いをなくそうと思うならば、イスラエルのキブツではないが、全ての親が、子供を産んだら、子供を専用の養育施設にすぐに預けることで、子供の存在をある程度親から切り離すことにより、子供は夫婦で育てるものという固定観念をなくす必要がある。



要するに、子供を作る上での、男女の組み合わせが、その時々でランダムに入れ替わることを許容し、夫婦の長期間の排他的結合をなくすことが、男性による女性の囲いをなくすことにつながる。



すなわち、A子さんにとって、一番目の子供はP夫さんとの間に生まれ、二番目の子供はQ夫さんとの間に生まれ、三番目の子供は、S夫さんとの間に生まれる、といったようにするのである。

あるいは、L夫さんにとって、一番目の子供はV子さんとの間に生まれ、二番目の子供はW子さんとの間に生まれ、三番目の子供は、X子さんとの間に生まれる、といったようにするのである。



その際は、全ての子供は、各々が世界に母親と父親の組み合わせが1人しかいない独自の存在として扱われ、保育士や看護師たち育児の専門家によって、その子の潜在的な才能を遺伝子解析した上で、その子に合った最適の教育を施すことにすればよい。親と子供は自由に面会できるが、同居はせず、基本的に別々の場所で過ごす。






従来は、男性が強く、女性が弱いと見なされてきた。なので、弱い女性の自立は難しいとされてきたのである。



つまり、護衛する役の者は、守られる役の者よりも、力が強くないといけない、という考えである。



これがもし本当に正しいなら、世界の政権は、軍事政権ばかりのはずである。また、首相のようなトップは、みな筋骨隆々のマッチョばかりのはずである。


しかし、実際にはそうなっていない。日本を含む世界の主要な国家は、現在、文民統治であるし、あるいは、例えば、日本の小泉首相がマッチョであるという話は聞かない。



なので、筋力の弱さとかは、女性の自立を阻む条件には必ずしもなっていないと言える。それを持ち出すのは、女性に自立して欲しくない男性か、従来通り、男性の与える枠内でヌクヌクと快適な生活をしたい女性である。




日本においては、女性は、自分から、自立や社会進出が進まない現状を変革するために、積極的に動こうとしないのが現状である。要するに、退嬰的というか、自らは手を下さずに、動かずに、他の人(男性)に動いてもらおうとするのである。要するに、不満をためて、文句を言って、結婚時期の延期や子供を産まないといった形でネガティブな抵抗をするだけで、改善策とかは自分からはあまり出さず、自分は手を汚さないのである。



例えば、育児退職後の正社員再雇用が進まない、保育園の子供収容人数が増えないと言って、女性同士が連帯して、家事ストライキをしたり、夫への小遣いを0円にしたりといった実力行使をした事例を聞いたことがない。自分からは動かず、男性による対応待ちをしている姿勢がありありと感じられる。



これの男性待ちの受動的な姿勢を何とか解消しない限り、日本において、女性の社会進出も、自立も当分果たされないのではないだろうか。





参考文献



E.Margolies,L.VGenevie, The Samson And Delilah Complex,Dodd,Mead &
Company, Inc.,1986(近藤裕訳 サムソン=デリラ・コンプレックス -夫婦関係の心理学-,社会思想社,1987)



日本女性の「社会」的地位


日本の女性は、より安全な「内」=「家庭」にとどまるのを好み、「外」=「社会」に進出しようとしなかったため、「外」なる「社会」における地位が低かった。地位が低いと弱く見える。「内」での地位は、外部観察者からは見えにくいため、たとえ本当は高くても、過小評価されやすい。
 



注)「社会」という言葉の使い方に、注意を払っておく必要がある。「社会」の語義は、 

1)農耕「社会」という場合のように、広く全体社会を指す場合(広義) 

2)「社会」進出という場合のように、企業・官庁などの職場、いわゆる(家庭の)「外」の世界を指す場合(狭義) 

