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2007年05月 アーカイブ

2007年05月22日

日本社会は母権制である(行動様式のドライ・ウェットさの視点から)

詳しくは、以下のリンクをご覧下さい。

日本社会は母権制である

日本社会の女性的性格


詳細は、以下のリンクをご覧下さい。

「女らしい」日本人

日本の教育システムの女性性


日本の教育システムのあり方は、総じてウェットであり、その点、女性的であると言える。
以下に、どのような点がウェット、女性的と言えるか例示してみたい。

1.日本における受験勉強とウェットさ、女性性

日本における受験勉強は、

(1)前例となる知識をひたすら要領よく詰め込む暗記型である。その点、前例指向的であり、ウェットである。
独自の創造性を伸ばすチャンスがない。
未知の分野へと、思考を拡大する機会を制限する。未知の領域は、何があるか(起きるか)分からず、怖いから、避けたいとする女性的な心理の現れである。

(2)問題を解くために、重箱の隅をつつくような細かい知識暗記を求められる。木目の粗い暗記しかできない男性よりも、細かい暗記のできる女性に適している。

(3)現役合格偏重である。試験における失敗(不合格)を許さない点、失敗を怖がる女性的な感じがする。

(4)学校に入るのが大変である。学校組織の持つ、外部から入ろうとする者に対する表面張力、すなわち、閉鎖性が大きい。



これは、学校組織が、内部での一体・同質性を重んじ、外部に対して門戸を閉ざす母性的な性質を持つことを意味する。

 

(5)学校名による選抜が主流である。
どの学校集団に所属するかが大事である。 受験合格学校名で、その人となりを判断する。
個人の属性ではなく、所属集団がどこであるかで、人となりを見る。その点、集団主義的であり、ウェットである。
 

(6)相対評価、偏差値を重視する。
集団の中の自分の位置を絶えず確かめようとする。他者との成績比較が根本にある。そこには、他人の目・恥の感覚がつきまとう。成績面で他者との牽制し合いをすることが標準であり、その点ウェットである。
 

2.日本の学校とウェットさ、女性性

教科書、制服など、みんなと一緒に揃えることが好まれる。画一・同質・悪平等指向が強い。これらはいずれも、ウェットであり、互いの一体感・同質性を好む女性向けである。
校則など、生徒を細かく束縛することが好きである。自由主義に反し、ウェットである。





以上の1.と2.において、ウェットとされた、集団主義、閉鎖性、前例指向などは、男性/女性のどちらの性格に近いかとアンケート調査で問うたところ、いずれも、女性らしい、女々しいとされる結果が出ている。

 



3.日本の学問風土

日本の学界は、学説面での欧米模倣と、独創性の欠如、権威主義の横行、流行へ同調する事への敏感さ、師弟間の家族的な上下関係といったキーワードにより特徴づけられる。

こうした特徴を生む根本原因は、自ら冒険をしようとしない、前例のない危ないことをしない、未踏分野に進んで足を踏み入れようとしない安全・保身への指向にあると考えられ、ことごとく女性的な(女性由来の)価値に基づくものである。

彼ら学者は、欧米学者が既に足を踏み入れた開拓地を、自分たちも欧米学者の後を追う形であわてて巡って、それで知的冒険をした気になっている。こういうのは、正確には知的探検などとは呼べない。





4.日本における学業の最終目的


日本では、学校での勉強が、知的好奇心を充足させるとか、社会の生活水準を向上させるのに役立つ知識を得るといった、本来の目的から逸脱して、中央官庁や大企業に将来就職する人員をふるいにかけて選別するための手段となってしまっている。



こうした日本の受験競争のもたらす教育上の歪みの根本的な原因は、最終的には新規学卒一括採用の際しか外部に対して採用の門戸を開こうとしない、中途で所属する社会集団を変更することを許さない、日本の中央官庁や大企業といった社会集団の持つ閉鎖性、純血指向性にあると考えられる。学生は事実上一生に一回しか、こうした社会的に大きな影響力を持つ組織に入れるチャンスがないので、そこでうまく希望の組織に入ることができるように、学歴や、学閥のようなコネの獲得に躍起となるのである。



日本の大規模な社会集団における、こうしたヨソ者を中へ入れようとしない閉鎖性がなぜ出てくるかと言えば、ヨソ者を自分たちとは異なる未知のしきたりに染まっている者だとして毛嫌いし、気心の知れた安全な身内だけで身辺を固めようとする安全・保身への指向が強いからと考えられ、これは、自己の保全を最優先する女性的な(女性由来の)価値に基づくと言える。

日本男性解放宣言


[注]●印の付いた文章が、宣言本文である。
 
宣言の内容は、具体的には、以下の通りとなる。



[宣言1]

1-1●その心をもっとドライにせよ。男性の本分たる乾いた空気を、自らの行動様式の中に取り戻せ。個人主義、自由主義、契約思想を体得せよ。親分子分や、先輩後輩関係に代表される、ウェットなベタベタした人間関係から脱却せよ。自分より大きなもの(会社組織など)に頼ろうとするな。




1-2●母親や身の回りの女性によって強いられた、集団主義、同調指向、権威主義、リスク回避のくびきから、自分自身を解き放て。


1-3●男性が強い欧米をモデルにするので構わないから、真の男らしさとは何かに一刻も早く気づけ。日本社会における、ドライ=真に男性的な価値の認知、すなわち、個人主義、自由主義、独創性の重視の実現を目指せ。

[解説1]

国民性(社会の雰囲気)という面からは、「日本的=(ウェット)=女性的」である。
日本男性は、「浪花節」に代表される相互一体感、集団主義や、「和合」に代表される相互同調・協調性、「先生」という呼称に代表される権威者を崇め奉る権威主義、冒険や失敗を恐れ、前例やしきたりを豊富に持つ年長者をむやみに重んじる年功序列(先輩後輩)関係を偏重してきたが、それらは本来ことごとく女性的・母性的な価値観に基づくものである。こうした価値観は、男性の生育過程で「母子癒着」関係にある母親の支配・影響下で自然と身に付いたものであり、その点、日本の男性は「母性の漬け物」と化している、と言える。



日本男性が、いかに女性によってウェットさを強いられて来たか、それは、集約的な稲作農耕社会という条件がもたらしたくびきであった。



日本社会では、工業化、都市化、能力主義の浸透により、徐々にウェットさから解放され、ドライ化が進む兆しが見える。この方向が今後も続けば、やがて日本男性は、女性(母性)の支配から解放されるだろう。 日本社会のドライ化に当たっては、社会における欧米化の風潮を追い風にすべきである。ただし、社会を欧米化すると言っても、従来のような欧米への一時的な権威主義的同調で終わらせてはならない。このまま欧米化が進めば、着実に、日本社会のドライ化=男性化が進む。



[宣言2]

2-1●自分が社会的弱者であることに気付け。自覚せよ。男尊女卑をはじめとする「日本=男性中心社会」の神話にだまされてはいけない。



[解説2]

「日本=男社会(男性中心社会)」という言説は、全てまやかしのものである。「男尊女卑」にしても、見かけだけの男性尊重であり、男性の強さである。実際の社会の実権は、女性(母性)に握られているのが現状である。こうした「日本=男性社会」神話は、日本女性による、本来のドライな男性らしさを一度骨抜きにした(男性をウェット化した)後で、自らの保身に役立つ「強い盾」、および収入を得るための「労働力」として、道具扱いしてこき使おうとする心の現れであり、これが日本女性の毒である。




[宣言3]

3-1●女性に生活を管理されるな。女性に身の回りのことを何でもやってもらおうとするな。蔑称「粗大ゴミ」「濡れ落ち葉」を脱却せよ。妻に生活面で頼ろうとするな。妻に家庭内管理職として君臨されないように、できるだけ生活面で自立せよ。


3-2●女性に家庭の外に出て働くように促せ。女性の、家庭における影響力をなくす(女性に支配されないようにする)には、外に出て働いてもらうのが一番である。専業主婦を望む既存の男性は、こうした点で、認識不足である。そのままでは、生活の根幹を女性に支配されてしまうからである。

3-3●女性、特に母親に甘えるな。依存しようとするな。妻を母親代わりにしようとするな。母親から自立せよ。

[解説3]

今まで、日本の男性は、家庭における生活の根幹を、女性(母、妻)の管理下に置かれて来た。家庭における家計管理、子供の教育といった主要機能は、女性(母)が独占している。その点、「日本の家庭=家父長制」というのは、実は見かけだけの現象に過ぎない。日本の男性の立場を向上させるには、この現状から脱却する必要がある。




[宣言4]

4-1●子育てに介入せよ。自分の行動様式・文化をもっと子供に伝えよ。自らの内に秘められたドライな男らしさをもっと出して。子供(特に男の子)を、ウェットに女々しくさせるな。育児権限を母親に独占させるな。女性が、子育ての役割や母性を放棄しようとしている、今こそがチャンスである!

[解説4]

日本の父(夫)は、大人へと育つ間に、母親(女性)によって、父性を殺されている。日本の父は、力不足で、密着する母と子の間に割り込めない。これは、母子一体性および父性殺しの再生産の原因になる。


日本の父親は、子育てを母親に任せっきりである。結果として、育児権限(育児機会)は母親が独占する。
父親は、母子関係に介入しない~できない。子供(特に息子)の人格のウェット化=女性化をもらたす。


このことは、日本男性の育児意欲を、子供のうちに削除し、日本男性の育児機会からの疎外を、世代間で再生産している。これは、子供の社会化において、子供の人格をウェットにするために、ドライな父性の影響を排除する仕組みが、社会的に出来上がっているためと考えられる。


夫婦関係が薄く、母子関係(母娘関係だけでなく、母-息子関係も)が濃いのは、父親を子供から遠ざける効果(父性隔離効果)を持っている。母子癒着は、母親による子供の独占支配の再生産である。こうした現状は、変えられなければならない。


[宣言5]
5-1●いばるな。男尊女卑から自由になれ。女に都合のよく作られた、盾として作られた強さを捨てよ。本当の強さは、個人主義、自由主義といったドライな態度を自分の力で獲得することにある。
日本社会の本当の支配者は、自分たち男性ではなく、女性であることに早く気付け。見かけにだまされてはいけない。

5-2●母親=姑に反逆せよ。伝統的な家風という前例に従うな、自分で作れ(創造せよ)。「家」に頼るな、家を出て自立せよ。そのためにも、夫婦別姓を積極的に考えるべきである(結婚相手を、自分のイエに巻き込むな。姑と嫁との権力争いに巻き込まれ、姑と嫁の両方から非難されるはめになるから。)。

5-3●家の財布を妻に取られるな。収入管理と支出用途決定は、夫婦対等の協同管理に持ち込め。




[解説5]

日本社会が、本当は女性優位、女性的な風土なのに、男性優位、男社会と言われる理由はなぜか?


そこには、3つの打ち崩されるべき壁・神話がある。


(1)男が威張る。男尊女卑。


(2)男中心の家族制度。父系相続。男性側は姓替わりをあまりしなくて済む。


(3)男が収入を得る。一家の大黒柱として君臨。


それぞれ現実は、

(1)実際は、女性によっておだてられて、単なる「(女性、母性を護衛する)強い盾」「(女性、母性に対して)給与を貢ぐ労働者」の役割を果たして喜んでいるだけに過ぎない。




(2)日本においては、家庭の実権は母・姑にあり、「粗大ゴミ」扱いされる男性にはない。
それなのに、女性がなぜ「日本の家庭は家父長制だ」と主張するかと言えば、女性は、自分たちが、前例指向的なものだから、家風という前例による支配の序列(姑→嫁)を否定できない。また、同性である姑には反抗できない。女性=嫁は、嫁いじめされる悔しさを夫に向けるので、夫が支配者ということで非難の対象になってしまう。




(3)男性はあくまで収入を家族にもたらすにとどまる。もたらされた収入を実際に管理して、歳出面での配分などの最終権限を握るのは、女性側である。男性側は、一方的に小遣い額を決められるのみである。男性は、「ワンコイン亭主(一日一枚のコイン分の小遣いを支給されるだけの存在)」という言葉に代表されるように単なる労働者であり、一方、女性は、家庭内管理職(大蔵大臣、厚生大臣..)として君臨する。

日本の男性は、女性に強いと持ち上げられて、自分が本当に強いと錯覚し、虚構の強い自分の姿に酔っている。女性も、自分が、男性に比べて弱いかのように錯覚している。ここから、日本フェミニズムの不幸な歴史が始まった。

日本の家庭は、実質的に女性の支配下にある。

男性は、家族制度のもとでの、父系であることの有利さ・気楽さの原因である、姓替わりをしなくて済む(最初から他家の家風を習得しなくてよい)ため、「家」と自分とを一体化しがちである。


家族が父系であることと、男性(父性)支配とを混同してはならない。父系制が多いのは、男が表に出て、女が奥に隠れた方が、女性の生物学的貴重性に対応するために便利だからである。この場合、自分の身の安全を男性によって保障される女性の方が、生物学的地位や価値としては、男性よりも上である。




(付記)日本男性解放論の目新しさ

以下の3つの命題の結びつきに今までの人は気がつかなかった。これに初めて気づいたのが、日本男性解放論である。

(1)日本社会は女性的である
(2)日本社会においては、女性が強い、優勢である
(3)日本社会においては、解放されるべきなのは男性である

上記の結びつきは、理屈から行って自然なはずであるが、「女性が、全世界共通に弱い、解放されるべき存在である」という既成概念に支配され、じゃまされて着想されなかった。

この既成概念は、男性の強い欧米やアラブのような遊牧系社会でのみ通用する概念のはずなのに、いつのまにか国際標準の概念となってしまい、そうした国際標準や権威といったものに弱い日本の学者が、何も考えずに強引に、(本来女性が強いはずの)日本社会に当てはめてしまった。

したがって、そうした既成概念から自由になることで初めて生れた、日本男性解放論は、学説として十分目新しい。


(付記)日本で男性解放論が広まらない理由

男性解放論が、今までの日本で注目されたり、歓迎されてこなかったのは、男性自身が、自分のことを強い者と思い込まされ、自己満足感に浸っているのを打ち壊すため、男性に不快感を与えるからである。
 
日本では、本来解放されるべき男性が現状に満足し、支配者である女性が現状に不満を持ち、「解放」を唱えている。



男性は、男尊女卑や結婚時の姓替わりなしといった表面的な優遇措置に満足している。
真の男性解放を実現するには、日本男性のこうした表面的な満足感を突き崩す必要がある。これが、上記の日本男性解放宣言の存在理由となる。


男尊女卑(男性優先)の本質について



〔1.はじめに〕

男尊女卑は、物事一般を進める上で、男性が(女性よりも)尊重・優先されることを指しており、(欧米における)レディファースト(女性優先)の対概念と考えられる。

従来、男尊女卑の概念は、日本など東アジアにおける、男性による女性支配(家父長制)の実態を示すもの、あるいは、女性の(男性に比較した)地位の低さを示す象徴として、女性解放の立場を取る人々からの非難にさらされてきた。

一方、欧米などでのレディファーストの概念は、女性の地位の高さを示すものとして、日本のような男尊女卑の社会慣例を持つ社会が、女性解放を進める上で、積極的に学ぶべき手本となるもの、と、女性学者や女性解放論者(フェミニスト)によって主張されてきた。

レディーファーストは、身近な例をあげれば、例えば、自動車のドアを男性が先回りして女性のために開けてあげるとか、レストランで女性のいすを引いて座らせてあげるとか、の行為を指す。この場合、見た目には、男女関係は、女王と従者の関係のように見える(女性が威張っていて、男性は下位に甘んじている)。

しかるに、女性解放を目指すウーマンリブ運動はレディーファーストの欧米で始まっている。このことは、欧米では、男性が女性に形式的にしか服従しておらず、見かけとは逆に、実効支配力、勢力の面では、女性を上回っていることを示しているのではないか?

それと同様のことを男尊女卑に当てはめると、女性は男性に対して、見掛け上のみ従属することを示しており、勢力的には女性の方が男性よりも強く、必ずしも女性は弱者ではないと言えるのではないか?

以下は、こうした疑問をきっかけにして、男尊女卑という概念を、社会を取り巻く自然環境への適応度という観点から、もう一度吟味し直した結果について述べたものである。
 

〔2.自然環境への不適応と性差〕

農耕社会(ウェットな行動様式を要求する)における女性(ウェットな行動様式を生得的に持つ)、および遊牧社会(ドライな行動様式を要求する)における男性(ドライな行動様式を生得的に持つ)は、その環境下で生き抜く上で有益な行動様式(プラスの機能)を持ち、より適応的である。すなわち、存在を肯定され、強い勢力を持つ(強者の立場に立つ、影が濃い)。

一方、農耕社会(ウェット)における男性(ドライ)、遊牧社会(ドライ)における女性(ウェット)は、環境下で生き抜く上で有害な行動様式(マイナスの機能)を持ち、適応障害を起こす(不適応である)。すなわち、その環境下で構築された社会の中でマイナスの価値を持ち(存在を否定され)、勢力が弱い(弱者の立場に立つ、影が薄い)。

上記の内容の詳細については、日本における母権制の再発見についてのページを参照されたい。
 
 

男女は、生物として生殖を行う必要上、同一環境下に、必ずペアで存在する必要がある。したがって、当該環境下の社会では、適応的な側の性だけでなく、適応障害を起こす側の性もその場に同時に存在する必要がある。例えば、農耕社会(ウェット)では、適応的な女性(ウェット)と、適応障害を起こす男性(ドライ)とが、同一の場に共生しなければならない。適応障害を起こす側の性の個体の遺伝レベルでの行動の発現を、そのまま放置しておくと、(1)社会に当該環境下の生存にとって不適切な行動様式をもたらすことで、社会全体の環境適応力を著しく損ない、社会そのものの消滅につながる、(2)適応障害を起こす側の性の個体が、環境不適応の末に死滅してしまうので、当該社会下での生殖活動が不可能となり、ひいては社会そのものの消滅につながる、といった甚大な被害を、社会全体に引き起こす。

こうした被害を未然に防ぐためには、

(1)適応障害を起こす側の性が持つ不適応な部分を、社会化(育児・教育)の過程で、適応している側のそれに対応する部分によって、打ち消す(パッチを当てて中和、無力化する)必要がある。

(2)適応障害を起こす側の性を、適応している性の側で絶えず、生活全般にわたって、社会的弱者として、大事に保護する(サポートする、面倒を見る)必要がある。

こうした必要性は、農耕社会では、(1)は、育児・教育上の母子癒着(母親主導)として、(2)は、男性尊重(男尊女卑)となって現れる。遊牧社会では、(1)は、育児・教育上の母子分離(父親主導)として、(2)は、女性尊重(レディーファースト)としなって、現れる。

人間の周囲の自然環境への適応は、その自然環境下で必要とされる生活様式(湿潤(ウェット)環境では農耕、乾燥(ドライ)環境では、遊牧)に合わせて、行動様式の「湿度」(ウェット~ドライの度合い)を調節する過程として捉えられる。

行動様式の湿度調節は、環境に適応する側の性が、環境に適応障害を起こす(湿度が逆の)性の行動様式(特性)に対して、一方的に中和するかたちで行われる。各性の持つ中和の役割は、女性(遺伝レベル=ウェット)は、液化(ウェット化)、男性(遺伝レベル=ドライ)は、気化(ドライ化)である。

農耕社会(文化レベル=ウェット)では、女性が男性に対して、一方的に液化を行い、逆に遊牧社会(文化レベル=ドライ)では、男性が女性に対して、中和(気化)を行う。パッチ当てを受けた側は、結果として、本来持っていた行動様式が使えなくなり、無力化されて、社会的弱者の立場に転落する。
 

文化レベルのウェット~ドライな行動様式の実現には、遺伝レベルでの性差において、ウェット~ドライな行動様式にすでに従っていることを積極的に利用すべく、自分の性に固有な行動様式を、人間の社会化の過程、特に行動様式の可塑性の大きい、育児最初期の段階で、子供に対してそのまま直接流用するのが、効果的であり、現実に、流用が起きている。

流用のあり方は、例えば[増田1964]では、以下のように描写されている。アメリカ社会(遊牧系:注筆者)では、子供の面倒を見るのはたいてい男性である夫の仕事であり、赤ちゃんは夫(男性)に抱かれているか、ゆりかごに入れて夫(男性)が抱えている。それに対して、日本(農耕系:注筆者)では、母親(女性)が赤ちゃんをおんぶして、上の子の手を引いて、おまけに...といった調子で、育児は母親(女性)の役目となっている。幼少期に自分の性に固有の行動様式を、育児という形で、子供に注入する権限を持つのは、遊牧系の社会では、男性、農耕系の社会では、女性、という図式が成り立つ。

以上の内容をまとめると、次のようになる。

1)女性が主導権を持つ農耕社会では、男性は、女性側がデファクト・スタンダートとする、ウェットな社会的行動様式に、無理やり合わせないと生きて行けない。農耕社会という環境下では、性格がよりウェットな女性のペースで物事が進むため、それに合わせて生活しなければならない、女性の流儀にいやいやながら従わなければならないのであり、それを、幼少から強要され、拒めなくなっているところに、男性の弱さが認められる。男性本来の個人主義的、自律的...といった特性を打ち消され、殺され、抑圧されている。そして、男性本来の特性とは逆の、集団主義的、他律的..といった、ウェットな女性的特性に従って行動させられるため、社会的不適合者、弱者としての地位に甘んじることになる。

2)男性が主導権を持つ遊牧社会では、女性は、男性側がデファクト・スタンダードとする、ドライな社会的行動様式(個人主義、同調を嫌う..)に、無理に合わせないと、とりまく自然環境の中で生き延びられない。遊牧社会では、性格がよりドライな男性のペースで物事が進行するため、それに合わせて生活する必要があり、女性本来の集団主義的、同調的...といった特性は抑圧・消去の対象となる。その結果、女性は、社会的不適合者、弱者の立場に転落する。
 

〔3.弱性保護の思想〕

ウェットな農耕社会(日本)は、男性の表面的な尊重(優先)・女性の実質的支配が生じている社会、ドライな遊牧・牧畜社会(欧米)は、女性の表面的な尊重(優先)・男性の実質的支配が生じている社会、とまとめられる。

ウェットな社会の男性およびドライな社会の女性は、自分とは異質な(反対のジェンダーに適した)原理で動いている社会に、無理やり適応させられているのである。そうした点で彼ら(彼女ら)には、自分たちとは異質な性の行動原理に合わせる生活上、足りなかったり至らぬ点が生じてくるが、そうした適応不足を補償するのが、男性優先(男尊女卑)、女性優先(レディファースト)である、と考えられる。これらは、社会の中でより弱い立場の性の行動を優先する、「弱性優先」という言葉でまとめることができる。
 

優先(priority)には、1)強者優先(力ある者が優先される。権力者がよりよい待遇を受ける)と、2)弱者優先(年寄りや子供など、弱い者が、優先的に、食事にありついたり、座席を譲ってもらったりなど、よりよい待遇を受ける)との、相反する2種類が存在する。優先されるのが、必ずしも強者だからとは限らない。上記で述べている、男尊女卑・レディファースト(弱性優先)は、弱者優先の一種と考えられる(従来のフェミニズムは、男尊女卑を、強者優先とのみ見なしており、弱者優先の選択肢に気づいていない)。

あるいは、ウェットな社会では男性が、ドライな社会では女性が、社会に対して不適応であり、社会における存在意義・理由が、そのままでは、欠乏する(社会の中で、じゃま者扱いされ、軽蔑される)。それでは、彼らの人間としての尊厳(人権)が保たれず、モラル(やる気)の維持などに重大な支障が出ることが予想される。そこで、たとえ表面的であっても、不適応者である彼らのことを、尊重・優先して、自尊心を保ってあげる必要が出てくる。そうした自尊心を補完する社会的な仕組みが、男性優先(男尊女卑)、女性優先(レディファースト)である、と考えられる。

これをまとめると、
 




男尊女卑 強い女性が、弱い男性の、農耕(ウェット)社会への適応不足を、補償する
レディファースト 強い男性が、弱い女性の、遊牧(ドライ)社会への適応不足を、補償する

である。

ここで、「男尊女卑」の原因をまとめると、以下のようになる。 基本的には「弱性優先」の考え方に基づくものである(1~3)が、 「男性優位」の作為的演出(4)、という面もある。

1)「福祉」モデル (農耕社会に向かない)無能者=弱者である男性の世話・サポートを優先的に行う。弱者福祉が目的である。乗り物などで年寄りに優先的に座席を譲るのと同じ考え方である。農耕社会の男性は、家庭ではゴロゴロして何もしない。それは、自分とは異質なウェットな人間関係に取り囲まれ、それに無理に適応しなければならず、無意識のうちに心が疲れて、何もする気が起きない(無気力となる)からである。それゆえ、女性が、家事・洗濯・炊事などで、かいがいしく世話をする必要が生じる。あるいは、男性に無理を言われても、「はいはい」と聞いてあげる寛容さを持つ(弱い子供をあやすように振る舞う)必要が生まれる。

2)「自尊心・モラール」モデル 自尊心を向上させて、(農耕社会にとって有害なため無力化された)男性に、自らを「有用視」させて、勤労・防衛意欲を出させる。(個人主義、自由主義などのドライな=有害な要素を殺したあと)残った能力(筋力・武力)を有効利用する。物事を優先的に行ってよいとされれば、自尊心が起きやすい。

3)「人権」モデル 社会的弱者たる男性の人権保全に配慮する。女性が、男性のことを優先して取り扱ってくれれば、男性の人権がより保たれやすい。(農耕)社会的に有害・無力であることを悟らせず、人間としての尊厳を保たせる。女性に全生活を管理・制御されていることを気づかれないようにする。

4)「貴重」モデル 生物学的に貴重な女性は、自分を「盾」として守ってくれる者を作り、どうせならなるべく強く見せようとする。その方が、外敵を恐れさせることができるからである。農耕社会のように、女性が優位に立っている場合には、女性には、自分を守る「盾」としての男性が、相対的に弱く見える。それだと、女性が、外敵から自己防衛・保身を行う上で不安であり、不都合である、と農耕社会の女性自身が感じた。そのため、男性に、わざと積極的に恐い態度を取らせたり、威張らせる(強圧的な態度を取らせる)。女性に意図的に仕向けられて強がっている男性は、「張り子の虎」のような存在であり、女性の(男性を強く振る舞わせようとする)心理的支えがないと、見かけの強さを維持できず、潰れてしまい、元の、(農耕社会特有の)無能な、頼り無い姿に戻る。

レディ・ファーストの原因は、上記の「男尊女卑」の原因説明における、男性についての記述を、女性に置き換えたものとなる。

1)「福祉」モデル (遊牧社会に向かない)無能者=弱者である女性の世話・サポートを行う。

2)「自尊心・モラール」モデル 女性を表面的に敬うことで、女性に自尊心を与え、物事を行う意欲をかきたたせて、(集団主義、同調指向などのウェットな=有害な面を打ち消したあと)残った家事や職業労働能力を、有効利用する。

3)「人権」モデル 遊牧社会での社会的弱者たる女性の、人間としての尊厳を保つ。

4)「貴重」モデル 遊牧社会での男性が、生物学的に貴重な女性を、高貴な存在=「貴婦人」として崇拝し、より守護しがいがあるものとして捉えることにより、自分自身が内蔵する、女性を守ろうとする欲求を満足させる。
 

男尊女卑・レディファーストは、共に、社会の中でより弱い性を保護しようとする「弱性保護」の思想(弱者保護の一種)と言える。依存する(寄りかかる、もたれかかる)方の性(農耕社会の男性、遊牧社会の女性)は、その依存を受け止める方の性(農耕社会の女性、遊牧社会の男性)よりも、力がなく、弱い(自分ひとりでは立てない)。 受け止める方の性は、力があり、強いからこそ、余裕を持って、依存する相手をしっかり支えることができる。
 

男尊女卑(男性優先)は、男性保護の思想である(通説のように、男性の強さを示しているのではなく、むしろ逆である=弱いから女性によって大切にされる、わがままを聞いてもらえる)。レディファースト(女性優先)の裏返しである(ウーマンリブ運動は、レディファーストの欧米で生まれている。欧米で女性の社会的立場が弱い証拠である。)。

全世界どこでも、(フェミニズムが訴えるように)女性が弱い、というわけではない。勢力面で、女性の方が男性を上回る社会(母権制社会)は、現在でも確実に沢山存在する(それが、例えば日本や、東アジアの稲作農耕社会などである)。従来、母権制社会は存在しないなどというのが定説となっているが、それは母権制についての議論が不十分(母系制との混同、男尊女卑を父権制と混同)なためである。このことの詳細については、日本における母権制の再発見についてのページを参照されたい。
 
 

男尊女卑(男性優先)の社会では、見かけは男性が強い。男性は、自分が(女性よりも)強い立場にいると錯覚するため、男性の自尊心が満たされやすく、男性は自己の立場の弱さに気づきにくい。男性中心社会の神話は、こうして生まれた。この場合、男性には、自分の置かれている立場の弱さ・悪さの自覚がない(男性優先の本当の意味を取り違えて、自分は強いとうぬぼれている)。

男尊女卑が、男性の強さを象徴する行動様式であると見なす、従来の日本フェミニズムの見解は、否定されなくてはならない。男性優先だから、男性が強い、支配的であるとは言えない。男尊女卑(男性優先)は、実質的には、農耕環境に不適合な、弱い立場にいる男性を(強い女性が)サポート・保護する思想である。言い換えれば、男性が弱く、環境適応に手間がかかる分を、強い(農耕環境により適合的な)女性に肩代わりさせる思想である。

日本では、封建的とされる第二次大戦前からも、女性の方が強かった形跡が認められる。 [Benedict1948]によれば、一家の財布・事務処理を一手に切り回すのは姑(女性)であった。 姑(女性)は、息子の嫁を一方的に離縁させる権限を握っていた(舅は何もしていない)。 家庭の父(男性)は、子供たちがあらゆる義務を尽くしてその恩に報いはするが、ややもすれば「あまり大して尊敬されない人物」であった、とされている。(優先されるのは表向きだけで、実質的には、父親の「心理的な」地位は低かった)。

男女平等が唱えられ、男性の女性に対して当然のように世話や奉仕を要求できる特権=「男尊女卑」が剥奪されるようになったことにより、社会の実権を握っている女性の強さが、前面に徐々に出て行き始めた。
 
 

〔4.日本のフェミニズムとの関連〕
 

日本のフェミニズムは、女性の弱さ、性差別(女性が不利)を訴える。これは、女性の弱い欧米社会で生れた理論を、女性が強い日本社会へと、何も考えずに直輸入して、強制的に当てはめようとするものである。かえって、男性の、実質的根拠のない自尊心(自分の方が立場が上、女性は哀れむべき存在)を満足させ、男尊女卑の表面的理解につながっている。日本社会の本当のあり方(女性主導、女性支配)を見えなくさせる原因となり、有害である。

男尊女卑は、欧米流フェミニズムによる批判の対象とは、もともとならない。男性の弱さを原点とする、強い女性が弱い男性を保護する(サポートする・面倒を見る...)、という考え方が根底にあるからである。男性の強さを前提とするフェミニズムは、女性の弱い遊牧社会(欧米)向きであり、農耕社会(日本)には馴染まない。
 

男尊女卑は、男女両者の立場を、少なくとも表面的には対等にする(見かけ・表は男性が強い、実質・裏的には女性が強い、ということで、表裏合わせると、ちょうどバランスが取れる)ためにやはり必要ではないか。女性が支配する社会で、男性の自尊心(人間としての尊厳)を保つために必要と考えられる。人間らしく生きたいという動機づけは誰もが持つものであるが、農耕社会の男性は、男尊女卑による支援がないと、そのままでは、女性主流の社会から邪魔者・やっかい者としてつまはじきされ、人間らしく生きられないのである(中年~高齢の男性に、「粗大ゴミ」などの蔑称が付けられていることがその好例である)。

ただし、女性にとっては、男性が一方的に依存しようとして寄り掛かってくる重みを、自ら受け止める必要があり、負担が大きいのは確かである。男性は、女性に負担がかかるのを当然と思っている。この負担面での男女不平等(性差別)は、日本のフェミニズムでも、家事負担が一方的に女性に押しつけられるなどの形で、問題にされてきたが、(欧米直輸入の部分を無視して)この部分だけを取り出せば、それなりに理に適っている、と考えられる。
 


[参考文献]

Benedict,R. The Chrysanthemum and  the Sword : Patterns of Japanese Culture, Boston Houghton Mifflin, 1948 長谷川松治訳 「菊と刀 - 日本文化の型」社会思想社1948

増田光吉:アメリカの家族・日本の家族,日本放送出版協会,1964

日本男性の弱さについて

日本男性は、以下の点で、女性よりも弱い立場にあり、女性による支配の対象となっていると考えられる。こうした現状を打破する必要がある。これが、男性解放論の骨子である。

(1)自分の生得的傾向に反する「ウェットさ」を、育児過程で強制的に身につけさせられている。男性が本来持つべき、個人主義、自由主義といったドライさを失っている。

(2)女性にあたかも首輪を付けられて職場で給与稼ぎをさせられるかのような「鵜飼型社会」の中で、生活を女性によって全面的に管理されている。自分の稼いだ賃金の使い道を決定する権限がない。自己賃金からの疎外が起きている。

(3)母性への依存心、甘えがある。すぐに母親やその代わりの存在に頼ろうとする。

(4)育児から疎外されている 子供が自分になつかない、子供から馬鹿にされる。自分の持つ文化を子供に伝えられない。

日本男性はなぜダメか?