とに分かれている、と考えられる。2)の場合、「家庭」は「社会」とは言えない(含まれない)ことになる。( 1)では、家族「社会学」といった言い方が存在することから、「家庭」といった「内」なる世界も、「社会」に含まれる)。 

「社会的地位」という場合の、「社会」は、2)の「外」の世界を指していると考えられる。 
 

女性の「社会」(あくまで狭義)的地位は低い。あるいは、女性は、自ら高い地位につこうとしない。

その原因は、

1)男性に、自分を弱く見せて、守ってもらおうとする。地位の低い者が、弱く見えることを、逆に利用している。

2)「(狭義の)社会」的地位は、従来、職場=「外」の世界のものである。家庭という「内」なる世界から出かけて(離れて)、外敵や危険に対して直接我が身を露出させながら、働く場=職場が、「(狭義の)社会」=「外」であった。職場は、危険な外回りをしなければならなかったり、寝床がなかったりして、究極的には、安全な「内」なる家庭に帰ることが前提となる。たとえ働く場が(しっかりした建物の中などで)安全だったとしても、そこにたどり着くまでに、危険な目に会う可能性が、少なくとも過去には、大いにあった。要するに、「外」は危険であり、「内」は安全である。

なぜ女性が「内」の世界を指向するかと言えば、生物学的に貴重であるため、外敵からより効果的に身を守る必要があり、安全な「内」なる世界は、(「外」の世界に比べて)その要求を満足させやすいからである。女性の「社会」進出(社会的に高い地位につくこと)が遅れたのは、「社会」が「外」なる世界だったからである。女性の「社会」進出が起きるようになったのは、1)「外」なる世界が、交通・通信の便や治安がよくなって、「内」並に安全になってきたので、外出しやすくなったから、2)「内」なる世界(家庭)での作業(家事)が省力化され、時間的余裕が生まれたため、である。
 

3)高い「(狭義の)社会」的地位につくことに伴って生じる責任や、失敗時の制裁・刑罰の増加などを回避しようとする。高い社会的地位につくことで増すところの、危険な目に会いたくない。自己の保身のため、男性に責任を押しつける。

4)人間に対する指向が強く、周囲の意向を気にする(性格がウェットである)ため、失敗して、恥をかいたり、嘲笑されるのを恐れる。高い地位につくほど、失敗時にそうした機会が増えるため。

5)(ウェットな社会のみ)男性を優先して高い地位につけようとする(男尊女卑)。(農耕社会への適応の過程で、女性によってドライな性格部分を殺された結果、無能になって、社会的重要性の低い)男性に、見かけ上高い地位を与えることで、男性に自尊心を起こさせ、より効果的に働かせる(自分から進んで働くようにさせる)。モラールを高め、勇気や意欲を奮い立たせて、筋力・武力などの能力を発揮させる。
 

女性が、高い「(狭義の)社会」的地位(企業・官庁の管理職ポスト)につくことを、そのまま女性解放の度合いを示す指標とは見るべきではない。女性が、失敗時に全責任を背負わなければならない条件のままで高い社会的地位を目指すことは、上述のように、女性の本来的な性向に反する面が強いからである。

女性が自ら(狭義の)社会的に高い地位につくことを積極的に追求するようにするには、失敗時に取らなくてはいけない責任を小さくすることが求められる。失敗時に、その責任を上下左右の隣接する地位の成員へと分散させること、責任を周囲との連帯責任とすることで、本人の取らなくてはいけない責任を軽くすることが必要である。このように、責任分散がはかられた状態で女性が高い地位を目指すのは、女性の本来的な性向に照らし合わせて自然なことである。その際は、女性が高い地位につくことが、女性解放の度合いを示す指標とし得る。



ある(広義の)社会における、本当の女性解放の度合いを示す指標は、女性本来の性向を示す、行動面でのウェットさ(集団主義、同調指向、前例指向...)が、その社会で、どれだけ高い価値を与えられているか、認められているか、である。ウェットさの価値が高いほど、認められているほど、その社会における女性の地位は高い。日本は、これらの価値を高く設定しており、見かけとは裏腹に、女性の(広義の社会での)「地位」が高い。

 

日本の職場(生産する場、賃金を稼ぐ場)が男性中心であって、そこへの女性の進出が進まないのは、女性の高い地位につくことを避ける性向以外にも理由がある。それは、そこが、男性の自尊心を保持できる(家族を経済的に支えているのは私をおいて他にいない、との誇りを保てる)最後のとりでであって、そこに女性が進出してくるのを脅威に感じているからだと考えられる。男性側は、女性には、簡単に明け渡したくない。明け渡すと、せっかく保って来た見かけ上の高い地位からも一挙に転落し、最後の自尊心が消えてしまう。後は(見かけ・実質両面で男性を圧倒する)女性のペースに合わせてひたすら従うだけの社会的落伍者に成り果てるからである。

「女らしさ」はいけないか?

-日本における女らしさの否定についての考察-



 

現在の日本では、男性が女性に「女らしくあれ」を口にすると、性差別だとかセクシャルハラスメントにつながるとして女性から責められる。しかし、そんなに女性が「女らしい」ことが悪いことなのかどうかと言えば、筆者は大きな疑問を抱かざるを得ない。

「女らしさ」を悪く言うのは、

1)人々が取るべき態度についての現在の世界標準が、欧米社会のドライな男性的態度にあり、ドライな男性的態度がより望ましい、好ましいと、人々に映るからである。

ウェットな態度が女性的と見なされていることを検証した文章へのリンクです。

ドライな態度が世界標準と見なされていることを検証した文章へのリンクです。

ドライな男性的態度がより好ましい、望ましいと考えられていることを検証した文章へのリンクです。

2)日本女性による、今まで男性の拠点だった職場への進出=社会進出指向にあると考えられる。

従来、「女らしさ」=家庭の中にとどまって、外に出ないこと(外に出て働く男性に対して、母艦の役割を果たすこと)、と短絡的に捉えられてきた。この観点からは、それが女性が新たに進めようとしている職場進出へのじゃまになるとして敬遠されているのであろう。

女性が家庭の中にとどまる必要があったのは、家の中の方が外で働くより安全であったからというのと、もう一つは、乳児の養育や世話で両親のどちらか片方が家に残る必要が出た場合、母乳が出たり、子供が産まれる以前に子宮で子育てをしていたのが女性だということから、女性の方が子供の養育に対して親和的であるということで、女性=家庭という結びつきが自然とできたと考えられる。

現代日本では、以下の理由から、女性が職場進出(社会進出)を図ろうとしている。

1)治安がよくなって、家の外でも安全になったこと、保育園などの子供養育施設が整備されつつあることから、女性=家庭の結びつきは弱くなりつつある。女性は、家の中に必ずしもいなくてもよくなった。

2)従来、日本の女性は主婦として、家事と子供の教育を通して、自己実現を図ってきた。しかし学校制度の充実により、子供の教育に手がかからなくなった。また家電製品の普及により、家事に割く時間が大幅に減った。これらの理由のため、何もすることがないアイドリング時間が増える結果となり、自己実現のターゲットを家庭以外に求める必要に迫られた。

※なお、従来、女性の社会進出の理由として、女性自身の、男性の収入に頼らない経済的自立への指向というのが散々言われてきた。しかし、もともと日本の家庭において、経済(家計)面での管理権限は女性が握っていることから、経済的に依存・従属関係にあるのは、女性に給与をいったん全て取り上げられ、取り上げられた金額の中から改めて小遣いをもらう男性なのではないかと考えられる。すなわち、女性=経済的支配、男性=従属の関係が成立していると考えられる。支配している側と従属している側とがどちらが自立しているかと言えば、明らかに支配する側の女性であろう。

従って、「女らしさ」=家庭的という見方に囚われている限り、女性は、「女らしさ」を排撃したくなると考えられる。
 
筆者は、真の「女らしさ」は、もともと家庭的なことそのものではないと考える。 「女らしさ」とは、自分のことを貴重な大切なものとして他者よりも優先して守ろうとする「自己保身」にある。