日本男性は、総じて、世界的に見て魅力に乏しい存在であるとされている。日本男性が、なぜ魅力に欠けるダメな存在なのか、どうした点を改善すべきなのか、以下に考えられる点を列挙してみた。

(1)所属する組織との一体感を追求し、集団主義、安定指向、年功序列(先輩の言うことを何でも聞き、後輩に対して威張る)意識が強い、といったように女性的な性格を持つ。個人主義、自由主義、未知領域への積極的探検といった男性が本来持つべき性格に欠けている。

(2)本当は社会の中では、女性に従属する下位者なのに、上位者と思って、命令口調で威張る。
女性に比べて優遇されるの(男尊女卑)を当然と思い込んでいて、スポイルされている。

自分のことを上位者と思っているだけに、プライドが高く、傷つきやすい。相手が自分に対して失礼かどうかやたらとうるさい。気難しく短気で、すぐ暴れたり怒ったりする。ガサツな乱暴者であり、暴君である。

なぜ、日本の男性がスポイルされるかについては、母親の影響が大きい。

日本の男性=息子は、母親によって甘やかされ、かしずかれ、何でもしてもらえる状態に置かれる。身の回りの世話を全部されている、焼かれている。

息子は、そういう状態が続いているうちに、いつの間にか自分を中心に世界が回っていると思いこむようになり、尊大で、わがままで、それでいて傷つきやすい性格を持つようになると見られる。

しかもその根底には、母親に心理的に頼り切り、甘えきった、依頼心が根強く息づいており、表面的にいくら威張っていても、母親に心理的に支配されきっていると考えられる。


(3)女性に対して、母親代わりに甘えようとする。女性を、観音様、マリア様みたいなと見なす。女性に対して依存的であり、その際、女性に対して当然のごとく寄りかかり、のしかかってきて、それに対してごめんなさいとか、ありがとうとか、一言も言おうとしない。女性に対する思いやりに欠ける。

(4)自活・生活能力に欠ける。身辺の世話を自分で行うことができず、皆、女性にやってもらおうとする。


以上を総括するに、日本の男性は、本来の男性性を失い、女性に頼りきりになっていて、人間的な成熟に乏しい存在であると言える。しかも、そのことを認めようとしない偏狭さを持ち合わせている。

女性からの解放を唱える以前に、こうした欠点をまず改めない限り、日本男性の明日はない。


(2007.4 追記)

しかし、インターネット掲示板の書き込みとかを見る限り、日本の男性は、今まで通り、母親や、母親代わりの女性(妻とか飲食店の女性とか)、女性代わりの組織(会社、学校等)に対して甘えつつ、威張ったり、わがままを通したりして、好き放題したいと考えているようである。

つまり、母の支配の枠内にとどまりつつ、その中で好き放題するのが望みのようである。

同じ女性でも、「お袋」「母」~「姉」「姉御」には甘え、頼り、支配されるのを気にとめることもないが、一方、母以外の女や妻は叩いたり、見下す、低く見る、自分の性欲を満たす道具と見るのが通例である。女叩きをする男性は多いが、母を叩く男性は少ないかほとんどいない。

また、自分の甘ったれた現状に対する批判、耳の痛い言葉を、それが建設的なものであっても、全て自分に対する悪意の攻撃とみなして怒り出し、牙をむく、ひねくれた心を持っている。

少しは、父権の強い、欧米やモンゴルといった遊牧・牧畜系社会の家父長を見習って、母に対する依存心を捨てて、母から解放されて、男性として成熟してはどうなのだろうか?

筆者にとって気がかりなのは、実際のところ、日本における「男性解放」は、母からの解放ではなく、女性が社会的に優遇されている(楽ができる、おいしい思いができる)のを撤廃するための「解放」になっている点である。

女性ばかり優遇されるのは確かに問題であり、そうした状況から男性一般が解放される必要があるのは明らかであるが、その一方で、自分たちを根底で支配する母なる女性の存在や、そこからの解放に鈍感なのは、どうしたものであろうか?

日本のメンズリブを批判する

-今後の日本のメンズリブが取るべき途-



従来の日本のメンズリブは、今まで男尊女卑の考え方や家父長制的な家族制度、男性による企業・官庁などでの給与をもたらす社会的役職の独占などで、忍従的な役割を強いられて来た、とする女性側の抗議に押されて、男性の従来取って来た性役割をしぶしぶ見直す、言わば、女性に突き上げられた受け身の形で、進展して来たと言ってよい。

もう一つ、日本のメンズリブを特徴づけるのは、女性に対して優位に立っていることを前提として、弱い女性を助けようとする同情心である。劣位の立場に置かれた、解放されるべき女性に対して、自らの優位にある立場を、少し譲ってあげようとする、「強者の余裕」に裏打ちされた親切心がそこには見られる。職業面での役職を女性に明け渡すこと、育児や家事に負われる女性を手伝ってあげること、などが、従来のメンズリブが取って来た方策であった。

日本のメンズリブには、劣位にあるとされる日本女性の解放に自ら歩調を合わせることで、自分は女性に対して優しいんだ、人格者なんだ、と周囲に(特に女性に対して)印象づけるねらいもあると見られる。

しかし、日本のメンズリブを押し進める人々が、こうした男性の優位を前提とした、悠然とした態度を取っていられるのは、彼らが、日本社会の持つ本当の性格に対して無知だからである。

伝統的な日本社会は、実は、ウェット=女性的な性格を持っている。それは、集団主義、周囲との同調指向などといった、対人的な相互牽制、規制から成り立っている。こうした女性的性格は、日本社会における女性の勢力が、男性のそれを上回る、すなわち、女性が優位に立っていることで成立する。

また、日本女性は、社会の中で、家計管理権限の掌握など管理職的な役割を果たし(男性は単に労働力としてこき使われているに過ぎない)、育児・教育面でも子供を支配し(この間、男性は自動的に、蚊帳の外に置かれている)、子供が成長しても、自分に対して甘えや依存心を持ち続けるように絶えず制御することで、強固な「母性社会」を築き上げている。

日本のメンズリブに関わる人々は、こうした、自分の「男性優位」の価値観を根底から突き崩す社会的事実から、無意識のうちに目を背けてきた。日本のメンズリブの弱さは、まさに実質的な女性優位という、日本社会の現実に対応できていない、その点にある。

これからの日本のメンズリブには、その考え方を、従来の「男性優位」から、「女性優位」を前提としたものへと、180度転換させることが必要である。「強者の余裕」など、もはや存在しないのである。

日本のメンズリブは、少なくとも、女性と対等な立場に立つために、従来、ウェット=女性的であった日本社会の性格を、少しでもドライ=真に男性的なものに変えることを目指すべきである。そのためには、ドライな行動様式、すなわち真の個人主義、自由主義などを、少しでも早く、よりよく、身に付けるための「精神のドライ化」運動を起こすべきだろう。

また、従来、「一家の大黒柱」などとおだてられて来たのが、実は、単なる労働力として、母や妻の管理下でこき使われて来ただけ、という真実にも、早く気づき、その現状から一刻も早く脱却すべきである。女性の管理下から脱却するには、例えば、家計管理権限を、女性と共同で持ち合う比率を高める運動を進めることなどが考えられる。あるいは、女性が独占して来た、子育てにも積極的に関わり、自分の価値観を、少しでも子供に伝える努力をすべきだろう。また、女性の持つ家庭内での影響力を少しでも少なくするために、彼女らを積極的に、職場という「外の世界」へと進出させるべきである。家庭の外に出ようとする女性と入れ替わりに、家庭の中に入ればよいのだ。

最大の障害は、日本男性が無意識に持つ、女性への「甘え」、依存心である。日本のメンズリブは、女性を「母性」の権化として、母親や妻などに、精神的に頼ろうとする現状の日本男性の持つ傾向から、男性を何とかして脱却させる方策を練らなければならない。

日本男性=「母男」(母性的男性)論

日本の男性は、個人の独立や自由といったドライで父性的な価値ではなく、相互の一体感、甘え、懐きの重視、集団への所属の重視といった、ジメジメ、ベタベタしたウェットで母性的な価値観に支配されている。要は、父性を失った母性的な男性なのであり、「母男」(母性的男性maternal male)と呼べる。「母男」は、母性の漬け物と化した男性である。

一方、欧米の女性は、個人の独立や自由、自己主張といった父性的価値観に支配された、相互の一体感、相互依存を重視する母性を失った父性的な女性であり、「父女」(父性的女性paternal female)と呼べる。「父女」は、父性の漬け物と化した女性である。

それに対して、日本女性は、本来の母性を保った母性的な女性であり、「母女」(母性的女性maternal female)と呼べる。
また欧米男性は、本来の父性を保った父性的な男性であり、「父男」(父性的男性paternal male)と呼べる。

「母女」「父男」は正常であるが、「母男」「父女」は問題である。

では、なぜ「母男」「父女」が問題なのか?それは、彼らが、両者とも共通に、自分とは異質の異性によって支配される社会的弱者、本来持つべき生物学的特性を異性によってそぎ落とされ、殺された社会的無能者と化した存在だからである。

それに対して、「母女」「父男」は、本来の生物学的性の持つ特性をそのまま社会の中で発揮できる理想的な存在であり、社会的強者でいられるのである。要は、「母女」は相互の一体感、協調性を基調とする母性的態度が必要な農耕社会=母性的社会、「父男」は個人の独立を基調とする父性的態度が必要な遊牧・牧畜社会=父性的社会の中で、メジャーな支配者として君臨できるのである。

一方、「母男」「父女」は、それぞれ、母性的農耕社会、父性的遊牧・牧畜社会の中で、マイナーな被支配者としての立場に甘んじることになる。

日本は、稲作農耕社会の例にもれず、母性の支配する社会であり、そこでは、男性は「母男」、女性は「母女」となり、女性の勢力が男性を上回っている。

「母男」である日本男性は、母親と強い一体感で癒着したまま成長し、その過程で、本来持つべき父性の発達を母親によって阻害され、精神的に母親に依存したままの状態で大人になる。その点、「母男」は、いつまでも母親の息子の立場から脱し得ない男性の問題を明らかにするマザー・コンプレックスの概念と深い関係があると言える。(同様に、欧米女性=「父女」は、父親に精神的に依存し、父親の娘の立場から脱し得ない点、ファザー・コンプレックスと関係する。)

「母男」=日本男性は、会社とかの所属集団に母性的に包容されることを要求する。日本の会社や官庁は、その主要な構成要員が男性なのにも関わらず、相互の一体感、所属感を重視する母性的な雰囲気に包まれているというのが実態である。

彼は、家庭に帰れば、「母女」である妻に対して、母親代わりに心理的に依存する「大きな子供」である。また、家計管理や子供の教育といった家庭の主要な機能は「母女」である妻に独占されていて、家庭の中では居場所がなく、疎外された存在である。

彼は家庭内で子供に対して、精神的な影響力を持つことができず、その子供は再び「母」と癒着し、父性の発達を阻害されることを繰り返す。

「母男」である日本男性は、社会的弱者の立場を脱するためには本来、欧米男性のように、父性を正常に発達させた「父男」となるべきなのであろうが、仮にそれを実現すると、旧来の稲作農耕社会の伝統と対立することになり、社会の混乱を招くことになるという側面もあり、問題はさほど簡単ではないと言える。

日本男性はなぜ家事をしないか?

日本においても、近年、男女共働きの家庭が増えている。その際、女性の側から問題とされるのが、日本男性が家庭において、炊事、洗濯等の家事をほとんど手伝わず、職場に直行して仕事ばかりしているということである。

それでは、なぜ、日本男性は家事をほとんどしようとしないのであろうか?

筆者は、その答えは、実は、日本の女性側に原因があると考える。この場合、女性というのは、男性の母親や、専業主婦の妻を指す。

従来、日本においては、男性の母親は、自分自身では社会的出世を直接行わず、自分の息子を「自己実現の駒」として、学校、職場で、いい成績を取らせて出世、昇進させ、自分自身は彼らの管理者となることで、社会的に偉くなった息子の内側から、日本社会を間接的に支配してきたのである。

そのように、息子を、学校、職場でいい成績を取らせて、ひたすら出世、昇進の道を歩ませるには、息子の母親は、学校での勉強や、職場での仕事以外の、それらに差し支えるような家庭の様々な家事は、なるべく息子にさせず、自分が代わりに全てやってあげようとする。息子の方も、母親のそのような態度にいつの間にか慣らされて、自分は勉強、仕事だけやっていればいいんだ、その他のことは皆母や妻がやってくれるんだと思い込むようになる。

これが、日本において男性=母親の息子が、勉強、仕事以外の家事をしなくなる一番の原因であると言える。原因は、男性を社会的になるべく効率的に出世、昇進させようとする男性の母親の態度にあるのである。

この男性の母親の態度は、男性の(専業主婦の)妻にも引き継がれる。妻は、男性が社会的に出世、昇進して、偉くなり、それに伴って、自分の社会における扱いが例えば「社長夫人」とか言われるようになって向上したり、男性が出世するのに伴って収入が増えて、自分もよい暮らしができるようになることを望んでいる。

そこで、妻は、男性を、職場での仕事に専念させて、それ以外のことに神経を使わなくて済むように、仕事以外の家事は全て自分が賄うという姿勢を見せる。それが、男性に、「ああ、自分は家事をやらないでいいんだな、仕事だけしていればいいんだな」と思わせるのである。

最近は、日本の若い女性も、あまり家事をしなくなってきているという話がある。これも、娘の母親が、娘のことを「自己実現の駒」として、勉強、仕事に専念させ、家事は全部自分が代行する態度を見せているからに他ならない。この背景には、男女雇用機会均等法とかの導入で、女性も、職場で一生懸命仕事をすれば、男性と同じように出世できるとする、「女性による社会の直接支配」の道の整備が開始されたことと関係している。

今までは、娘は、自分自身は直接社会的出世を行わず、男性のもとに嫁いで、家事を全部やる代わりに、男性(夫や息子)を職場での仕事に専念させ、ひたすら男性(夫や息子)の尻を叩いて、出世させようとしてきた。言わば、夫や息子を経由した間接的な社会的出世を行っていたのである。それが、今度は、自分自身が直接出世する道が開けたため、今までのように、家事を女性ばかりする(男性がしない)のが急に不公平に見えるようになって、不満の声を上げているのが実態であろう。

この問題を解決するには、どうしたらいいか?それには、男性を「自己実現の駒」としてその尻を叩いて出世させようとする、言わば「社会の(男性を通じた) 間接支配」をしようとする女性の数を減らすことが第一である。男性が勉強、仕事ばかりして、家事をしないのは、彼女らの態度が根本原因であるからだ。

そういう点で、「男性が家事をしないのは不公平だ」と非難の声を上げる女性たちの本当の敵は、実は男性ではなく、(男性を「自己実現の駒」として極限までこき使うために、家事を男性に代わって全て代行しようとする)男性たちの母親や、専業主婦指向の妻であると言える。そういう女性たちが減らない限り、職場での仕事指向の女性の(男性に対して)感じる不公平感はなくならないであろう。

要は、彼女たちに、男性を通さず、自分自身で、直接社会の中で偉くなるように方向転換させる必要がある。特に、男性の母親たち+専業主婦指向の妻たちをそういう「自己実現を男性に頼らず、自分自身で行う」方向に持っていく必要がある。

そのためには、そうした女性たちに、家事以外の、職場での仕事をこなしていくための能力を付与していくことが必要となる。要は、彼女たちに「職業訓練」をさせるのである。

ここで問題なのが、彼女たちが、家事以外には、余りこれといった職業的能力が身についていないことがあげられる。そこで考えられるのが、家事それ自身の職業化である。要は、各家庭において、家事の全面的なアウトソーシングを行い、家事の外部委託を大幅に増やすのである。その委託業務に、「家事のプロ」である彼女たちを投入するのである。要は、炊事、洗濯を外部社員が代行するようにし、その外部社員としての仕事を彼女たちが行うと言う訳である。

それも、家政婦として働く訳ではなく、炊事なら、食事を外部の大規模な給食会社センターで作って配達する。洗濯なら、洗濯物を各家庭に集配に来て、従来のドライクリーニング業と同様に工場で集中的に洗濯を行い、再び、各家庭に済んだ洗濯物を届けるというのを、大きな会社組織として分業して行うのである。そして、その会社の主要業務を、それらに慣れている女性たちに担わせるのである。そして、それらの会社で、彼女たち自身が、自ら(従来の男性同様)職場での仕事に専念して、昇進、出世競争を行うのである。

こうすることで、そもそも会社の仕事と、家庭の家事という分け方自体が消滅する(全て会社の仕事に一本化される)ので、従来の、「男性は家事をしないので、一方的に家事の負担が来る女性には不公平」という論調は成り立たなくなる。要は、従来の家庭における家事を、炊事、洗濯会社の職場での仕事として外部委託することで、「男性も女性も、(仕事以外で)家事をしなくて済む」ようにすればいいのである。

これは、子育ても同様であり、手間のかかる作業は、保育園、幼稚園によるアウトソーシングを積極的に活用することで、従来女性に負担が偏りがちだった作業を低減することができ、女性が職場での仕事に専念できるようになると考えられる。

男性にとっても、家事や育児をせずに、今までどおり職場での仕事に専念しても、何ら非難をされる筋合いがなくなることになり、「男は仕事」という価値観をそのまま維持することができるというメリットがある。もっとも「女は家庭」という価値観は放棄しないといけない。

あるいは、男性たちは、女性たち(母、専業主婦指向の妻)による「自己実現の駒」としての役割、プレッシャーから解放されることで、今までみたいに母、妻の(男性自身の社会的昇進に対する)期待という精神的重圧から解放され、より自由に精神的余裕を持って生きることができるようになるメリットもあると言える。

「家庭内管理職」論



「家庭内管理職」論

日本社会は、政治家や官僚によって支配されている、とされる。
しかし、実際には、その官僚を支配するさらなる支配者がいる。
政治家・官僚の「生活管理者」「さらなる上司としての家庭内管理職」=主婦である。
 

日本の専業主婦=無給家事労働者論は、打破されるべきである。日本の女性は、家庭において、実際は、単なる労働者ではなく、家族成員の生活をコントロールする、家庭内管理職とでも言うべき地位についている。

日本の女性が男性の給料(労働の対価)を全て召し取って、自分の管理下に置く。その点、労働者たる男性を支配している。男性が、自分が被支配者の立場にあることに気づいてしまうと、男性が女性に対して反乱を起こしかねないので、一家の大黒柱とか、家父長とか言って、わざと崇め奉って、必死に、気づかれないように取り繕おうとする。

フェミニズムは、女性の弱い面、被害者の面にのみスポットを当てて騒ぎ立て、女性の強い面=既得権益(家計管理、子供の教育)については、知らんぷりするか、ことさらに無視し否定する。この女性の占める既得権益こそが、「家庭内管理職」としての側面なのである。

家庭内管理職の概念について整理すると、「家族員の生活を、管理・制御する者」と定義される。具体的には、

1)夫を管理する妻
2)子供を管理する母

として立ち現れる。

一方、欧米では、男性が、この家庭内管理職の地位についていると考えられる。すなわち、


 






日本 妻の監督・管理下で、給与稼ぎに従事する夫
欧米 夫の監督・管理下で、家事労働に従事する妻

 という図式が成り立つ。

女性が家庭内管理職の地位についていることは、日本の家庭における実質的な女性優位を示す。

日本における家父長制は見かけだけと考えられる。

女性が、家父長制をやたらと持ち出すのは、妻と姑という同性同士の対立(権力闘争)が根本の問題である。
女性は、同性間の相互の一体感を重視する。
同性同士の結束が弱い(仲が悪い、バラバラである)と見られるのをいやがって、異性の夫(息子)のせいにする。
 

日本女性の勢力が、「内」=家庭内限定であった理由は、戦闘や戦争状態を前提とした社会である、武家社会の名残と考えられる。戦前の日本社会も、陸海軍の発言権の強い、「武家」社会の一種であったと考えられる。戦闘や戦争が多く起きる状態では、外回りに危険が多い。したがって、生殖資源として貴重品たる女性を外に出すわけには行かないからである。

女性の方が、生物学的に貴重であることを説明したページへのリンクです。

日本男性(例えば、九州男児)は、威張って、身の回りの細かいことを妻にやらせることが多い。彼らは、自分からは何もやらず、動こうとしない。その根拠は、「怠け者=上位者」理論として整理できる。すなわち、仕事をしないでのんびり怠けて過ごせる者が、そうでない者よりも上位にある、という考え方である。

しかし、これでは、妻がいないと、自分一人では何もできない。言わば、妻に生活上の生殺与奪を握られている。妻に対して頭が上がらず、結局、弱い立場に追い込まれることになる。
 

日本女性は、家庭に入ることを求められる。職場で昇進しにくい。肩たたきで会社を辞めざるを得ない。
それは、職場で無能だから、という訳ではない。


日本女性が、社会から家庭に入ることを要請されている本当の理由は、家庭内管理職、すなわち、職場で働く者の生活を管理する者の方が、社会的に重要で、地位も高いから、そちらになってもらいたい、ということなのではないか。

日本の男性は、本当は、女性に家庭に入ってもらわない方が幸せである。

日常の生活を管理されないで済む。気の進まない(賃金)労働や、組織での昇進競争へと追い立てられなくて済む。

しかし、女性への心理的依存があるから、入ってもらわずに済ますのは無理である。

 

性別分業は、女性差別とされている。

しかし、必ずしも、女性に不利な差別がされている訳ではない。

「女は内、男は外」という場合、「内」の方が、家庭内管理職の役割を持つことが出来、地位が高い(欧米とは逆)。

「内」の方が、苛酷な自然環境に直接さらされないで済み、生存条件としては良好である。

日本では、妻が母艦の役割を果たし、夫は、母艦から飛び立って、職場で労働し、給与と共に帰って来る飛行機である。

母艦は、飛行機に出発や給与渡しなどの指示を出し、管理する。

母艦は永続的な場なのに対して、飛行機に乗るのは、一時的である。

職場は、一時的な滞留の場であり、最終的には母艦に帰らなければならない。

最終的な居場所である母艦たる家庭を支配する女性こそが、社会の強者である。

日本の父は、子育てに関わろうとしないと非難される。しかし、日本の父は、例え子育てに参加しても、補助労働者としてこき使われるだけであり、子育ての主導権は握れない。主導権は、女性=母の手にある。日本の父親には、子育ての権限がもともとなく、子育てから疎外された存在である。家事についても同様で、決定権が妻の側にある以上、夫は補助労働力に過ぎない。夫が家事にやる気を出さないのもうなずける。一方、欧米の父親が、家事や子育てに積極的に関わるのは、彼が、家庭内管理職として、家事や子育ての内容について、最終的な決定権を持っているからだと考えられる。次に何をすべきか決定する権限を持っていれば、当然、やる気が起きるであろう。

専業主婦は、社会的地位が低いと見られがちである。しかし、その様相は、欧米と日本とで大きく異なると考えられる。

欧米の主婦は、夫の管理下で下請け的に働く、家事労働者に過ぎず、その地位は、本当に低い。


日本の主婦は、もちろん、家事労働者の側面もあるが、実際には、家庭内管理職として君臨し、管理される夫よりも常に1ランク上に位置する。日本の主婦は、家族の生活を、隅々まで、制御・規制して、収入管理・分配権限、子供の教育支配権限を一手に握る。家族の健康な生活を守る、生活管理者、監督としての役割を担っている。

日本家庭では、買い物の順番として、子供のもの→妻のもの→(余ったら)夫のものという優先順位が付いていると言われる。妻のものが夫のものより優先される点に、女性支配の現実が見える。





日本女性と家計管理権限



日本女性と家計管理権限





1.小遣いと大蔵大臣

日本では、自分で他人を養うだけの給与を稼ぐ役割を男性がもっぱら担っていることが、男性優位(家父長制)の証拠と見なされる。

女性の立場が弱いのは、自分で給料を稼がないからだとされる。

上記の意見は、おかしいのではないか?

給与を稼ぐ立場にあることが、強い立場(家父長)にあることの証拠とは必ずしも言えない。

日本では、男性が稼いだ給与は、一昔前の給料袋から、現代の銀行振込に至るまで、男性によってほとんど何も手をつけられずに、女性の下に直行する。

日本では、女性が、家計を管理し、家計における、最終的な、予算配分決定の権限を握っている。彼女は、大蔵大臣と称される。

総務庁青少年対策本部「子供と家族に関する国際比較調査」1994では、日本において、家計管理を行っているのが、夫と妻とを比較したとき、60%以上妻が行っているとされており、日本女性が家計管理権限を独占的に掌握していることを裏付けている。

男性は、女性から改めて、小遣いを支給される。

男性は、小遣いの額を、女性と交渉しなければならない。額を最終的に決める権限は女性が握っている。

給与の使い道(予算配分)を決定するのが、本当は、家父長たらしめる役割のはずだが、日本では、この役割は、女性に占領されている。

給与を単に稼ぐだけで、稼いで来た給与の使い道配分を決定する権限がないのでは、日本の男性は、家計管理者=大蔵大臣としての女性の下で働く(こき使われる)下級労働者に過ぎない。

家計管理の権限を最初から剥奪され、小遣いをもらう立場に甘んじるのは、家父長とは言えない。

日本の女性は、女性は男性に養ってもらう被扶養者であるから、男性よりも立場が弱い、とまくし立てるが、それは、男性の自尊心(自分は偉い)をキープして、よりよく働かせる(給与を稼がせる)ための口実に過ぎない。

日本の男性は、お金を生み出す打ち出の小槌(大工道具)であり、女性は、打ち出の小槌を使う大工である。女性は、小槌によって生み出されたお金を取り上げ、自分の手元で管理する。男性は、主体的に自らを管理する能力を持たないため、管理者たる女性に頭を下げて、小遣いを恵んでもらわないといけない。

日本の男性は、女性によって、一家の大黒柱と持ち上げられるが、本当は、女性の管理下で働く下級労働者に過ぎない。女性によって、収入を吐き出させられ、ちゃんと仕事をするように監視される。日本社会は、「鵜飼型社会」であり、男性は、鵜飼である女性の管理下で、魚取りに従事し、捕まえた魚を吐き出させられる鵜鳥の役割をさせられている。
 

日本では、夫は、財産の所有権、名義は持っているが、その財産を自分の自由に動かしたり管理する権限は持っていない。一方、妻は、財産の所有権、名義は持っていないが、その(他人名義の)財産を自分の思い通りに、自由に使ったり管理する権限を持っている。

両者のうち、どちらが強いか?

性別を伏せて、Aさん、Bさんとして聞いてみたらどんな結果が出るだろうか?
 

2.日本専業主婦の地位と財産

専業主婦は、自分の食べる分の給料を稼がないから、地位が低いとされてきた。このことは、今までの日本における男性優位の根拠となってきた。それは果たして正しいか?
日本の専業主婦は、家庭における資金の出入りを、最終的に管理し、決定する権限を持っている。家計管理者として、給料の使い道を管理し、何に使うかを決定する。こうした財産管理・使用権限は、夫に対しても、小遣い支給という形で行使される。
従来、家庭において認められて来た財産形成(生成)・所有権限(主に夫が保持)とは別に、財産管理・使用(配分)権限というものの存在を、新たに認めるべきである。いくら、形式的に財産を所有していても、実際に使う権限を持っていなければ、意味がない。その点では、財産管理・使用権限の方に比重を高く置いてみるべきである。欧米では夫がこちらの権限も保持しているが、日本では、この財産管理・使用権限は、妻が保持している。
 
 






権限の強さ 欧米 日本
財産形成(生成)・所有権限 形式的・弱い
財産管理・使用(配分)権限 実質的・強い

従来の日本におけるフェミニズムが唱える家父長制についての議論では、財産形成・所有権限の方ばかりに目が行って、財産管理・使用権限について注意が行き届いていない。後者の存在に注意すれば、日本の家族=家父長制という結論は、絶対出ないはずである。

ただ収入を入れるだけで、自由に使うことができない(再配分の権限を持たない)、小遣いを、妻に対して、頭を下げて、もらわないといけない夫(彼は、妻の管理下で、下請けの給与稼ぎ作業に従事する)よりも、最終的な使用(収入の再配分)権限を握っている妻の方が、地位は高いのではないか?

日本における、「稼ぎ手(一家の大黒柱)がえらい、強い」コール、大合唱は、財産管理権限を握っている=本当に力を持っているのが、妻(女性)であることを隠蔽するため、女性によって、意図的に行われている。隠蔽することで、男性の自尊心を高い状態に保持し、自分たちに有用な働き(強い盾としての防衛者の役割、給与を稼ぐ労働者としての役割)をさせるのが目的である。「男性上位」を信じ込む男性は、女性によって、担がれているのである。

妻に対していろいろ威張って命令するが、妻がそばにいないと何もできない夫、家の中の物がどこにあるか、全て妻に管理されているため、全く分からない夫は、妻によって生殺与奪の権限を握られており、実際には、弱者である。

家計管理権限を、なぜ日本の女性が取れたか?

日本のように稲作農耕栽培行動が主流の社会では、態度のウェットさを要求される農耕活動により適するのは女性であり、環境適応力・環境合致度が、男性よりも強いのが原因と考えられる。

日本フェミニズムは、都合の悪い事実を隠す。女性が財布の紐を握ることなど、無視する。臭い物にふたをする、こうした姿勢は改められなければならない。

日本女性と国際標準

フェミニズムは、男性優位社会での女性解放をうたったものである。
これを、日本社会へと強引に当てはめた結果、
「日本は、男社会である(見かけはそうかもしれないが、きちんと調べれば、実態は違うことがすぐ分かるはず。敵はいない。)
したがって、男性に匹敵する(伍する)には、男性的にならなければならない。」
と考え、女性らしさを捨てようとした。

この際、女性は、誤りを犯そうとしている。
日本は、本当は、女性優位社会=「女社会」である。日本社会は女々しい。もともと日本の男性は、男性的でないのに、自分は男性的だと勝手に思い込んでいる。
女性は、男性的になろうとすることで、自ら、女性優位という強さの基盤(もと)を捨てて、「女社会」を壊そうとしている。

男性に伍するには、ドライ化=男性化しようとしても限界がある。欧米女性の二の舞になってしまう。
女性の本質を生かした方が、強いのではないか。
ウェットさ=女性らしさを保ったままで、職場・職域進出すればよいのではないか。
日本の職場はもともとウェットなのだから十分可能(女々しいままで適合的)なはずである。

現代日本社会は、ドライで男性の強い欧米社会の規範を真似ている。

日本女性は本当にドライか?

筆者が行った、ドライ・ウェットな心理テスト調査結果では、日本女性は、「自分の性格に当てはまるのはどちらですか?」という問いに対して、ドライな項目の方を選択することで、自らの女々しさを否定した。
男性的な欧米先進国に習おうとした。真似すべき成功の前例である、先進国という権威に弱い。

社会において、ウェットさが否定されることにより、本当は、本来ウェットであるはずの、女性の立場を弱くしている。
見かけは、Lady First~男女平等・同権なので、女性の立場を強くしているように見えるが。

女性は、伝統的な日本社会のように、ウェットな社会では、水を得た魚のように、主流派コースを歩めるはずである。
自分たちのペースで社会を引っ張れるはず。

女らしさは、国際標準から外れた行動様式である。
日本女性は、自らの女らしさ(女々しさ)=ウェットな行動様式を否定し、国際標準のドライな行動様式に合わせて、男らしくなろうとしている。しかし、地金がウェットなので、ドライになりきるのは無理であり、「擬似ドライ化」するにとどまる。

日本女性は、国際標準の行動様式を、ドライ=男性的=欧米的と考え、それに権威主義的に同調する。日本も先進国の仲間入りをした以上、当然ドライであるべきと考える。これは、伝統的な、脱亜入欧の考えに通ずる。ドライな社会向けの欧米理論であるフェミニズムを日本に当てはめて、何ら問題を感じない。国際標準の理論だから、ぜひ日本にも当てはめるべきと考える。それが正しい研究だと、思い込んでいる。

国際標準の行動様式を、ドライ=男性的と捉えることは、世界的に、男性優位=家父長制が標準だ、と考えることに通ずる。家父長制およびそれを告発するフェミニズムを世界標準とみなし、日本社会へと、機械的に、「上から」権威主義的に導入しよう、合わせようとする。日本が世界標準に追いついた、とか、標準に合わせている、という考えから、日本は家父長制社会だとする。日本社会は、前近代=封建制状態では、その性質はウェット=女性的で、国際標準からは外れているにもかかわらず、日本のフェミニズムでは、家父長制だとされている。国際標準に合っていても、外れていても、日本社会=家父長制という結論を導き出している。伝統(前近代、封建)日本的=ウェット=女性的という結びつきに気づいていないためと考えられる。

日本社会についての国際標準から外れた結論(日本的=女性的=ウェット)は、いずれ標準に追いつくと考えるなどして無視するか、国際標準に合わせて曲解する。欧米の研究結果を直輸入し、それにそぐわぬ現象を、無視・曲解するか、日本社会の現象を、欧米理論へと強引に当てはめる。

例えば、女性が握る家計管理の権限(財布を握ること)には、全く言及しようとせず、給与・収入を自らは稼がない点に固執し、無給の家事労働者の側面のみを強調して、女が弱い証拠とする。

あるいは、女性による育児権限の独占については、父親が育児を手伝わないことを、女性への育児労働押し付けとして、自ら進んで育児権限を放棄しようとしている。子供を自分のコントロール・支配下に置くことができる、とか、自分の言うことを聞く子供を作り出し、自分が生き続ける限り支配することができる、というのは、育児権限を持つことの大きな役得であるが、それを自ら放棄しようとしている。これは、権力論からみれば、自ら手に入れた権力を、進んで放棄する、という馬鹿げた行為を平気で行うことである。それとも、権限を全部放棄するのではなく、育児主体はあくまで自分=女性が保持し、父親を育児時の補助労働力としてこき使おうとする発想なのか?

ないし、男尊女卑についても、見かけ上の、行動面における男性優先を、その本質である、弱者である男性の保護、男性の人権保障、弱者優先(年寄りにバスの座席を譲るのと同じ発想)という点に気づくことなく、男性による女性支配の現れと決めつける。

女らしさを世界標準とすることが、フェミニズムの最終目標となるべきである。そのためには、欧米のドライな行動様式は、手本とすべきでない。

日本主婦論争に欠けている視点

日本社会には、母性が充満しているとされる。これに対して、女性学者やフェミニストたちは、母性的であることを、いけないこととして、攻撃する。

母性は、女性の、自分の子供に対する態度であり、女性性の一部である。
女性が、男性を、自分の子供のように慈しむ態度が広く見られる。
女性は、母親としての地位は、子供の役回りを演じる男性よりも強大である。
これらの事象は、日本社会における、女性優位・優勢の証拠であるはずなのに、なぜかそのことに気づこうとしない。
論者が、独身者だったり、若い未婚の女性が多いことが原因か?

既存の日本の主婦論争の視点は、

(1)主婦=無給の家事労働者、という視点ばかりである。
家庭の管理者である、男性の生活を管理している、という視点や自覚に欠けている。
社会で、女性の生活管理下で働く、労働者の役割を担っているのは、男性の方である。
主婦は、むしろ家庭内管理職として、男性の上に立って、その生活ぶりを指示・コントロールする役割を担っている。
女性が、家庭における、生活管理者 Life Managerの立場にあるという視点に欠けている。
無給という言葉にふさわしいのは、稼いだ給料をそのまま主婦の手元に直行させて、自分では配分の権限がない、男性の方ではないか?

(2)収入を得る場=職場中心の視点ばかりである。
「社会進出」の言葉が示すように、家庭を、社会に含めて考えようとしない。
職場を含めた社会の総合的な母艦としての役割を果たす、家庭中心の視点が、なぜか取れない。

(3)家庭の財産の名目的所有者(名義)が誰か、という視点ばかりである。
夫への小遣い額決定など、自分が、強大な家計管理権限を持っている=家庭の財産の実質的な所有者であることに、目が向いていない。

(4)誰が収入の稼ぎ手か、という視点ばかりである。
彼女たちは、稼ぐのが誰かという方にばかり注意が行って、使う権限を自分たちが独占していることに、ちっとも気づいていない。

彼女たちは、自分たちに欠けている視点に、
(1)気づこうとしなかった、気づくことを巧妙に避けた
気づいてしまうと、日本社会が、自分たちが導入しようとする、フェミニズム理論通りにうまく説明できなくなる
(2)気づかなかった
頭が、欧米理論を消化・吸収することで手一杯になっていて、社会の現実に対して、無知であった

専業主婦を求めて



1.専業主婦を求める男性

仕事で家を離れる女性は、家庭内での発言力・支配力が低下する。男性にとっては本来喜ばしいことのはずなのに、妻には家にいて欲しいとする男性が多いのはなぜか?女性への依頼心がそうさせる。女性を、母親がわりにして頼ろうとする。本来ドライであるべき男性の中に、ウェットさや女々しさが蔓延している。

女性は、伝統的な性役割からの解放を唱えている。伝統的な性役割では、自分たちの支配力が強いにも関わらずである。その理由は、ライフコースに従って変化する。
(1)結婚してからしばらくの間は、特に育児の面で、負わされる負担が大きい。とても忙しい。子供の都合に合わせて、自分のしたいことを我慢しなければならない。家事の面でも、家電製品の導入など省力化が進んでいない頃は、大変だった。

この場合、女性が
(a)家政面での主導権を引き続き維持しつつ、握りつつ、補助労働力として、男性に期待するのか?
(b)家政面での主導権も、夫婦で分担する。真の男女平等を目指すのか?
によって、男性の取るべき態度が変わってくる。補助労働力としてこき使われるのは、拒否すべきである。できるだけ、男女平等の主導権分配を行うべきである。


(2)結婚して大分経って、子育てが一段落し、家電製品の導入で家事の省力化が進むと、ひまになり、生きがいがなくなる。子育て後は、やりがいがなく、時間の空白ができやすい。専業主婦が価値ある職業と映らなくなる。専業主婦以外の職業をメインにしてみたくなる。男性の占める職域に進出する機会が欲しくなる。




日本の会社・官庁は、もともと、女性向きと言えるウェットな雰囲気の職場なので、女性は、本来、結構有利なはずである。




日本の組織のウェットさならではの問題点は、

同質性や閉鎖性が高く、最初に白紙状態で入った者=新卒者にのみ心を許し、組織風土を覚え込ませる(白装束を着る嫁入りと同じ)。組織の外部に一度去った者や他の組織に属していた者が、もう一度入り込むのが難しい。女性の場合、子育てに忙しく、就業にブランクができてしまうので、いったん組織を去る必要があるが、組織の閉鎖性は、これと矛盾する。育児休業制度は、組織に連続雇用してもらうことを前提としたものであり、組織内でのキャリアアップを目指すならば、不十分でも、耐えなければいけないのが現状である。

男性は、自分自身を解放したければ、女性の職場での中途採用への道を開くべきである。


ちなみに、妻が働きに出るのをいやがる夫は、
(1)自分の稼ぎが少ない、と周囲に映るのが、自分の能力を否定されるようで面白くない。
(2)妻に、自分の家を守っていてもらわないと、不安である。
(3)自分が帰宅したときに、温かく出迎えてほしい。
といった欲求を持っている。

しかし、それでは、妻に、家計管理や子供の教育の権限を、いつまでも握られ続けて、被支配者の立場に甘んじることになる。
自分が家を空ける時間が長いため、家族に対する影響力が少なくなる。
子供たちから、じゃまに扱われ、疎外される。


2.女性の、職場での性差別

女性に対する職場での性差別の背景には、女性に家庭にとどまってもらいたいという、「専業主婦願望」とも言うべき、男性側の欲求があると考えられる。

現状を変動させようとする側(女性)は、それなりの、変動しない方向への反発力を受ける。

女性が職場進出してしまうと、男性は、家庭のみならず、職場でも、女性に支配されかねない。男性は、自分たちの居場所がなくなるのを恐れて、女性の進出に反発する。

日本の男性は、現状では、自分の存在理由が、給与を稼ぐ、収入をもたらすことにのみある(収入の管理、使用用途別の予算配分などは、女性の手に握られてしまっている)。女性が進出すると、男性は、自分の存在理由を失ってしまう。

職場での性差別は、男尊女卑で、女を見下して、組織内の重要な地位につかせようとしない姿勢ももちろんある(それ自身、日本社会において女性の方が力が強いという実勢を反映しない、空虚な態度である)。

しかし、性差別は、実際のところ、「家庭内管理職待望論」とも呼べる、女性に家庭に入ってもらって自分の事を、自分の母親のように管理してもらわないと不安である、それには、女性に家庭に手っとり早く入ってもらうための方策として、職場に残ってもいいことはないよと女性に示せばよい、という考えによって引き起こされている面が大きい。




そういう点では、職場での性差別は、日本男性の、女性を母親代わりにして依存しようとする心と表裏一体のものであり、性差別をなくすには、男性の女性への依頼心をなくし、自立した存在にさせることが必要である。女性側でも、男性(自分の息子など)から自分への依存心をなくし生活面で自立させることが、女性自身の職場への進出を早めることにもっと気づくべきである。そういう点では、女性の職場進出の進展の条件は、日本の家庭における女性(母性)による男性支配を終わらせること=従来の母性的主婦観の解体でもある、と言える。

日本のフェミニズムを批判する

〔1.現在の日本のフェミニズムが抱える問題点〕

現代の日本のフェミニストの主張は、以下のような問題点を抱えていると考えられる。

1)女性が、男性より、必ず恒常的に弱い、とする偏見がある。19世紀に欧米で出た説である「女性の世界史的敗北(母権→父権への全世界的移行)を、新しい資料と照合せず、無検証のまま、定説として信じ込んでいる。東アジアの稲作農耕社会の社会心理的な実態(集団主義などウェット=女性的である)を、提唱者のEngelsらが熟知していたとは考えにくい。

2)男女の心理的性差についての研究成果を、考慮に入れていない。社会のあり方(ドライ/ウェットなど)と、心理的性差のあり方との照合を行わないまま、女性が優位の社会は存在しないと断定している。日本社会については、「日本的=ウェット=女性的」という相関が成立する。日本では、女性が男性よりも勢力が強いからこそ、「日本的=女性的」となるのである。日本社会は、事実上、女性優位の社会という見方が成り立つのであって、このことは、日本のフェミニズムの主張とは相いれない。

3a)再生産過程についている専業主婦を、生産過程についている職業人より劣ったものとみなす偏見がある。

3b)「男は仕事、女は家庭」といった性別分業を、一方的な男性優位=家父長制と見なして、性差別と批判する、過ちを犯している。性別分業は、男女間で、生物学的貴重性が異なる以上、女性が強い社会でも、起こりうる(男性は危険な外回りの仕事に従事し、女性は安全な内回りの家庭を主な暮らしの場とする、など)。男女どちらが優勢かは、性別分業が存在するということだけでは決まらない。男女どちらが、社会において、管理者的な重要な役割を果たしているかにより決まる。日本では、女性が男性の生活管理者として、家計管理権限などを全面的に掌握しているので、女性の方が優勢と考えられる(たとえ男性が首相だったとしても、その妻は、「首相の生活管理者」として、首相よりもさらに1ランク上の存在として君臨している)。

3c)日本では、男性が稼いだ給与の実質的な管理権限を持つのは女性なのに、その事実を無視して、名目的な所有名義のみにこだわっている。

4a)母性の優越(母子癒着)を、女性による社会支配と捉える視点に欠けている。

4b)女性主導による育児を、本来なら社会の女性化=女性優位を実現するものとして喜ぶべきなのに、「社会(職場)進出のじゃま」としてnegativeに捉えている(男性の育児への介入機会が増加する可能性が増えるので、男性をむしろ利することになる)。

5)日本のフェミニズム・女性学自体が、「女性が弱い、差別されている」と大合唱することで、日本の男性を故意に強く見せようとする日本女性の作為(作戦、策略)の現れである。
男性を強く見せるのは、男性を自分たちを守る強い盾として使おうとする意識の現れであり、日本男性の強さは、そうした女性の意識に支えられて初めて成り立つ、「虚像(虚勢に基づくもの)」である。日本社会の見かけ上の主人(公)である男性は、本当(真)の主人には、現状のウェット=女性的な日本社会の体制の下では、永久になれない。ウェットな日本社会の本当(実際)の主人(公)は女性である。

6)女性の社会進出を阻む男性を攻撃する際に、男性側の心理を考慮していない。今まで男性が主に占めてきた職場に、自分とは生理的・心理的に異質な者(女性)が、新たに自分の周囲に進出してくるのを、男性側が、不愉快に思い、阻もうとするのは、人間の心理として妥当である。

〔2.今後の日本のフェミニズムが取るべき途〕

従来、「日本の」フェミニズムで主張されてきたことは、間違っているのではないか?

欧米で主張されているフェミニズムには正当な根拠が認められる(正しい)が、それをそのまま社会のあり方が異なる日本に直輸入して、機械的に当てはめようとするのは、正しくない。

伝統的な日本社会は、むしろ、女性向きにできており、その中で不利益をこうむっているのは、男性の方である可能性が高い(日本人の国民性はウェット=女性的な方向に偏っている、日本の家庭の財務を管理するのは女性である、...といったように、女性が実質的に社会を支配している)。

同じ男女差別でも、欧米と日本とでは、その性質が異なる。欧米では女性の立場が本当に弱いのに対して、日本のそれは、(女性向き社会に不適合を起こす)男性に生活面で依存されることによる負担を、女性が一方的に担わされる、というものである。日本の男女差別は、むしろ女性の立場が強い(男性を上回る)ために起きている。

「日本」のフェミニストは、こうした現実の(女性が強い)日本社会のあり方を、新たな枠組みで捉え直す試みを行うことで、自らが犯した、欧米理論の日本社会への強制的当てはめによる誤り(日本における、男女の力関係について、男性が強いという、誤った説を流したこと)を認めるべきである。

現在の、欧米(遊牧系社会)生まれの理論を、機械的に日本社会(農耕社会)に当てはめるだけの、日本のフェミニズムは、以下のような視点を取り入れて、新たな段階に脱皮を図るべきである。

(1)女性が弱いと見なす、欧米直輸入の部分を全て取り外し(削除し)、女性が強いことを前提とした理論構成に組み換えるべきである。例えば、女性が強い社会において、「強者の負担」が不合理なほど重いので、男性の、自分たちのところへ寄り掛かってくる度合いを、もう少し減らしてもらうには、男性にどのような形で協力を求めていけばよいかを、議論するなどである。

(2)強いのは見かけだけで、本当は、女性よりも立場が弱い、男性への配慮をもっと示すべきである。単純に、(欧米フェミニストのように)男性を強者と見なして攻撃するだけでは、日本の男性は、違和感を感じて心を閉ざしたままであろう。

(3)男女平等を説くのなら、女性に対して、家計管理権限の男性との共有(今までみたいに男性が稼いだ収入の全額を男性から取り上げて、小遣いだけを渡すやり方の廃止)の他、男性も育児に積極的に参加させて、女性向けに大きく偏った国民性をより男性向きの形に変化させること、などを、女性の側も受け入れるよう説得するべきであろう。

「鵜飼型社会」からの脱却

農耕社会は、優位に立つ女性による、劣位の男性に対する生産管理が行われている、「鵜飼型社会」である、といえる。男性は、魚(給料)を取ってくる鵜鳥である。一方、女性は、鵜鳥(男性)を、魚(給料)を取らせるために、船(家庭)から漁場(職場)へと追いやる形で、働かせつつ、鵜鳥(男性)が働いた成果である魚(給料)を、鵜鳥(男性)から、(給与袋まるごと召しあげる、ないし給与振込銀行通帳を我が物にする形で)強引に吐き出させて、取り上げて自分の管理下に置く、鵜匠の役を実行している。鵜鳥(男性)は、実質的には、鵜匠(女性)の下で一方的にこき使われる下級労働者である。

農耕社会におけるメンズリブ=本当の男性解放は、本来男性が生得的に持ち合わせていたが、ウェットな社会に適応する過程で失った、個人主義、自律・自立指向、非人間(メカ)指向など、ドライな生き方の回復にある、と考えられる。
上記のことが果たせぬまま、家事・育児などに参加しても、下級労働者として、女性にこき使われるだけの存在に成り果ててしまう。
育児に参加する場合も、次世代の子供に、自分の生得的に持つドライな行動様式を注入できる場を確保することが条件となる。

女性への職場開放は、従来日本女性が家庭で占めてきた権限を縮小する(女性が、外の仕事に忙しくなって、家庭内の管理に回す時間が少なくなる)。これは、従来、家庭内で影が薄かった日本の男性が、家庭運営の主導権を女性と対等に持てるようになるチャンスである。したがって、「鵜飼型社会」からの脱却のためにも、男性は、女性の「社会進出」に対して寛容になるメリットは、十分あると考えられる。

日本における女性の「社会進出」について

1.はじめに(家庭は「社会」ではないのか?)

現在言われている、女性の「社会進出」とは、従来、家庭に囚われている女性を、そこから解放して、男性が占有してきた「社会」(官庁、企業...といった家庭以外の場所)に進出させる、ことを指すものと思われる。

まず、女性の「社会進出」を唱える人たちは、家庭を社会の一部と見なしていない節がある。

家庭は、誰もがそこから出かけ、仕事などをしたあとで、必ず帰着するところの、社会の「(航空)母艦」のような意味合いを持ち、社会の根幹部分を形成するといえる。その意味で、家庭を社会とを別々に捉える、「社会進出」という考え方は、誤っていると思われる。家庭を支配するものこそが、社会全体の根本を支配すると言ってもよいのである。

2.なぜ日本女性の「社会進出」が進まないか?

なぜ、日本の女性が家庭に囚われてきたか?女性が、家庭に縛られる現象がなぜ起きているか?これについては、(1)生物学的な見地に由来する問題と、(2)日本など、農耕社会固有の問題とに分けて考えるべきである。

(1)まず、生物学的側面について考える。女性の方が、男性よりも、担うところの生殖細胞(卵子)の数が少なく、作りがリッチであり、生物学的貴重性が高い。その点、人間の種としての存続をはかるためにも、女性は、(貴重性が低い男性よりも)より安全が確保されたところに常時とどまり続ける必要があった。それが、「巣」「内」としての家庭であった。一方、家庭から切り離されたところの職場は、より危険性の高い「現場」「外」の世界であり、男性により向いた場所であった。

しかるに最近は、ほとんどの職場では、安全性が高くなった。コンピュータ化が進んで、危険な作業は、みな機械が行い、人間は安全なところにいたままで、職務を遂行できるようになった。その結果、職場は、(生物学的貴重性の低い)男性が占有する必要がなくなってきた。女性の「職場進出」は、十分可能な状態にあると考えられる。

ただし、現状では、職場は、あくまで、日中、家庭から、出かけていって、作業をするだけの場所に限定されており、職場で働いた人間は、家庭に再び帰って、食事をする、寝る..などのことをする必要がある。

今後は、職場にも、家庭同様の「巣」としての機能(一日中占有することのできる、睡眠や食事を取ったりできる、ないし育児の設備が整っている、自分専用の安全な居場所)を持たせること、すなわち家庭と職場との同一化が、恒常的に安全な場所を求める女性が、職場に完全に進出する根本的な条件となる、と考えられる。

(2)次に、農耕社会固有の問題について考える。家庭は、社会の基盤部分を支配する「(航空)母艦」としての役割を担っている。日本のような農耕社会においては、そこは、女性が支配している。従来、外働きしていた日本の男性は、女性に対して、心理的に依存して(甘えて)おり、母親代わりの女性に家庭にいてもらわないと不安である。そのため、女性が家庭から外に出ることに反対する。

したがって、日本社会において、女性がスムーズに「社会進出」するには、家庭が男性による心理的依存の場である状態を止めればよい。具体的には、女性が、男性の母親役から降りればよいのである。より根本的には、男性が女性に心理的に依存する元となる、女性による男性支配をやめて、男性を自立させることが必要である。これには、例えば、育児時に、母親や祖母が子供(特に息子)に、心理的な一体感をあまた持たせないように、自分にあまりなつきすぎないように、甘えないようにすることが必要と考えられる。

日本の男性は、フルタイムの過酷な条件で働けるが、女性は、家事・育児があるからパートタイムでないと働けない、それゆえ、社会進出が遅れているとする見方があるが、これも、家庭において、男性が女性に対して、心理上、全面的に依存しており、それを女性も許容しているため起きる現象である。すなわち、男性が家庭を省みないで働けるのは、女性に、家庭の全てを、心理的に任せているからである。より正確には、家庭は、女性に全面的に支配されているので、任せざるを得ないからである。男性がフルタイムで勤務しようとする強迫感から逃れさせるには、女性が家庭を全面的に支配する状態を改め、男性にも、家庭に心理的な居場所(自分の存在を明確化・肯定する場)を設けてあげる必要がある。

3.男性が女性の「社会進出」を受け入れる条件とは?

日本のフェミニズムでは、女性が家庭に縛りつけられるのは、(欧米の基準から見て)遅れている、として否定するする考え方が強い。しかし、女性が、家庭に留まることを否定すること自体、(家庭が男性主導のものであり、女性はそこから出たがっている)欧米的な家庭観を、強引に(家庭が女性主導のものであり、女性はそこから出る必然性は特にない、むしろ女性にとっては、皆を心理的に支配できて居心地がよい)日本社会の家庭に当てはめようとするものである。これは、日本のフェミニストの、浅慮による日本社会の現状把握失敗の現れである。なぜならば、家庭こそが、日本において、女性によって、社会全体を支配するための効果的道具として使われてきたことに気づいていないからである。

社会のあり方を職場中心に見る、日本のフェミニズムは、日本社会が男性中心に動いているとする、誤った見方に囚われている。これは、この説を見て、「自分も『社会進出』しなければ」と考える女性による、家庭の放棄をもたらし、かえって家庭を、男性を含めた社会全体の管理・コントロールの基地(社会を支配する力の源)として利用して来た、女性の力を、皮肉にも弱めている(日本男性にとっては、都合のよい事態であるが)。

欧米の女性にとっては、家庭は自分たちの居場所ではない(男性に支配されている場であり、女性たちはそこから疎外されている)から、家庭からの脱出を求めた。日本では、家庭は女性の支配する場であり、男性はそこから疎外されているからこそ、家庭の外である職場に、逃げ出して、そこに安住の地を求めているのである。日本における女性の職場進出は、男性にとって安住の地を脅かされる行為に他ならない(欧米の男性にとっては、そうではない。彼らは、ちゃんと家庭を押さえている(自らの支配下に置いている)からである)。

女性の「社会進出」は、日本の男性にとっては、社会のあり方全般を女性的なものに支配される中で、自尊心(一家の経済を支えるのは私だ..)を保つためのの最後の拠り所・牙城を切り崩される由々しき事態に他ならない。女性の「社会進出」をスムーズに行われるようにするには、職場が、男性にとって、自尊心を保つ最後の切り札として働く性格をなくすことが必要である。

女性が従来占有して来た特権(家計管理による収入・支出決定の権限、育児権限..)を、男性にも明示的に開放することが、男性が、官庁・企業などの組織における地位に強迫的に固執する(女性を排除しようとする)心理から解放させる、一番の手である。日本において、女性の「社会進出」を進めるには、こうした男性の「全面的に女性に支配される」という恐怖心を取り除くことが必要である。

4.女性はなぜ高い地位に就かないか?