真の女らしさとは何か説明した文章へのリンクです。

家庭以外の場所が安全になり、そこでも活躍できることが分かれば、そこに進出しようとするのは女性にとって当然のことである。今までは家庭においてなすべき仕事=家事はたくさんあったが、今は家電製品などの導入で省力化が進み、女性たちの活躍の場は狭まっている。家庭は自己実現の場としては物足りなくなったといえる。

ただし、女性が職場進出しても、男性のように高い地位につくことを指向するとは必ずしも言えない。

なぜなら、女性は、自己保身のためには、失敗の責任を取って危ない目に会うことをできるだけ避けようとする「安全第一」「責任回避」主義者だからである。女性は、自分からは受動的に行動することで、能動的に行動した結果生じる行動に対する責任を取らないようにする。また、社会的に高い地位につくことに伴って生じる意思決定上の責任を取ることを嫌って、自分からは責任ある高い地位につくのを避けて、男性にその役をやらせようとする。



日本女性が社会的に高い地位についていない現状を見て、女性差別だと唱えるフェミニストは多いが、実際のところ女性は高い地位から男性などの外的圧力によって遠ざけられているために高い地位につけないのではなく、むしろ「高い地位につくことによって生じる社会的責任を回避するために」「社会的に高い地位につくことを自ら進んで回避している」のである。欧米社会のフェミニストのように、失敗時に大きな責任を取らされ、社会的生命を失うことを前提として、女性を高い地位につかせることを奨励すること自体、女性の本性に反する異常な考え方である。



女性が社会的に高い地位につくことを自然なものとし、女性が社会的に高い地位を積極的に追求させるようにするには、失敗時にその責任を上下左右の隣接する地位のメンバーへと分散させること、責任を周囲との連帯責任とすることで、本人の取らなくてはいけない責任を軽くすることが求められる。



社会的地位が高くない、責任を取る立場にいないからと言って、女性の社会における支配力が小さいとは見なせない。特に日本などの農耕社会では、女性は、自らは男性の母親役を取る(息子の母親となる、妻として夫の母親代わりとなる)ことで、男性を自分に対して心理的に依存させた上で、自分の思うままに操縦して社会的に高い地位を目指させ(競争させ)、高い地位についた男性に対して自分の思い通りのことをやらせようとする。日本においては、男性は、どんなに高い地位についていたとしても、女性の(特に母親の)かいらい・ロボットと化しており、女性の支配下にある。


こうした女性の性格と日本人の国民性とがよく似ていることを 筆者は文献調査で確かめた。日本はもともと女性的な、と
いうか、女性優位の、男が虐げられている社会=母権制の社会と言える。


日本社会の女性的性格について説明した文章へのリンクです。

女性が優位の「女らしい」「女々しい」日本社会では、女性は、社会的な責任は取らず、
かつ実質的な支配権は握るという「無責任支配」の体制を確立していると考えられる。

そういう点では、女性自身による「女らしさ」の否定は、せっ
かく自分が社会の中で支配力のある有利な状態にあるのを進んで止めようとすることであり、馬鹿げた自己否定以外の何者でもないという感じがする。

 


特に問題なのは、女性が、男性を「強い」「頼りになる」とおだてると同時にその裏ではしっかり、男性の生活全般を母親の如く隅々まで支配・コントロールする(家計管理の権限掌握などはその代表例と考えられる)「アメとムチ」の使い分けを行っている点である。



 


男性が家庭に帰らないで、職場に長くい続けるのも、家庭が女性の支配する場であり、自分とは異質の雰囲気になっているのが不愉快だからと言える。

家庭における女性(母親)支配が男性を家庭から遠ざけて職場に固定化し、それが家庭の外に出て職場進出しようとする女性の行く手を阻むという、女性にとっては複雑な仕組みになっている。


その点、女性がスムーズに職場進出するには、家庭における自分の主導権を放棄して男性と対等化すること、家庭において男性の居場所を確保することを容認することが求められる、と言える。