女性の「社会進出」の遅れと関連して、女性が組織(官庁、企業..)で高い地位に就くことが少ないことが、「男性が女性を支配している」ことの恰好の証拠として、日本のフェミニズムでは、取り上げられている。

なぜ、女性が高い地位に就かないかについては、(1)生物学的側面と、(2)農耕社会特有の「女性が男性を持ち上げる」側面の2つから考えることができる。

(1)高い地位への就任を、組織において、役職に就くことと捉えるならば、高い地位に就くことは、失敗したときの責任を取らされる度合いがそれだけ重くなることを意味する。これは、成功している時はよいが、失敗時には、真先に批判の矢面に立たされることになる。責任を取るには、社会的な制裁(懲戒処分、刑罰、悪い風評..)を受け入れなければならないが、その際、自らの生活が脅かされる危険が大きくなる。これは、生物学的に貴重な、それゆえ、自らの保身に敏感な女性には、耐えがたい事態である、と考えられる。女性が大事にする、生活上の「安全性」が保たれないのである。男性は、その点、自らの保身に、女性ほど敏感ではないため、役職について、失敗した結果、責任を取ることにも平気である、と考えられる。

あるいは、女性は、男性に比べて、人間関係の維持を重要課題とするが、地位相応の業務に失敗して、周囲の、自分が依存している皆から、後ろ指を指される(疎外される)状態が、耐えられない。それゆえ、高い地位を、そういう事態も受け入れる男性により任せるようになる、とも考えられる。

自ら直接は高い地位には就かず、男性に就かせて、その男性を、(自分を母親代わりにさせるなどして)自分に心理的に依存させることで、社会全体を間接的に支配するのが、伝統的な、女性による男性支配、社会支配のやり方である、と考えられる。これならば、社会を支配しつつ、なおかつ責任を取る事態からは免れることができる。

(2)女性の地位の低さは、「男尊女卑」がもたらしている現象でもある。日本のような農耕社会では、社会が女性のペースで動いており(社会が女性向けにできており)、男性の地位は女性に比べて低い。これをそのまま放置すると、男性は、「自尊心」をなくし、やる気をなくす(仕事をしない)。

そこで、農耕社会では、男性を、組織において、肩書のある「高い」地位に優先的に就かせて、「自尊心」を満足させ、仕事に打ち込むようにしむけることが必要になる。女性が就く地位は、男性の補助となり、低めになる(男性を立てる)。これは、男性の地位が実は低いことを自覚させないことで、男性の力を引き出すために必要である。働けば、自分の地位が高くなると男性に思わせることが、社会の発展の原動力となる。この場合、高い地位は、あくまで、見かけだけのものである(本当に社会をコントロールしているのは、女性である)が、そのことを隠して、男性を「エライ」とほめそやすことにより、男性は、女性が支配する社会の中で、「自尊心」を何とか保持できる。

5.女性を高い地位につかせるには?

女性が自ら社会的に高い地位につくことを積極的に追求するようにするには、失敗時に取らなくてはいけない責任を小さくすることが求められる。失敗時に、その責任を上下左右の地位へと分散させること、責任を周囲との連帯責任とすることで、本人の取らなくてはいけない責任を軽くすることが必要である。

例えば、女性が責任者のプロジェクトチームで作業を進めている場合、作業が失敗したら、従来のように上司(の女性)一人が責任を取る(上司に責任が集中する)のではなく、チーム員全体で責任を取るようにする、責任をチーム員各員に分散させる、といった仕組みを作る必要がある。そうすることで、上司の女性の取らなくてはいけない責任が軽くなり、責任を取ることへの心理的圧力が少なくなるため、女性は、より上司の立場に気軽に立つことができるようになり、高い地位につきたがるようになると考えられる。

また、日本のような農耕社会では、女性が、「男尊女卑」でわざわざ男性を心理的に持ち上げて仕事をさせることをやめ、自分で職場進出を果たすことで、今よりも男性が頼りなくなり、自分に対してより依存的になってしまうことを受容しつつ、自力で、職場での仕事と育児などを両立させていく方向に進むことが考えられる。その際は、女性が、部下の男性に対して、母親のように接することで、日本男性の持つ母親的な存在への依頼心を満足させ、男性はスムーズに上司の座を女性に譲ると考えられる。

なお、従来、日本男性が女性に対して生活面で依存的で、食事、洗濯などいろいろ世話を求めることが、職場で働き、高い地位を追求しようとする女性の負担を一方的に増している点は見逃せない。対策としては、例えば、男性に対して、従来のような「妻」「嫁」ではなく、「母親」の態度を取ることで、男性をスムーズに自分に従わせることが考えられる。つまり男性を自分の配下にある「子供」のように扱って、男性自身がそうした自分の世話を自分でやらせる方向へと、男性の母親のような態度を取って絶えず「しつける」「命令する」のである。あるいは、男性が必要とする世話を、家庭外にアウトソーシングすることが考えられる。食事は、コンビニエンスストアの弁当をあてがうといった対処をするのである。その際は、男性の健康をきちんと気をつけていることを男性に対して示すために、例えば、事前に、コンビニ弁当に栄養士の監修が付いていることが当たり前となるような運動をコンビニエンスストアや外食産業などに対して起こすべきであろう。

日本女性の経済的自立について

日本において、女性の経済的自立が達成されていないと言われてきた。収入を得るのが専ら男性で、女性は収入を自ら得る機会が閉ざされており、その点女性は差別されている、とされてきた。。

しかし、実際には、必ずしも収入を得ることが、経済的自立につながらないと言えるのではないか?いくら、収入を得る力があっても、その最終的な使い道を自分で決められず、管理者を他において、使い道の決定をその管理者にゆだねているのであれば、彼は、管理者に経済的に従属しており、自立していない、と考えられないであろうか?

日本の女性は、自分は収入を得なくても、収入供給源となる男性の動作をコントロールする主体として現れることにより、家庭における経済活動の主体であることで、自立を果たしているのではないか?

日本の女性は、収入供給者たる男性に対するコントロールを、隅々まで行き届かせている、と考えられる。日本の女性は、収入供給者のメンテナンス(世話)~収入供給者への指示(よく働いてきなさいと命令)を行う管理者(収入管理者、家庭内管理職)としての役割を果たしている。男性は自分が稼いできた収入を管理する権限を持ち合わせていない。給料袋の中身は手を付けずに女性のもとに直行する。そういう意味では、家庭における経済行為の主体は、決定権を持つ女性であり、その主体たる女性こそが、経済的に自立しているといえる。

女性(妻)から小遣いを配給される(家計上の最終決定権を持たない)男性(夫)は、経済的には女性の従属者(女性の配分決定に従うだけ)であり、自立しているとは言えない。

以上の女性と男性との関係は、大工道具(男性に当たる)と棟梁(女性に当たる)との関係と同じである。経済的主体は、管理者たる棟梁であり、大工道具はその従属物(自らは経済的に主体性を持てない)に過ぎない。これを男女の関係に当てはめて考えると、経済的主体は、管理者である女性であり、男性はその従属物(主体性がない)ということになる。ただし、大工道具がないと棟梁は生活の手段を奪われるため、生活できなくなる恐れがあり、その意味で、道具に頼りきることはリスキーである。それと同様に、収入を生み出す打出の小槌である男性がいなくなると、女性は、収入をもたらしてくれる生活の手段がなくなるため、管理者としての手腕がいくらあったとしても、そのままでは自活できなくなる。

収入供給者たる男性が都合で(死別、離婚など)いなくなったときに自活できるようにすることを求めるのが、日本における女性のいわゆる「経済的自立」への動機である。

こうした、女性の「経済的自立」は、あくまで、収入保険としての意味合いが強い。たいていの場合は、男性は定年までは生きつづけるので、収入は確保されることがほとんどであり、女性の収入管理者としての地位は安泰である。家庭に収入を入れる者がいる限り、女性は、収入の使い道を最終的に決定する家計管理者としての地位を確保できるので、自ら収入を得ることの必要ないしプレッシャーは弱い。収入供給者側の世界への進出は進みにくい。これが、日本で女性のいわゆる社会進出が遅れる一つの理由であると考えられる。

収入供給者(男性)のたまり場たる官庁・企業における生存環境が厳しいのは、家庭における管理者(女性)による収奪(給与を男性から取り上げて自分の配下に置くとともに、よりよい収入高を求めてのプレッシャーを男性に対してかけつづける)が激しいから、と考えられる。男性は、稼いでこないと、もっと稼いでこいという批判やプレッシャーを女性から受ける。男性は、生活面で女性に全面的に依存している(一人で生活して行けない、自分自身の生活の面倒を見ることができない、生殺与奪を握られている)ので、働くのがいやと断れない。男性は、その結果、全力投球で働かざるを得ない。そのことが、男性の家庭内での不在をもたらし、家庭内の居場所がなくなり、存在感がますます薄くなるという悪循環に陥る。

女性が、男性に比べて、パートタイマーのような補助的な仕事にしかつかない(つけない)というのも、家庭における、収入・支出額のコントロールを含めた、総合的な「管理職」の仕事が女性の本分であり、最も重要な主たる任務であり、それをおろそかにしてもらっては困る、という社会の要請があったからである、と考えられる。家庭が、社会全体の「(航空)母艦」としての役割を果たしている(いた)ことと関係がある。

現代日本の女性が、自ら収入を得る立場につこうとするのは、

(1)男性と一緒でなく、一人で生活する自由を確保したい(ないし、一人で生活することになっても困らないようにしたい)、という傾向による。従来の、収入管理者としての職務を遂行するには、生活面で、男性との二人三脚が必須(男性と一緒に生活することが必須)であったのを、忌避する。すなわち、男性がいなくても、収入面で困ることがないようにしたい、と考えるためである。なぜ、そのような考えが生まれるのであろうか?

日本の男性は、(農耕社会においては、弱者の立場にあるため)女性に対して生活面で依存的であり、食事、入浴など生活上のさまざまな面で、いろいろ女性に世話をしてもらうことを要求するのを当然とする気風があるため、それが(生活面で自立を果たしている)女性には、うっとうしく、煩わしく感じられる。そこで、男性と一緒でなくて、一人でいる場合でも、十分な収入を得られるようになる状況を予め確保することで、心理的に男性から自由になること、を望む。これは、社会における待遇面での男女平等、すなわち社会的負担の大きさにおける男女格差(女性の方が、社会的に強い分、負担も大きい)をなくそう、という考えにもつながっている。

(2)「家庭内管理職」の職務が、電化製品やコンピュータの普及、ないし子育ての保育園~学校への委託、すなわち、家事・育児の「アウトソーシング」化、により簡易化され、時間的な余裕が生まれたので、その分を、自らの生きがいとなることをしたり、探したりすることに充当したい、という考えによる。収入を得る仕事自体が、自分自身にとって、生きがいを生み出す、積極的な意味合いを持つものとして感じられるから、仕事をしたい(その結果として、収入を得たい)と考える。

今後、女性の、自ら収入を得たいという傾向は、一層強まると考えられるので、その点、今まで主婦が担ってきた、社会の「母艦」的役割(食事、洗濯、育児..など家族の面倒を見る機能の負担)を、公共的な役割を担う機関に「アウトソーシング」(外部委託)することが普通になるようにする体制を整えることが、より必要となる。

囲う男、閉じ込められる女

-女性の自立、社会進出が進まない本当の理由-



男性は、女性を、自分の世界よりも内側に閉じ込めておきたがるものである。


男性は、女性が自分のところから出て行ってしまおうとするのを阻もうとする。要するに、女性の男性からの自立を阻もうとする。



この事実は、生物学的貴重性の性差の面から説明できる。



生物学的貴重性と性差についてのページへのリンクです。



男性は、危険に直面する、自分の居場所の内側に女性を守る「ソトの性」である。男性は、粗末に扱われ、大切にされない点、女性よりも、社会的に不利な扱いを受けている。



女性は、外側を、男性に守られる形で、危険に直面しないで済む「ウチの性」である。女性は、大切に扱われる。



従来の学説では、例えば、「サムソン-デリラ コンプレックス」(E.Margolies,L.VGenevie,1986)による説明のように、男性は、女性よりも強くありたい、女性を支配したいから、女性の自立を阻むのだとされてきた。



しかし、実際のところは、男性が、女性の自立を阻むのは、男性が自ら守る対象がいなくなるのを恐れるから、というのが、本当のところではないだろうか。



要するに、男性は、女性に、自分の設定した枠の外に出られると、女性を自分の内側で守る、庇護するという自分の存在意義がなくなってしまうから、女性が自分の枠の外に出る形で自立するのを拒むのではないかと考えられる。






男性が、女性を自らの設定枠内に閉じ込めようとすることで、女性は、男性に守られて安心して暮らせるという安心感と共に、それと矛盾する、男性に閉じ込められているという閉塞感を感じる。言い換えると、女性は、「籠の中の鳥」みたいな気分になって、男性の押しつける、安全だが、閉じた世界から解放されたい、といつか考え始めるようになる。



そうすることで、女性は、男性よりも、外の世界に出たくなる。



女性による、いわゆる「社会進出したい」「自立したい」という主張の本音は、女性が男性により閉じ込められた世界から解放されたいというところにあり、これこそが、実は、「(男性からの)女性解放」運動の真実というか、中心的な主張なのではないかと考えられる。



従来、「女性解放」運動は、「女権拡張(フェミニズム)」運動とほとんど等価と見なされてきたが、実は、両者は、別物であると考えられる。というのは、日本のように、母親が強い、社会が女性の色に染まった母権(女権)社会においても、「女はウチ、男はソト」の図式が未だに強固に成立しており、その点、「女性の男性からの解放」は進んでいない。



「男性が女性より強くありたいから、女性を恐れて閉じ込めたがるのだ」という従来の(「サムソン-デリラ
コンプレックス」のような)主張は、女性より男性が強い欧米社会固有の、家父長制社会にのみ当てはまるものである。あるいは、欧米におけるフェミニズムでは、女権拡張(弱い女性の権利拡張)と、女性解放(女性の男性からの解放)が一緒くたになって主張されていると言える。



日本においては、女権拡張運動は、「女性は弱くない」ので、成立しないが、「男性によって「ウチ」に閉じ込められるのはイヤ」という、(男性からの)女性解放運動は、十分成立する。




「(男性からの)女性解放」運動は、男性が、生物学的により貴重な女性を守るという、「男=ソト、女=ウチ」という図式が全世界的に成立する以上、世界中に普遍的に起こりうるものである。






「女は家庭(ウチ)、男は仕事(ソト)」という、性別役割分業を肯定し、それにこだわる男性は、女性に対して快適な環境を、自分一人で一通り提供して、女性を感心させたいという自負が強く、それが十分可能であると考え、自分の能力に自信があり、それを自慢したいと考えている。また、女性を自分の枠の中にずっと置いておき、外に出したくない思いが人一倍強いと言える。



こうした男性は、女性によい暮らしをしてもらいたいと思う点、とても女性想いなのであるが、一方では、女性の生活の自由(外に出ようとする自由)を縛って、自分の手の届く範囲に行動を制限しようとする点、女性にとっては、閉塞感を強める原因となる。






男性が、給与稼ぎにこだわるのは、女性に快適・安全な生活空間を提供するに足る、十分な経済力や給与を稼ぎだす能力を持っていることを、女性に認めてもらい、自分が「頼りがいのある男」であることを確認したいからである。




女性に収入の道を与え、経済的に自立させると、女性は、男性の設定枠の外に出て行ってしまう。これが、男性が、女性の経済的自立を望まない本当の理由の一つである。



男性は、女性に贈り物をして、経済力があることを見せて、女性の関心を引こうとする。一方、女性は、そうした男性の品定め、評価をして、一緒に暮らすだけの価値がある男性かどうかを決定する。その点、「男性=貢ぐ性、女性=もらう性」であり、女性の方が、上位にあると考えられる。



そのように、女性が男性の経済力を当てにすることは、実は、男性にとっては、女性が自分の内側に止まってくれることを意味して、都合がよいのである。



女性が男性に閉じ込められるということは、女性がウェットで、男性がドライであることとも関係する。



性格・態度のドライ・ウェットさについての説明ページへのリンクです。



なぜ、女性がウェットで、男性がドライかということについての、生物学的貴重性との関連による説明は、以下の通りである。



ドライな男性は、「守る性」であり、自らの分布領域の内側に、自ら体を張って、安全で快適な領域を形成し、そこに女性を閉じ込める形で住まわせる。自らは、危険領域との境界に広く分散して、危険な外敵の侵入を阻止すると共に、絶えず、安全・快適領域を広げようとして、どんな危険が待ち構えているかも知れない領域への探検を繰り返す。



男性がドライなのは、広域に拡散して分布して、内側の女性が住む領域へ外敵が侵入するのを防ぐとともに、自分たちの適応領域を絶えず広げようとして、未知領域へ進出を図ろうとするからである。



一方、ウェットな女性は、「(男性によって)守られる性」であり、一定範囲の狭い閉じた安全・快適領域に寄り集まって、互いに一体化・密着して過ごす。女性が心理的に、互いの同調、一体感を、男性よりも偏重する、ウェットな心理を持つ原因は、この辺にあると考えられる。



この点、ドライな男性が、外側に、ウェットな女性が、内側に分布する。

あるいは、男性は、外側に分布する必要があるからこそドライであり、一方、女性は、男性よりも内側に分布する必要があるからこそウェットであるとも言える。




男性が、女性を、自分より内側の狭い領域に閉じ込め、束縛して、外出する自由を与えないのは、男性が、女性を守っているという実感が欲しいからである。男性は、女性を護衛する(エスコートする)役をきちんと果たしていると思いたがっている。その点、男性には、「(女性を)護衛(する)本能」が備わっていると言え、それは、女性に備わっている「自己保身本能」と対になって成立する。



男性が、女性を、自分の内側に閉じ込めるのは、女性に安全で、快適な環境を提供しようとする意図に基づくものである。女性に安全、快適な環境を提供しないと、女性にそっぽを向かれたり、振られたり、逃げられてしまうのである。その点、女性を単に強制的に閉じ込めているというよりは、「この中にどうか入っていて下さい」という懇願とも取ることができる。



しかし、それは、女性にとって、強い閉塞感を感じさせるもととなり、「(男性からの)女性解放」を女性が求めるきっかけを作る。



生物学的貴重性という点では、本来、より貴重な女性の方が、より上位で、その点、男性よりも支配的な立場に立っているのである。しかし、男性に閉じ込められている点、女性は、囚われの身であり、言わば、宝石箱に閉じ込められたダイヤモンドのような「囚われの貴人」なのである。



女性の「社会進出」は、女性が、男性の元を抜け出して、自由に行動できるようにすることで、その点、男性から「自立」する、男性の設定枠を超えることを意味している。これは、自らの内側に女性を囲っておくことで、自分の護衛欲求を満足させようとしている男性にとっては脅威である。



また、女性が閉じ込められている空間は、(男性が分布するところの、危険が一杯な空間に比べて)より安全、快適であり、その安全性、快適性は、男性の犠牲の上に初めて成立しているのである。そういう意味で、「自由」と「安全」は本来、両立しないのである。



つまり、自由さを求めるには、自分自身による、危険領域への露出、危険な外敵との直接対峙を覚悟しなければならず、一方、安全なままでいるためには、(男性に)閉じ込められた状態を容認したままでいる他ない。安全性、快適性が欲しければ、ある程度、男性の決めた制約を受け入れなければならないことになる。






男性は、女性に対して、経済的余裕やバックアップを貢ぐ、もたらす性であり、「貢ぐ、養う性」である。



一方、女性は、男性に「貢がれる、養われる性」であり、自分では稼がずに、経済力のある男性を選ぼうとする。



経済的な豊かさこそが、男性にとって、安全、快適空間を提供維持するためのバックボーンとなり、安全、快適空間を提供する能力レベルを測定する指標となる。



そこから、女性に経済的な豊かさを与えることが、男性自身のステータスだという考えが生じる。






女性の男性に対する存在意義というのは、基本的に、女性が自分の内側にただいてくれるだけでOKというものであり、存在そのものに価値がある。男性にとっては、女性が自分の内側にいないと、そこがもぬけの殻になってしまい、寂しいだけでなく、本来守るべき対象が欠如している点、自らの存在意義が危うくなる。



あるいは、女性は、男性にとって、心の安らぎ、オアシスである。外敵に対応しなくてはいけない男性の気疲れ、緊張を癒してくれる存在である。女性は、看護のように、傷ついた男性を治療し、心理的に支えとなる。あるいは、炊事、栄養士のように、あるいは、職場で「お茶を出す」行動に代表されるように、男性の水分、栄養分の補給を行う。こういった女性の役回りは、前線の外敵に立ち向かう戦闘機役の男性を後方で支援し、バックアップし、補給を行う、空母の役回りである。



一方、男性の女性に対する存在意義というのは、前線に戦闘機として、外敵に立ち向かうことで、女性を守り、女性に安全で、快適な生活条件を提供するというものである。快適、安全に暮らすには、経済的な豊かさが欠かせない。女性は、男性によるこうした快適、安全空間の提供を当然のものと思い込んで、男性に寄り掛かってきた。これが、女性がいつまでも自立できない真の原因である。



「囲う男」の正体は、「守らされる男」とも言える。要するに、男性は、女性に快適で安全な生活を提供できる能力がないと、「ダメな男」と言われて、すぐ振られてしまったり、相手にしてもらえない。



男性が、必死になって女性を守っても、あるいは、女性に快適、安全な暮らしを提供しても、当然視されるだけである。自ら進んで、問題に立ち向かい、困難な事態を切り開かなければならなかったり、危ない目に会ったり、命の危険にさらされるのは、いつも男性側であり、そういう点では、男性に損な役回りが回ってくると言える。しかも、こうしたことに対処できないと、女性から「いくじなし」とか言われて非難されてしまうのである。



女性にとっては、男性は上記のことは「できて当然」と思われる。その点、男性は、女性の提示するハードルを唯々諾々として乗り越えなければならない下僕のような側面を持つ。あるいは、男性は、女性に自らの女性を大切にするという姿勢を伝えるために贈り物をしなければならないが、これも、日本の若い男性によく見られる、女性に一方的に貢がされる「貢ぐ君」、女性の手足としてこき使われる「アッシー君」になってしまうことにつながる。






男性は、女性を自分の所有物のように、しばしば扱う。「オレの女に手を出すな」とかいう表現がそれである。女性とモノとは、男性にとって、自分の設定した枠内に入れて守る対象という点で共通している。





日本では、結婚や出産を機に、女性が会社を辞めて家庭に入るのが望ましいとされてきた。



家庭的というのは、男性の枠内で、すなわち、男性が提供する、経済的なバックアップを含めた、快適、安全な生活の枠内で、生活するのに満足するタイプということになる。



女性がお茶汲みで昇進しないまま退職するというのも、ある面、男性による護衛、設定の枠内で生活するのに満足して、その枠をはみ出ないようにしますよ、という意思表示と言える。



男性は、女性に、自分の領域の内側にいてもらいたがる。それは、女性を守っているという実感が欲しいからでもあるし、あるいは、前線に赴く戦闘機としての自分を後ろから支えてくれる空母、母艦の役回りをしてもらって、心理的に依存したいからでもある。



女性側が、経済的自立を得にくいのも、何も言わなくても女性に安全、快適空間を提供してくれる男性についつい頼ってしまう、当てにしてしまうからだと言える。



女性は、快適、安全な生活を男性に提供されて、それに満足し、男性に乗っかった形で生活をする。従来、専業主婦と言われてきた生活がこれに当てはまる。女性は、男性から経済的な支えを得られるので、自分からは稼ぐ必要がないし、稼ごうと思いにくい。これが、女性による職場進出が遅れる真の理由である。



こうした、女性による、自分からは男性の設定枠の外に出ようとしない生活は、一見、男性に支配されているように見える。これが、女性は男性の枠の外に出て自由に活動すべきだとする女性解放運動の論拠となっていると考えられる。






男性が、自分より優れた学歴や能力を持つ女性と結婚しようとせず、劣った女性と一緒になろうと、劣った女性のみを受け入れようとするのは、なぜであろうか?その理由は、自分より学歴や能力が優れた女性は、その活動領域が、男性自身による設定枠内に収まり切らない。すると男性は、その女性を、自分では守りきれないとして拒絶したくなる。あるいは、女性が、自分の守る能力を超えた存在として、自分の護衛能力に対する自信を傷つける存在として、一緒になるのを恐れる。(注)



(注)あるいは、日本のような母性支配社会においては、次世代の母子連合体を担う女性が、自分たちよりも優れていると、彼女とその子は、前世代の母子連合体(男性とその母親)による支配を脅かす存在となり、反抗されると太刀打ちできなくなる。そのため、自分より優位の立場から結婚相手の女性が来るのをいやがる傾向がある。






これまでの職場での女性の役割というのは、「職場内家庭的」「職場内のウチ」とでも言うか、「後方支援的」とでも言うか、秘書、お茶汲み、看護といった、仕事の前線に飛び出して行って、傷ついて戻ってくる男性たちをケアする役回りがメインであった。この点、職場においても、女性たちは、外部に赴く男性たちの内側、枠内で生活している「閉じ込められた存在」と言える。





女性による男性の設定枠を超えた活躍というのは、ある意味、生物学的に守られるべき女性が、男性による護衛の前線を超えて、危険領域に直接露出してしまうことを意味する。そういう点で、女性の男性の領域を超えた活躍、社会進出というのは、保護されるべき女性が危険な外敵に直接身を晒して死んでしまい、数を大きく減らす可能性を増大させるため、種の保存に直接深刻な影響を与える可能性を持っている。



その点、女性が「社会進出」して、能力を発揮したいという欲求と、男性の女性を守りたい、自分の枠内に女性を抑えたいという欲求という、相反する欲求を同時に満足させる解を見いだすことが必要である。






女性の指向しがちな環境というのは、安全、安心で、甘い、温かく穏やかで、快適で気持ちいい、といった生存に有利なものであり、これらは、男性の犠牲、労苦の上に成り立っていることが多い。



一方、男性の指向しがちな環境というのは、寒かったり、冷たかったり、ストレスのたまる、ハードで不快な、疲れる、辛い、外敵が襲ってくるといった生存に不利な環境であり、これらは、自ら本能的に進んで向かっているという以外に、快適な環境下にい続けたい女性たちから無理やり押しつけられている面がある。護衛や防衛といった、守りの役目、挑戦、戦闘、撃破といった攻めの役目が、男性の指向しがちな役目であり、そこでは、アドレナリン全開状態が出現する。





女性たちは、男性によって提供される心地よい生活が、男性の多大な労苦の上に成り立っていることを忘れ、「閉じ込められている」という閉塞感、被害者意識、満たされぬ感覚を、一方的にむやみに膨らませている。



要するに、女性たちは、男性による安全、快適な「温室生活」の提供を当然のものと思い込み、それに甘え寄り掛かっているのである。そして、「温室生活」や貢ぎ物、贈り物としての給与や、経済力の裏付けとなる貴金属の提供がないと、怒り出し、男性を見捨ててしまう。それでいて、一方では、その「温室生活」が持つ、閉ざされた側面に敏感に反応し、男性に対する不平不満を募らせるのである。



女性たちによる、こうした快適生活享受と、それに満足しない一方的な被害者意識の拡大は、女性のために、せっかく快適な生活空間を作り出そうと汗水たらして努力している男性の立場や気持ちを考えない、尊大で、傲慢不遜な行動と、男性側には映る。これが、「女性解放運動」に男性が批判的になる理由である。



ほとんどの男性は、捨て駒として、数少ない上位者に頭をぺこぺこ下げて自尊心を傷つけられつつ、その中で必死に働き、稼いでいるみじめな存在である。一見支配者に見え、うわべはいい思いをしているかのように見える上位者の男性も、実際は、周囲は仮想敵ばかりで、心休まる暇がない孤独な存在であることが多い。こうした男性の労苦に思いを致す女性が少ないのではあるまいか。






「閉じ込められた」女性の社会進出を促す解決策としては、どうすればよいか?すなわち、女性が、自力で稼いで働くことで、専業主婦以外の自己実現を果たしながら、自力で快適に暮らすにはどうしたらよいいか?



一つは、生態学的な分布領域における男性のパイを食うという戦略が考えられる。今まで、自分たちの外側といっても、比較的内周寄りで相対的に安全なところにいた男性を追い出して、代わりにその領域に進出するというものである。つまり、相対的に快適で、労力のあまり要らない、例えば、腕力不要の建機操縦などの業務に、男性の代わりに入り込むということである。



そうすることで、女性たちは、自ら活動可能な分布領域を広げることができ、より広範囲な活躍をすること=「社会進出」が可能となる。なおかつ、自分たちの外側、外周部は、男性に守らせることで、自分は安全を今までどおり享受できる。その分、男性は、より苛酷な前線活動に追いやられることになる。






男性が女性を囲い閉じ込めるというのは、社会全体としてそうなっているということもあるし、個々の男女のペアでもそうなっているということでもある。



個々の夫婦でも、夫は、妻のいる領域の外側、表側にいて、妻を外側から囲うことで、家の中=巣の中=奥に閉じ込めることになる。





男の領域(外側の危険領域)に女が入り、女の領域(内側の快適領域)に男が入ることで、男女が相互の領域を完全対等に分け合うのが、いわゆるジェンダーフリーである。しかし、これは、男が守り、女が守られるという、精子・卵子システムに基づく遺伝的性差、生得的傾向に反逆している。



そこで、この場合、女性(男性)がどの程度訓練によって、身体的に、あるいは心理的に、男性(女性)の性質を持つことができるか、実験によって確認する必要がある。不可能であることが分かった場合には、遺伝子操作による、遺伝的性差の解消を狙った人体改造が必要となる。



遺伝的性差をなくすには、卵子、精子を体外保存、複製するなり、クローン胚を作るとともに、体外子宮、体外授乳生体器官、ないし人工装置を開発することで、女性の生物学的貴重性をなくし、男性が女性を守る必要をなくすしかない。



そういう点で、完全なジェンダーフリーは、遺伝的、生物学的性差をなくさないと実現しない。



そもそも、女性のヌードやボディラインを見るだけで、男性が性的に興奮したり、男性の筋肉に女性が興奮したりするのは、心理的性差の根源が、遺伝的に決まっている証拠のように見える。こうした心理的性差が、後天的な学習によって覆せるものかどうか、一度きちんと実験して白黒をはっきりさせるべきである。覆せないと、性を超越した人間を作ろうとするジェンダーフリー社会の実現は難しい。



あるいは、女性を見ても興奮しない男性を作るなどして、人間の心から性的な要素を完全に追い出す必要がある。そうしないと、性差に拘束されないジェンダーフリー社会の実現は難しいだろう。






要するに、女性にとっての社会進出を試みる時にぶち当たる壁は、男性によって囲われることによってできる壁であり、それは、根源的には、卵子(女性)・精子(男性)の役割の違い(生物学的貴重性の違い)に基づく壁なのである。



この壁を根本的に壊すには、あるいはなくすには、従来の卵子・精子システムに代わる生殖システムを作成する必要がある。これは、結構大変なことである。そこで、壁や囲いそのものをなくすよりも、囲いを広げることを目指す方がより簡単で効果が大きいのではないかと考えられる。



すなわち、男性の女性を囲う想定枠のサイズを広げることで、女性の活躍可能な領域を広げることができ、女性の男性からの解放を実現できる。



要するに、男性に対して、メンタルなトレーニングや治療を施し、男性が、女性による、従来の男性自身の想定を超えた活躍を許容できるように、人格改造を行うのである。例えば、女性が自分を超える給与をもらうようになった事態を想定して、それを徐々に受け入れていく訓練を行うのである。そうすることで、女性が、ある程度、男性を超えた活動をしても男性から拒絶される度合いが減ると考えられる。



あるいは、女性が、男性に守られた、快適空間を提供された、専業主婦並みのヌクヌクとしたコアを、男性の枠内に残しつつ、男性の作った枠の一部を破って外部進出することが考えられる。



しかし、それでも、完全に囲いをなくするのは、そのままでは無理である。男性による女性の囲いをなくすには、男が女を守るという状況を生み出す、卵子・精子図式を崩す必要がある。それには、卵子・精子によらない生殖を行うように人体を改造するといった、生殖革命が必要となる。








「甘え」とは、相手への一体感を伴った寄り掛かりであり、相手に許される、受容されることを見越して、一方的に負担をかけることである。例えば、女性が、より環境条件の良いところに、男性を外に追い出してでも、い続けようとすることがこれに当てはまる。




男性が女性を囲い、外出させないもう一つの理由は、自分が手に入れた好きな女性を、他の男性に取られたくないとして、女性が浮気しないようにするというのがある。要するに、女性が外に出ないようにして、他の男性に接触する機会をなるべく減らしたいというものである。



これは、男性が、他の男性経験がない処女を好むのと理由が同じである。要するに、「自分専用の女性になってくれる」からである。



男性は、自分の好きな女性に、他の男性の子供を生んでほしくないのである。他の男性の子供を育てるはめになる危険を減らしたいのである。



この場合、男性による女性への囲いは、全ての人が誰の子供かを一発で判定できるようになることで軽減されると考えられる。



遺伝子診断により、子供が胎児の段階で、誰の子供かすぐ分かるようにして、相手男性に子供の養育費を負担させることを義務づけることが必要である。



今までは、女性が産む子供が誰の子供か、妊娠した時に分からなかったが、これが、男性が女性を囲う一つの原因となっている。男性としては、自分の血を引かない子供を育てる脅威を避けたいと考え、それが、女性を他の男性とくっつかないように囲う、独占するきっかけとなっている。



今後、こうした男性による囲いをなくそうと思うならば、イスラエルのキブツではないが、全ての親が、子供を産んだら、子供を専用の養育施設にすぐに預けることで、子供の存在をある程度親から切り離すことにより、子供は夫婦で育てるものという固定観念をなくす必要がある。



要するに、子供を作る上での、男女の組み合わせが、その時々でランダムに入れ替わることを許容し、夫婦の長期間の排他的結合をなくすことが、男性による女性の囲いをなくすことにつながる。



すなわち、A子さんにとって、一番目の子供はP夫さんとの間に生まれ、二番目の子供はQ夫さんとの間に生まれ、三番目の子供は、S夫さんとの間に生まれる、といったようにするのである。

あるいは、L夫さんにとって、一番目の子供はV子さんとの間に生まれ、二番目の子供はW子さんとの間に生まれ、三番目の子供は、X子さんとの間に生まれる、といったようにするのである。



その際は、全ての子供は、各々が世界に母親と父親の組み合わせが1人しかいない独自の存在として扱われ、保育士や看護師たち育児の専門家によって、その子の潜在的な才能を遺伝子解析した上で、その子に合った最適の教育を施すことにすればよい。親と子供は自由に面会できるが、同居はせず、基本的に別々の場所で過ごす。






従来は、男性が強く、女性が弱いと見なされてきた。なので、弱い女性の自立は難しいとされてきたのである。



つまり、護衛する役の者は、守られる役の者よりも、力が強くないといけない、という考えである。



これがもし本当に正しいなら、世界の政権は、軍事政権ばかりのはずである。また、首相のようなトップは、みな筋骨隆々のマッチョばかりのはずである。


しかし、実際にはそうなっていない。日本を含む世界の主要な国家は、現在、文民統治であるし、あるいは、例えば、日本の小泉首相がマッチョであるという話は聞かない。



なので、筋力の弱さとかは、女性の自立を阻む条件には必ずしもなっていないと言える。それを持ち出すのは、女性に自立して欲しくない男性か、従来通り、男性の与える枠内でヌクヌクと快適な生活をしたい女性である。




日本においては、女性は、自分から、自立や社会進出が進まない現状を変革するために、積極的に動こうとしないのが現状である。要するに、退嬰的というか、自らは手を下さずに、動かずに、他の人(男性)に動いてもらおうとするのである。要するに、不満をためて、文句を言って、結婚時期の延期や子供を産まないといった形でネガティブな抵抗をするだけで、改善策とかは自分からはあまり出さず、自分は手を汚さないのである。



例えば、育児退職後の正社員再雇用が進まない、保育園の子供収容人数が増えないと言って、女性同士が連帯して、家事ストライキをしたり、夫への小遣いを0円にしたりといった実力行使をした事例を聞いたことがない。自分からは動かず、男性による対応待ちをしている姿勢がありありと感じられる。



これの男性待ちの受動的な姿勢を何とか解消しない限り、日本において、女性の社会進出も、自立も当分果たされないのではないだろうか。





参考文献



E.Margolies,L.VGenevie, The Samson And Delilah Complex,Dodd,Mead &
Company, Inc.,1986(近藤裕訳 サムソン=デリラ・コンプレックス -夫婦関係の心理学-,社会思想社,1987)



日本女性の「社会」的地位


日本の女性は、より安全な「内」=「家庭」にとどまるのを好み、「外」=「社会」に進出しようとしなかったため、「外」なる「社会」における地位が低かった。地位が低いと弱く見える。「内」での地位は、外部観察者からは見えにくいため、たとえ本当は高くても、過小評価されやすい。
 



注)「社会」という言葉の使い方に、注意を払っておく必要がある。「社会」の語義は、 

1)農耕「社会」という場合のように、広く全体社会を指す場合(広義) 

2)「社会」進出という場合のように、企業・官庁などの職場、いわゆる(家庭の)「外」の世界を指す場合(狭義) 

とに分かれている、と考えられる。2)の場合、「家庭」は「社会」とは言えない(含まれない)ことになる。( 1)では、家族「社会学」といった言い方が存在することから、「家庭」といった「内」なる世界も、「社会」に含まれる)。 

「社会的地位」という場合の、「社会」は、2)の「外」の世界を指していると考えられる。 
 

女性の「社会」(あくまで狭義)的地位は低い。あるいは、女性は、自ら高い地位につこうとしない。

その原因は、

1)男性に、自分を弱く見せて、守ってもらおうとする。地位の低い者が、弱く見えることを、逆に利用している。

2)「(狭義の)社会」的地位は、従来、職場=「外」の世界のものである。家庭という「内」なる世界から出かけて(離れて)、外敵や危険に対して直接我が身を露出させながら、働く場=職場が、「(狭義の)社会」=「外」であった。職場は、危険な外回りをしなければならなかったり、寝床がなかったりして、究極的には、安全な「内」なる家庭に帰ることが前提となる。たとえ働く場が(しっかりした建物の中などで)安全だったとしても、そこにたどり着くまでに、危険な目に会う可能性が、少なくとも過去には、大いにあった。要するに、「外」は危険であり、「内」は安全である。

なぜ女性が「内」の世界を指向するかと言えば、生物学的に貴重であるため、外敵からより効果的に身を守る必要があり、安全な「内」なる世界は、(「外」の世界に比べて)その要求を満足させやすいからである。女性の「社会」進出(社会的に高い地位につくこと)が遅れたのは、「社会」が「外」なる世界だったからである。女性の「社会」進出が起きるようになったのは、1)「外」なる世界が、交通・通信の便や治安がよくなって、「内」並に安全になってきたので、外出しやすくなったから、2)「内」なる世界(家庭)での作業(家事)が省力化され、時間的余裕が生まれたため、である。
 

3)高い「(狭義の)社会」的地位につくことに伴って生じる責任や、失敗時の制裁・刑罰の増加などを回避しようとする。高い社会的地位につくことで増すところの、危険な目に会いたくない。自己の保身のため、男性に責任を押しつける。

4)人間に対する指向が強く、周囲の意向を気にする(性格がウェットである)ため、失敗して、恥をかいたり、嘲笑されるのを恐れる。高い地位につくほど、失敗時にそうした機会が増えるため。

5)(ウェットな社会のみ)男性を優先して高い地位につけようとする(男尊女卑)。(農耕社会への適応の過程で、女性によってドライな性格部分を殺された結果、無能になって、社会的重要性の低い)男性に、見かけ上高い地位を与えることで、男性に自尊心を起こさせ、より効果的に働かせる(自分から進んで働くようにさせる)。モラールを高め、勇気や意欲を奮い立たせて、筋力・武力などの能力を発揮させる。
 

女性が、高い「(狭義の)社会」的地位(企業・官庁の管理職ポスト)につくことを、そのまま女性解放の度合いを示す指標とは見るべきではない。女性が、失敗時に全責任を背負わなければならない条件のままで高い社会的地位を目指すことは、上述のように、女性の本来的な性向に反する面が強いからである。

女性が自ら(狭義の)社会的に高い地位につくことを積極的に追求するようにするには、失敗時に取らなくてはいけない責任を小さくすることが求められる。失敗時に、その責任を上下左右の隣接する地位の成員へと分散させること、責任を周囲との連帯責任とすることで、本人の取らなくてはいけない責任を軽くすることが必要である。このように、責任分散がはかられた状態で女性が高い地位を目指すのは、女性の本来的な性向に照らし合わせて自然なことである。その際は、女性が高い地位につくことが、女性解放の度合いを示す指標とし得る。



ある(広義の)社会における、本当の女性解放の度合いを示す指標は、女性本来の性向を示す、行動面でのウェットさ(集団主義、同調指向、前例指向...)が、その社会で、どれだけ高い価値を与えられているか、認められているか、である。ウェットさの価値が高いほど、認められているほど、その社会における女性の地位は高い。日本は、これらの価値を高く設定しており、見かけとは裏腹に、女性の(広義の社会での)「地位」が高い。

 

日本の職場(生産する場、賃金を稼ぐ場)が男性中心であって、そこへの女性の進出が進まないのは、女性の高い地位につくことを避ける性向以外にも理由がある。それは、そこが、男性の自尊心を保持できる(家族を経済的に支えているのは私をおいて他にいない、との誇りを保てる)最後のとりでであって、そこに女性が進出してくるのを脅威に感じているからだと考えられる。男性側は、女性には、簡単に明け渡したくない。明け渡すと、せっかく保って来た見かけ上の高い地位からも一挙に転落し、最後の自尊心が消えてしまう。後は(見かけ・実質両面で男性を圧倒する)女性のペースに合わせてひたすら従うだけの社会的落伍者に成り果てるからである。

「女らしさ」はいけないか?

-日本における女らしさの否定についての考察-



 

現在の日本では、男性が女性に「女らしくあれ」を口にすると、性差別だとかセクシャルハラスメントにつながるとして女性から責められる。しかし、そんなに女性が「女らしい」ことが悪いことなのかどうかと言えば、筆者は大きな疑問を抱かざるを得ない。

「女らしさ」を悪く言うのは、

1)人々が取るべき態度についての現在の世界標準が、欧米社会のドライな男性的態度にあり、ドライな男性的態度がより望ましい、好ましいと、人々に映るからである。

ウェットな態度が女性的と見なされていることを検証した文章へのリンクです。

ドライな態度が世界標準と見なされていることを検証した文章へのリンクです。

ドライな男性的態度がより好ましい、望ましいと考えられていることを検証した文章へのリンクです。

2)日本女性による、今まで男性の拠点だった職場への進出=社会進出指向にあると考えられる。

従来、「女らしさ」=家庭の中にとどまって、外に出ないこと(外に出て働く男性に対して、母艦の役割を果たすこと)、と短絡的に捉えられてきた。この観点からは、それが女性が新たに進めようとしている職場進出へのじゃまになるとして敬遠されているのであろう。

女性が家庭の中にとどまる必要があったのは、家の中の方が外で働くより安全であったからというのと、もう一つは、乳児の養育や世話で両親のどちらか片方が家に残る必要が出た場合、母乳が出たり、子供が産まれる以前に子宮で子育てをしていたのが女性だということから、女性の方が子供の養育に対して親和的であるということで、女性=家庭という結びつきが自然とできたと考えられる。

現代日本では、以下の理由から、女性が職場進出(社会進出)を図ろうとしている。

1)治安がよくなって、家の外でも安全になったこと、保育園などの子供養育施設が整備されつつあることから、女性=家庭の結びつきは弱くなりつつある。女性は、家の中に必ずしもいなくてもよくなった。

2)従来、日本の女性は主婦として、家事と子供の教育を通して、自己実現を図ってきた。しかし学校制度の充実により、子供の教育に手がかからなくなった。また家電製品の普及により、家事に割く時間が大幅に減った。これらの理由のため、何もすることがないアイドリング時間が増える結果となり、自己実現のターゲットを家庭以外に求める必要に迫られた。

※なお、従来、女性の社会進出の理由として、女性自身の、男性の収入に頼らない経済的自立への指向というのが散々言われてきた。しかし、もともと日本の家庭において、経済(家計)面での管理権限は女性が握っていることから、経済的に依存・従属関係にあるのは、女性に給与をいったん全て取り上げられ、取り上げられた金額の中から改めて小遣いをもらう男性なのではないかと考えられる。すなわち、女性=経済的支配、男性=従属の関係が成立していると考えられる。支配している側と従属している側とがどちらが自立しているかと言えば、明らかに支配する側の女性であろう。

従って、「女らしさ」=家庭的という見方に囚われている限り、女性は、「女らしさ」を排撃したくなると考えられる。
 
筆者は、真の「女らしさ」は、もともと家庭的なことそのものではないと考える。 「女らしさ」とは、自分のことを貴重な大切なものとして他者よりも優先して守ろうとする「自己保身」にある。

真の女らしさとは何か説明した文章へのリンクです。

家庭以外の場所が安全になり、そこでも活躍できることが分かれば、そこに進出しようとするのは女性にとって当然のことである。今までは家庭においてなすべき仕事=家事はたくさんあったが、今は家電製品などの導入で省力化が進み、女性たちの活躍の場は狭まっている。家庭は自己実現の場としては物足りなくなったといえる。

ただし、女性が職場進出しても、男性のように高い地位につくことを指向するとは必ずしも言えない。

なぜなら、女性は、自己保身のためには、失敗の責任を取って危ない目に会うことをできるだけ避けようとする「安全第一」「責任回避」主義者だからである。女性は、自分からは受動的に行動することで、能動的に行動した結果生じる行動に対する責任を取らないようにする。また、社会的に高い地位につくことに伴って生じる意思決定上の責任を取ることを嫌って、自分からは責任ある高い地位につくのを避けて、男性にその役をやらせようとする。



日本女性が社会的に高い地位についていない現状を見て、女性差別だと唱えるフェミニストは多いが、実際のところ女性は高い地位から男性などの外的圧力によって遠ざけられているために高い地位につけないのではなく、むしろ「高い地位につくことによって生じる社会的責任を回避するために」「社会的に高い地位につくことを自ら進んで回避している」のである。欧米社会のフェミニストのように、失敗時に大きな責任を取らされ、社会的生命を失うことを前提として、女性を高い地位につかせることを奨励すること自体、女性の本性に反する異常な考え方である。



女性が社会的に高い地位につくことを自然なものとし、女性が社会的に高い地位を積極的に追求させるようにするには、失敗時にその責任を上下左右の隣接する地位のメンバーへと分散させること、責任を周囲との連帯責任とすることで、本人の取らなくてはいけない責任を軽くすることが求められる。



社会的地位が高くない、責任を取る立場にいないからと言って、女性の社会における支配力が小さいとは見なせない。特に日本などの農耕社会では、女性は、自らは男性の母親役を取る(息子の母親となる、妻として夫の母親代わりとなる)ことで、男性を自分に対して心理的に依存させた上で、自分の思うままに操縦して社会的に高い地位を目指させ(競争させ)、高い地位についた男性に対して自分の思い通りのことをやらせようとする。日本においては、男性は、どんなに高い地位についていたとしても、女性の(特に母親の)かいらい・ロボットと化しており、女性の支配下にある。


こうした女性の性格と日本人の国民性とがよく似ていることを 筆者は文献調査で確かめた。日本はもともと女性的な、と
いうか、女性優位の、男が虐げられている社会=母権制の社会と言える。


日本社会の女性的性格について説明した文章へのリンクです。

女性が優位の「女らしい」「女々しい」日本社会では、女性は、社会的な責任は取らず、
かつ実質的な支配権は握るという「無責任支配」の体制を確立していると考えられる。

そういう点では、女性自身による「女らしさ」の否定は、せっ
かく自分が社会の中で支配力のある有利な状態にあるのを進んで止めようとすることであり、馬鹿げた自己否定以外の何者でもないという感じがする。

 


特に問題なのは、女性が、男性を「強い」「頼りになる」とおだてると同時にその裏ではしっかり、男性の生活全般を母親の如く隅々まで支配・コントロールする(家計管理の権限掌握などはその代表例と考えられる)「アメとムチ」の使い分けを行っている点である。



 


男性が家庭に帰らないで、職場に長くい続けるのも、家庭が女性の支配する場であり、自分とは異質の雰囲気になっているのが不愉快だからと言える。

家庭における女性(母親)支配が男性を家庭から遠ざけて職場に固定化し、それが家庭の外に出て職場進出しようとする女性の行く手を阻むという、女性にとっては複雑な仕組みになっている。


その点、女性がスムーズに職場進出するには、家庭における自分の主導権を放棄して男性と対等化すること、家庭において男性の居場所を確保することを容認することが求められる、と言える。



なお、日本における職場の雰囲気自体は、集団主義、プライバシーの欠如、対人関係面での調和や前例・しきたり偏重といった女性向きのものとなっており、本来は男性よりも女性の方が、能力を発揮しやすい環境にある。



確かに職場に数の面でたくさんいるのは男性だが、彼らは母親や妻によって、男性本来の個人主義、自由主義、独創性の発揮といった行動様式を骨抜きにされ、すっかり女性化した「母親臭い」存在と化している。そういう点で、男性のたくさんいる日本の職場は、もともと女性とは相性がいいのである。

「専業主婦」=「役人」論




(旧稿)日本の専業主婦と公務員の共通性についてへのリンクです。




日本の主婦、特に専業主婦は、役人と性質が似ていると考えられる。



この場合、役人とは、中央省庁、地方自治体の職員、すなわち国家、地方公務員を指す。



日本の役人と専業主婦との共通点は何か?2つあると考えられる。



(1)自分ではプラスの入金をしなくても、自動的に自分の使えるお金が自分の手の中に入ってくる点である。



(2)その入ってきたお金をどう使うかというのを決める権限をがっちり握っている点である。




(1)に関して言うと、専業主婦の場合、自分では何も生活に必要なプラスの入金をもたらさなくても、夫の給与の振込先銀行口座に、毎月自動的に、自分が自由に使えるお金が、夫の労働によって、入ってくる。



役人の場合、自分ではプラスの入金を何ももたらさなくても、予算を組むのに必要なお金が、毎年、民間企業や労働者から、自分たちの自由に使える税金の形で、何もしなくても、自動的に上がってくる。



日本の専業主婦や役人は、「僕稼ぐ人、私使う人」と言う表現をするとすれば、「使う人」を地で行っていると言える。



本来、自分の属する組織(これは、家庭でも、会社でも何でもそうだが)にプラスの入金をするためには、何かしら、余所から利益を上げないと、儲けないといけない。それに必要な、才覚、知恵、忍耐力が求められる。



会社だったら、顧客、取引先、上司、同僚から、絶えず文句を言われ、辛い、しんどい大変な思いをして仕事をすることで、やっとそれと交換にお金が入ってくる。楽して利益が上がることはほとんどなく、仕事の中身についても選択の余地がないことがしばしばである。



ところが、専業主婦や役人は、自分ではこの辺の苦労を何もしないで(夫や民間企業の労働者にやらせて)、プラスの入金を自分の手元にいとも易々と手に入れているのである。



官民格差の本質は、給与水準の差がどうのこうの言う以前に、この辺にあるのではないだろうか。要は、自分の手でプラスの入金を確保しなければならず、しかもそのうちのいくらかを自動的に巻き上げられてしまう立場の民間労働者と、自分の手ではプラスの入金を確保するために働く必要がなく、民間労働者から入金を巻き上げれば済む気楽な立場の役人との差が官民格差の本質である。



こうした格差は、給与稼ぎをする夫とその専業主婦との間にも当てはまる関係であると言える。一生懸命働いてプラスの入金をしなければならない役回りの夫と、何もしなくても自分の使うお金が自動的に銀行口座に入ってくる専業主婦との間には、官民同様の大きな格差があり、これは立派な男女差別である(女である専業主婦が上で、労働者の夫が下)。



要は、自ら苦労せずに、必要なお金を他から巻き上げる搾取者、寄生者としての体質が、専業主婦にも、役人にもあるのである。





次に(2)についてであるが、日本では、家庭の家計管理の権限を主婦が独占しているという状況がある。夫の銀行口座から入金されたお金を何に使うか、最終的に決定して、お金を配分するのが、主婦である。家庭のお金を配分する権限を主婦である女性が握っている。夫は、少額の小遣いを、主婦から頭を下げて出してもらわないといけない。



この実態を示すのが、百貨店売り場での女性向け売り場がやたらと大きく広く、男性向け売り場が貧弱なことである。例えば、京都駅の駅ビルの百貨店の売り場案内パンフレットとか見れば、この辺の事情は一目瞭然である。家庭のお金の割り振りの権限を女性、主婦が握っているからこそ、女性向けの売り場が立派なのである。


税金についても同じことが言える。税金の使い道を決めるのは、建前上は国民主権となっているが、実際には、役人が自分たちのために決めている。彼らは、縦割りの行政組織の中で、自分たちの部署の取り分、ひいては自分自身の取り分が最高になるように、予算折衝を繰り返しているのである。



この点でも、専業主婦と役人は似ていると言える。



専業主婦は、家事が大変だとか表面上言われながらも、その実態は、「三食昼寝付き」の気楽な稼業であることは確かである。個人的意見としては、今後、専業主婦には、家庭への入金のための労働を夫ばかりに押しつけるのではなく、子供の育児が終わって暇になったら、入金の主要な役回りを、夫としっかりワークシェアリングしてもらいたいと思う。また、家計管理の権限を夫と分け合うこともしてほしいと思う。それが、日本の家庭で真の男女平等が実現するきっかけになればと思っている。





上記のお金関係以外に、役人と専業主婦とは、もう一つ似ている側面がある。支配者、権力者としての性格である。



役人は、戦前から「お上」「官」として、民間の人々を支配する、言わば「天皇家の直参、直属機関」としての権力者の性格を持ち続けている。「官尊民卑」という言葉がこの辺の実態を表す言葉である。官庁や地方自治体は、許認可や法律規制の権限を盾に、民間企業や国民を意のままに支配している。戦後は、天皇家の上にアメリカが来たので、それに迎合して、「民主的になりました」という顔を一見しているだけである。



専業主婦も、子供としての息子や娘を「自分の自己実現の駒」として支配、コントロールする「母」(夫を子供扱いする妻もこの同類である)、嫁や婿を支配する「姑」として、子供を通じて社会を間接的に支配する、社会の最終支配者、権力者としての顔を持っている。



多分、日本社会で現在一番強い立場にあるのは、役人(公務員)の専業主婦(例えば高級官僚を夫に持つ専業主婦)ではないだろうか?

家計管理の月番化について

家計管理を月番制にしたらどうか?

現状では、日本の家庭においては、家計管理の権限は、妻や母が独占している。

夫は、自分で稼いできた給与を、彼女らに取り上げられ、別途頭を下げて、小遣いを貰わないといけない。

一方、欧米においては、これと逆の状況となっており、家計管理の権限は、夫が独占している。妻は、家事に必要な小遣いをその都度夫から貰っている。

日本の事例も、欧米の事例も、両方とも、家庭内における男女差別であり、解消の必要があると考えられる。

要は、家計管理の権限を、男女平等に受け持つようにすべきではないかということである。

その一つの方法として、家計管理の仕事を、月番で、毎月、夫と妻の間で代わりばんこに交替してやるようにすればよいのではないかというのがある。

要は、奇数月は妻が管理し、偶数月は夫が管理するというようにすればいいのではないか。

これによって、男女の片方が家計管理を独占することがなくなり、男女平等が促進されると言えよう。

また、一人が家計管理を独占することがなくなり、もう一方の他人のチェックが絶えず入るようになることから、いい加減な家計管理をすることが難しくなり、家計管理の透明性が高まると言える。

問題があると言えば、夫妻どちらかが浪費家で、お金をみんな無駄遣いしてしまう場合である。その場合は、しっかりと管理できる片方にずっと任せざるを得ない。要は、一方が能力的に欠けている場合は、男女どちらかにこだわらず、家計管理能力のある方に任せればよいということになる。

生物学的貴重性

(参考)生物学的貴重性と性差(クリーム-パン図式)について

(参考)「女らしさ」「男らしさ」の検討-生物学的貴重性の視点から

日本の家族は「家父長制」と言えるか?


1.はじめに

血縁は、社会の最も根本をなす相互結合の部分であり、血縁レベルの権力を制する者が、その社会を制するといっても過言ではない。 血縁社会は具体的には家族であり、その生活が営まれる場が家庭である。家庭で実権を握る側の者が社会の根本部分を支配すると考えられる。

「家父長」制とは、父親が、家庭内の権力を掌握している(家庭で実権を握る)状態が当該社会に普及して、社会全体において半ば制度化された事実を指す。

従来の家父長制に関する理論は、普遍主義的理論であり、世界中どこでも女性が男性の統率下にあり弱いとするものであった。この考え方は日本でもそのまま機械的に受容され、日本は典型的な家父長制である、とされてきた。これは、果たして正しいのであろうか?

以下においては、家庭において行使される権力の種類をいくつかに分類し、それぞれについて、日本の家庭において、男女どちらが持っているかを明らかにした上で、日本の男性が果たして「家父長」と言えるかどうかについて考察したい。


2.家庭内権力の分類
 
 

家庭内権力は、経済的側面と、心理・文化的側面に分けられると考えられる。ここでは、まず、経済的側面について見ていく。


2-1.経済的側面 家庭内権力の経済面での起源にどのようなものであるかについては、 2通りの説明が可能である。すなわち、A.収入起源説と、B.管理起源説との2通りの説明ができる。

A.収入起源説

これは、収入をもたらす方がより発言権が強い、とする考え方である。
すなわち、「オレが稼いできたんだ、(一家の大黒柱だぞ)ありがたいと思え」ということで、収入をもたらしている(一家を収入面で支えている)ということを根拠に権力を振るう、というものである。日本においては、こちらに当てはまるのは、夫(父親)の側が多いと考えられる。

B.管理起源説

これは、家計における資金の出入りを管理する方がより発言権が強い、とする考え方である。


すなわち、「つべこべいうと(私に逆らうと)、お小遣いあげないわよ」などと、家計全体のやりくりの決定権を握っていることを根拠に、権力を振るうことを指す。日本では、こちらに当てはまるのは、妻(母親)の側が多いと考えられる。

A.収入起源説と、B.管理起源説とに関しては、欧米では、両方とも夫が掌握していることが多いので、欧米社会の夫(父親)は、すんなり家父長と言える
。しかし、日本では、B.の管理起源に関しては妻(母親)が掌握しているので、簡単に家父長制が成立しているというのは誤りなのではあるまいか?