なお、日本における職場の雰囲気自体は、集団主義、プライバシーの欠如、対人関係面での調和や前例・しきたり偏重といった女性向きのものとなっており、本来は男性よりも女性の方が、能力を発揮しやすい環境にある。



確かに職場に数の面でたくさんいるのは男性だが、彼らは母親や妻によって、男性本来の個人主義、自由主義、独創性の発揮といった行動様式を骨抜きにされ、すっかり女性化した「母親臭い」存在と化している。そういう点で、男性のたくさんいる日本の職場は、もともと女性とは相性がいいのである。

「専業主婦」=「役人」論




(旧稿)日本の専業主婦と公務員の共通性についてへのリンクです。




日本の主婦、特に専業主婦は、役人と性質が似ていると考えられる。



この場合、役人とは、中央省庁、地方自治体の職員、すなわち国家、地方公務員を指す。



日本の役人と専業主婦との共通点は何か?2つあると考えられる。



(1)自分ではプラスの入金をしなくても、自動的に自分の使えるお金が自分の手の中に入ってくる点である。



(2)その入ってきたお金をどう使うかというのを決める権限をがっちり握っている点である。




(1)に関して言うと、専業主婦の場合、自分では何も生活に必要なプラスの入金をもたらさなくても、夫の給与の振込先銀行口座に、毎月自動的に、自分が自由に使えるお金が、夫の労働によって、入ってくる。



役人の場合、自分ではプラスの入金を何ももたらさなくても、予算を組むのに必要なお金が、毎年、民間企業や労働者から、自分たちの自由に使える税金の形で、何もしなくても、自動的に上がってくる。



日本の専業主婦や役人は、「僕稼ぐ人、私使う人」と言う表現をするとすれば、「使う人」を地で行っていると言える。



本来、自分の属する組織(これは、家庭でも、会社でも何でもそうだが)にプラスの入金をするためには、何かしら、余所から利益を上げないと、儲けないといけない。それに必要な、才覚、知恵、忍耐力が求められる。



会社だったら、顧客、取引先、上司、同僚から、絶えず文句を言われ、辛い、しんどい大変な思いをして仕事をすることで、やっとそれと交換にお金が入ってくる。楽して利益が上がることはほとんどなく、仕事の中身についても選択の余地がないことがしばしばである。



ところが、専業主婦や役人は、自分ではこの辺の苦労を何もしないで(夫や民間企業の労働者にやらせて)、プラスの入金を自分の手元にいとも易々と手に入れているのである。



官民格差の本質は、給与水準の差がどうのこうの言う以前に、この辺にあるのではないだろうか。要は、自分の手でプラスの入金を確保しなければならず、しかもそのうちのいくらかを自動的に巻き上げられてしまう立場の民間労働者と、自分の手ではプラスの入金を確保するために働く必要がなく、民間労働者から入金を巻き上げれば済む気楽な立場の役人との差が官民格差の本質である。



こうした格差は、給与稼ぎをする夫とその専業主婦との間にも当てはまる関係であると言える。一生懸命働いてプラスの入金をしなければならない役回りの夫と、何もしなくても自分の使うお金が自動的に銀行口座に入ってくる専業主婦との間には、官民同様の大きな格差があり、これは立派な男女差別である(女である専業主婦が上で、労働者の夫が下)。



要は、自ら苦労せずに、必要なお金を他から巻き上げる搾取者、寄生者としての体質が、専業主婦にも、役人にもあるのである。





次に(2)についてであるが、日本では、家庭の家計管理の権限を主婦が独占しているという状況がある。夫の銀行口座から入金されたお金を何に使うか、最終的に決定して、お金を配分するのが、主婦である。家庭のお金を配分する権限を主婦である女性が握っている。夫は、少額の小遣いを、主婦から頭を下げて出してもらわないといけない。