すなわち、日本の場合、夫が得てきた収入が全額妻のもとに直行するので、(支出だけでなく)収入の管理は夫がしているのではなく、妻がしているというのが適当であると考えられる。また、単なる生活費だけでなく、預金など家族全体の資産運用も妻が行っている場合がほとんどであると考えられるから、そういう意味で、妻の振るう権力は大きいと考えられる。現に、妻に対しては、「我が家の大蔵大臣」などと呼ばれる事が多いようである。日本の官庁組織で最も権力が集中しているのが大蔵省と考えられることから、そういう点では、妻に「管理者」としての一家の権力が集中しているとも考えられる。

A.の収入起源説においては、夫(父親)がいくら稼いできても、その資金の家庭における出し入れを自分でコントロールできないのであれば、あまり実際の経済面での権力には、結びつかず、結局は、妻(母親)の管理下で働かされて、働いて得た給料をそのまま何も取らずに妻(母親)に差し出す労働者(下僕みたいな存在)にすぎない、とも言えそうである。言い換えれば、妻は働いてきた夫から収入を取り上げて、自分の管理下に置くのであって、夫は、「鵜飼」において、飼い主(妻、母親)に言われて魚(給料)を取ってきて、船に戻ってきたら、その魚を飼い主によって強制的に吐き出さされる(魚(給料)は飼い主(妻、母)のものとなる)、「鵜飼の鵜」のような存在にすぎないとも言えそうである。一家の大黒柱ということで、家族の構成員からある程度尊敬はされるかも知れないが、一種の「名誉」職としての色彩が強いのではあるまいか。

 

これと関連して、日本の家庭において資産の名義は夫(父親)になっていることが多いので、それが日本の家庭内で男性(夫、父親)の権力が強く、女性の地位が低い証拠であるとする見方がある。しかし、上でも述べたように、日本の家庭では、男性は、資産の管理権限(家計管理の権限、いわゆる財布)を女性に奪われている場合が多い。資産の管理権限を持たない名目上の所持者(男性)と、資産の出し入れをコントロールする実質上の所持者(女性)と、どちらが権力的に強いかと言えば、財布を握る実質上の所持者である女性であると考えるのが妥当なのではあるまいか。この場合も、男性は表面的に尊敬されるだけであり、実質的な権限を喪失した「名誉」職にとどまっているのが実状ではなかろうか。

土地などの財産名義は夫(男性)でも、実際に証書・帳面などを管理する(実際に資産を運用している)のは女性である。したがって、名義上では、男性の方が地位が上だが、実運用の権限を握っているという面では、女性の方が地位が上なのではないか?

日本においては、母の代用言葉として、「おふくろ」という言葉があるが、その語源は、一家の財産を入れた袋を持つ人の意味という説がある。
この語源が正しければ、一家の財産を管理していたのは、男性ではなく、女性であるということになり、かつ、財産の使用する/しないの権限などを持つ者が、そうでない者よりも、より上の地位にあるとすれば、女性の方が、男性よりも、地位がもともと高いことになる。

日本では、女性が、夫名義で銀行口座を作るなどして、家庭の資産の全面的な運用をする場合がほとんどなのではないか。夫の名前を表面的にせよ名義に利用することで、夫の顔を(一家の代表であるとして)立てる(面子を潰さない)が、実質的な資産運用権限は、女性(妻)がしっかり掌握して、男性(夫)の手には渡そうとしない。

日本の女性フェミニストは、被害者意識ばかりが先行して、いかに自分たちが家庭生活上、強大な権限を振るっているかについての自覚が足りないのではないか?

いずれにせよ、欧米では、家庭の資産の出し入れ(財布)を一手に握る夫(父親)のもとで、家事に必要な金額をその都度もらって家事を行うだけの妻(母親)は、「家事労働者(家政婦)」に過ぎず、その家庭の中での地位は低いので、「家父長」制を告発したくなる理由は明白で理解しやすい。これに対し、日本においては、妻(母親、姑も含む)のほうが財布を握っているのだから、その地位は単なる家事労働者ではなく、他の家族構成員の上にたって彼らの生活をコントロールする「家庭内管理職」「生活管理者」と見なすのが妥当なのではないか。

日本の女性がみずからが所持する実質的な経済的権力のことに目をつぶり、男性が持つ名目的な権力を「家父長」制だと言って攻撃するのは、アンフェアであると言えないだろうか(それとも実質的な権力と名目的な権力との両方を手に入れたいとの意欲の現われなのか)?

日本においては、女性が一家の財布の紐を握る(財産の管理をする)のは全国世帯の少なくとも60~70%を占めるとされる。家計簿の付録が、男性雑誌でなく女性雑誌(主婦の友とか)に付いてくるのもこのことの現れと見てよい。

妻は、家庭の財政上の支出権限をにぎる。夫自身には自分の稼いできた給料を管理する権限がない。家に給料を入れるだけの存在である(単なる給料振込マシンに過ぎない)。彼は昔は給料袋をそのまま妻に渡していた。彼の給料は現代では銀行振込で通帳を握る妻のもとへと直行する。彼がせっかく稼いできた給料は、彼自身の手元には残らず、みな妻のもとに直行してしまうのであり、彼自身の自由にはならない。彼は自分の稼いだ給料から疎外されているのである。

なぜ、日本の男性は、自分にとって最低限必要な資金(本来家庭とは関係ないところで自分が使う)まで、みんな妻に渡してしまい、改めて小遣いのかたちでもらうことが多いのか。しかも、夫自身の小遣いの額を最終的に決める権限は妻にあって、夫自身はそこから疎外されている。夫は自分自身のことを自分で決められない(決定の主導権を妻に渡してしまう)。日本の男性(夫)は、自分の立場をわざわざ弱くするようなことをするのか?自分がせっかく稼いだ賃金からの疎外現象(「自己賃金からの疎外」)をみずから引き起こすのか?

何故、欧米と日本とで「大蔵省」になるジェンダーに差が出たか、の原因解明は今後の課題である(日本において、夫が妻に対して自分の稼いだ給料をまるごとそのまま渡してしまう慣例がいつどのようにして出来上がったのであろうか?)が、一つの考え方として、遊牧社会と農耕社会との違いが考えられる。地理学や文化人類学の知見によれば、遊牧社会は男性向きなのに対して、農耕は女性が始めたものであり、女性により向いているという。稲作という、女性向きの環境適応(食料の確保など)行動がメインとなる日本において、生活の要衝を占める家計管理の役割が女性によって担われるようになったのは、ごく自然の成り行きではなかったか?

家庭における支出(小遣いなど)決定(予算編成)の権限を女性が握っているといっても、男性に、予算編成の能力がないのではない(現に日本国の大蔵省では、主に男性が予算編成をやっている)が、家庭においては、過去(いつかは分からない)に権力闘争に敗れた結果、ずっと女性のものとなってしまった、と考えられる。




2-2.心理・文化的側面

(1)夫の妻・母(姑)への心理的依存 

日本では、夫に、妻を母親がわりにして心理的に依存する傾向があると言われる。自分の母親が姑として生きているときには母親に甘え、母親亡き後は妻に甘える、というものである。こういった現象を一つの文化と見なして、
「母ちゃん文化」と呼ぶ人もいるようである。また、「結婚して、大きな子供が一人増えた」などと言う主婦の声も多い。

また、日本の家庭で多く発生する「嫁姑問題」は、夫(息子)と姑(母親)との絆が強く、夫と妻との絆と拮抗するために起きると考えられている。日本社会が、母性優位で動いている一つの証拠とも見られる。夫が本当の家父長ならば、夫は妻と姑の上に立って、即座に両者間の葛藤を解決できるはずなのであるが、日本の夫は、実際には、妻と姑の両者に振り回されて、どっちつかずの中途半端な態度しか取れない場合が大半なのではないか?また、潜在的にマザーコンプレクスである(自分の母親に対して頭が上がらない)夫の割合も、欧米に比べてかなり高いのではあるまいか?

女性(妻、母)に心理的に依存し頭の上がらない男性(夫)が、本当の意味での家父長と言えるかといえばはなはだ疑わしいのが現実ではあるまいか?

(2)家庭における夫の不在 

日本の家庭においては、特にサラリーマン家庭においては、夫が仕事人間で、家庭のことを省みないことが多いとされる。その結果、夫の家庭における影が薄くなり、ひいては他の家族成員から疎外される現象が起きている。これは、自分の父親が家庭にいなかったため、自分の父親の家庭人としての観察学習ができなかったことが原因と思われる。夫は、予め家庭・子供の育児などに興味を持たないように→家庭から自発的に疎外されるように、家庭において妻が経済・教育上の権限を自動的に掌握することが、家族において代々続いて起きるように、社会的に仕組まれている、と考えられる。

家庭に不在な者が、家庭の心理的な面で権力を握るとは考えにくい。結局、妻によって「お父さんはえらいんだよ」とか人為的に立ててもらわない限り、男性(夫)の権力は成立しないと見るのが、妥当なのではないか?

(3)子供の教育権限の女性への集中

日本の家庭においては、子育ては母親(女性)が独占する割合が、欧米に比べて高いと見られる。そういう点で、日本の男性は、自分自身の子供の教育を行う権限から、自ら進んで疎外されてきた、といってよい。子育てを行う結果、子供が自分になつき、自分の言うことを聞くようにさせたり、自分が持っている価値観を子供に伝えたりできるのは、子育てをする者にとって、大きな役得である。その役得を得る者が、日本では女性に集中し、男性は、「男は家庭に振り回されるべきではない、給料稼ぎに専念すべきだ」とする周囲の、男性を家庭から切り離す価値観によって、自ら子育て・子供の教育を行う権利を失っているのである。結果として、家族内で子供を実質的に統率する役目を、父親ではなく、母親(女性)が占めることが多くなる、と考えられる。

子供の管理者としての妻は、子供の教育面での実権を握る。妻は(女性)は、夫に賃金供給者としてよりよく働くように、プレッシャーを与えて(となりの〇〇さんの御主人は課長になったそうよ、あなたにも一生懸命働いてなってもらいたい、などと言う)、夫(男性)から、子供を無意識のうちに近づけない(自分が独占する)。その結果、夫(男性)には、子供からの疎外(教育の権限を奪われる、子供から無用者、粗大ゴミ扱いされる)
とも言うべき現象が生じる。

家庭や自分自身の子供から切り離された存在である日本の男性が、家庭において、自分の子供を思うままに統率できる「家父長」にそのまますんなりなれるとは、考えにくい。実際の権力を握る女性側のお膳立て(「お父さんはえらいんだよ」と子供の前で持ち上げるなど)が欠かせないというのが現状ではないだろうか?

子供と母親の間の一体感や絆が(欧米に比べて)強い、裏返せば子供と父親との間の絆が弱い、ということも、父親が子供にとって一家の中心的存在からかけ離れている(むしろ母親の方が一家の中心にいる)ことの例証にならないであろうか?

結局、心理・文化的側面においても、日本において、男性(夫)は、女性(妻)に対して依存的でかつ家庭内で影が薄い、ということになれば、日本に家父長制が成立しているという、従来の日本のフェミニズムの論説は、はなはだ怪しいと見るべきではあるまいか?


3.家父長制と混同しやすい慣行

家父長制と紛らわしい慣行として、男尊女卑と嫁入りがあげられる。

3-1.男尊女卑

男尊女卑とは、男性が女性よりも尊重される、女性の男性への服従であり、欧米におけるレディーファーストの反対の現象であると考えられる。

従来の日本では、男尊女卑は、女性の(男性に比較した)地位の低さを示す象徴として、フェミニストのやり玉に挙げられてきた概念であった。

日本で男尊女卑に反対して女性解放運動を起こすという日本のフェミニズムの解釈が正しいのならば、レディーファースト(女性が男性よりも尊重される、男性が女性に服従する)の欧米では、男性解放運動が起きるはずである。

レディーファーストは、身近な例をあげれば、例えば、自動車のドアを男性が先回りして女性のために開けてあげるとか、レストランで女性のいすを引いて座らせてあげるとか、の行為を指す。この場合、見た目には、男女関係は、女王と従者の関係のように見える(女性が威張っていて、男性は下位に甘んじている)。

しかるに、女性解放を目指すウーマンリブ運動はレディーファーストの欧米で始まっている。このことは、欧米では、男性が女性に形式的にしか服従しておらず、見かけとは逆に、実効支配力、勢力の面では、女性を上回っていることを示しているのではないか?

それと同様のことを男尊女卑に当てはめると、女性は男性に対して、見掛け上のみ従属することを示しており、勢力的には女性の方が男性よりも強く、必ずしも女性は弱者ではないと言えるのではないか。

男尊女卑は、女性が男性に対して、見かけ上も、実質上も支配下に置かれる状態をさすので、欧米のレディーファーストよりも、女性にとって問題は深刻であるというのが従来の日本のフェミニストの見方であろうが、日本において、実質的な支配力という点で、女性が男性に服従していると見なすことには、いくつもの反論が可能である。

日本の女性が、経済的に、家庭における家計管理全般の権限(夫への小遣いの額を決める権限など)を握っている点、あるいは文化的な面として、子供の教育の権限を一手に握っており、その影響下で子供(特に男性)が育てられる結果、日本人の国民性(社会的性格)が女性化している(父性よりも母性原理に従って動く、人間関係で和合を重んじる、集団主義的であるなど)点、などが、日本ではむしろ女性が男性を支配しているのではないか、と思わせる証拠には事欠かないと考えられる。

日本人の国民性が女性的であると思われる根拠としては、例えば、以下のような点があげられる。
・人間関係を重要視する(女性の方が、男性よりも、赤ん坊の頃から、人間に対する興味が強いとされる)→対人関係の本質視
・外圧がないと自分からは動こうとしない(外交など)→受動性
・就職などの大組織(官庁・大企業)指向 寄らば大樹の陰→安全指向
・前例のないことはしない(科学分野で、独創的な理論が少なく、欧米理論の追試ばかりしている)→冒険心の欠如 
・理性的というよりは、情緒的である(社会学の家族理論で、情緒面でのリーダーは、女性に割り当てられている)→ウェット
・集団主義(女性のほうが、男性よりも、互いに集まること自体を好むとされている)


 

日本において、女性(妻)が、家庭内で男性(夫)に従うように見えるのは、(夫の収入供給者としてのやる気を出させるなどのため)見掛け上夫を立てているからであり、妻が夫を立てるのを止めると、もともと確固たる足場を持たない夫の権威はたちまち地に落ちてしまうと考えられる。

実際、日本の男性は家庭内では、「粗大ゴミ」とか「濡れ落ち葉」などと称されて、存在感のないことはなはだしい。これらは、男性の実際の家庭内の地位の低さを示す言葉だと言える。

前にも触れたが、日本の一般的な家庭生活においては、女性が、経済面での家計予算編成権限(夫の小遣い額の決定など)だけでなく子供の教育権限(母子一体感の醸成に基づく)を一手に握っているため、日本の家庭は、実質的には男性ではなく女性の支配する空間となっている(家父長制は表面だけ)のではないか?

マードックのいう核家族の4機能のうち、日本では、2機能(経済、教育)を女性が独占している。あとの2つは、性と生殖という、どちらが優勢とは言えない項目である。

 むしろ、日本の女性は、特に専業主婦の場合は、その権限の強さから、「家庭内管理職」「(家族生活の)管理者」として、夫や子供など他の家族よりも上位にある存在として捉えるのが適当なのではないか?つまり、家庭を官僚制組織のように見なした場合、日本では、女性が男性の生活全般を管理する管理職の立場につき、男性はその下で生活する単なる労働者として、自分が働いて得た給与を、女性に全額差し出す行動をとっているのが、日本の現状であると考えられないか?

日本においては、女性が官庁や企業などで管理職につく事が(男性よりも)大幅に少ないとされ、それが日本の女性の地位の低さを示している、と日本のフェミニズムの批判の対象となってきたが、これも、上記の見方を適用すれば、夫が、家庭の外でどんなえらい地位(例えば首相)についても、妻がその「生活管理者」(「首相」を管理する「(家庭内)管理者(職)」)ということで、夫よりも常に1ランク上の地位にいると考えた方が妥当なのではないか?


3-2.嫁入り

家庭における妻の夫への服従というのは、夫個人への服従というよりは、夫の家の家族(姑とか)への服従と考えるべきである。

従来の直系家族における(新たに嫁入りした)妻の地位の低さは、「新参者効果」とでもいう効果によって説明できるのではないか? つまり、妻は、「新入り」家族の一員として、外から夫の家へと、影響力ゼロの状態から入ることになる。従って、入り立ては地位が低く、夫他の家族に比べて弱いことになる。しかし、この「新参者効果」というものは、妻が家庭内の慣習などに慣れて実力をつけていくにつれて、やがて消えることになり、妻の力は次第に強くなっていくと考えられる。夫の家に入って間もない時点で地位を測定すると、夫に対して弱いように見えるが、姑から家計管理の権限などを譲り渡された時点では、地位の面で夫を上回っていることが考えられる。また、夫婦別姓になると夫の家への服従がなくなる分、強く見えるようになると考えられる。

夫の家族との同居が妻を萎縮させる原因となる。漫画のサザエさんのように同居しないと強くなる。妻の服従は、夫の家への服従、夫の親への服従であり、特に同性の女性である姑への服従である。その意味では、妻の服従とは女性(姑)と女性(義理の娘)の間の問題になる。夫への服従は、夫の家の家風などへの一連の恭順の一部であり、夫個人に対してのものとは必ずしも言えない。夫が「家父長」だから従っているわけではない、と考えられる。夫個人をその属する家から分離させる形で取り出して、妻と一対一で向かい合わせたとき、夫が優位を保てるかは、甚だ疑わしい。


4.悲しき「家父長」-日本女性による「家父長」呼ばわりの本当の理由

以上の点を勘案すると、必ずしも女性が弱いとは言えない。 また、日本において正しい意味での家父長制があったと言うことはできない。男性(夫、息子)のほうが女性よりも弱く、女性(妻、母)の支配下に入っていたというのが、歴史的に見ても妥当なのではないか?

現状の日本のフェミニズム理論は、将来的には、理論の欧米からの直輸入と、日本社会への機械的当てはめが失敗に終わった事例として、後世に汚名を残すのではあるまいか。

日本の男性たちは、仕事のためと称して家庭に遅く帰り朝早く出て行く生活を送っており、家庭における父親不在をもたらしている。なぜならば彼らは家庭の中で自分の部屋が持てないなど居場所がなく、家族成員から疎外されており、家庭にいるのが不愉快だからである。彼らは家計管理や子供の教育についても主導権を持てないでいる。家庭内の実権はすべて女性に握られており、日本の家庭は実質的に母権制なのである。



このように日本の家庭において男性の影が非常に薄いにもかかわらず、女性が男性のことを「家父長」呼ばわりし続けるのには、それなりの理由と戦略があると考えられる。



一般に、組織において「長」の付く役職にある人の果たす役割は、大きく分けて1)代表、2)責任、3)管理の3つがあると考えられる。代表機能は、組織の顔として、外部環境に対して自分自身を直接露出する役割、責任機能は、組織成員が失敗を犯したときにその責任を取って社会的制裁を受ける役割、管理機能は、組織成員の行動を強制力を伴って管理・制御する役割である。



日本の家庭では、このうち管理の役割は女性がほぼ独占している。女性(妻、母)は家計管理や子供の教育の権限を持ち、男性(夫、息子)を自分に対して心理的に依存させることで、男性(夫)や子供が自分の思い通りに動くように、自分の言うことを聞くように仕向けている。管理者=「長」と見なす考え方からは、日本男性は「家父長」の資格を明らかに欠いている。




しかし、代表と、責任の役割については、女性はその役割を遂行することを回避し、男性に押しつけようとしている。女性が家庭管理の権限がない男性のことを意図的に「家父長」呼ばわりするのは、家庭という組織を対外的に代表し、運営がうまく行かなかった時の責任を取る役回りを男性に全部やらせようと策略を巡らしているからに他ならない。ではなぜ女性は、代表・責任役割を自ら取ろうとしないのか?それは、女性が根源的に持つ、我が身を危ない立場に置こうとせず、常に安全な位置にいようとする自己保身の指向に基づく。


なぜ、女性が自己保身の指向を持つかについては、生物学的貴重性について述べたページを参照されたい。



女性は、代表者として対外的に表面に出るのを嫌う。それは、危険にさらされる外側よりも内側の世界に留まった方が安全が確保しやすいからである。家庭を対外的に代表するということは、外部に対して我が身を露出することであり、直接攻撃や危害を加えられる立場に立つことである。そのため、女性は、男性を対外的な「盾」となる代表役に仕立てて、自分はその内側で安全を保証された生活を送ろうとする。男性を家庭を代表する「家父長」に仕立てるのは、男性を家の外の風にさらして、自分はその内側で気楽に過ごそうとする魂胆があるからに他ならない。



女性は、また、失敗時に責任を取らされて社会的制裁を受けるのを嫌う。制裁を受けることにより、社会的生命を失い誰からも助けてもらえなくなり、自分の身の安全を脅かされることを恐れるからである。そのため、自分からは行動上の最終的な決断をせず、決断をする役回りは全て男性に押しつけようとする。



責任逃れの口実として、男性を家庭内の物事を最終的に決断する「家父長」に仕立て上げて「あなたが決めてよ」と言って決めさせ、失敗時には「決めたのはあなたよ。あなたがこうしなさいと言ったから、私はそれに従ったまでよ。あなたがいけないからこうなったのよ。私の責任ではないわ。」と逃げられるようにする。男性が物事を自分からは決めようとしないと、「優柔不断な男は嫌い」ということで、その男性を非難する。



「家父長」の呼称は、彼が、女性による責任押し付けの標的・対象となっていることの現れであり、その意味で、ありがたい呼称とはお世辞にも言えない。日本の女性は、普段は男性をやっかい者扱いしながら、行動結果の責任なすり付けに都合の良いときだけ男性を頼りにしよう、利用しようとするのであり、それが女性が家庭内での実権を持たない男性のことをいつまでも「家父長」呼ばわりする真の理由なのである。このことを知らずに、女性から「あなたは家父長」とおだてられていい気になっている日本の男性たちは、救いようのない愚かな存在なのかも知れない。

見かけだけの家父長制社会日本

日本の女性は、失敗したとき、自らの責任逃れをするために、男性に責任ある「長」の地位を押しつけている。
その点、女性による、男性優位の演出が行われている。日本男性は、女性の厚意で威張らせてもらっている、と考えておいた方が身のためである。

日本が本当に家父長制の社会なら、国民性が、男性的=ドライとなるはずである。しかるに、伝統的な日本社会の国民性は、ウェットで女性的(女々しい)。国民性が女々しくて、かつ家父長制というのは成立しえないのではないか?日本社会=母権制ではないかと、疑うべきである。

家父長制
父親-子供の紐帯が、母親-子供の紐帯よりも強い。
父が子育ての最終的な権限を握っている。子供がドライ=男性的に育つのは、父親の影響力が大きいからである。
近親相姦は、父親と娘の間に起こりやすい。

母権制
母親-子供の紐帯が、父親-子供の紐帯よりも強い。
母が子育ての最終的な権限を握っている。子供がウェット=女性的に育つのは、母親の影響力が大きいからである。
近親相姦は、母親と息子の間に起こりやすい。

日本では、夫が妻に、心理的に依存する程度が、妻が夫に、心理的に依存する程度よりも、ずっと強い。
夫婦の間に子供が生れたとたんに、夫は、妻の事を、「ママ」とか「お母さん」と呼ぶようになり、実の母親に対する甘えを、妻に移行させる、とされる。
妻に対して心理的に依存している夫が、妻を支配する家父長であるというのは、依存される方が、依存する方を支配する、という常識と矛盾している。

日本における家父長像の誤解について

真の家父長となる条件は何か?
日本における家父長像は、本来のものとはずれており、誤解されている。

(1)日本の父親のように、自分からは何もしないで、「○○しろ」「○○持って来い」というように、自分は座ったままで何もしないで、妻に、身の回りのことを、威張って命令口調でやらせる(やってもらう)のは、家父長とは言えない。皆妻にやってもらわないと、自分の力では、何一つできない。本来、家父長は、動的に、自ら進んで体を動かす、家族の手本となる行動様式を示す指導者でなくてはならない。能動性が必要である。単なる怠け者や快楽主義者では、家族は、自分の事を家父長とは見なさず、厄介な「お荷物」としてしか、見ないであろう。

(2)日本の父親が持つ、浪花節的な、ベタベタした親分子分のような関係は、男性的ではない。メンタルな面で母性の支配下にあり、家父長とは言えない。家父長たるには、ドライな合理性、個人主義、自由主義などを、身につける必要がある。

(3)日本の父親は、どっしりとして(どっしり座って)、てこでも動かない、重い存在であることが、理想的であるとされてきた。
一カ所から動かないのは、定着指向であり、静的(ウェット)であり、母性的である。本来、家父長というものは、積極的に、あちこち動き回る、ドライな存在なのではないか?

不在家長

なぜ、男性が、深夜まで残業するなど、職場に引きつけられて家庭に帰らないか(「不在家長」現象が起こるか)?

1.家庭で、父親の姿を見ずに育った(父親不在の家庭)。家庭にいる父親像を学習していない。
2.職場で、昇進競争をするように、母や妻から圧力がかかる。
夫(息子)の肩書(表看板)が、そのまま管理者たる妻(母)のえらさになる。いかにうまく管理したかの証拠となる。
こうした原因が、男性を、職場に長くい続けさせることにつながる。

日本男性=「強い盾」論

-日本男性の虚像 見せ掛けの強者-


戦前から、日本の男性は、本当は無力な弱い存在なのに、女性によって強大な者と見せかけられている。「差別される弱い女性」を演出するフェミニズムもこの一環である。

女性は、生物学的貴重品として、男性に守ってもらおうとする。男性に、強い盾となってもらうことを必要とする。そのためには、男性に自分は強い、役に立つ人間だという自尊心を持ってもらうことが必要である。
日本の女性は、男性の自尊心を保つのに、躍起となっている。

男性が強い、強くなければいけないという神話の起源は、以下の通りである。

生物学的貴重性が強い女性を、外敵から守らねばならない。
守るには、襲ってくる相手より、強くなければならない。
男尊女卑(男性が偉くなければいけない)とは別である。

あくまで、盾、防衛的な役割について、強いことが求められる。
それ以外の側面では、強いことは必ずしも求められない。

「強い盾」の生成過程は、

本来持っているドライさを、稲作農耕社会のようなウェットさを要求される自然風土下では有害であるとして、生育過程において、育児権限を独占する女性によって剥奪され、無力なかたわ者となる。
そのままでは社会のお荷物となるので、生得的な筋力の強さ、武力指向および、生物学的に生き残らなくても、人間の子孫の継承にあまり影響が出ない点を生かし、(生き残らないと、種の保存に支障をきたす)女性を守る「強い盾」として、もっぱら活用され、訓練される。

日本において、男性が優位に立っているというのは、男性に、強い盾になってもらおうとする女性による、作為的な見せ掛けである。

女性は、自分の掌のうえで、男性を泳がせている。

女性は、その気になればいつでも社会の本当の支配者が誰かを見せつけることができる。
ただし、それをすると、男性が、自尊心を失って萎縮してしまい、防衛・強い盾の機能を果たさなくなるので、しないだけである。

強い自尊心を女性によって与えられた男性は、わがまま・専制君主的になりやすい。

日本の父親(特に戦前)が「家父長的」に見える理由は、

1)強引であること
2)威圧的・威張ること

3)厳しい、威厳がある、厳格である
4)怒る 怖い

5)専制的、わがまま

6)断定的、責任を取る(取ってくれる)、決断力がある

といった点にある。

いずれも、人間的には、決して成熟しているとは言えない。
そこには、女性が望む「強い盾」としての側面ばかりが強化されている。
また、ドライさとは無関係のものばかりである。本来の男らしさ、父らしさは、ドライさにあるのではないか?
個人主義、自由主義、合理性など、ドライさを削除されている点、男性としては、精神的に奇形である。

一方、強さは、確かにある。それは、筋力、攻撃力(怒り)といった、女性を守る道具としての強い盾として用いられる。

責任を取る、決断をするというのも、女性に欠けており、女性が欲しがる資質である。失敗したときに、責任を男性になすり付けることができる。
女性にとって、自らの保身を行う上で、都合のよい性質である。

男性にウェットさを強いて、支配下に置いたまま、自分の保身を図るため、うまく使いこなす際に、上記の性質を男性が持っていると重宝する。

ウェットな男性は、いかに強引、専制的...であって(強く見えて)も、本来のドライさを失っている以上、心理的には奇形、障害者であり、社会的弱者である。

強い盾、ないし、給与を差し出す下級労働者としての、女性に都合よく限定した役割しか果たせない、それ以外の点では無能である。
本質的には弱者であり、女性によって搾取される存在である。

日本女性は、自分が社会の支配者であることを、必死に隠そうとしている。
男性の自尊心を傷つけて、強い盾として機能しなくなることを恐れる。

日本における女性への差別待遇も、男性の自尊心を確保するために必要である。
もともと、女性優位なので、そのままでは、劣位にある男性の自尊心が確保しにくく、人権問題となる。

日本女性の男性に対する見方は、男性固有の、個人主義、自由主義など、ドライな側面を、(稲作農耕社会にとっては)有害なので消したいが、かといって、自分たちを守る盾としての存在ではいてほしい。

根底では、ドライな、本来の男らしさを否定し、男尊女卑といった、見かけ上の男性尊重と、女性によって人為的に作られた強さでしのごうと考えている。

日本的な「男らしさ」は、ドライさに基づく男性本来の男らしさとは異なる。

日本の家庭を父権化する計画について



従来、母性の支配下にある日本の家庭は、男性の立場からは、少しでも父親の力を取り戻し、父権化、家父長制化することが必要である。



そのためには、まず、最近の、社会進出を優先して、子育てに母性が不可欠とする母性愛神話を打破しよう、子育てを放棄しようとする女性側の動きを利用することが望ましい。



つまり、女性学、フェミニズムによる育児回避・放棄運動に乗じて、「母親たちが育てないならば、父親が育児を一手に引き受けよう」「父性主導の子育てを実現させよう」と運動するのである。



3歳児までの、子供の人格の基盤が固まる時期を、母性を排除し、父性側で押さえる。父性の介入を最大限にして、母性による子供の独占を阻止する。



従来の日本の子供は、母親と癒着した、「母性の漬け物」と化している。これを改め、子供から母性分を「脱水」し、代わりに、「父性の漬け物」とするのである。



そのためには、欧米の父権制(家父長制)社会を手本にして、母性偏重の日本家庭に父性の風を持ち込むことが重要である。



父親主導のドライな雰囲気の子育てを行う。例えば、川の字添い寝を廃止し、母親と子供の密着を阻止するため、子供を、早期に個室に入れる。子供が、一人で自分自身を律することが早い段階で可能になるようにする。そうすることで、子供もドライな父性的な風を身につけることができ、父親主導の子育てが可能となる。



そうすることで、子供は、父親になつく、父親を頼りにするようになり、今度は、逆に、母親の方が子供たちから疎外される感じになるであろう。そうすればしめたものである。家庭の中心に、父親が位置するようになる日は近い。



父権制における真の父親は、戦前日本の父親のように、家庭の中で、ワンマンの暴君、専制君主のように、わがままな大きな子供のように振る舞うことはない。父権制の父親は、ドライで合理性を持った、自由で個人主義で自律的で明確な自己主張を持った、必要な時には危険に直面し、きちんと責任を取り、探検好きで、進取の気性に富んだ、ドライな存在である。



真の父親は、レディーファーストで、表面的には母親を立てるが、裏では、彼女を愛人兼家政婦として、その上に立つ形で支配する。もちろん家計も父親が管理し、母親に、家事労働に必要な小遣いを渡すのである。



日本家庭において、こうした父権制化を実現するためには、何よりも、日本の父親たちが、従来の母親べったりのウェットな存在から脱却して、欧米並みのドライな考え方を取るようになる必要がある。そのために、父親がドライな態度を取れるように訓練する、教育プログラムを、欧米における父親の意見を参考にしながら、日本で開設する必要がある。



特に、キリスト教系の学校では、欧米人の宣教師が、父権的なドライな接し方で、子供や児童に接するので、日本の男子生徒~父親たちは、それを参考にして、早くから父性的な振る舞いを身につけるようにすることが考えられる。



父権モデルは、欧米が白人のため、日本と人種的に離れていて問題だというのであれば、欧米同様遊牧・牧畜民であるモンゴルでもよい。




日本の家庭を、女性、母性の支配の場でなくすには、家庭を「妻の王国」「母の王国」として、そこに君臨する妻や母たちを、家庭の外に出して、家庭の中での女性、母性の支配力、影響力をできるだけ減らし、その代わりに父性をどんどん注入することで、日本の家庭を女性、母性支配の場から、男性、父性支配の場へと転換させる必要がある。



その意味で、日本において、女性を、家庭の外の、会社などに社会進出させることは、社会の根幹をなす家庭において、男性の影響力をより増やす上で、有効かつ重要な戦略である。



日本女性の家庭における支配力を弱めるため、日本女性が家庭を離れて職場社会進出するのを促進することこそが、現状の日本男性の社会的地位向上のために重要なのである。



現状では、日本の男性は、女性に社会進出されて、給料を稼がれると、自分の経済的な甲斐性、女性を経済的に養う力を否定されるように感じて、女性の社会進出に反対することが多い。



しかし、重要なのは、誰が稼ぐかではなく、誰が財政の紐を握るかなのである。いくら、稼いできても、その稼ぎを妻に取り上げられて、妻から小遣いを渡される「ワンコイン亭主」でいるようでは何もならない。男性が「財布の紐を握る」「財布の紐を女性から奪い取る」ことこそが、日本における家庭ひいては社会全体の父権化、家父長制化(男性による支配の実現)にとって本質的である。その点、日本の男性は、誰が稼いだかには、これまでのようにはこだわらず、むしろ、誰が(家族が)稼いだ金を管理するか、誰が家計を支配するかという点にこだわるべきなのである。



子供の教育についても同様である。子供の教育を母親、妻任せにしていると、子供は母親の言うことを聞いて、父親の影が薄くなる。これが、日本において、父性の欠如した次世代の子供を繰り返し再生産することにつながっており、家庭や社会における父権の強化のために、父親が子供の教育を主導する形へと改める必要がある。その際、父親は、子供を母親から切り離して独立した自律的存在とすることに心を砕くべきである。そうすることで、子供に対する(子供を包含し一体化し、強い紐帯を子供との間で維持しようとする)母親の影響力を弱めることができる。



女性を社会進出させて、家庭内における影響力を低下させ、その間隙を突いて、家庭の中枢をなす機能(家計管理、子供の教育)を奪取することこそが、日本の男性にとって必要である。

ジェンダー・フリー思想と父性強化

従来、日本において、ジェンダー・フリー思想は、フェミニスト(女権拡張論者)主導で押し進められてきた。それは、性差別をなくし、男らしさ、女らしさの枠にはまらない個々人の個性を重視しましょうという主義主張である。

現に、学校での名簿の男女混合化等、性差をなるべく考慮から外すのが先進的で優れた考え方だとする見方が日本中に広がっている。

ここで、立ち返って考えてみると、ジェンダー・フリー思想のような、各人が、所属するカテゴリから解き放たれてバラバラになるのを好む行き方は、気体分子運動パターンに近い、ドライな考え方である、と言える。

それは、個々人の(集合からの)自立独立を好む男性、父性向きの考え方であり、一見、性別からの解放を謳いながら、実際には、男性、父性の力を強めている。個々人の相互一体融合化、共通カテゴリへの集合、一致団結を指向する、母性、女性の力を弱める考え方であるとも言える。

日本のフェミニストは、ジェンダー・フリー思想を導入することで、皮肉にも、日本社会における母性(女性)の力を弱めることに一生懸命になっていると言える。

日本において、父性の力を強めるのに、ジェンダー・フリー思想は格好のツールとなると言える。要は、個々人の個性重視、集合からの独立を謳うジェンダー・フリー思想は、日本における父性強化、母性からの男性解放に役立つのである。

そこで、日本の男性たちは、フェミニストたちが自分たちの誤りに気づいて、撤回する前に、どんどんジェンダー・フリーを推進すべきである。

(参考)母性と父性-態度の比較-

ページへのリンクです。

母性からの解放を求めて

-「母性依存症」からの脱却に向けた処方箋-



従来より、日本社会は、母性が中心となって動く、「母性型社会」であると言われてきた(例えば[河合1976])。筆者としては、その際、母性の担い手である女性だけでなく、男性までもが、母性的態度を取っている、という点に問題があると考えている。



日本の男性たちが、職場などで実際に取る態度は、いわゆる「浪花節的」と称される、互いの一体感や同調性を過度に重んじる、対人関係で温もりや「甘え」を強く求める、内輪だけで固まる閉鎖的な対人関係を好む、など、ウェットで母性的な態度が主流である。(母性的態度、父性的態度についての説明は、このリンクをクリックして下さい。



彼ら日本男性は、一応男性の皮をかぶっているが、実際には、母性的な価値観(それ自体、女性的な価値観の一部である)で行動しているのである。これは、日本社会における母性の支配力の強さを見せつけるものであり、日本社会の最終権力者が、実際には、彼ら男性たちの「母」(姑)ないし「母」役を務めている妻であることを示している。



こうした母性的行動を取る日本男性は、「母性の漬け物」と化している。その点、自分とは反対の性である母性の強い影響のもと、自分たちが本来持つべき父性を失っている。



要するに、日本社会を支配していると表面的には見える男性たちは、実際には、「母」によって背後から操縦、制御される「ロボット」「操り人形」なのであり、「母」に完全に支配されているのである。日本の男性たちは、「母」によって管理・操縦されているため、集団主義、相互規制、閉鎖指向といった、男性本来の個人主義、自由主義、開放指向とは正反対の、ウェットで母性的な振る舞いをするのである。



日本社会は、その全体像が一人の「母」となって立ち現れるのであり、男性は、母性の巨大な渦の中に完全に呑み込まれ、窒息状態にある。



日本男性を、こうした、自分とは反対の性の餌食になっている現状から救うには、「母性からの解放」が必要である。



今までは、日本における「母性」は、男性にとっては、自分たちを温かく一体感をもって包み込んでくれるやさしい存在として、肯定的、望ましいものとして捉えられることが多かった。日本男性がその結婚相手の若い女性に求める理想像も、「自分が仕事から疲れて帰って来た時に温かく迎えてくれる」「自分のことをかいがいしく世話してくれる」といったように、母性的なものになりがちであった。



また、「母性」の行使者である「母」「姑」といった存在が権力者として捉えられることはなかった。日本の女性学においては、権力者は、「家長」としていばっている男性であるという見方がほとんどである。彼ら「家長」たる男性が、その母親と強い一体感で結ばれ、母親の意向を常に汲んで行動する、言わば、「母の出先機関・出張所」みたいな意味合いしか持たない存在であることに言及した書物はほとんどない。



例えば、一家の財産権は、「家長」である男性が持つとされ、それが日本は男性が支配する国であるという見解を生んでいる。しかし、実際のところ、母親との強い癒着・一体感のもと、「母性の漬け物」と化した男性は、実質的にはその母親の「所有物」であり、その母親の配下にある存在である。彼は、独立した男性というよりは、あくまで「母・姑の息子」であり、母親の差し金によって動くのである。



だから、男性が財産権を持つといっても、それは、「母」が息子=自分の子分、自己の延長物に対して、管理の代表権を見かけだけ委託しているに過ぎず、実際の管理は、「母」が行うのである。その点、財産権は、実質的には、息子の母のものである。ただ、母親は、女性として、一家の奥に守られている存在であることを望み、表立って一家を代表する立場に立つことを嫌うので、その役割が息子に回ってくる、というだけのことである。母は、息子に対して、財産の名義を単に持たせているだけであり、実際の管理権限は母(姑)ががっちり握って離さない。



このように、母親に依存し、女性一般を母親代わりに見立てて甘えようとする、「母性依存症」とも呼ぶべき症状を起こしている日本男性に対しては、母性支配からの脱却を目指した新たな処方箋が必要である。日本男性にとっては、本来母性は、決して望ましいものではなく、脱却、克服の対象となる存在となるべきなのであるが、それをわかっていない、母性に対する依頼心の強い男性が余りにも多すぎるのが現状である。



筆者の主張する、「母性依存症」への対処方法は以下の通りである。



(1)まずは手始めに、取る態度を、本来男性が持つべき、個人主義的で自由や個性を重んじる、ドライな「父性的」態度に改めるべきである。言わば、自らの心の中に欠如していた父性を取り戻すのである。これについては、例えば「家父長制」社会=遊牧・牧畜中心社会の立役者である、父性を豊富に備えている、欧米の男性が適切なモデルとなると考えられる。欧米のような家父長制社会を実現しようとなると極端になってしまうが、今まで母性偏重だったのを、母性と父性が対等な価値を持つところまで、父性の位置づけを向上させることは必要であろう。



(付記)なお、従来も「父性の復権」が言われたことがあった(例えば[林道義1996])が、その際言われた「父性」とは、全体を見渡す視点、指導力、権威といったことを指しており、筆者が、上で述べた、個人主義、自由主義、対人面での相互分離、独創性の発揮といった、ドライさを備えた父性への言及が全くない。その点、従来述べられてきた復権の対象としての「父性」は、今までの母子癒着状態をそのまま生かしながら、従来の母性で足りない点を補完する「母性肯定・補完型」の父性であって、筆者の主張する、母性に反逆して、母性の延長線とは正反対の父性を築こうとする「母性否定・対抗型」の父性の復権とは異なると考えられる。




(2)また、「母」的価値からの逃走、ないし反逆を試みるべきである。今まで、自分が一体感をもって依存してきた母親に対して反抗とか独立を試みるのは、非常に難しいことであるのは確かだが、これを実行しない限り、永遠に母性の支配下に置かれることになる。そのためにも、相手との一体感や甘え感覚がなくても自我を平静に保てるように、相手からのスムーズな分離や独立を目指す、「母性からの脱却」「父性の回復」訓練を、自ら進んで実践することが必要である。女性一般に対しても、心の奥深くにある彼女たちへの依存心(自分の母親みたいに、温かく世話して欲しいなど)を克服し、「自分のことは自分で世話する」という自立の精神を持つ必要がある。



(3)子育てに父親として積極的に参加し、母子の絆の中に割り込んで、彼らを引き離すことが必要である。従来、日本の男性は、「仕事が重要である」として、子供との心理的な交流をほとんどしてこなかった。それが、男性が子供と自分とを切り離し、子供から無意識のうちに遠ざけられるようにすることで、母親と子供の間にできる、強固な、誰も割って入ることのできない絆を生み出し、それが、母性による子供の全人格的支配を生み出してきた。(この状態にある母子を、筆者は、「母子連合体」と仮に名付けています。詳細な説明はこのリンクをクリックして下さい。)



男性が子供との交流をしないのは、自分自身の子供時代に、父親との満足な交流の経験がないというのも影響している。一つ前の世代の父親が子供と心理的に隔離された状態に置かれることが、「母子連合体」の再生産を許してきたのである。



従って、子供が母親と完全に癒着した、母性による子供の支配が完成した状態である「母子連合体」の再生産を阻止するには、父親が、母と子供の間に割って入って、自ら主体的に子供との心理的交流を図る作業を実行することが大切である。今まで日本男性が子育てを避ける口実としてきた「仕事が忙しいから」というのは、子供と父とを近づけまいとする、母による無意識の差し金によるものであることを自覚し、それを克服すべきである。外回りの仕事を女性により任せるようにして、その分、自分は家庭に積極的に入るべきなのである。


[参考文献]

河合隼雄、母性社会日本の病理、1976、中央公論社

林道義、父性の復権、1996、中央公論社



「母性社会論」批判の隠された戦略について

-日本社会の最終支配者としての「母性」-



[要約]


「日本=母性社会」論は、その本質が、日本社会を最終的に支配している社会の最高権力者が母性(の担い手である女性)であることを示すものだと筆者は捉える。日本の女性学による「母性社会論は、女性に子育ての役割を一方的に押しつけるものだ」という批判は、女性たちが日本社会を実質的に支配していることを隠蔽する、責任逃れのための「焦点外し」だと考えられる。また、女性たちが従来の「我が子を通じた社会の間接支配」に飽き足らず、自分自身で直接、会社・官庁で昇進し支配者となる、言わば「社会の直接支配」を目指そうとする戦略と見ることもできる。






従来の日本女性学では、臨床心理学者などが提唱している日本を「母性社会」とする見方について、「日本社会が、子供を産み育てる役割を一方的に女性(母親)のみに押しつけていることを示しており、有害である。修正されなくてはならない。」という反応が主流である。



これに対して、筆者は、日本を「母性社会」とする見方は、本来、「日本社会における母性の影響力、権勢が強い。日本社会において、母親が社会の支配者となっている」ことの現れであると見る。要は、日本社会において「母」が社会の根底を支配しており、万人が母親の強い影響下で「母性の漬け物」になっている社会であることを示すのが、「母性社会」という表現だと考えている。



日本の母親は、例えば「教育ママゴン」みたいに、その力の強さを怪物扱いされるような、巨大で手強く、誰もが逆らえない存在なのである。



日本の女性学による、「臨床心理学者たちは、母性社会という言葉を使って、「母」としての女性のみを称賛し、子供を産み育てる役割を女性に押しつけている」という批判は、「日本社会の根幹を支配しているのが母性(の担い手である女性)である」という現状から人々の目を外して、自分たち女性が社会の支配責任を負わなくて済むようにしよう、自分たち(支配側にある)女性に被支配者(男性、子供)の批判、反発が集まらないようにしようとする、「焦点外し」の巧みな戦略、策略だと、筆者には思えてならない。要は、自分たち女性(母性)が社会の実質的支配者であることを、人々に気づかせまいと必死なのである。



また、「子供を産み育てる役割を女性に押しつけるのはいけない」みたいな論調が広がっているが、本来、日本の女性が社会で支配力を振るってこれたのは、彼女らが、子育ての役割を独占することで、自分の子供を、自分の思い通りに動く「駒」として独占的に調教できたから、というのが大きいと考えられる。日本の女性たちは、自分の子供を「自己実現の道具」として、学校での受験競争、会社での昇進競争に、子供の尻を叩いて駆り立て、子供が母親の言うことを聞いて必死に努力して社会的に偉くなった暁には、自分は「母」として、一見社会的支配者となったかに見える子供を更に支配する「最終支配者」的存在として、社会の称賛を浴び、社会に睨みを効かせることができる。



要は、子供の養育を独占することで、自分の子供を完全に「私物化」できることが、日本の女性たちが社会で大きな権勢をこれまで振るってこれた主要な理由であり、要は、「(自分の)子供を通した(日本社会の)間接的支配」というのが、日本の女性たちが社会を支配する上でのお決まりのパターン、手法であった。要は競走馬(我が子)のたずなをコントロールする騎手として、日本女性は、社会をコントロール、支配してきたのである。



「子供を産み育てる役割を女性に押しつけるのはいけない」という論調に日本女性が同調しているのは、彼女らが今まで築き上げてきた、「子供を通じた社会支配」という、彼女らによる日本社会支配手法の定石を自ら捨て去ろうとしている点、実は、日本女性にとってはマイナスであり、むしろ男性にとって、子供を女性の手から取り戻す機会が増える点、プラスであると言える。



ただ、日本男性にとって一番恐ろしいのは、日本女性が、従来の「我が子を通じた、社会の間接支配」に飽き足らず、自ら社会を「直接支配」する者になることを開始することである。従来の我が子を私物化することでの「我が子経由での社会支配」を維持しつつ、自分自身も、会社・官庁で昇進をして偉くなることで、「直接・間接」の両面で日本社会支配を完成させること、これが、本来なら日本のフェミニスト(女権拡張論者)の最終目標となるはずのものであり、日本男性としては、これが実現しないように最大限努力する必要がある。幸い、日本のフェミニストは、この最終目標にまだ気づいておらず、我が子を通じた間接(社会)支配権限を自ら捨て去ろうとしている。これは、日本男性にとって、女性から我が子を取り戻す絶好のチャンスである。



「子育ては女性がするもの」という固定観念は、日本女性による我が子の独占と、我が子を通じた社会の間接支配権限を助長する考え方であり、女性を利する点が多く、男性にはマイナスなのであるが、日本の男性は、そのことに気づかないまま、自分の母親の「自己実現の駒」として、会社での仕事にひたすら取り組み、それが「男らしい」と勘違いしている。



日本の男性は、もう少し、自分の子供に対する影響力を強化することに心を配るべきなのではないか?自分の子供に自分の価値観をきちんと伝えて、自分の後継者たらしめる努力をもっとしないと、いつまで経っても、子供は女性の私物のままである。そして、女性たちが、子供を自分にしっかりと手なずけつつ、自分自身、会社での昇進を本格化させると、心の奥底で、母性に依存したままの男性たちは、寄る辺もなく総崩れになってしまうであろう。そうならないように、自分と母親との関係を見直し、「母からの心理的卒業」と「子供をコントロールする力の確立」を果たすべきなのである。


「母」「姑」視点の必要性

-日本女性学の今後取るべき途についての検討-



既存の日本のフェミニズム、女性学は、社会的弱者である「娘」「嫁」の立場の女性ための学問であり、社会の支配者、権力者である「母」「姑」の立場からの視点が、決定的に欠落している。

今までの日本の女性学の文献を調査すると、「嫁」「妻」「女(これは未婚の女性である「娘」に相当することが多い)という言葉は頻繁に出てくるが、「母」となると急速に数を減らし(それもほとんどは、女性と「母性」の結びつきを批判する内容のものであり、「母親」の立場に立った内容の記述はほとんど見られない)、「姑」に至っては、全くといってよいほど出てこない。要するに、「母」「姑」の立場から書かれた女性学の文献は、今までは、ほとんどないというのが現状だと考えられる。要するに、日本の女性学は、「娘」「嫁」の立場でばかり、主張を繰り返しているようなのである。

既存の日本の女性学は、「日本社会の男性による支配=家父長制」を問題視し、批判の対象としてきた。しかし、彼女たちが真に恐れるのは、本当に男性なのだろうか?

例えば、日本の若い女性は、結婚相手の男性を選ぶ際に、長男を避けて次男以下と結婚しようとしたり、夫の家族との同居を避け、別居しようとする傾向がある。こうした行動を彼女たちに取らせる核心は、「ババ(姑)抜き」(「お義母さんと一緒になりたくない」という一言に尽きる。

要するに、彼女たちにとって一番怖いのは、夫となる男性ではなく、夫の母親である「姑」(女性!)なのである。なぜ、彼女たちが「お義母さん=姑」を恐れるかと言えば、姑こそが、夫を含む家族の真の管理者(administrator)であり、彼女には家族の誰もが逆らえないからである。結婚して同居すれば、夫も夫の妻も、等しく彼らの「母」ないし「義母」である「姑」に、箸の上げ下ろし一つにまでうるさく介入され、指示を受ける。従わないと、ことあるごとに説教されたり、陰湿な嫌がらせを受けたり、といった、精神的に逃げ場のないところまでとことん追い込まれてしまうのである。また、経済的にも、「母」「姑」に一家の財布をがっちりと握られるため、どうしても彼女たちの言うことを聞く必要が出てくる。

こうした点、「母」「姑」こそが、その息子である男性にとっても、「嫁」「娘」の立場にある女性にとっても、等しく共通に、乗り越えるべき「日本社会の最終支配者」なのである。特に、母子癒着こそが、「母」「姑」が自分の子供(特に男性=息子)を、強烈な母子一体感をもって、自分の思い通りに操る力の源泉となり、「母性による社会支配」の要となっている考えられる。


日本の女性学が、そうした「母」「姑」のことを、今まで取り上げてこなかったのはなぜか?

[1]日本の女性学は、社会的に不利な立場にある女性の解放というのを、主要な目的として掲げてきたが、日本社会の支配者としての「母」「姑」という存在は、「弱小者としての女性を解放する」という目的に反する、厄介なものだったからであろう。いったん強大な権力者である「母」「姑」の視点を取ってしまうと、「女性=弱者」という見方は実質的に不可能となるからである。

[2]日本の女性学は、女性同士の連帯・団結を重要視して発展してきたと考えられる。従来は、「娘」「嫁」「妻」の立場を取ることによって、広く女性全体がまとまりを作りやすかった。しかるに、そこに「母」「姑」の立場を持ち込むと、(a)子供を持つ「母」の立場の女性と、未だ持たざる女性、および(b) 「姑」の立場の女性と、その支配を嫌々受けなくてはいけない「嫁」の立場の女性との間に亀裂が生じ、女性同士の連帯感、一体感が大きく損なわれると考えられる。そのため、女性全体の一体性を保つために、あえて「母」「姑」を無視してきたと考えられる。

これら[1][2]は、いずれも「臭いものにはふた」「自説を展開する上で都合の悪い事象は無視」という考え方であり、日本の女性学が、説得力のある内容を持った「科学」として発展していく上で、大きな阻害要因となると言える。日本の女性学が科学として今後も伸びていくには、「母」「姑」の視点を取り入れることで、

(1)「女性=世界のどこでも弱者」という見方を根本からひっくり返して、「日本社会においては、女性=強者である」として、女性に関する社会現象を正しく取り扱えるようにする

(2)女性同士の表面的な連帯感・一体感の深層にある、「母」と「未だ母ならざる女性(娘、妻)」、「姑」と「嫁」との対立を、連帯感・一体感が損なわれることを恐れずにとことんまで明らかにして、もう一度見つめなおすことで、今までの表面的なものではない、女性同士の真の、心の底からの新たな連帯の可能性を見出す

といったことが必要なのではあるまいか?


一方、日本の女性学が、「母」「姑」を軽視してきたのには、以下のような理由もあると考えられる。

[3]日本の女性学は、視点が、(男性が活躍してきた)社会組織(すなわち企業、官庁)における女性の役割や地位向上に向いており、その分、家庭の持つ、一般社会に対する影響力を過小評価してきたからである。要するに、家庭において「母」「姑」が権力を握っていることを仮に認めたとしても、その影響力はあくまで家庭内止まりであって、社会には影響が及ばないと考えているため、「母」「姑」を無視してきたと考えられる。

これに対しては、家庭こそが、社会における基本的な基地、母艦であり、そこから毎日通勤、通学に出かける成員たちが、いずれはそこに帰宅しなくてはいけない、最終的な生活の場、帰着地である、とする見方が考えられる。この見方からは、社会の最も基礎的なユニットが家庭であり、企業や官庁といった社会組織の活動も、家庭という基盤の上に乗って初めて成立するということになる。要するに、「家庭を制する者は、社会を制する」ということになる。

こうした見方が正しいとすれば、「母」「姑」は、企業や官庁で活躍する人々(その多くは男性)の意識を、根底から支え、管理、制御、操縦する、「社会の根本的な支配者、管理者」としての顔を持つことになる。要するに、家庭は、一般社会に対して大きな影響力を持つ存在であり、その支配者としての「母」「姑」を無視することは、日本社会のしくみの正しい把握を困難にする、と言える。そうした点でも、「母」「姑」を女性学の対象に含めることが必要である。


なお、日本女性学で「母」「姑」が無視されてきたのには、次のような推測も可能である。

[4]日本の女性学での主張内容は、そのまま女性たちの不満のはけ口となっていると考えられる。彼女たちにとって不満なのは、弱者としての「娘」「嫁」としての立場なのであって、「母」「姑」となると、社会的にも地位が高止まりで安定し、それなりに満足すると考えられる。女性たちは、自分たちにとって不愉快な「娘」「嫁」としての立場に異議申し立てをする一方、「母」「姑」については、その申し立ての必要がなくなり、そのため、日本女性学の主張内容から外れたと考えられる。

日本の女性学が、社会現象を正しく捉える科学として成立するには、上記のように女性自身にとって不満な点のみを強調するだけでは、明らかに片手落ちであり、何が不満で何が満足かという、両面を把握する必要があるのではないか?