この実態を示すのが、百貨店売り場での女性向け売り場がやたらと大きく広く、男性向け売り場が貧弱なことである。例えば、京都駅の駅ビルの百貨店の売り場案内パンフレットとか見れば、この辺の事情は一目瞭然である。家庭のお金の割り振りの権限を女性、主婦が握っているからこそ、女性向けの売り場が立派なのである。


税金についても同じことが言える。税金の使い道を決めるのは、建前上は国民主権となっているが、実際には、役人が自分たちのために決めている。彼らは、縦割りの行政組織の中で、自分たちの部署の取り分、ひいては自分自身の取り分が最高になるように、予算折衝を繰り返しているのである。



この点でも、専業主婦と役人は似ていると言える。



専業主婦は、家事が大変だとか表面上言われながらも、その実態は、「三食昼寝付き」の気楽な稼業であることは確かである。個人的意見としては、今後、専業主婦には、家庭への入金のための労働を夫ばかりに押しつけるのではなく、子供の育児が終わって暇になったら、入金の主要な役回りを、夫としっかりワークシェアリングしてもらいたいと思う。また、家計管理の権限を夫と分け合うこともしてほしいと思う。それが、日本の家庭で真の男女平等が実現するきっかけになればと思っている。





上記のお金関係以外に、役人と専業主婦とは、もう一つ似ている側面がある。支配者、権力者としての性格である。



役人は、戦前から「お上」「官」として、民間の人々を支配する、言わば「天皇家の直参、直属機関」としての権力者の性格を持ち続けている。「官尊民卑」という言葉がこの辺の実態を表す言葉である。官庁や地方自治体は、許認可や法律規制の権限を盾に、民間企業や国民を意のままに支配している。戦後は、天皇家の上にアメリカが来たので、それに迎合して、「民主的になりました」という顔を一見しているだけである。



専業主婦も、子供としての息子や娘を「自分の自己実現の駒」として支配、コントロールする「母」(夫を子供扱いする妻もこの同類である)、嫁や婿を支配する「姑」として、子供を通じて社会を間接的に支配する、社会の最終支配者、権力者としての顔を持っている。



多分、日本社会で現在一番強い立場にあるのは、役人(公務員)の専業主婦(例えば高級官僚を夫に持つ専業主婦)ではないだろうか?

家計管理の月番化について

家計管理を月番制にしたらどうか?

現状では、日本の家庭においては、家計管理の権限は、妻や母が独占している。

夫は、自分で稼いできた給与を、彼女らに取り上げられ、別途頭を下げて、小遣いを貰わないといけない。

一方、欧米においては、これと逆の状況となっており、家計管理の権限は、夫が独占している。妻は、家事に必要な小遣いをその都度夫から貰っている。

日本の事例も、欧米の事例も、両方とも、家庭内における男女差別であり、解消の必要があると考えられる。

要は、家計管理の権限を、男女平等に受け持つようにすべきではないかということである。

その一つの方法として、家計管理の仕事を、月番で、毎月、夫と妻の間で代わりばんこに交替してやるようにすればよいのではないかというのがある。

要は、奇数月は妻が管理し、偶数月は夫が管理するというようにすればいいのではないか。

これによって、男女の片方が家計管理を独占することがなくなり、男女平等が促進されると言えよう。

また、一人が家計管理を独占することがなくなり、もう一方の他人のチェックが絶えず入るようになることから、いい加減な家計管理をすることが難しくなり、家計管理の透明性が高まると言える。

問題があると言えば、夫妻どちらかが浪費家で、お金をみんな無駄遣いしてしまう場合である。その場合は、しっかりと管理できる片方にずっと任せざるを得ない。要は、一方が能力的に欠けている場合は、男女どちらかにこだわらず、家計管理能力のある方に任せればよいということになる。

生物学的貴重性

(参考)生物学的貴重性と性差(クリーム-パン図式)について

(参考)「女らしさ」「男らしさ」の検討-生物学的貴重性の視点から

About 女性

ブログ「ブログ 日本男性解放論」のカテゴリ「女性」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

次のカテゴリは母性です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。