以上、述べたように、今後の日本の女性学は、自らを「被支配者」「下位者」「弱者」として扱う、「娘」「嫁」の視点から、自らを「支配者」「上位者」「強者」として扱う、「母」「姑」の視点への転換を行うべきである。そうすることで、日本女性たちは、今まで正しく自覚できてこなかった、社会の根本的な管理者、支配者(administrator)としての自らの役割に気づくことができるはずであり、そこから、新たな社会変革の視点が見えてくると考えられる。

そういう点では、今後の日本女性学では、「姑」の研究、ないし「母」の研究が、もっと活発になされるべきであろう。

日本社会における母性支配のしくみ

-「母子連合体」の「斜め重層構造」についての検討-



1.日本を支配する母性


一般に、「日本の支配者」というと、表立っては、政治家とか官僚、大企業幹部といった人々が思い浮かぶのが普通であろう。しかし、実際には、彼ら支配者を支配・監督する「支配者の支配者」と呼び得る立場にいる人々が、表立っては見えない、隠れた形で確実に存在する。



そうした、日本社会の根底を支配する人々、すなわち日本社会の最終支配者は、実際には、一般に「お母さん(母ちゃん)」「お袋さん」と呼ばれる人々である。彼女たちには、日本人の誰もが心理的に依存し、逆らえない。日本男児は、肉体的には強くても、「お袋」には勝てないのである。日本は「母」に支配される社会である。従来、日本の臨床心理の研究者たちは、日本社会を「母性社会」と呼んできたが、この呼称は日本社会における「母」の存在の大きさを示していると言える。



当たり前のことであるが、「母」「お袋」と呼ばれる人々は、言うまでもなく女性である。しかし、従来、日本社会において女性の立場はどうかと言えば、男尊女卑、職場での昇進差別やセクシャルハラスメントの対象であるといったように弱い、差別されている被害者の立場にあるという考えが主流であった。



この場合、「女性」と聞いて連想するのは、若い「娘さん」とか、「お嫁さん」といった立場の人が主であると考えられる。「女」という言葉には弱い、頼りないイメージがどうしても先行しがちである。従来の日本の女性学やフェミニズムを担う人たちが「女性解放」の対象としたのは、「娘」「嫁」といった立場にある女性たちであった。


しかし、同じ女性でも、「母」という呼称になると、一転して、全ての者を深い愛情・一体感で包み込み呑み込む、非常にパワフルで強いイメージとなる。「肝っ玉母さん」といった言い方がこの好例である。あるいは、「姑」という呼称になると、自分の息子とその嫁に対して箸の上げ下ろしまで細かくチェックし命令を下すとともに、夫を生活面で自分なしでは生きていけないような形へと依存させる強大な権力者としての顔が絶えず見え隠れする存在となる。



「母」「姑」の立場にある女性は、強力な母子一体感に基づいた子供の支配を行うとともに、夫についても、自分を母親代わりにして依存させる形の「母親への擬制」に基づいた支配を行っている。家庭において、子供の教育、家計管理、家族成員の生活管理といった、家庭の持つ主要な機能を独占支配しているのが「母」「姑」と呼ばれる女性たちの実態である。



言うなれば、「母」「姑」は社会にどっしりと根を降ろし、父とは重みが段違いに違う存在である。そういう点で「母」「姑」には、日本社会の根幹を支配するイメージがある、と言える。しかるに、日本女性のこうした側面は従来の日本の女性学やフェミニズムでは、自分たちの理論形成に都合が悪いとして「日本女性には、母性からの解放が必要だ」などという言説で無視するのが一般的であった。要するに日本の女性学やフェミニズムの担い手たちは、自分たちをか弱い「娘」「嫁」の立場に置くのが好みのようなのである。



確かに、日本の夫婦・夫妻関係では、日本のフェミニストたちが「家父長制」という言葉を使うように、夫が妻を抑圧する、夫優位の関係に少なくとも結婚当初は立つことが多いように思われる。夫による妻に対するドメスティック・バイオレンス問題も、この一環として捉えられる。これは、「男性による女性支配」というように一見見えるのであるが、実際は、直系家族の世代連鎖の中で、夫の母親である「姑」が、我が息子を「母子連合体」として自分の中に予め取り込み、自らの「操り人形」とした上で、その「操り人形」と一体となって「嫁」とその子供を支配する現象の一環に過ぎないと取るべきであると、筆者は考えている。



つまり、一見、妻を支配するように見える夫も、実は、その母親=「姑」の「大きな息子」として「母性」の支配を受ける存在であり、「姑」の意を汲んで動いているに過ぎない面が強い。その点、彼は、母親による支配=「母性支配」の被害者としての一面を持つ。



「妻に対する夫優位」の実態は、「嫁に対する姑の優位」のミニチュア・子供版(姑の息子版)=つまり、「嫁に対する『姑の息子』の優位」に過ぎないと言える。夫が妻に対して高飛車な態度に出られるのも、「姑」による精神的バックアップ、後ろ楯のおかげである側面が強く、「姑」の後ろ楯がなくなったら、夫は妻を「第二の母性(母親代わり)」として、濡れ落ち葉的に寄りすがるのは確実である。



要するに、「母性による(母性未満の)女性の支配」というのが、日本のフェミニストたちによって批判されてきた「家父長制」の隠れた実態であり、そういう点で実際には、日本における「家父長制」と呼ばれる現象は、女性同士の問題として捉えるべきなのである。この場合、「母性未満」の女性とは、まだ子供を産んでいないため、母親の立場についていない女性(未婚の娘、既婚の嫁)を指している。




2.「母子連合体」の「斜め重層構造」の概念について



日本社会においては、母親と子供との間は非常に強力な一体感で結ばれている。これは従来、「母子癒着・密着」という言葉で言い表されて来た。この、父親を含めた他の何者も割って入ることを許さない母親と子供との癒着関係をひとまとめにして表す言葉として、ここでは「母子連合体」という言葉を使うことにする。この場合、子供は、性別の違いによって息子・娘の2通りが考えられるが、「母子連合体」は、そのどちらに対しても区別なく成り立つと考えられる。言うまでもなく、母子連合体の中で、母は、息子・娘を親として支配する関係にある。



日本の直系家族の系図の中では、「母子連合体」は、複数が重層的に積み重なった形で捉えられる。世代の異なる「母子連合体」の累積した「斜め重層構造」、より分かりやすく言えば「(カタカナの)ミの字構造」が、そこには見られる。新たな下(次世代)の層の「母子連合体」の生成は、家族への新たな女性の嫁入りと出産により起きる。この場合、より上の層に当たる、前の世代の母子連合体が、より下の層に当たる、次の世代の母子連合体を、生活全般にわたって支配すると捉えられる。上の世代の母子連合体に属する成員の方が、下の世代の母子連合体に属する成員に比べて、その家庭の行動規範である「しきたり・前例」をより豊富に身につけているため、当該家庭の「新参者」「新入り」である下の世代の母子連合体の成員は、彼らに逆らえない。この「母子連合体の斜め重層構造」を簡単に図式化したのが、以下のリンクである。



「母子連合体の斜め重層構造」の図(PDF)へのリンクです。





ここで着目すべきことは、家族の系図において、夫婦関係のみを取り出して見た場合、夫=姑の息子は、上の世代の母子連合体に属し、妻=嫁(あるいは姑の息子にとって自分の妻になりそうな自分と同世代の女性)は、次(下)の世代の母子連合体に属する(か、属する予定である)という点である。夫婦間で夫が妻を抑圧・支配しているように見える現象も、実際は上の世代の母子連合体の成員(姑の息子)が、次の世代の母子連合体の成員(嫁)を抑圧・支配しているというのが正体であると考えられる。



要するに、姑が、息子を自分の陣営に取り込む形で嫁を抑圧しているというのが、夫による妻抑圧のより正確な実態と考えられる。この場合、夫は、(従来の日本女性学が「家父長」と称してきたような)自立・独立した一人の男性と捉えることは難しく、むしろ「姑の息子」「姑の出先機関・出張所」として、姑(母親)に従属する存在として捉えられる。嫁にとっては強権の持ち主に見える夫も、その母親である姑から見れば自分の「分身・手下・子分」「付属物・延長物」であり、単なる支配・制御の対象であるに過ぎない。



母子連合体の支配者は母親であるから、家族という母子連合体の重層構造の中では、実際には母である女性が一番強いことになる。これは、日本社会が、見かけは「家父長制」であっても、その実態は「母権制」であることの証明となる。


日本男性は、母子連合体において、母によって支配される子供の役しか取れない(母になれない)ため、家庭~社会において永続的に立場が弱いのである(上記の母子連合体説明図において、「父」の字がどこにも存在しないことに注目されたい。これは、日本の家庭において、父の影が薄く、居場所がないことと符合する。日本の家庭では、男性は、(その母親の)「子」としてしか存在し得ないのである)。



この辺の事情を説明するのが、「小姑」と呼ばれる女性の存在である。つまり、嫁として夫(の家族)に忍従してきた女性が、一方では、自分の兄弟の嫁に対しては、「小姑」として高圧的で命令的な支配者としての態度を取るという、矛盾した態度を引き起こしている、という実態である。要するに、女性は、2つの異なる世代の母子連合体に同時に属することができるのである。「小姑」として威張るのは、上の世代の母子連合体に属する立場を、「嫁」としてひたすら夫(の家族)の言うことを聞くのは、次の下の世代の母子連合体に属する立場を、それぞれ代表していると考えられるのである。



要は、上の世代の母子連合体の成員である、姑、夫(姑の息子)、小姑が一体となって、自分たちの家族にとって異質な新参者である夫の妻=嫁(下世代の母子連合体成員)を、サディスティックに支配しいじめているのであり、それは、企業や学校における既存成員(先輩)による「新人(後輩)いびり」「新入生(下級生)いじめ」と根が同じである。これらのいじめを引き起こす側の心理的特徴は、共通に「姑根性」という言葉で一つにくくることができる。



ここで言う「姑根性」とは、要は、相手を自分より無条件で格下(であるべきだ)と見なし、相手の不十分な点を細かくあら探ししたり、相手の優れた点を否定する形で、相手を叱責・攻撃し、相手の足を引っ張り、相手を心理的に窮地に追い込んで、自分に無条件で服従、隷従させようとする心理である。



日本の若い男性が、同世代の女性に対して、高圧的で威張った態度に平気で出るのは、単に「男尊女卑」の考え方があるというだけではない。自分たちが、未来の家族関係において、結婚相手の候補となる同年代の女性たちよりも、一つ前の世代の母子連合体に属することが決まっているため、母子連合体の「斜め重層構造」から見て、「嫁」となって一つ下の世代の母子連合体を構築するはずの同年代の女性を、自分の母親と一緒になって、一つ上の母子連合体の成員として支配することができる有利な立場にあるからである。



夫による妻への暴力であるドメスティック・バイオレンス(DV)は、夫による妻の暴力を利用した支配、いじめということで、一見、男性による女性支配に見えやすい。しかし、実際には、日本の家族の場合においては、妻=嫁を支配したり、いじめたりしているのは、夫だけに限ったことではなく、夫の母親である姑や、夫の姉妹である小姑も、夫の妻=嫁をサディスティックに支配し、いじめている。



この点、夫によるドメスティック・バイオレンス(DV)は、実は、上世代の母子連合体成員(姑、夫、小姑)による、下世代の母子連合体成員(嫁とその子供)の支配、いじめの一環に過ぎないと言える。要は、日本における夫による妻へのドメスティック・バイオレンスは、嫁いびりをする姑のいわゆる「姑根性」と根が同じというか、その一種なのである。家風、その家の流儀を既に身につけた成員(姑、夫、小姑)=先輩による、家風をまだ身につけていない新人、後輩(=嫁)いじめの一種とも言える。



この場合、男性が高圧的になれるのは、男性自身に権力があるからでは全然なくて、心理的に(一つ上の世代の)母子連合体を一緒に形成する自分の母親という後ろ楯があるからであり、そこに、日本男性の母親依存(マザーコンプレックス)傾向が透けて見えるのである。



夫が妻に対して、高飛車で命令的で、乱暴な態度に出られるのも、夫がその妻よりも、一つ上の世代の母子連合体に属することで、妻とその子供が形成する次の下位世代の母子連合体を支配することができるからである。



この場合、見かけ上は、夫は妻(嫁)よりも常に優位な立場にいることができる訳であるが、だからと言って、それが日本社会において男性が女性よりも優位である証拠かと言われると、それは間違いであるということになる。つまり、夫は男性だから優位なのではなく、「姑の息子」だから=妻よりも1世代前のより上位の母子連合体に属するから、妻よりも優位なのである。



要は、夫(姑の息子)による妻(嫁)の支配は、小姑による嫁の支配とその性質が同じである。夫も小姑も、嫁よりも一つ上世代の母子連合体の成員=嫁にとっての先輩だから、嫁を共通に(嫁を後輩として)支配できるのである。この場合、言うまでもなく、夫は(小姑も)、その母と形成する母子連合体の中で、母である女性の支配を受ける存在である。



要するに、夫は、母親である姑と癒着状態で、その支配下に置かれており、その点、日本社会において本当に優位なのは、「母=姑」である女性であり、その息子として支配下に置かれる男性(夫)ではない。この点、日本は女性=母性の支配する社会であり、男性社会ではない。



日本の家庭においては、先祖代々、夫が威張って、妻が服従的な態度を取ることが繰り返され、それが、日本の家庭は、男性優位という印象を与えてきたわけであるが、実際には、その高飛車な夫が、その母親である姑の全人的な密着した支配下に置かれた「姑の付属品、出張所」に過ぎない存在であることを考えれば、日本の家庭は、実際には先祖代々恒常的に、母性=女性優位である、と言える。



おとなしく夫に従属しているかに見える妻も、実際のところ、その子供と強力に癒着して、何者も割って入ることのできない強烈な一体感のうちに、自分の子供を支配している。妻の子供(息子)は、大きくなっても、その母(夫にとっての妻)と強い一体感を保ち、母に支配された状態のまま、結婚をする。そして妻は、その息子を通して、新たな結婚相手の女性とその子供を支配することになる。



要するに、母子連合体においては、母はその子供(息子、娘)の全人格を一体的に、息苦しい癒着感をもって支配する存在である。日本の直系家族は、その母子連合体が、上世代の連合体が下世代の連合体を支配する形で積み重なって形成されてきた。日本の直系家族は、「母による子供の支配」の連鎖、重層化によって成り立ってきたと言える。



こうした母子連合体重層化の考え方は、「日本の家族において、夫婦関係が希薄で、母子関係が強い」、という家族社会学の従来の見解とも合致する。日本の家族では、各世代の母子連合体に相当する母子関係が非常に強力で家族関係の根幹をなしており、夫婦関係は、異なる世代の母子連合体同士を単にくっつけるだけの糊の役割を果たしているに過ぎないため、影が薄く見えるのである。



以上述べた母子連合体重層化のありさまを、家系図の形で表した図(PDF)へのリンクです。




以上述べたように、日本では女性が「母子連合体」を形成して、社会の最もベーシックな基盤である家族を支配している。従来の日本の家族関係に関する「夫による妻の支配=家父長制」という現象も、実際は、上世代の母子連合体による、次(下)世代の母子連合体支配として捉えられ、それは、母子連合体の中における母による息子・娘の支配という関係を視野に入れることで、「時系列的に上位(前)の世代の女性(母性=姑)とその配下の子供(息子=夫、娘=小姑)による、下位(後)の世代の女性(嫁またはその候補)の支配=母権制」の現れとして説明することができる。


以上は、日本の家族について説明したものであるが、この「母子連合体」の概念は、育児における母子癒着の度合いが強い他の東アジアの社会(中国、韓国...)における家族関係にも応用可能と考えられる。

「母性的経営」-日本の会社・官庁組織の母性による把握-

詳細は、以下のリンクをご覧下さい。

母性的経営

日本における母性と女性との対立

-姑の権力について-


日本では、母性の父性に対する優位を主張する日本=母性社会論が、松本滋や河合隼雄らによって、以前から唱えられて来た。
母性は、女性性の一部であり、母性が父性よりも強いとする母性社会論は、女性優位を示すと考えられる。
これに対して、フェミニズムは、なぜ、女性が強いという結論を導き出さないのか?
その隠された理由に、以下では迫ってみたい。
 

1.姑と「女性解放」

女性による家族制度批判が行われる場合、女性は、自分を嫁の立場に置いて、制度を批判する。
姑の立場に自分を置いて、家族制度を批判する女性を見たことがない。
姑の立場では、家族制度は、それなりに心地よい、批判の対象とはならないものなのではないか?
同じ女性なのに、姑と嫁という立場が違うと、協同歩調が取れない。
従来のフェミニズムは、嫁の視点ばかりで、姑の視点は取ったものは見当たらない。
同じ女性なのに、姑は、解放の対象からは外れている?解放できない=十分強くて、する必要がない、というのが本音であろう。
根底に、嫁姑の対立という、同性間の対立がある。一方、同性間の連帯意識というのが建前として存在するので、対立を公にできない。

嫁の立場の女性から見ると、姑と、その息子=夫が、一体化して、嫁に対して攻撃をしかけてくる。
姑は、その家では、しきたり・慣習に関する前例保持者、先輩としての年長女性である。
姑は、嫁や息子に対して、先輩、先生である。家風として伝えられて来た前例を教えるとき、威張る。威圧的になる。
本来は、男性=息子も支配している、姑を、自分を抑圧する者として、批判の対象とすべきなのではないか?

女性は、自分と同性の姑の批判ができない、しにくいから、代わりに、男性(姑の息子)を批判するのではないか?
同性間では、見かけだけでも仲良いことにしておきたい、複雑な事情があるのだろう。
日本フェミニストによる「日本家族=家父長制」攻撃の本当の目標は、夫=男性ではなく、姑=同性である女性の権力低下にあるのではないか?本当は、「日本家族=(姑=)母権制」攻撃の方が当たっている。でもそれでは、女性の地位を高めようとする、フェミニズム本来の目的と矛盾する。

「日本=母性社会」攻撃も、まだ子供を産んでいない嫁の立場からは理解できるが、姑の立場からは理解不能である。
同じ女性なのに、嫁の立場と姑の立場とで、まるで連携が取れていない。フェミニズムは、同性間の対立をどう取り扱うのか?
フェミニズムは、弱い立場にある女性しか対象にできない限界がある。姑のように、強い立場にある女性をどう取り扱うのか?
 



2.日本家族における2つの結合

姑は、血縁(親子関係)による結合に基づいた家風の先達者として、嫁を支配し、嫁は姑に服従する関係にある。
「日本家族=家父長制」論者は、
(1)この姑との間の支配服従関係を、夫による支配と勘違いした。


(2)女同士の対立を表に見せようとしない。女同士(嫁・姑)が結束しているように見せかける。

夫婦は、異性間の結合により互いに引きつけ合う。

血縁による結合(親子関係)と、異性間の結合(夫婦関係)とが互いにライバル・拮抗し、互いに強さを強めようとする。強い方が主導権を握る。

夫は、どちらにも深くコミットする、付くことができず振り回される。漁夫の利を得ることもある。

 





3.「女性的=日本的」の相関に対する反応

筆者は、「女性的=ウェット=日本的」、という行動様式や性格面での相関を、インターネット上でのアンケート調査によって明らかにした。

これについての反応は、以下の2通りが考えられる。

(1)何ら驚くべきことではない、当たり前である

既に、豊富な前例がある。石田英一郎の「農耕-遊牧」社会論や、河合隼雄の「母性」社会論など。

(2)とても驚くべきことである、信じられない、間違っているのでは?

フェミニストによる日本「男社会」論が大手を振ってまかり通っている現状からは。女性が、日本社会を支配しているという結論を導き出すものだから。

従来は、上記の2つの見方が、互いに何ら交流を持たず、別々にバラバラに唱えられて来た。そうなった根底には、日本社会における、「女性と母性」との対立が、要因として存在する。

「女としては弱いが、母としては強い」

これは、女性の弱さを強調したがるフェミニストの逃げ口上として、使われる。


しかし、これはおかしい。母性は、女性性の一部であるはずであり、分けたり、対立させて捉えるのは変である。

母は、女性ではないのか?常識から考えて、そんなはずはない。

1人の女性の家庭内での立場に、結婚して子供ができるまでと、子供ができてからとで、大きな格差が存在することを示している。女性の立場は、前者は弱く、後者は強いということだろうか。

大学研究者は、特に若い大学院生などは、前者の立場をもっぱら取るであろう。自分たちの境遇にとって、前者(女性は弱い)のウケがいいから、女性が強い日本社会には適用不可能なはずのフェミニズムが、学説でまかり通る。ないし、フェミニズムが女性学研究者の間でメジャーなのは、担い手である研究者が、嫁の立場にいることが圧倒的に多いからではないか?

日本女性の地位を考える上で、強い方(姑の立場)に焦点を当てないのは、不公平であり、間違っていないか?

女性≠母性、ないし女性と母性を対立するものとみなす。姑と嫁との家庭内での対立が、この捉え方の源となっている。

世代間での対立(20~30代の嫁世代と、50~60代の姑世代との)とも言える。

(1)の日本的=女性的の結びつきを当たり前とする見方は、母性の立場に立ったものであり、一方、(2)の、両者の結びつきに意図的に気づこうとしない見方は、(若い)女性の立場に立ったものと見ることができる。

 

姑は、家族の後継者としての子供を産むと共に、家風を一通りマスターし、家風を伝える正統者として、家庭内で揺るぎない地位を築き、強い立場に立つ。

嫁は、子供が生まれないし(生まれるかどうかも分からない)、家風にも習熟していないので、家庭内での地位は不安定である。赤の他人である、姑の言うことに、一方的に従わねばならず、ストレス・反発心がたまる。

この立場の差が、女性同士での世代間支配・抑圧をもたらす。ひいては、相互間の反発・対立を招く。これが、日本のフェミニストに、女性性(嫁の立場)と母性(姑の立場)とを、統合して捉えることを止めさせる原因となっている。

包含関係としては、母性は、女性性の中に含まれる。女性性は、本来姑も持っている性質である(女なのだから当たり前)。しかるに、日本フェミニストは、女性性を持つ者を、嫁の立場の者に限定して捉えようとしていないだろうか?これは、日本における女性の地位を正しく測定する上で、見逃せない、偏向である。嫁の立場は弱いので、フェミニズム理論に当てはまる。しかし、姑は、強いので当てはまらない。だからといって、姑をあたかも「女性でない」ようにみなして、検討の対象から外すのは、普遍的な女性解放をうたう、本来のフェミニズムの精神からして問題あるのではないか?この辺りに、女性を弱者としてしか捉えられず、理論の対象にできない、現在の日本フェミニズムの限界があるように思われる。

無論、中には、家族制度が廃止されて、嫁の発言権がより強まった、姑がより弱くなった、から、現代の日本フェミニズムは、姑も理論の対象に加えているのだと反論する向きもあろう。

しかし、フェミニズムは、本来、男性支配からの女性解放を提唱するのであって、同じ女性同士の支配からの解放=姑からの嫁の解放を、フェミニズムで取り扱うのは、おかしいのである。

フェミニズムが成り立つのは、女性が、男性に支配されている場合だけである。日本では、男性は、夫婦関係のみを取り出してみれば、家風の習得度において、妻=嫁を上回っており、優位な立場に立っている、と言えるかも知れない。しかし、日本の男性は、姑とは、「母→息子」の関係で、心理面では、姑によって、自分の子供として、一方的に支配・制御される立場にある。解放されるべきなのは、強い姑=母ではなく、支配下にある息子の男性の方なのではないか?こうなると、日本では、女性のみの解放を進めようとするフェミニズムは、成り立ちがたくなる。また、嫁が、家風をすっかりマスターし、姑から家計を切り盛りする権限を譲ってもらった時点で、家庭内の勢力としては、夫=男性を抜きさって、より上位に立つということも十分考えられることである。こうしてみると、夫婦関係を取り出した場合でも、フェミニズムが適用可能なのは、夫婦関係のごく初期だけで、時間の経過と共に、適用しにくくなる、というのが、現実ではないか?

姑と嫁は、さらに、男性(夫であると同時に、息子である)を自分の味方につけて、対立において、自分が有利に事を進めようとして、男性の取り合いを引き起こす。


姑は、嫁に自分の言うことを聞かせたいと考えて、息子に対して、嫁にこう言えと指図する(親子関係の利用)。嫁は、姑の支配からの防波堤として、夫を利用しようとする(夫婦関係の利用)。

親子関係(母→息子) と、夫婦関係(夫=妻)の力比べは、最初は、血縁に裏打ちされた親子関係(母→息子)が強いと考えられるが、姑側の老齢化により、段々拮抗してくると考えられる。

親子関係は、垂直な支配-従属関係なのに対して、夫婦関係は、本来対等であるはずである。しかし、日本では、家風学習のレベルの違いと、姑の介入により、夫が有利となる。従って、夫は妻を支配する、家父長だという説が生じる。しかし、ここで注意すべきことは、夫は、自力で有利さを勝ち取ったのではないことである。家風学習レベルの(妻との)差も、姑の存在も、予め外から与えられた条件である。また、妻には、家風先達者として、偉そうなことを言えても、母たる姑には、口答えできないのであれば、女性(母親)に支配された男性(息子)ということになり、家父長制とは言えない。

日本のフェミニズムは、この水平面の夫婦関係のみに焦点を当て、親子関係による垂直支配(女性による男性支配)に目が向いていない。

舅は何をしているのか?影が薄い。舅は家父長と言えるか?

姑と嫁との間の対立を抑えられない以上、家父長失格なのではあるまいか。

 

日本の女性学、フェミニズム、ジェンダー社会論は、「嫁」の立場にたった学問である。

「姑」の立場に立った学問は、作れないものか?

それは、権力者としての日本の主婦を、特に姑の視点から解明するものである。

日本の女性は、妻・母の両方の立場を兼ねると、矛盾が生じる。

母の立場としては、息子が自分の言うことを聞いて欲しい。

妻の立場としては、夫が自分の言うことを聞いて欲しい。

妻として、夫に自分に同調して欲しいと思う(嫁の立場)。

子供が産まれると、

母として、息子に、自分に同調して欲しいと思う(姑の立場 次の世代にとって)。

嫁の立場と姑の立場を、同一人物が兼ねている(同一人物の中で共存)。

嫁姑の対立では、夫=息子を自分の味方に付けようとする。
立場の矛盾を男性に押しつける。
男性は、どっちつかずの立場に立たされて困る。
 

母性支配からの解放を!という主張への賛同者は、

1)男性
2)女性 結婚していない、子供がいない

となる、と考えられる。

この点、日本では、女性と母性(結婚した、子供を産んだ)とが切り離されて捉えられている。

日本女性にとって、家父長制からの脱却は、名目のみである。
姑支配からの脱却が、本当の目的である。

核家族化(親と同居しない、独居老人の増加)も、姑支配からの脱却と関連がある。
それぞれの核家族が、ウェットなまま、自閉、孤立するのも、嫁姑関係の暗さを払拭しようとする努力の現れと見てよい。
 

日本の子供は、母親のしつけにより、コントロールされ、父親の影が薄い。
父親-息子のラインはあまり強くない。

日本男性は、「若くしては母に従え。老いては妻に従え。」というように、一生を、女性の支配下で暮らしている。

女性は、「老いては子に従え」のはずが、実態は、逆に子供(特に息子)を支配している。

家庭内の実権は、祖母にあって、祖父にはないのでないか?
 

父ないし夫が優位に立てるのは、姓替わりをしなくて済む、家系の跡継ぎ=本流でいることを保証されている、財産所有権限を持つ点にある。

母ないし妻が優位に立てるのは、財産管理権の把握、子供に自分の言うことを聞かせる育児権限の把握にある。

家庭における支配には、世代間支配と、世代内支配とがある。世代間支配とは、母親が息子に、自分の言うことを強制的に聞かせることであり、世代内支配とは、夫が妻に自分の行動様式を強制することである。

日本では、夫が妻に、自分が正統の家風継承者・先達者として、妻に教える立場から、妻を支配して来た。これが、日本における男性による女性支配の典型とされてきた。これは、世代内支配に当たる。ところが、家の中で、夫は母親の息子という立場にあり、母親=姑によって、夫=息子は、絶えずコントロールされ、言うことを聞かねばならない。これが、世代間支配である。これは、女性=母親による、男性=息子の支配であると言える。一方、母親=姑は、夫の妻=嫁にも同時に、自分の行動様式を押しつけ、支配している。姑=母親こそが、息子と嫁の両方を支配する、世代間支配の主役であり、影の薄い舅に代わって、家族の中の支配の頂点に立っているのである。図式化すると、母(姑)→息子(夫)・嫁(妻)の支配が、世代を超えて繰り返し量産されている。父(舅)は、子育てに介入しないので、父→息子ラインは、母→息子ラインに比べて、あまり強くない、目立たないのが現実である。

しかるに、従来のフェミニズムでは、母-息子の世代間支配の存在を無視し、姑による支配を、夫による支配と混同している。あるいは、姑(家庭内強者)の立場に立った理論構築を放棄し、いつも嫁=家庭内弱者の立場に立とうとする。
姑→嫁、姑→息子(夫)という、2つの支配のラインについてその存在を無視している。



4.姓替わりと夫婦別姓

現代の日本女性がいやがることは、
(1)姑との同居 対応策として、次男との結婚を好む
(2)姓替わり 対応策として、夫婦別姓を好む
である。原因は、夫の家風を強制されるのが嫌なことである。強制するのは、同性である姑である。

日本の家庭では、男性が保護されている。


(1)男尊女卑 男性が優先して、いろいろな身の回りの世話をしてもらえる。

(2)姓替わりしなくて済む  家風習得の苦労をしなくてよい。新しく入った家族先で、ストレスがたまったり、既に構成員となっている人たちからいばられたりする体験をしなくて済む。

こうした点は、日本の女性が弱く見える理由ともなる。

姓替わりする方(嫁、入り婿)は、「イエ」の、ないし家風の新参者として、弱い立場に立つ。

強い立場に立つのは、元からその姓を名乗っている、姑+息子(夫)ないし娘である。

女性の弱さと見なされがちだが、嫁にとって敵役の姑は、女性である。

夫婦別姓は姓替わりによる、古参者と新参者との間に勢力面での差別が生じるのを是正しようとするものである。

(1)男女(夫婦)間の問題 男=夫が、家風の先達者として、妻に対して、威張ったりなど振る舞えなくする。

(2)女同士の問題 姑-嫁間の主導権争いを回避する。

2007年05月23日

日本女性とマザコン

マザコンは、母親による子供の一体支配を、子供が母親の意を汲んで自発的に受け入れている状態のことである。母性の力が強い日本では、結構メジャーな現象であると思われる。

日本においては、マザコンは、女性の立場の違いから、同一の女性にとって否定的にも肯定的にも捉えられる。

これから結婚する、あるいは結婚した嫁の立場の女性にとって、マザコンは、望ましくない、否定すべきものである。
自分の彼氏や夫が、姑と親密にくっついて、姑の同盟軍となって、自分のことをあれこれ批判したり、支配しようとするのに反発したり、彼氏や夫がそうなるのを避けようとして、「マザコン男はダメ」と、マザコンを必死になって批判する。

ところが、そのようにマザコンを批判していた同じ女性が、自分の子供、特に息子を持つと、子供が可愛くて、子供との一体感を楽しみにするようになり、子供を自分の思い通りに動かしたいという支配欲も働いて、子供がいつまでも自分の元にベタベタ愛着を持ってくっつく状態=マザコンを肯定的に捉えるようになる。「マザコン歓迎」となるのである。

自分の姑や夫に対しては、「マザコン反対」で、自分の子供に対しては「マザコン賛成」という、相反する立場を、両方場合に応じて便利に使い分けて、矛盾に気づかないか、気づいても開き直っているのが、日本の女性の現状であると言える。

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